こいしを追いかけて大広間へと入り、すぐに右を向く。両耳の部分に薄紫色の半球をくっ付けた幻香さんが、背中を向けて変わらずにそこにいた。
「おーい!幻香ぁー!」
こいしが両腕を振り回しながら声をかけているが、幻香さんは振り返らない。…いや、振り返れないのだろう。あんな風に耳を塞いでしまっては、私達の声なんて届くはずがない。実際、心を読んでも私達のことが一切出てこない。読めるのは『鉄もいけるのか』という謎の言葉。
「ピッカーン!閃いた!」
幻香さんが反応しないことで不思議そうに首を傾げたこいしが突然声を上げる。頭から光るものが出てくるのを幻視するような言葉と共に、こいしが幻香さんの背中に思い切り跳びかかっていく。
耳を塞いでいて声も聞こえない。気配なんてあってないようなもの。そんなこいしに背中から抱き付かれる一歩手前、幻香さんの心に不穏な言葉が一瞬にして流れた。『空気が動いた』『人型』『襲撃』『反撃』と。
「こ――」
「ッ!――っ!?」
私がこいしに止まるよう伝える間もなく、幻香さんが振り向き際に左拳を打ち出す。が、その拳はこいしの姿を見た瞬間に不自然な動きをして引き戻された。そして、そんな無茶な動きで姿勢が不安定となったところでこいしが跳び付いた。そのまま背中から倒れてしまった幻香さんは、耳に付いていたものを消しながら上半身を起こす。
「痛ったた…。急に驚かさないでくださいよ…」
「むふふ。驚かしたんだから、もっと驚いてくれていいんだよ?」
「…驚きました。驚きましたから、ちょっと離れて…」
左手でこいしを引き剥がし、床に落ちていた何かを拾い上げながら立ち上がる。そこでようやく幻香さんと私の目が合った。…『姉妹揃ってどうしたんだろう』ね。
「…私は貴女の様子がおかしいとペットに報告されてきたのですよ。それより、さっきの不可解な音は一体何をしたんですか?」
「あー、ちょっと久し振りに試してみたくなって」
「…?」
久し振り。幻香さんの言うその言葉に、私は小さな違和感を覚えた。理由は分からない。けれど、何かがおかしいような気がしてならない。
「見てくださいよ、これ。ちょっと鉄板創ったんですが」
「お?…おぉー!これ、綺麗に穴が空いてるね。ほら、わたしの指がスッポリ!」
左手に持った厚めの鉄板には、確かに穴が空いていた。今はこいしが人差し指を指しては抜いてを繰り返して遊んでいる。
そんな二人を見ていると、さっきまで耳に残っていた音の残滓がようやく取り除かれていく。それに伴って、シィィィィィ…、という静かな音が聞こえてきた。
「そりゃそうですよ」
その音の正体はすぐに分かった。
「だって、わたしの指で空けたんですから」
その右手の人差し指は回っていた。第二関節から先がグルグルと回転していた。そのまま捩じ切れてしまうのでは、と思ってしまうほどに容赦なく回り続けていた。
「…ど、うしたんですか、その指は。一体、何があったんですか…」
「え?どうしたんですか急に?前からそうだったじゃないですか」
誰でも分かるような嘘を吐いた。しかし、彼女の心は私達を騙そうという感情が一切ない。それを真実だと疑っていない。本気で『昔からわたしの指はこうだった』と思い込んでいる。
「うわ、本当だ!独楽よりずっと速ーい!」
「触らないでくださいよ?下手に触れると怪我しますから」
そう言って二人で笑い合っている最中、私はどうしてああなったのかを必死になって考えていた。真っ先に思い付くものは、さっきの膨大な言葉。思い出すだけで身震いしてしまうが、その言葉は総じて回転に関するものばかり。
そこまで考えたところで、一つの仮説が浮かぶ。まさか、さっきまでの幻香さんは自己暗示をしていたの…?
ドッペルゲンガー。願い主から願いを奪い、その願いから願い主と同じ精神を形成し、その精神に応じた身体を形成し、願い主の代わりに願いを叶える存在。しかし、幻香さんの精神では身体は形成されず、何故か精神が宿っていない時の無垢の白のまま。
だから、幻香さんは思い込んだ。『自らの右人差し指は回転する』と。自分に何度も言い聞かせ、何度も嘘を吐き続け、何度も虚構を真実に書き換え続けた。その結果があれだ。今の彼女の精神は『右人差し指が回転する身体を持つべき精神』となってしまっている。
「…幻香さん」
「さとりさん?…どうしたんですか、そんな怖い顔して」
「お姉ちゃんの顔が凄いことに!」
けれど、それはまやかしだ。自らの精神を歪めて無理矢理創り出した虚構の精神だ。それに、あのままどんどん変え続けていったら、その姿を全て書き換えてしまったら、そのとき最後に残るものは本当に幻香さんと言えるのだろうか?
