…酷く、静かだ。外からはくぐもった雨音が聞こえてくるはずなのに、耳鳴りがするほどの静寂が部屋を満たしている。お互いに濡れた体を拭き、手頃な服に着替えてからずっとこんな感じだ。わたしは床に腰を下ろして口を閉ざしている。こいしはベッドに腰かけて、ジッとわたしを見続けている。
…分かってる。自分から教えると言ったことくらい。…分かってる。言わなきゃ進まないことくらい。…分かってる。わたしが言わなきゃいけないってことくらい。けどさ、言い辛いことこの上ないんだよ。分かってても、この口はなかなか口を開こうとしない。喉に鉛でも詰まってるように声が出ない。
「…はぁ」
小さく漏れたため息が静寂の空間に木霊する。こんな時ばっかりやけに耳に残るものだ。
…そうだよね。いい加減、覚悟を決める時だ。そう思うと、あんなに重かった口が簡単に開き、鉛は融けて流れ落ちるのだから、分かりやすいものだ。
「端的に言いましょう。わたしは夢想天生に対抗しうる可能性を持つ手段を見出しました」
「え」
「彼女は天賦の才の感覚に従ってやっていることを、わたしは思考の末の理論に従ってやるつもり。だから、わたしは地上に戻ってもいいだろうと考えています」
ポカンと口を開けたこいしの目が見開き、わたしを見詰めてくる。
ここで言葉を止めてしまったら次を言い出せなくなりそうで、こいしの言葉を待たずに続く言葉を吐き出す。
「わたし達の攻撃をわたし達の干渉出来ない軸に移動して躱す。四次元移動。これが夢想天生の種の可能性がある。けど、いくつか問題点が残っています。一つ目に、一つ増やした軸をどの程度ズレているのかが分からない。二つ目に、四次元より多い次元を移動している可能性。三つ目に、そもそもこの理論そのものが見当違いである可能性」
さっきまで、わたしの頭の中はいかれた世界になっていた。すなわち、四次元空間。一つ軸が増えるとさ、三次元空間がやけに狭く見えるんだ。四次元空間にある三次元物質が、奇妙なものに見えたりした。立体的な平面に見えたり、何か足りないものがあるように思えたり、やたらと近くにあるように見えたり、近付いているはずのものが全く近付いてこなく感じたり…。
「けど、可能性を感じるんだ。…ほら」
そう言いながら、わたしは一つの球体を手の上に創造した。その瞬間、球体が手の平をすり抜けて落ちていく。そのまま床もすり抜けていってしまうかもしれない、と思ったが音も立てずに小さく跳ねて床に転がっていく。その球体は向こう側が僅かに透けて見えた。
こいしは転がる球体を奇妙なものを見る目で見遣り、ベッドから立ち上がって球体を踏みつけようとする。しかし、こいしの足は球体をすり抜けて床に振り下ろされた。
「…すり抜けるね。これが、ズレた世界にある、ってことなの?」
「その可能性がある、ってだけ」
そう言いながら、わたしは球体を霧散させる。触れることが出来ないなら、回収することも出来ない。
一息吐き、わたしはこいしを見上げる。こいしの瞳にはわたし自身の迷いが写っていた。
「それでね、こいし。わたしは、地上に戻ってもいいだろうと考えている。けれど、それと同じくらいここに残ったほうがいいと考えている。…先程言った課題のことを抜きにしても、そう考えているんです」
わたしは夢想天生を攻略し、博麗霊夢に勝利することで平穏を得るつもりだ。まだ課題が残っているとはいえ、十分に実行に移せるだろうと踏んでいる。これで負けてしまったとすれば、潔く負けを認めて死んでもいい。そう思えるくらいには、この理論を信じている。地上に残したわたしの友達がわたしのことを待っているのだから、早くに出来るのならばそうしたい。
旧都では未だにわたしに対して殺意を持っている妖怪がいる。けれど、それは地上ほどじゃない。…あぁ、そうだよ。わたしはこのまま旧都に住んでいれば平穏を得られるのでは、と思っているんだ。昔のわたしがいたら馬鹿にでもしそうな可能性に縋ろうとしているんだ。踏み台で隠れ蓑のつもりだった旧都に居つこうとしているんだ。生きていれば必ず戻ると誓っていた地上に戻らなくてもいいのではと血迷っているんだ。
「わたしはどうしたらいいでしょうね?」
「それは幻香が決めることだよ」
「分かってますよ、そのくらい。…分かって、いるんです」
都合よく両方を取れるとは思っていないのだから、わたしはどちらかを選択しなければいけない。けれど、わたしはどちらを選べばいいのか迷っている。…迷ってしまっている。けれど、わたしはどうすればいい?思い付いている課題を言い訳にして、選択を先延ばしにしてしまう?
