東方幻影人   作:藍薔薇

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第296話

これはこいしが帰ってきた数日前の話。

私は仕事が一段落着いて、一休みをしようとしていたところで、少し遠くのほうからドゴン、とくぐもった破壊音が響き、地霊殿を僅かに揺らした。

 

『な、何事!?』

 

その音は書斎からだった。まさか、と真っ先に思い当たった可能性を胸に抱きながら慌てて部屋を飛び出して駆け出した。ペット達も急な音と揺れを察知して私と同じ目的地へと向かっていて、既に書斎には人だかりが出来ていた。その間を無理矢理抜けていき、ようやく人垣を切り抜けたことを、私は少しばかり早計だったと後悔している。

 

『…さとりさん?』

『ッ!?』

 

伸び切った髪の隙間から私を見ていた黒紫色の瞳は全てを見透かしているようで。けれど、そんなことを気にすることが出来たのはかなり後の話。

髪の毛の一本一本の動き、この場にいるペット達の瞳の動き、ボソボソとした雑音、石壁と扉を吹き飛ばした粉っぽい香り、その他諸々…。幻香さんの心から流れ込む圧倒的情報量に、私の頭が破裂しそうになる。彼女の精神的外傷(トラウマ)の数々を強制的に読んだ時よりもよっぽど辛い。

 

『大丈夫ですか?』

 

幻香さんにそう問われた覚えがあるけれど、私はどう返事をしたのか碌に覚えていない。

気付いたら、普段私が使っている部屋に運び込まれていた。頭を押さえ、息も絶え絶えな幻香さん曰く、ここまで背負って運んでくれたらしい。すぐさまお燐含めたペット達に止められたそうだけど、大事な話があるから二人きりにしろ、と睨み付けたら道を開けたらしい。

 

『…改めて訊きますが、大丈夫ですか?』

『え…、えぇ。今はもう平気です』

 

そう言ったが、幻香さんの心の中は雑多な情報が代わる代わる流れ続けていて非常に忙しない。先程よりは何倍も楽だが、彼女の心の中がとてもではないが読み切れない。

 

『さとりさん。いい話と悪い話ととても悪い話の三つがあります。どれから聞きたいですか?』

 

すぐさまそれは、明らかにわざとやっていることだと察しがついた。私が心を読んでも彼女が本当に伝えたいことを隠すためにある情報の防壁。

 

『…いい話からにしましょう』

『そうですか。秘術の解読、というより翻訳が完了しました。わたしが使いやすいように多少改良しましたが、まあそれはどうでもいいことでしょう』

『翻訳、ですか』

『はい。あの文章、既存の文字で独自の言語を作ってたんですよ。暗号なんか目じゃない、彼女にしか知りえない言語で書かれていました。普通にやっても解読出来ないのも納得です』

『…そんなもの、比較対象するものもなく読めるはずがないでしょう?』

『ありました。わたしが一度流し読みした彼女の記憶から洗い出しましたよ。思い出すのにどれだけ時間を費やしたのやら…』

 

深いため息を吐きながら幻香さんはそうは言うけれど、たかだか半年程度で出来るようなものなのだろうか?けれど、終わらせたと言うのなら終わらせたのだろう。

 

『では、次は悪い話を』

『はい。わたしは明日にでも消えようかと考えてます』

『…はい?』

 

長年使い続けていた自分の耳を疑った。けれど、そう言った瞬間だけ情報の防壁が取り払われ、その言葉が真実であることが嫌でも分かってしまう。

 

『それは、何故、ですか…?』

『それの具体的な続きはとても悪い話になります。…聞きますか?』

『…聞くわ』

 

その時の幻香さんの表情は、あんな秘術の改良を終えたというのに達成感もなく、あんな消滅宣言をしたというのに恐怖もなかった。ただただ平常。世間話でもするように淡々としていた。

 

『まず、わたしが精神体であることはもう知っているでしょう』

『…えぇ。少なくとも、貴女がそうだと結論付けていることは』

『よかった。なら、話は早くなりそうですね』

 

カメラと呼ばれる意思のない機械によって映し出された自分自身の姿から、引っ掛かりを覚えていたらしい。機械から見た姿と自分から見た姿が同じである理由は、機械という容姿のない存在から見たからではないかと。つまり、自分自身にはそもそも容姿が存在しないと。

