暫し目を瞑り、意識を集中させて『紅』を発動させる。これを維持しつつ戦闘をするのはまだ容易ではないが、出来ないと言って放置するわけにもいかない。
長く息を吐き、息を吐き切ったところで空中三連蹴りを放つ。落下と共に前方三回転の踵落とし。踵を軸にすぐさま反転し、斜めに交差する手刀を放つ。その過程でわたし自身の腕の速度を維持したまま肩にくっ付けた状態で複製し、既に振り下ろした両腕の隙を潰すように複製の腕を振り下ろす。そのまま四本腕を動かし、続けざまに乱打を打ち込み続ける。最後に一歩深く踏み込み、右拳を放つ。…そこで止めていた呼吸を再開し、息を大きく吸う。
そんなとき、腕に冷たいものが当たり、それと共にゾワリとした嫌悪感が急速に湧き上がってくる。意識を乱されて『紅』が勝手に解けるのを感じながら、何事かと首を上に向ける。
「うわっ!」
すると、目の中に何かが入る。けれど、痛くない。ただ冷たいだけ。それから二、三つ何かが頬に当たり、その数は徐々に増えていった。
「雨?」
気が付けばザーッという音をそこら中で響かせ始め、庭全体を濡らしていく。いくら見上げても雲はなく、けれど確かに雨が降っている。
どうして地底に雨が降り始めたのかは知らないけれど、このまま雨に打たれながら体術の訓練をする気にはなれない。熱伝導によって熱が移動して、蒸発熱によって熱を奪っていく、なんてどうでもいいことが頭を過ぎる中、冷たく熱を奪い続ける雨から逃れるために急いで地霊殿へと駆け出す。
「あーっ、酷い目に遭った…。拭くものないかな…」
その場しのぎで着ている服を創って拭いているが、如何せん生地が薄くてほとんど水分を吸うことが出来ず、せいぜい肌に上で玉になっている水を広げるくらいしか出来ていない。
髪の毛を握ってボタボタと水を廊下に落としながら歩いているが、こんな時に限って誰ともすれ違わない。濡れたままわたしの部屋に戻りたくないけれど、乾かすことも出来ない。…いや、出来るか。やろう。
軽く周りを見渡し、この場で延焼しそうなものがあるか探る。幸い、地霊殿は石造り。扉くらいしか燃えそうなものはない。廊下の角に緋々色金の魔法陣を一つ複製しておき、先程のように水を意図的に排して複製した服を上に置き、扉を角材のように複製して円を描くように配置する。
「…よし。これで、っと」
魔法陣を発動させ、噴き出した炎が服を燃やす。そして、服に移った炎が角材に燃え移り、焚き火が出来上がった。冷えた手を焚き火にかざすと、痛いくらいに温かい。パチパチと爆ぜる焚き火の前にしゃがみ込み、冷えた体が温まるまでそのまま暖を取ることにする。
前のほうの水分が焚き火の熱で乾き切り、まだ乾いていない背中の方をどうやって乾かそうか考えていると、ようやく誰かが近くに来たようだ。そして、何故か慌てた様子の足跡でこちらへと近付いてくる。
「なっ、何やってるんですかーっ!?」
「え、何って、焚き火焚いて温まってる…」
「馬鹿ですか貴女!?馬鹿なんですね貴女っ!?」
わたしが焚いた焚き火を指差しながらそう捲し立てるさとりさんのペットであろう犬妖怪は、その手に持っていた分厚い手拭いで背中を拭いてくれた。まだ濡れてはいるけれど、少し焚き火に当てれば完全に乾いてくれるだろう。
そう思っていたのに、犬妖怪は焚き火をゲシゲシと踏みつけて消してしまった。…あぁ、もったいない。
「ふーっ、ふーっ…、ぐるるるる…」
「…そんな慌てて消さなくても周りに燃えるものなんてありませんよ…?」
微妙に残っている燃えかすと着火剤となった緋々色金の魔法陣を回収し、荒く息を立てている犬妖怪を見上げる。…うわ、かなり怒ってる。しょうがないけど。
「そう言う問題じゃないでしょーっ!こんなところに火を焚くこと自体がおかしいの!」
「あー、はい、そうですねー」
「何そのやる気のない返事!?」
悪かったとは思うけれど、そこまで言われるとは思っていなかった。申し訳ない。
「ま、次からはこんなところで焚き火なんか焚きませんから。この件の代償として、何かわたしにやってほしいことがあれば言ってもいいですから」
「わふ!?…ぐるる、じゃあ私の代わりに料理してよ。苦手だから」
「…苦手なら自分で――いや、やりますよ。だから噛み付こうとしないで…」
鋭く光る犬歯を剥き出しにして睨まれ、両手を盾代わりに少しずつ離れて距離を取る。その分近付かれて結局距離は変わらなかったけど。
距離を取ることを諦め、犬妖怪の肩に手を乗せる。急に肩を叩かれて驚いている隙に横に並んで立つ。
