東方幻影人   作:藍薔薇

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第281話

うだるような圧倒的猛暑が地底を夏だと知らせてくれる今日この頃。旧地獄である地底全体が暑苦しい。そして、旧地獄である所以である灼熱地獄跡地の上に建つこの地霊殿だって当然のように暑苦しい。窓を開けても涼しい風が通るわけじゃないけれど、閉め切っていたくなかった。ほんの僅かでも、気休めでも、この暑さが和らぐことを心の底から願っている。

 

「幻香、遅いね」

「ひゃっ!」

 

流れる汗を手で拭いながら仕事をしていると、突然耳元に話しかけられた。突然のことにビクリと反応してしまう。今まで何度も経験していることなのだけど、話しかけられるまでそこにいることにすら気付くことが出来ない神出鬼没さは、慣れることが出来るようなことではない。目の前の仕事に集中しないでこいしを探そうと思っていれば、もしかしたら分かるかもしれないだろうけれど、そんな風に思い続けられるほど私は器用じゃない。

幸い、目の前に置かれている僅かに汗を吸って歪んだ仕事用の紙には手元が狂って不要な記載をすることはなかったので、何処にも向けることの出来ないモヤモヤとしたものをため息一つ吐いて吐き出してからこいしを見遣る。その表情は、僅かに寂しさを滲ませているもの。つまり、幻香さんが書斎に籠ってから変わりない、いつものこいしだ。

 

「…そうね。けど――」

「必ず終わらせる、でしょ?」

「よく分かってるじゃない」

 

けれど、こいしが遅いというのも分からなくはない。今までだって一週間や一ヶ月と長期間一ヶ所に留まり続けていたことがあった。今回も、当然のように一ヶ月程度は既に経っているだろう。

この一ヶ月、書斎の前を通ったのは一度だけだ。幻香さんに僅かでも迷惑をかけないため、ではない。足音を殺しながら扉の前を通った瞬間、壁の向こうから全身を刃で刺し貫かれた――…と思わせる鋭い気配を感じたからだ。それだけ鬼気迫る思いで秘術と向き合っているのだろう。幻香さんの心を読めたわけでもないのにもかかわらず、ただ壁の向こうにいるだけでこれなのだから、もしも部屋に入ったときはどうなることやら…。

思い出すだけで背骨が凍える。夏だからちょうどいいのかもしれないが、こんな方法で涼みたいとは思わない。

そんなことを思い返していたら、こいしは手でパタパタと扇ぎながら私の手元の紙の一点をジーッと眺めていた。私のペット達が旧都に住む者達から聞いた意見の数々が書かれているのだが、どれが気になったのだろうか?

 

「…皆暑いのに、どうしてこんな文句がたくさん来るんだろうね」

「皆暑いからよ」

「毎年暑いのに今更何言ってるんだか、って感じ?」

「毎年暑いからよ」

 

…やっぱりそれか。こいしの言葉を繰り返しただけの答えだが、これが真実だ。夏は暑くて、暑いと不快だから。ただ暑いだけならまだしも、虫が付けばさらに不快になる。藪蚊に血を吸われればかゆくて鬱陶しくてイラつく。

 

「だーよねー…。地底は凄く蒸し暑い…。今度氷菓でも買おうかなぁ…」

「あぁ…、そんなものもあったわね…」

 

前に聞いた話では、地底に住む雪女郎の一人が持つ能力を使い、搾りたての甘酸っぱい果汁をその場で均一に凍らせたものを売っているそうで、それなりに売れているらしい。んー、そんなことを思い出したら一度食べてみたくなってきた。この仕事が終わったら、ペットの誰かにこいしが言っている雪女郎の氷菓でも買いに行ってもらおうかしら…。

 

「それか地獄火炎鍋」

「…それは…、どうかと思うわ…」

「そう?美味しく汗いっぱいかけていいと思うけど…」

 