分からない。そうだとも違うとも断言することは出来ない。…けれど、私は違うだろうと思う。既に純粋な幻香さんじゃなかったとしても、精神なんて常に変わり続けるものであろうと、あのような変化をしてしまえば、それはもう幻香さんとは違う別の何かだ。
「貴女の
「え?」
自己暗示を解く方法はいくつかある。ゆっくりとその暗示を解きほぐすことだって出来るけれど、どの程度時間が必要になるか分かったものではない。
だから、精神に強烈な衝撃を加えることで強制的に壊す。貴女が貴女でなくなってしまう前に、私が貴女を戻す。
決意を宿し、第三の眼を見開く。その瞬間、その瞳から強烈な光を放った。
「う…ッ!」
自衛の手段の一つとして身に付けた技能。強烈な光を当てて動揺させ、心に
『そうだ!とりあえず
『へ?――ァァァアアアアアア!』
『あー、ちょっと強すぎた。これじゃあ肉塊も残らないや』
『――がっ!』
『お前のせいで、ウチの曾婆ちゃんが死んだんだ!お前のせいでっ!お前のっ!』
『目に焼き付けろ!心に刻め!これから起こる結末の先行上映だ!複製『西行妖散華』!』
『赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤――黒』
『我が母を!我が竹馬の友をッ!殺した貴様を捨て置くなどッ!』
『あっそ。まあ、知ってたよ。――だから、最初からお前だけは許すつもりはなかったよ。――…さよなら』
『あリがト、サヨなら』
『待って…!わたしは…ッ!』
『またネ、私のお姉さん』
『安心も不安も歓喜も激怒も悲哀も楽観も感謝も感動も驚愕も興奮も好奇も焦燥も困惑も幸福も緊張も責任も尊敬も憧憬も欲望も恐怖も快感も後悔も満足も不満も無念も嫌悪も羞恥も軽蔑も嫉妬も罪悪も殺意も優越も劣等も怨恨も苦痛も諦念も絶望も憎悪も何もかもッ!私は、感じてない…。空虚なんですよ…、空っぽなんです…。それが、辛い…ッ!』
『なら死ね』
『気紛れで生かそうと思った気が変わったんだ。ま、許さなくていいよ。恨んでも構わない。そのくらいの咎は背負うから』
『ええ、さよなら』
『…さようなら。貴女のこと、忘れません』
『それじゃ、行ってくるわ』
『それじゃ、あとよろしく』
だが、それは早計だったかもしれない。右腕が破裂し、刃物が突き刺さり、暗い死の気配が忍び寄り、狂気の赤に塗り潰され、人間の醜い悪意を受け、消滅を目の前にし、虚無に苛まれ、心臓を貫かれ、再び咎を背負い、再び消滅を目の前にし、死地へと向かわせる。そんな
「ぁ、…あぁ……、ぅ、あ…」
「お姉ちゃん!?」
誰かの叫び声が聞こえる。体が激しく揺れる。けれど、そんなものは何処か遙か遠くで起こったことのように感じる。
あれだけの古傷を持ちながら、幻香さんは耐えていたのか。これだけの古傷があるから、あんな風になってしまったのか。そんなことを知りながら、平然としていられたのか。…あぁ、どうりで私とは違うわけだ。
「ねえ!お姉ちゃんったら!」
「ぁ…、こ、こい、…し…?」
ようやく頭の整理がつき、ようやく私を揺らしていたのがこいしだと理解する。
「…ねぇ、幻香さんは?」
「え?幻香?」
こいしに訊くと、その答えは指差しで済まされる。
「うあー…、嫌なこと思い出しちゃったよ…」
そう言って右手で後頭部をガリガリと引っ掻いている幻香さんがいた。
そして、また目が合う。…『さとりさんがやったのかな?』ね。
「…ええ、そうです。貴女の自己暗示を壊すためにやりました。…以前にも言ったでしょう?精神を書き換えることは危険である、と。貴女が言う通り常に変わるものだとしても、あんな無理矢理な変化で悪影響がないわけがないでしょう…」
「ははは…。そうかもしれませんね…」
「ねぇちょっとー!二人共わたしを置いていかないでよー!」
そう言うと、幻香さんは右手の人差し指を見詰めた。回転はもう止まり、元通り普通の指になった人差し指を、じっと見続けていた。
その時の幻香さんの心は残念ながら私が求めていた反省と自制ではなく、出来てしまったことへの複雑な心境でいっぱいであった。