「…?」
ふわり、と空気が揺れるのを感じて瞼を開く。すぐに周りを見渡すけれど、それらしい気配は感じられない。
「あ」
急に私が動いたからか、足元で休んでいたらしい小鳥達が一斉に飛び立っていく。
「…風、かなぁ」
微かな風を肌で感じながら、再び瞼を閉じた。真夏日和の昼頃であり、頭上の太陽が私をジリジリと照らしているが、心頭滅却すれば火もまた涼し、と言う。この程度で門番を休むつもりはない。
◆
バルコニーに紅茶の香りが漂う。日除けの傘の外側は、目が痛くなるくらい眩しい。普段ならこんな時間にこんなところにいるなんて自殺行為、と言いたいところだけれども、これもまた一興。
傘の遥か上にある見ることの出来ない太陽を見上げ、紅茶に手を伸ばしたが、その手は空を切った。どこか別の場所に置いていたのか、と思い机の上を見るが、そこにあるのは空のソーサーのみ。
「んっ、んっ…。あー!美味しいねぇ、この紅茶」
「…は?」
机から声のした前を向くと、そこには紅茶を飲み干したらしい緑髪の少女が机に腰かけていた。持ち手に人差し指を入れてクルクルと回して遊び始めた少女には閉じた瞳を思わせるものが浮かんでおり、ただの少女ではない妖怪であることを物語っている。
「ねえ、ちょっと訊きたいことがあるんだ」
「…何かしら?」
「ここってさ、紅魔館って場所で合ってるかな?」
「そうよ。ここは私の紅魔館」
「そっか。なら、貴女がレミリア・スカーレットなんだね」
さっきまで遊んでいたティーカップをソーサーに戻した妖怪は、私の眼を見詰めてくる。まるで何処までも続く底なしの穴のような瞳。私を見ていながら、別の何かを見ているような瞳。
「…貴女は、何処の誰かしら?」
「わたし?…んー、覚えてもらうほどの妖怪じゃないよ」
「それを決めるのは貴女ではなく私よ」
「ふぅーん。じゃあ、そんな傲慢な吸血鬼様にはわたしの矮小な名前なんて教えない。どうせ明日には忘れちゃうんだから」
そう言って笑う妖怪だが、どうにもその笑顔が薄っぺらい膜を持っているように思えてしょうがない。嘘っぱちな表情とまでは言わないけれども。
「ま、わたしのことなんてどうでもいいんだよ。道端に転がる石ころくらいどうでもいいね。私は貴女にいくつか訊きたいことがあって来たんだ」
「人の紅茶を勝手に飲み干しておきながらよくもまあいけしゃあしゃあと」
「そう?じゃあ対価くらい払わないといけないね」
袋の中に手を突っ込み、カチャカチャと金属同士が擦れ合う音を響かせる。そして、手を止めた妖怪は握られた手を取り出した。
「はい」
「ッ!」
握られた手から手渡されたそれを受け取った瞬間、ジュゥ…と嫌な感触がしてすぐさま右へ振り払う。キン、と甲高い音を立てて転がるそれは、四角い銀色の金属板だった。
「どういうつもりかしら…?」
「…あれ?これじゃ安かった?…むぅ、一杯百もするお茶なんて滅多に出ない高級品なのに」
これは宣戦布告と取っていいのかしら…?