さとりさんは、このこと察してああ言ってくれたのだろう。時間を掛けて、後悔のないように…。自分でも分かっていたけれど、こうして誰かに言われると気が楽になる。けれど、早急に決めなくてはいけないと焦る気持ちもある。
「…そうですね。自分で、決めたいと思います」
「うん。上がるとしても、残るとしても、わたしは幻香の友達だよ」
「ありがとうございます、こいし。わたしの、最初の友達」
そう言って微笑み、すぐに両手で頬をバシンと叩く。言うことを言い切り、荷が下りた気分だ。気持ちを切り替えよう。何時までも考え続けているのもどうかと思うから。
「さて、こいしは四次元をどう思いますか?」
「ん、急にどうしたの?」
「考えるのは、また後日に。ちょっと気を抜くのを手伝ってくださいよ」
「幻香の気が紛れるならいくらでも付き合ってあげる」
そう言うと、こいしは腕を組んで首を捻り考える。
「…そこにあるはずなのに、本当にすり抜けるってことくらいしか分かんないよ」
「あれはね、ただの球体を四本目の軸がズレた位置に創造したからそうなっただけ。ほら、紙の上にどんな強力な攻撃を描いたとしてもわたし達には届かない、みたいな?」
「何その例え?」
「…実は自分でもどう説明すればいいのかよく分からないんですよね。わたし自身は飽くまで三次元空間に生きる三次元の存在ですから」
三次元のわたしは四次元を理解することは本来不可能なはずなんだ。けれど、今までに得た知識と発想を駆使して無理矢理頭の中に四次元空間を形成した。その状態で三次元空間を見たから、辻褄合わせのように両方一つ下の次元に見えたり、距離感がおかしくなったり、自分がいる座標と他の座標が食い違ったり、といった風にいかれた世界に感じてしまったわけだけど。
「二次元空間だと表と裏が存在しない物質は存在出来ないけれど、三次元空間なら存在出来る。…ほら、こんな風にね」
「あ、見たことあるかも」
一本の細長い紙を創造し、一回捻ってから端と端を貼り付ける。そうしてから炭素から先の尖った黒鉛を創造し、紙に線を引いていく。書き続けていくと始点の裏側に到達し、最終的に始点と終点は繋がった。
「そして、三次元空間だと外側と裏側が存在しない物質は存在出来ないけれど、四次元空間なら存在出来る。…う、…っぐ…、ほ、ほら…、ね?…こんな、…風、に…、…ね…?」
「…何これ」
今のわたしには、これが一番まともなものに見えるから不思議だ。筒の片側を伸ばしていき、裏返してからもう片側に繋げた。三次元空間では交差してしまうが、今のわたしから見ればどこも交差していない。内側を辿っていけば外側へ出ることが出来、そのまま元の場所に戻ることが出来る。
けれど、こいしからはそうは見えていないようだ。…まぁ、それはしょうがないことだ。
「えぇと…。なんか途中から向こう側が透けて見えるんだけど…」
「…そりゃあ、これは四次元物質ですからね。三次元に生きるわたし達には触れることが出来ない場所がありますよ。…創っといて何ですが、わたしもその透けてる場所は触れれないですよね…」
そう言いながら苦笑し、表と裏のない輪と外側と裏側のない四次元物質を回収した。…ちょっと頭が痛い。気持ち悪い。頭の中に四次元空間を形成するのは、やっぱりしんどいなぁ…。