ドッペルゲンガーが無意識に行ったという、フランドール・スカーレットと八意永琳の願いを核にした自我の形成。自分はドッペルゲンガーであるという自覚の有無から、自分自身はドッペルゲンガーではないのではないか?と推測していたらしい。

容姿が存在せず、ドッペルゲンガーではない。この二つから導き出した結論が、自分自身はそもそも外見なんて存在しない精神体として産まれた存在であるというもの。言い方を変えてしまえば、ただの情報の塊。

ドッペルゲンガーであり、ドッペルゲンガーではない。まるで矛盾しているようだけれども、その答えは身体がドッペルゲンガーで、精神がドッペルゲンガーではないという簡単なものである。

 

『ただ単純に精神体として産まれたにしては、どうして最初からお誂え向きな身体に、ドッペルゲンガーに寄生していたのでしょう?わたしは疑問だった。けどさ、地底に下りて地霊殿に来て貴女達に会って…。書斎に籠ってちょっと考えてみたらさ、分かっちゃった』

『…それの何処がとても悪い話なのですか?貴女のことが分かったのでしょう?』

『そうだね。疑問が晴れていい話、…で終わればよかったのにね』

 

はは…、と乾いた笑いを浮かべながら幻香さんは続きを語り出した。

 

『まず、ドッペルゲンガーは願いを奪い、代わりに叶える存在です。次に、わたしの起源の記憶は穴、つまりこいしさんのこと。はい、もう結論は出ましたね。わたしはこいしさんの願いから創られた精神体です。つまり、貴女の妹はわたしの母とも言えることになりますね。…ん?この場合は父のほうがいいかな?』

『ちょっと待って』

 

話が急展開過ぎる。こいしが幻香さんの母だの父だのも非常に気になるけれども、それよりもその前。こいしの、願い?

 

『…あるはずないでしょう』

『あるよ。そうじゃないと、わたしがここにいないことになる』

『それは貴女の結論です』

『じゃあ、順番に言おう。まず、こいしさんが第三の眼を閉じることに対して、何も思うことはなかったのだろうか?これであんな醜いものを見ずに済むと喜んだ?それとも、目の前に第三の眼を閉じずにいる貴女がいながら、自分自身は楽な道に逃げる悔いがあった?』

 

ドクリ、と心臓が跳ねる。まさか、と思った。けれど、私には否定することが出来なかった。私が知ることじゃないからということもあるけれど、もしそうならと考えていたことがあったから。

 

『次に、その悔いがなけなしの意識に残っていたとする。おっと、意識なんてないとは言わせませんよ。貴女が言ったんですから。ほぼ無意識の存在になり、碌に認識されなくなったそうですね。そして、十二年ほど前。つまり、わたしが生まれた頃だ。こいしさんは変わった。悔いは未練(ねがい)で、ドッペルゲンガーの捕食対象だからね。未練を喰われ、ただでさえ少なかった意識がさらに削られた。無意識妖怪は、より無意識に近付いた。認識されにくいから、記憶に残らないまで』

『ちょっと待ってください!それはあまりにも飛躍し過ぎでしょう!?』

『じゃあ、他に原因があるか?』

『っ…!そ、それとこれは話が――』

『違う、と。なら最後だ』

 

私の言葉を奪いつつ、言外に黙って聞いていろと言われた気がした。

 

『その悔いは、どんな願いだっただろうね?ドッペルゲンガーはさ、一応願いを叶える存在だ。かなり歪められることもあるようだけど、それでも願いを叶えることだけは遂行するんだから』

『…第三の眼を、閉じないこと』

『その先。無意識になったことを悔いたんだ。なら、その願いは簡単でしょう?』

『…無意識にならないこと』

『はい正解。無意識にならないなら、そこにあるのは意識を保つことだ』

 

私に乾いた拍手をしてから、幻香さんは右手を軽く握り締めた。

 

