これまで辿った軌跡を遡り、その起源の記憶まで到達する。こいしに初めて出会った時の記憶。…否、違う。そのもう一つ前だ。わたしが求めているものは、起源のその先。ドッペルゲンガーは他者の願いを叶えてから捕食され消える。ならば、わたしが生まれてからこいしの願いは捕食されているはずだ。わたしはそれが知りたい。
ただ、これは飽くまでわたしにとって最も高いと思われる仮説に過ぎない。ゆえに、全く関係のない誰かの願いかも知れない。そもそも、この仮説が間違っているかもしれない。だから、確かめておきたいのだ。
およよ?およよおよおよおよよおよおよおよおおよおおおぉぉおおおおぉぉぉぉぉ…――。その先にどうしても進めない。わたしの精神に残されている記憶は、ここまでしかないのか…?
「…嫌だ。認めるか。…認めてなるものか」
何でもいい。力尽くでも手段でも奇策でも『目』を潰すでも記憶把握でも何でもいい。あと一つ踏み込めればいいんだ。進ませてくれ、起源のその先へ。そう願い、ただひたすら起源の記憶を遡り続けた。
『――い』
「…あ」
一瞬だが、感じた。ほんの僅かだが、その微かな一部分に触れた。わたしが生まれた理由、その願い。あったんだ。覚えていた。わたしのすぐ傍にいたであろう精神のことを、その願いを忘れずにいたんだ。
そうと分かれば、あとは続けるだけでいい。そこにあると分かっているのならば、諦める必要なんて存在しない。
『――――――殺――――な――――――い』
まだだ。
『決――――――――――な―――が――い』
あと少し。
『―――自―――――――な――我―――い』
深くまで。
『決――自ら――――――な―――が――い』
届くはずだから。
『決――自ら―殺――と―な――我が欲―い』
…これ、だけ?
そんな馬鹿な。こんな虫食いにでもあったかのように穴だらけな願いでわたしが生まれたのか?そんなはずあるか。あって堪るか。
「ま、さか…」
手遅れだったのか?わたしの精神が摩耗して掠れて消えてしまうほど儚い記憶だったのか?…いや、それにしては少し変な感じがする。掠れて消えてしまうような記憶だとすると、残されている部分があまりにもハッキリとし過ぎている。ハッキリしているからこそ、この願いの持ち主だった者がこいしであることも理解出来た。
「…ん、虫食い?」
ふと、さっき自分で考えた比喩に引っ掛かりを覚えた。…あぁ、そっか。確かに、手遅れだったんだ。わたしの精神が生まれてから、この願いは喰われて消えたのだろう。しかし、わたしの精神が生まれてから記憶を始めるまでに少し時間が掛かり、結果として願いは途中まで喰われていた。一足遅かったのだ。
きっと、正確に穴を埋めることは不可能に等しいだろう。砂場の山を崩して、もう一度砂一粒一粒の配列まで同じ山を作ってくださいとでも言っているようなものだ。それこそ、奇跡でも起きないと無理だ。つまり、究極の偶然が起こらなければいけない。
「…それでも、やるしかないかぁ」
『碑』で穴だらけの願いを刻み込み、わたしは部屋を出た。廊下を進む間、それらしい情報を思い浮かべて穴を保管していく。記憶、つまり願いは情報の塊。出来るだけのことはしよう。たとえ、不完全で歪なものにしかならなかったとしても。
返さなくてもいいと言われても、それは記憶に存在しないからだ。だから、わたしはこいしに返したかった。この願い、意識の一部を。その上で、もう一度だけ訊いてみたい。奪ったものは返すべきだったかどうか。…まぁ、こいしがどう答えようと消えるつもりはないが。
こいしの部屋の前に立ち止まり、扉を軽く叩く。いないならしょうがないけれど、何故かいる気がした。空間把握をしていないのに。
「なぁーにぃー?もぉしかぁしてぇー、お姉ぇーちゃぁーん?」
「…こいし、わたしですよ」
「幻香ぁー!いいよぉいいよぉ、入って入ってぇー!」
ひたすら間延びした声に何事かと思いながら扉を開くと、そこには机に突っ伏して顔だけこちらに向けたこいしと目が合った。目がトロンとしていて、頬が真っ赤。この部屋はほんのり酒の香りが漂っている。…あぁ、酔ってるのか…。
まぁ、いいや。別に多少酔っぱらっていても、この程度なら話は出来そうだし。そう結論を出し、わたしは後ろ手で扉を閉めた。
「あのね、こいし。一つ、返したいものがあるんだ」
「んー…、返したぁいものぉー?わたしにぃ?」
「うん。ちょっと、いいかな?」
「うひゃぁおっ!こぉんなぁに近くにぃー、幻香がいぃーるぅー!」
こいしの頭を両手で触れ、急にはしゃぎ出したこいしの内部に妖力を流し込む。内側を、精神を把握する。前までは流れ作業のように把握した傍から複製するだけだったが、今回は一つ一つ正確に把握していく。ほぼ無意識に支配されているこいしでも情報量は膨大だ。その中から、ドッペルゲンガーが貪ったであろう穴を探す。
…見つけた。かなり奥の方で時間は掛かったが、見つからないなんてことにならなくてよかった。あとは、ここにわたしがそれらしく取り繕った願い、『決して自らを殺すことのない自我が欲しい』を創って穴に埋め込むように入れていく。
「…!」
ピク、とこいしが僅かに反応した。…まさか、上手くいったのか?