「で、調理室って何処ですか?」
「知らないんかい」
◆
塩を擦り込んだ牛肉の焼き加減を眺めながら、隣で一緒に調理をしている鳥妖怪の様子を伺う。野菜を丸ごと鍋にぶち込み、そのまま湯がいている様子。…何だこれ。
「あのー…」
「ん?…幻香さん、ですよね?あのサボり魔、またどこか行ったの…?」
「ははは…、わたしはサボりの手伝いのつもりじゃなかったんですがねぇ」
「それでは、何故?」
「さっき廊下で焚き火を焚いて温まってたら怒られた」
「…貴女、もしかして馬鹿ですか?」
「さっきも言われた」
苦笑いと共にそう言うと、呆れたようにため息を吐かれてしまった。延焼の心配がないかは調べたんだよ、と心の中で思ったけれど、残念ながらこの鳥妖怪には伝わらない。
あのままわたしの焚き火の話を続けられるのはちょっと嫌なので、話を切り替えるべく別の話題を上げることにする。
「ちょっと気になったことがあるんですが、いいですか?」
「いいですよ」
快い返事を貰い、遠慮なく質問をすることにする。
「ここの食材、何処から来てるんですか?…あ、肉はいいです。さとりさんから聞きましたから」
「肉以外なら、作ってくれる方から買ったりいただいたりですよ」
ふーん。やっぱり作る人がいるんだ。いなきゃおかしいと言えばおかしいけれども。
「やっぱりそこから奪おう、なんて思う人っているんでしょうか?」
「そんな輩はバレたらすぐに鬼の方々に潰されますよ。それに作ってくれる方々もそれなりに腕の立つ方々ですし」
「流石にそれは行き過ぎた蛮行なんですねぇ」
地底全体に供給されるべきものを奪うことは、つまり地底全体に損失を与えることである、と。するつもりはないけれど、知っておいてよかったと思える情報だ。
「あと、あれだ。どうして地底に雨が降るんでしょう?」
「梅雨だからですよ」
「…いや、空も雲もないのに雨なんて降るわけ」
「梅雨には雨が降るものでしょう?そんなことも知らないんですか?」
「知ってますけど…」
地上の常識を地底に持ち込むのは野暮なことなのだろう。ここはそういうものなのだと諦めて受け入れよう。うん。
「それじゃあ、夏は暑くて冬は寒いんですか?」
「当然でしょう?冬は雪掻きが大変だからあまり好きじゃありませんが…」
「あ、やっぱり雪も降るんだ…」
昼夜はなくても季節と天気はあるのか、ここ。防寒具もいつか必要になりそう…。
「おっと、話し過ぎましたね。さとり様の食事が遅れてしまいます」
「え?…あー、それじゃあ少し急ぎますか」
手元に残っている生野菜から水分の多いものを選んで手頃な大きさに切り分け、塩を揉み込んで小皿に入れておく。ジンワリと水分が出てきたら、その水分を捨てて代わりに酢と刻んだ生姜を加えて完了。
鉄板の下の炎を大量に複製し、火力を底上げする。鉄板の温度が上がったところで酒瓶を一本引き抜き、酒を肉に振りかける。真っ赤な炎が顔ギリギリまで上がるが、一瞬のことなので熱くはない。
焼き上がった厚切りの牛肉を皿に移し、鉄板に残っている肉汁に醤油を加えて掻き混ぜてから牛肉に掛ける。
わたしが来る前からかまどで焚いていた玄米を器によそっていると、文字通り野菜丸ごとの汁物が出来たらしく、汁物を覗き込むとオクラや人参が切られることなく浮かんでいる。…うん、大丈夫かこれ?
ま、いいや。これがここの料理なんだ。そういうものなんだよ。わたしのほうが異常なんだ、うん。そうだ。そうに決まってる。決まってるんだ…っ。
「…どうかしましたか?」
「いや、ちょっと、お腹、痛いだけ…っ」
中まで火が通っているかも怪しい丸ごと野菜を食べるさとりさんを想像してしまい、必死に笑いを押さえ込むが、押さえ込めば押さえ込むほどにお腹が痛くなる。駄目だ、わたし。堪えるんだ…っ!
「それは大へ――」
「いや大丈夫だから。ささ、行った行った!」
僅かに震える手で作った調理をお盆に置き、鳥妖怪に持っていくように促す。お願いだから、早くここから出てください…っ!
「そ、そう…?それじゃ、体調に気を付けるんだよ?」
そう言い残してお盆を手に調理室から出て行った鳥妖怪を見届け、扉が閉じて十秒後。
「ははっ!はははっ!あーっ、おっかしぃーっ」
一人きりとなった調理室で、押さえ込んだことである程度静まった笑いを噴き出した。調味料があるのにほとんど使われないってどうよ?何のために置かれてるんですか本当に!
十数秒で笑いも収まり、一息吐いてから調理室を出る。…さぁて、本でも読みますかなぁ。