お燐がその名前からして嫌な予感しかしない地獄火炎鍋に挑戦した話を聞いた私からすれば、こんな蒸し暑い時期に食べようと思う酔狂な人達の気が知れない。乾燥唐辛子の粉末を大量に放り込まれたグツグツと煮えたぎる出汁に生唐辛子が数十本浮かんでいるらしく、さらには土鍋から炎を上げた状態で提供されるとか。…どんな時期でも、たとえ極寒の冬だろうと私には決して食べたいとは思えない代物だ。

 

「おっとっと、食べ物の話をしに来たんじゃないんだった。ウッカリだなぁ」

「…あら。それなら、何の用があったの?」

「お姉ちゃんに一つ言っておきたいことがあったんだ。危うく忘れちゃうところだったよ」

 

私に言っておきたいこと?…何かあったかしら?今すぐに思い当たることは何もなく、頭の中を引っ繰り返してもほとんど思い当たらない。

 

「珍しいわね。何かしら?」

「ちょっと出かけようかなー、って」

 

忘れる前に思い出してくれたことはよかった、と頭の片隅に思いながら聞き返すと、こいしは軽く目を上に向けながらお出かけの報告をした。…まさか、たったそれだけのことを伝えるため、なんてことはないはずだろう。

 

「何処に?」

「分かんない」

「それじゃあどうして出かけるのよ?」

「…会ってみたい人がいるんだ。その人達を探して、ちょっとお話したいんだー」

「…そう」

 

小さな決意が垣間見えた。ここで駄目だ、と言えるほど私は出来た存在ではない。

 

「そう、いってらっしゃい。出来るだけ、早く帰ってきてちょうだいね」

「…うん、善処する」

 

こいしは曖昧に微笑みながらそう言うと、すぐに背を向けて扉へと歩き出した。

 

「待ちなさい、こいし」

 

けれど、私はその背中を呼び止めた。いってらっしゃいとは言ったが、まだ話が終わったわけじゃないのだから。

足を止めたこいしは振り返らなかったけれど、気にせず話を続ける。

 

「その前に一つ、出かけるなら伝えておきたいことがあるのよ」

「何?」

 

ようやく振り返ったこいしに、私は一つとても大切なことを伝えた。大切で、重要で、重大で、肝心なことを。

 

「鏡宮幻香の存在を匂わせるようなことは口にしないことよ」

 

私が言ったことにキョトンとした顔になった。しかし、その言葉の内側に込めた意味を理解したこいしは、その顔を僅かに歪ませる。

 

「…何で、どうして分かっちゃうかなぁ」

「これでも私は貴女の姉よ。たとえ心が読めなくても、少しくらい分かっているつもり」

 

誰に会いに行くつもりなのかは分からない。けれど、こいしが地上に出かけようと思っていることは、雰囲気から何となく察することが出来た。

二度目の変化以降に知り合った人が相手なら、こいしのことを会話ごと思い出せなくなる。そうだとしても、もしそれ以前から知っている人が相手だとしたら、こいしのことを会話ごと覚えてしまう。無意識のこいしだって、何も考えていないわけじゃない。そのくらい分かっているとは思っている。けれど、一つちゃんと念を押しておきたかった。

 

「地上と地底の不可侵があること、理解してるわよね?」

「…うん」

「それでもこいしは地上に行くのね?」

「うん」

「なら、私は貴女を止めない」

 

私は規則に例外を作るのは嫌いだ。その例外が規則に大きな傷を付け、脆くしてしまうから。一つの例外を作ると、二つ目、三つ目を作りかねないから。そのことを理解しておきながらこいしをその例外にしてしまう私は、きっと出来た存在じゃないのだろう。

けれど、せめて私はこいしのために例外を作る出来た姉でいたいから。

 

「…だから、気を付けて。私からは、これでお終い」

「…それじゃ、行ってくるね」

「ええ、いってらっしゃい」

 

私は言いたいことをちゃんと伝えた。だから、今度はその背を見送る。扉が閉まる音が響き、そして静かになった。後ろの窓から僅かに髪を揺らす風を受けながら、こいしの無事を願っていた。

最後に見せたはにかむ顔を思い出しながら。

 


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