茜色に変わろうとした空。その下の大地には、長い影がいくつも伸びている。その影の先にいる寺子屋の生徒達が、私に大きく手を振ってくれていた。
「慧音先生さようならー!」
「またねー!」
「ああ。明日が楽しみなのは分かるが、夜更かしをしないようにな?」
はしゃぎながら元気のいい返事をする生徒達を最後まで見送り、静かになった教室に目を遣る。さっきまでの喧騒が嘘のように静かで、少しばかり寂しくなる。
「…辛そうだね」
「そうかもしれないな。…いや、そうだな。まだ少し辛いよ」
「そういうのはね、溜め込まないほうがいいんだよ?ちゃんと吐き出さないと、体を蝕むの」
そんな私の心象を汲み取ったような言葉を語る声が聞こえ、自然と言葉が漏れる。
そこでようやく違和感に気付く。さっきまでこの教室には誰もいなかったはずなのに、目の前の卓袱台には一人の少女が座っていたのだから。目を逸らせばそのまま消えてしまいそうなほどに儚く、まるでそこに存在しないのではと思うほどに空虚な少女。その体に浮かぶ一つの閉じた瞳を思わせる球体が、ただの少女でないことを私に教えてくれた。
「明日、夏祭りなんだってね」
「…ああ、そうだよ。明日は、夏祭りだ」
「お祭り、楽しみだよね。けど、慧音先生は辛いみたいだね」
目の前の少女が言う通り、明日は人間の里の夏祭りだ。たくさんの屋台が立ち並び、そこに住む人々の活気溢れる日。それは楽しみだ。…楽しみだけど、あまり思い出したくないことが、どうしても一緒にくっ付いてくる。無理矢理押し込めているものが、僅かに顔を見せてくる。
「大丈夫。何を吐いても、誰も見てないよ」
「…何を」
吸い込まれそうなほどに空っぽな瞳に見詰められ、私の中にある何かが吸い込まれていく。
「大丈夫。何を吐いても、誰も聞いてないよ」
「…言って」
軽くてスカスカな言葉の一つ一つが私に浸み込み、私の中にある何かを吸い上げていく。
「大丈夫。何を吐いても、貴女は忘れちゃうよ」
「……………」
そうして軽くなった私の頭の中は真っ白で、押し込めていた力が一気に抜けてしまう。心の奥底に押し込めていたものが勝手に溢れ出てくる。
「…夏祭りはな、私の友人の一つの転機になったんだよ」
「そうだね」
「私が夏祭りに来てみたらどうだ、と誘ったんだ」
「そうなんだ」
「誘ったらどうなるか、頭の片隅にはあったんだ」
「そうなんだ」
「けどなあ、そんなことは起こらないだろうと高を括っていたんだよ」
「仕方ないんじゃない?」
「昨日まで起きなかったのだから、今日だって起こらないとな」
「そっか」
「そして、明日も明後日も、これからもずっと起こらないだろう、って」
「そっか」
「…そんなのはあり得ない、って分かっていながら目を背けていた」
「そっか」
「だが、…だからこそ、かもしれないな。それは起こってしまったんだ」
「そうだね」
「その友人はな、それ以降人里では爪弾き者…、いや、それは元からか…」
「そうなの?」
「それでも。崖際で片足立ちしているくらい危うい関係だったが、まだ人里に来れていたんだよ」
「うん」
「だが、人間の悪意がその体を押し出した」
「…そっか」
「だから、その日を境に人里に来れなくなった」
「…そっか」
「ただ、そこに現れただけだったのになぁ…」
「…そっか」
「勝手に貧乏くじを引かされて」
「うん」
「勝手に驚かれて」
「うん」
「勝手にこじつけられて」
「うん」
「勝手に嫌われて」
「うん」
「勝手に恐れられて」
「うん」
「勝手に言い訳に利用されて」
「うん」
「勝手に悪意を向けられて」
「うん」
「勝手に迫害されて」
「うん」
「勝手に襲われて」
「うん」
「勝手に生贄にされたんだよ」
「うん」
「…災厄の権化として、な」
「…そっか」
「私は、ただ楽しい思い出にでも、と思っていたのになぁ…」
「そうだね」
