雪の上に薄紫色の板が敷かれ、その上には私が普段使っているものと同じ椅子が置かれている。それに座っている幻香さんの不揃いに伸ばし放題な紫色の髪の毛に手櫛をして、ある程度形を整えていく。
「鋏、出来ますか?」
「…どうぞ」
刃と輪になった持ち手を二本、それを組み合わせる螺子を頭の中で形作り、別の場所に粒一杯の原子というものを思い浮かべ、その二つを組み合わせる。
そうして出来上がった金属の鋏を受け取りながら、相変わらずの心だと少しばかり安心してしまう。…まあ、それを読んだ私の頭は痛くなってしまったのだけれども。
「どのくらいの長さにしますか?」
「好きにしてください」
「そうですか。それでは、好きにさせてもらいますね」
そう言う幻香さんの心には、地上で髪を切ってくれていた上白沢慧音という方が浮かぶ。どうやらその方の場合、前髪は目にかからないように、後ろ髪は背中の中程まで切っていたらしい。しかし今の前髪は唇に届いていて、最も長い後ろ髪はこうして座っていると地面に接してしまいそうなほどである。
ジョキリ、ジョキリと後ろ髪を腰のあたりまで大雑把に切っていく。板の上に切り落とした髪の毛の色は、一度目を離すと真っ白になっている。きっと、この色が本来のドッペルゲンガーの髪色なのだろう。無垢の白と言われるだけある純白だ。
「幻香さんは他人に髪の毛を触られることに抵抗はないのですか?」
「急に掴んで引っ張らないなら特段抵抗はないですよ。いざとなれば切り落とせばいいですし」
「…そうですか。なら、遠慮はいりませんね」
「そもそもこの散髪だって、わたしが自分でやろうとしたら貴女が止めたからじゃないですか。それなのに、遠慮も何もないでしょう」
「妖力弾で吹き飛ばすような荒業を、しかも室内でやろうとすれば誰だって止めますよ」
「…窓から顔出してたのになぁ」
「そういう問題じゃないですよ」
元々見た目が存在しない彼女にとって、身だしなみの優先度は極端に低い。高ければあんな風に髪の毛を吹き飛ばそうなんて思わないだろう。伸ばし放題になっても放っておこうとも思わないだろう。服装も彼女にとっては使えるか否かの二択。今だって通りがかった私のペットが着ていたらしい防寒具をそのまま複製して使っている。
「ところで幻香さん。例の秘術の翻訳は具体的にどうなったのでしょう?貴女が使いやすいように改良した、とのことですが」
「『碑』ですか?あれって改良なのかなぁ?『紅』と同様に普段は溶かしておいて、使うときだけ掻き集めるようにしただけですから。見方によっては改悪ですよ、あれ」
「そうでしょうか?あんなものが常時発動していたら、私なら頭が割れますよ」
「違いない」
一度だけ『碑』発動中の幻香さんの心を覗いたときがある。目に見えた景色が、耳に聞こえてきた音が、鼻で嗅いだ匂いが、舌で味わった味が、肌で触れた感触が、頭で考えた想像が、何もかも全て記憶に刻み込まれていく。あんなもの、常人では耐えられない。発動した幻香さん自身も、ものの十数分で倒れる寸前まで消耗してしまった。
未来の自分自身に残すために、記憶という石板に刻み込む。幻香さんが『碑』と名付けた理由が非常によく分かった。
「けど、せっかく終わらせたのに、肝心のこいしさんがいないからなぁ…」
「そうですね…。夏頃に出て行ってからずっと帰って来てないから、私も少し心配なんです」
「早く帰って来てほしいんですがねぇ。大事なことがあるんですし」
「…そう、ですね。…櫛、出来ますか?」
「櫛ですね。ちょっと待ってください」
後ろ髪を背中の中程まで丁寧に切り揃え、ついさっき創られたばかりの櫛で髪の毛を梳いていくと、ハラハラと切った髪の毛が落ちていく。落ちていく時は紫色で、下を見遣れば白色になっている。実に不思議だ。
「それでは前を切りますね。目を閉じ、…てますね」
「ええ、最初から」
「そうでしたか」
背中から前へ回り前髪に鋏を当てたとき、ふと雪を踏む足音が聞こえてきた。
「ぁー…。寒ぅ…ぃ」
鋏を離してから振り向くと、そこには生地の薄い服のままで寒さに震えるこいしがいた。どれだけ長く地上に行っていたのかと少し叱ってやりたい衝動に駆られたが、それ以上に今は具合が悪い。
「ぁ…、お姉ちゃんと幻香じゃん。ただいまぁ…」
「え、ええ…。おかえりなさい、こいし。随分遅かったじゃない」
「あはは…。ごめんね、お姉ちゃん。…急で悪いんだけど、上着ってある?」
そうこいしが言った瞬間、幻香さんの心にここら一体の形が一瞬で浮かび上がる。そして、気が付けば幻香さんの手には私が着ていた防寒具が握られていた。ただし、薄紫色。