どうしてくれようかと考え始めたところで、その妖怪は眉を顰めてうーんと唸り出し、すぐにポン、と握り拳で左手を叩いた。
「あー、思い出した。吸血鬼は銀が毒だったっけ。いやー、ごめんね。すっかり忘れてたよ。痛かった?いやね、悪気はなかったんだよ?忘れてたわたしも悪かったかもー、とは思っているけれど、わたしの好意を放り棄てた貴女も悪い。ほら、ここはお互い悪いってことにして、その固く握り締めた左拳を開こうよ。ね?」
「…ふぅー。寛大な私が貴女を許してあげるわ」
右手の痛みは既に引いている。胸に燻る怒気を長い息と共に吐き出し、左手を開く。
ジャラジャラという音がティーカップから響き、中身を覘いてみると丸い銅色の金属板が十枚収まっていた。
「はい。これでお互い水に…、風に流しましょう。お金って偉大だね。それで、わたしは貴女に訊きたいことがあるのです」
「…はぁ。その前に、咲夜」
「はい、お嬢様」
「うわっ。…この人が十六夜咲夜なのかな」
「紅茶を二人分用意してちょうだい」
「…?承知いたしました」
「うわ、今度は消えた」
少し間があったことが引っ掛かるが、咲夜はティーカップを持ってフッと消え去った。
「さて…。貴女は私に何を訊きたいのかしら?」
「フランドール・スカーレット」
私の妹、…だったただの吸血鬼の名を言われ、僅かに動揺する。
「貴女の妹だよね?」
「…私に妹なんていないわ」
「あれ?おっかしいなぁ…。会いたいと思ってたのに」
いくら首を傾げられてもいないものはいないのだ。思い出しただけで胸が軋むけれど、そうしたことが間違いだったかもしれなくても。
「ま、いっか。それじゃ、次。紅霧異変、だっけ?それを貴女が起こしたんでしょ?」
「…私じゃないわよ」
「あれ?昼間でも遊ぶために傍迷惑な紅い霧を広げた、って聞いたんだけど」
「ああ、そっちね。それなら私よ」
「まるで紅霧異変が二つあるみたいだね」
「…えぇ、そうよ。私が起こしたのとは別に、第二次紅霧異変と呼ばれるものが、ね」
「ふぅん。…あぁ、そゆこと。うん、よく分かったよ。そっかぁ、そうなったんだね」
「貴女、何か事情通のようだけど」
「わたしが知っていることなんて、他の誰かも知っていることだよ。わたしは聞いただけだから」
そう言うが、どうにもその言葉に重みが感じられない。嘘を言っているような、思ったことをそのまま口走っているような、そんな浮かび上がりそうなほど軽い言葉。きっと、私が真偽を問いても意味を成さないのだろう。
「わたしが訊きたいのはね、その紅霧異変の話」
「…どちらのことかしら?」
「両方。あ、嫌なら話さなくてもいいんだよ?」
「まさか、この私が話せないとでも言いたいのかしら?」
そんなつもりなんてないのだろう。けれど、そう言われて話さないなんて、レミリア・スカーレットの沽券に関わる。
「私が起こした紅霧異変。あれは、確かに昼間でも遊びたいなぁ、なんて一時の思惑もあったわ。けれど、私は異変を起こしたこと自体に目的があったのよ」
「ふぅん」
「今回は枠組みの中で私という強大な存在がいることを幻想郷中に知らしめる。そのために私は異変を起こした」
「今回?…ま、いっか。結果は成功したんだね。負けたけど」
「む、確かに負けたが価値のある負けだ。決して恥とは思わない」
枠組みから思い切り外れて私の強大さを知らしめようと起こした『吸血鬼異変』と呼ばれるものもあるのだけれど、それはたった一人の妖怪によってまとめて薙ぎ払われた。…あの時現れた妖怪の顔は、正直思い出したくない。
「もう一つの紅霧異変は鏡宮幻香が、人里で言うところの『禍』が起こした異変。私は…、悔しいが被害者に当たることになる」
「…『禍』、ね。…ふぅーん、そっかそっか」
「ここ紅魔館を占領し、博麗霊夢を呼び寄せるためだけに起こした異変、だそうだ」
そんなことを、とある日の霊夢は言っていた。美鈴が私達を連れて博麗神社へ向かう可能性も利用していたそうだ。利用出来るものを利用し尽くした結果は、あれだ。悲しいかな、私はフランと幻香が共に笑い合っている未来を望んで縁を切ったというのに。…まあ、その代わりは幻香と縁があった者達がやっているそうだが。
「だが、その実幻香は自殺するために呼び寄せたそうだ」
「…!…へ、へぇ。死ぬために異変を、ね。それは、何て言うか、…凄いね」
「そんなに死にたいなら何処か隅っこで勝手に死ねばいい、と言いたいところだがな。幻香は自分自身が持つ影響力をよく知っていた。だからこそああしたと私は思っているよ」
本当に、ふざけた話だ。道化のように踊らされた私達も、それに付き合った幻香の仲間達も、幻香自身も。
「紅茶が来るまで、と思って短くまとめさせてもらったが、深く訊きたいことはあるかな?」
「ないよ。粗方聞けたからもう満足」
「そうか」
そう軽い言葉と薄っぺらい笑顔で言われたが、私はそれでも満足だ。目を瞑り、少しばかり浸っていると、カタリ、と机が揺れた音がした。すぐに瞼を開くが、そこには何もなかった。
「お嬢様、紅茶です」
横から突然足音が聞こえ、顔を向けると咲夜がそこにいた。
「ああ、ありがとう咲夜」
「ところで、何故二人分なのでしょう?」
「二人分?」
そう言われると、確かにティーカップは二組用意されている。…はて、確かに二人分用意するよう咲夜に頼んだはずだが、…ああ、そうだ。思い出した。
「たまには咲夜と共に味わいたくてな。…どうだ?」
「ええ、お嬢様。お供させていただきます」
ふと、何故かバルコニーの右側が気になって顔を向けてみたが、眩しいばかりでそこに何かあることもなかった。