「だが、結果はどうだ?私はな、この時期になるといつも頭の片隅で考えるんだ」
「何を?」
「もしもの話さ。私が夏祭りに誘わなければ、ってな」
「…そっか」
「そんなもの、どれだけ考えたところで意味のないことくらい知っているのにな」
「そうかもね」
「たとえ誘わなかったとしても、あの人間達の憎悪はいつか溢れていただろう」
「そうかもね」
「たとえ誘わなかったとしても、あの人間達は私の友人を排斥していただろう」
「そうかもね」
「それでもな…、やっぱり辛いんだよ…」
「そうだね」
「そしたらな、その友人はそんな人間を殺した」
「…そうだね」
「まずは、一人の爺さんを」
「うん」
「次に、九人の若者を」
「そうなんだ」
「最初は仕方ない、なんて無理に納得させた。そうした理由が分かるからな」
「そっか」
「けど、次には納得出来なかった。そうした理由が分かっても、な」
「そっか」
「そして友人は、最後に全てを巻き込んで弾けたんだ」
「…どんな風に?」
「友人の友達も、異変解決者も、人里の人間も、何もかもを巻き込んで引っ掻き回した」
「へぇ…」
「誰がどう動くかも含めて駒でも動かすみたいに、そしておそらく思惑通り封印された」
「封印?」
「それで、封印されて、もう会えないかもしれない、って考えるとな」
「うん」
「さっきも言った通り、そんなことしても意味のないことだとしてもな」
「…そうだね」
「私はどこかで選択を間違えたんじゃないか、って思ってしまうんだよ」
「そうだね」
「私は、常に最良の選択をしてきたとは思えない」
「そうなんだ」
「だから、そんなことを考えてしまう」
「そっか」
「…いや、たとえ最良だと思っていても考えただろうな」
「そうなんだ」
「…はは、馬鹿だなぁ、私は。分かっているのになぁ…、分かっている、はずなのになぁ…」
「…涙」
「辛いよ。苦しいよ。悔いてるよ。…それでも、お前は戻ってこないんだよなぁ…」
「分からないよ?」
「…そう、かもな。自ら封印されるくらいだ。脱出の術くらい、あるのかもなぁ…」
「そうだねぇ」
「もし出てきたなら、そうだなぁ…」
「うん」
「一発頭突きを喰らわせてから、…すぐに抱きしめてやるかな」
「そっか」
「…いや、そんな甘い可能性に縋るつもりはないさ。この甘さは、毒だ」
「そうかもね」
「私は、いつもと大して変わらない日常を送っているんだよ」
「ふぅん」
「友人の封印の上に敷かれた平和の上に座ってな」
「…そっか」
「そう思うと、私は不幸で幸福だよ。良し悪しは四則計算出来るものじゃない」
「そうだね」
「…けどな、それよりも、そんなことよりも、私は…」
「うん」
「私は、な…。ここと友人の両方を取れると、思っていたんだよ…」
「うん」
「都合よく、背反するはずの二つを取れると思ったんだ」
「うん」
「私自身が、その両方に半端に属する中途半端な存在だから」
「そっか」
「だが、まあ、案の定うまくはいかないものだな…」
「二兎を追う者は一兎をも得ず」
「はは…、全くその通りだな」
「そうだね」
「…だがな、その一兎が無理矢理片方を掴ませてくれたんだよ」
「…そっか。優しいんだね」
「ああ、優しいよ。残酷なくらい」
「そう、なんだ」
「それでいて残忍だよ。慈愛を感じるくらい」
「そうかもね」
「…なあ、お前はこんな私をどう思う?」
「それをわたしに訊いても意味がないでしょ?」
「…その通りだな」
「語ってくれてありがとね」
僅かに床を軋ませながら立ち上がった少女は、教室から出て行った。
真っ白な頭が徐々に元に戻っていき、誰もいない教室を見遣る。一つだけ位置のズレた卓袱台を直してから、自分の部屋へと戻ることにする。
気付いたら暗くなった外を移る窓に薄っすらと映る自分自身の目が僅かに赤くなっていることと、何故かほんの少し軽くなった心を不思議に思いながら。