わたしは手を離し、頬の赤みが少し薄れているこいしを見詰める。その三つの眼は閉じられていて、表情が少し読みにくい。
「…どう、ですか?」
「…うぅーん、幻香がぁ返したかったのってぇ、これなのぉ?」
「え、えぇ…。いくつか取り返しがつかない部分があって、完全であるとはとても言えませんが…」
「ふぅん、そっかぁー…」
そう呟くこいしは両目をゆっくりと開き、わたしと目が合った。…どうだ。どうなんだ。上手くいってくれないか。
「何て言うかぁ、不思議な感じぃ?」
胸元にある閉じた第三の眼を両手で優しく支えながら、こいしは続きを口にする。
「きっとさぁ、これを閉じる前までぇ、その寸前まではぁ、こんなことを考えてたんだろうなぁ…」
「…え」
「昔のぉ、本っ当に昔のわたしならぁ、考えていそうな願いだねぇ、って感じぃ?けどさぁ、今のわたしは今のままでいいよぉ、うん」
「ちょ、っと待ってくださいよ。そんな、他人行儀みたいな…。確かにわたしが勝手に補完、しましたが…、あの、願いは…、確かに、こいし、の…っ」
「だろうねぇ。もう一人のわたしの答え、って感じがするよ。けれど、わたしは違うなぁ、って感じ?…あーあ、すっかり酔いが醒めちゃった。けど、悪くない気分だよ」
失敗した。失敗した。失敗した。こいしの言葉がわたしの耳を素通りする。何か喋っているのだろうけれど、その意味を考える余裕がない。最初から思い切り躓いてしまった。
わたしが穴を補完した情報では、こいしの記憶と完全に癒着しなかったらしい。きっと、あの願いは記憶としてではなく、記録として認識されていることだろう。記憶喪失者本人が自ら書いた日記を読んでいるような、あるいは他者が書いた伝記を本人が読んでいるような、そんな風に感じているのだろう。
「あれ、落ち込んでるの?…ねぇ、おーい?」
「…いえ、大丈夫ですよ。問題ないです」
いや、一度躓いた程度で立ち止まるわけにはいかない。すぐに起き上がり、次へ進まなければ。そうだ。最初から不可能に近いと分かっていただろう。だから、これは、しょうがないことなんだ…っ。
爪が食い込むほど強く手を握り締め、失意を余所に置きながら立ち上がろうとしたわたしを、フワリとこいしが包み込んだ。
「ありがとね、幻香。これが前に言ってた『もの』なんでしょ?」
「…っ、…はい。そう、です…。こいし、わたしは、返すべきだったと、思えましたか?」
「そうだね。少し変わっちゃったけれど、返してくれてありがとう。あの頃のわたしにとってはとっても大切な願い。きっと、あの頃のわたしなら返してほしくて堪らなかったかも。…けれどね、決していらないってわけじゃないんだけど、今のわたしにとってはいらなかったかなぁ。今のわたし、無意識なこいしがしっくりくる」
そう言うと、こいしは抱き寄せていた体をそっと放し、わたしの背に回していた両手を肩に乗せてニカッと笑った。
「だから、わたしは許すよ。たとえ返してくれなかったとしても、わたしは構わなかった。それが、幻香のおかげで分かったんだ。だから、ありがとっ!」
その言葉に、涙は流さない。泣き笑いなんて、見せたくなかったから。その代わりに、わたしの両手から赤い血と心にへばり付いていた後悔が一緒に流れていく。
わたしは、失敗した。だけど、ほんの僅かだけど、救われた。そんな風に思うことが出来た。それだけでもう十分だ。