『その願いを奪った。自我なきドッペルゲンガーに、無意識のこいしさんが形成される。さて、意識を欲した彼女の願いは、どうやったら叶えられるかな?』

『…開けば、いいだけでしょう?』

『残念ながら開かなかった。そんな簡単に開くなら、何百年も閉じたままでいないでしょう?…目を逸らすなよ。もう分かってるんでしょう?ドッペルゲンガーは、醜いものに耐えられる意識を保つことを諦めて、醜いものに耐えられる意識を創った。わたしにだって出来るんだ。この体だって、出来て当然だよね。そしてこいしさんは捕食される。何者でもないただの精神体は残る』

『それが、貴女だと…?』

『そうだね。少なくとも、わたしはそれ以外の理由が思い付かなかった。言い方は悪いけれど、これほど都合のいい存在は、わたしには思い当たらないよ』

 

滅茶苦茶だ、と言いたい。けれど、間違っているとも言えなかった。何故なら、私は納得してしまったのだから。

そして、言いたいことを言い終えた幻香さんの心の防壁が再び崩れ去る。そして、そもそも産まれたこと自体に後悔していることを読んでしまった。

 

『…きっとさ、わたしが出来る前からたくさん奪ってたんだと思うんだ。けど、それはこの際どうでもいいんだよ。それよりも、わたしのこと。フランの破壊衝動(ねがい)は欠片とはいえわたしの中に今もあるし、彼女自身も奪われたこと自体には救われた。永琳さんの製薬(ねがい)は彼女自身が望んでいたことで、わたしがやるか彼女がやるかの違い。けどさ、こいしさんの未練(ねがい)はどう?こいしさんは第三の眼を開くことを無意識の奥底で願っていたのに、もうそれは叶わない。代わりに出来上がったのが、わたし』

 

握り締めていた右手から、ポタリと赤い血が零れ落ちる。

 

『ねぇ、さとりさん。こんなわたしを、こいしさんの可能性を喰らったわたしを、貴女は本当に受け入れられますか…?』

『受け入れますよ』

 

私は即答すると、幻香さんはポカンと呆けてしまった。むしろ、その程度のことで断られると思っていたことのほうが心外だ。

 

『確かにこいしがもう覚となることはないかもしれません。けれど、私はそれでも構いません。第三の眼を開いていようと閉じていようと、こいしはこいしですから』

『…貴女、もしかして馬鹿ですか?』

『姉馬鹿という意味なら』

 

そう言って微笑むと、幻香さんは固く握っていた右手をゆっくりと開いた。爪が食い込んだ跡が見えたが、瞬く間に閉じていく。…これが『紅』か。

 

『…まぁ、わたしだって地上に約束を一つ残してますから、消えようと考えるまでに済ませたんですよ。いくら後悔しても、過去のことですからね。けれども、奪ったものは返すべきだ。あの二人に関しては、わたしはそれでいいと納得出来た。けれど、こいしさんに関しては納得出来ない。何故なら、彼女がどう思っているか聞いていないから』

 

フランドール・スカーレットは破壊衝動を奪われたことに関して救われたと言っていた。八意永琳は新たな薬の製法を知り満足していた。

 

『まあ、わたしの生殺与奪はわたしとこの身体と彼女だけだと思ってます。わたしはどちらでもいい白票。この身体は答えてくれないので白票。あとは、こいしさんだけです。だから、こいしさんに返すべきかどうかを訊くことにした。返すべきなら、わたしは返せない。だから代わりに贖罪として消えることにした。閻魔様も大喜びかもしれませんね。返さないでいいのなら、わたしは生きることにした』

『ふふっ、貴女は生きますよ。賭けてもいいです』

『…やけに自信ありげですね』

 

彼女の心には、詳細を言わずに返すべきか否かのみ問うつもりらしい。そこに幻香さんの生死を匂わせるつもりはない、と。

 

『私はこいしが貴女の真意に気付いてくれると信じてますから』

『…なら、早く訊かないといけませんね。どうやら今は出掛けていていないようですが…』

『それなら、帰ってくるまで待ちましょう。…それまで、勝手に死なないでくださいね?』

『はぁ…。ま、そうですね。ちゃんと待ちますよ』

 

いざその時が来たら、いくら信じていても緊張してしまったけれど、結果は私の勝ちで終わった。

だから、幻香さんは今日も生きている。

 


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