「どうぞ、こいしさん。貴女の姉が着ていたものとほとんど同じはずです」
「ありがと幻香!…ん?こいし、さん?」
「申し訳ありませんが、見ての通り目を瞑ったままですから貴女のことを思い出せていないのです。貴女がわたしの友達だと言われても、どうにも実感が湧きません。ですから、少し他人行儀に感じさせてしまったかもしれませんね」
「あー、そっか。…じゃあ、何で目を開けないの?わたしの真似?」
「いえ、ただその前に訊きたいことがあるだけなんです」
「訊きたいこと?わたしが何処に行っていたか、とか?」
「それはまた今度聞けたらにしましょう。…さとりさん、髪を切りながらで別に構いませんよ。ちょっとくらい口に入っても気にしませんから」
「あ、え、そ、そうね。続けましょう」
どうしたものかと考えていたら、幻香さんに急に話を振られ、言われたままに前髪を切り始める。鋏を持つ手が微かに震え出し、少し切り辛い。
「わたしが訊きたいことは、一つです」
「うん、何かな?」
「借りたものは、盗んだものは、奪ったものは、返すべきでしょうか?」
「そんなこと?」
「はい、そんなことです。どうにもわたしの感性は他人と食い違っているようでしてね」
幻香さんとこいしの世間話。…に聞こえるもの。手の震えが徐々に大きくなっているのが分かる。
こいしはうーん…、と少し唸りながら考え、やがて答えを口にした。
「…うん、返すべきだと思うよ」
「ですよね。では、わたしも色々と――」
「けど、さ」
「…?」
幻香さんが結論を出そうとしたところを、こいしは遮った。
「幻香は返さなくていいと思うんだ」
こいしが言った言葉に、思わず私の持つ鋏の手が止まってしまう。
「…どうしてですか?いくら友達だからと言っても、悪行を見て見ぬ振りをするのはどうかと思いますよ」
「違う違う。幻香がわざわざそうやって訊くことだから、真剣に悩んでいるんだと思うから答えたんだよ。返すか、返さないか、決めかねてる感じ?だから、わたしがどちらか明確に答えてあげたの」
「そう、ですか。まあ、確かにどうしようか迷っていたところですね」
「もしかしたら、わたしが考えているより、幻香が奪ったものって重いものなのかもね。けどさ、そんな大切なものなら返せって言ってくるでしょ。言ってこないなら、その人にとっていらないものだったってことじゃない?」
「…諦めて狸寝入りして、本当は返してほしくて堪らないかもしれないでしょう」
「諦めてるならもういいじゃん。それに、さ。幻香の言う『もの』とわたしが思う『もの』って、違う気がするんだ。何て言ったらいいかなぁ…。重さ、かな。軽く訊いてるつもりだろうけど、全然違う。ズッシリ来るよ、幻香の言葉」
こいしは口を閉ざし、幻香さんは重く口を閉ざしている。再開した散髪の音だけが聞こえてくる。
そして、こいしは再び口を開いた。
「もしかして、さ。幻香って、わたしから何か奪ったの?」
「…それ、は」
「もしそうなら、何にも気にしなくていいんだよ。幻香が何を奪ったかは知らないし、わたしは何も覚えてないけれどさ、それがどれだけ重くて大切なものだろうと好きに使っちゃって構わないから」
「は、はは…。ねえ、こいしさん」
「なぁに?」
「貴女は――いえ、もう訊いても意味のないことですよね。すみません、忘れてください」
「何それ。気になるじゃん」
ようやく前髪を切り揃え、櫛で梳いていく。結論は、もう着いたらしい。
「幻香さん」
「…何ですか、さとりさん」
「賭けは私の勝ちですね」
「そうですね。ははっ、まったく貴女達は姉妹揃って…」
そう言うと、幻香さんは自分の心の中にある欠片を一つずつ掻き集めていく。私はその様子を読みつつ、その後に来るであろう負荷に備える。
そして、幻香さんは目を開いた。瞬間、幻香さんの記憶にある大量の穴が一瞬で埋め込まれ、そしてすぐさま刻み込まれていく。
「ただいま、こいし。そして、改めまして、久し振りですね。わたしが鏡宮幻香です」
「ただいま、幻香。思い出した?」
「ええ、思い出しましたよ。そして、もう忘れません」
「そっか。やっぱり終わってたんだね」
「遅れてすみませんね」
「いいよ。こうして会えたから」
幻香さんは見るからに相当無理をしている。精神的にはもう倒れてしまってもおかしくないほどに、一度に流れ込んできた記憶に押し潰されそうになっている。
だというのに、幻香さんはこれ以上ないほどに成し遂げた表情を浮かべて微笑んでいた。