「こいし、わたしは少し思うことがあるんだ」
「急にどうしたの?」
『幻香は難しいことばっかり考えてるねぇ。もっと気楽に生きればいいのに』
長く細い息を吐きながら天井を見上げ、そのまま思うことを口にする。
「精神は不思議だ。その名に持つ通り神懸かりだと思うね。まさしく神秘だ」
「どういうこと?」
「こいしの精神、その情報の全てを把握して複製したもう一人のこいし。それを今、わたしは宿している」
『はいはーい!わたしわたし!』
「けれどさ、わたしが同じように情報をひたすら並べて創った精神は、酷く気味が悪かったよ。情報の通り正しく動き続ける。そこに不規則性は皆無。…あぁ、思い出すだけでちょっと吐き気がする気分だ」
その不規則性のために、仮に一万分の一の確率で失敗すると情報に入れれば、きっと情報に従って一万分の一の確率で失敗するのだろう。それは最早、不規則の皮を被った規則だ。
整合性と不整合性の両立。矛盾を矛盾なく抱く精神。複製に出来て創造に出来ない一つの壁。それは、神とそれ以外をハッキリと分かつ壁、なのかもしれない。
「…つまり、幻香は気紛れが足りないと思ってるの?」
「そんな感じ、かなぁ…。偶然、たまたま、計らずも、思いがけず…。そんな不規則性をどうすればいいのか…。わたしが創った精神には、非常に大切でありながら至極曖昧なものが足りない気がするんだ。それこそ、無意識のようにボンヤリとした何かが」
「だからわたしが欲しかったの?」
『だからわたしを創ってみたの?』
「ま、そうかな。何か、一つのきっかけになればいいと思ったんですけれど…」
どうにもよく分からなかった。この身体は少なくともわたしという精神を創ったというのに、創られたわたしには出来ないのが少しばかり悔しい。
だから、わたしは思うのだ。この身体は、神に届き得る可能性を秘めている。それを生かすか殺すか、それは今この身体を使わせてもらっているわたし次第かもしれない、と。
そんな馬鹿なことを考えているところをさとりさんが知ったら、物凄く嫌な顔するだろうなぁ…。神になるのと、神と同等の力を持つのでは別物だと思うんだけどね。
これ以上深く考えるのは捕らぬ狸の皮算用、つまりあまり意味を持たないことだ。思考を切り替え、そしてパッと思い付いたことを実行する。わたしは、右腕の所有権をこいしに譲渡した。瞬間、右腕が変化するのが分かる。少し短く、細くなっていく。そして、身勝手に動き始めようとする右腕を意思の力のみで抑え込んだ。
「多重人格者という存在がこの世にはいるそうなんだけどさ、こいしは知ってますか?」
「名前くらいは。見たことはぁ…、んー、多分ないかな?」
「今貴女の目の前にいますよ。けれど、一体誰が身体の所有権を持っているんだろうね?最初に手にした方が持っているのか、より意志の強い方が持っているのか、産まれたその瞬間から上下関係が形作られているのか、それとも共存しお互いに持ち合っているのか…」
「んー…、よく分かんないや」
『ふぬぅ…っ。今はっ、幻香が持ってるんじゃあないかなぁ…っ』
頭の中に響くこいしの声は右腕を動かそうと頑張っているようだけれど、どうやらわたしの不動の意思のほうが強いらしい。少なくとも、このドッペルゲンガーという体では意思が強い方に融通が利きそうだ。
ピクピクと不定期に震えている細い右腕に触れ、その脆弱さを感じ取る。今触れている左手で握れば、簡単にポキリと折れてしまいそうなほど弱々しい。一瞬魔が差して、この腕を圧し折ってからこいしの身体に成り代わっている右腕に『紅』が作用するか確かめてみようかなぁ、と思ったけれど止めておいた。…こら、面白そうとか言わない。
…こう、魔が差すなんていうことはわたしが創った精神にはないんだよなぁ。自分自身に対して負けたように感じるという、何とも奇妙な体験をしながら右腕を頭に持っていき押さえつける。そして、そのまま大きなため息を吐いた。
ある程度はこいしから右腕の所有権を奪うことなく動かせるなぁ、とブンブン振り回そうとしている右腕を抑えながら実感していると、こいしと目が合った。
「今の幻香が多重人格者なのは分かったけれどさ、その幻香が求める精神を創れるようになって、どうしたいの?」
「どう、かぁ…。特に決まっていない、というわけでもないし…」
『うわぁ、曖昧だねぇ』
わたしが神に等しき力を手にしたのならば、真っ先にやりたいことがあるんだけどなぁ…。出来るかなぁ。出来るといいんだけど。
「…まぁ、うん。出来ないままは、何となく嫌だから。手札は多い方がいいし」
と、前々から思っていることを言ってお茶を濁す。仮にわたしがどうこうする前に八雲紫に捕まりでもすれば、最終的にやることになるだろうし。
…あぁ、そうだ。八雲紫も打倒しないといけないか。以前のわたしが引き起こした異変では交渉だけで封殺してたから、すっかり忘れてた。『境界を操る程度の能力』にどうすれば勝てるかなぁ?あれに対抗するのは並大抵の手段じゃあ足りないぞ…。
『無意識に真後ろから不意討ちでザクゥーッ』
「却下。それより、おそらく刃物で斬る程度じゃあ勝てないよ」
「誰と戦うの?勇儀?」
「…勇儀さんとはもう戦いたくないです」
せっかく復興が済んだのに、また崩壊させるとか考えたくない。一体わたしはどう扱われることになるやら…。下手すれば、さとりさんにも捨てられそうだ。そうなれば、きっと集団私刑待ったなし。流石に笑えない。
「そうじゃなくて、想定していた相手の他にまだいたってだけですよ」
「ふぅん。けど、幻香なら勝てるよ」
『そうそう。幻香なら負けないよ』
「…どうしてそんな自信満々に断言出来るんですかねぇ…」
『境界を操る程度の能力』は、以前萃香が言っていた通り万能だ。昼夜さえも自在に操るそれは、わたしが考えているよりも使い道が多そうである。…ただ、萃香はそれと同時に万能であっても全能ではない、と言っていた。そこに隙があればいいんだけど…。
それ以外にも、単純な戦闘能力も高そうだ。スキマも相まって、八雲紫は縦横無尽を超えた神出鬼没に攻めて来るだろう。あの風見幽香に敗北はしたが、拮抗はしたらしいし。勇儀さんに負けるわたしが、風見幽香と渡り合った存在にどう立ち向かえばいいのか…。ちょっとやそっとでは思い付かなさそう。
あと、馬鹿げた計算能力もあったなぁ…。あれだけの空間認識能力と思考速度も単純に脅威だ。それだけ策の構築が速いことになる。こちらの考えていることを丸ごと読み切ってくる、何てこともあり得ないわけではなかろう。…まぁ、最悪幻想郷と逃亡を天秤に掛けてやるのもありか?…いや、一度やった手はもう通じなさそうだ。止めておこう。
…やはり、対八雲紫用の手段をいくつか模索しておく必要がありそうだ。他にもやらなければならないことがあるのに、今になってまた増えてしまうとは…。まぁ、気付かずに時間が尽きてしまうよりはマシか。
「だって、幻香は強いもん」
『だって、幻香は強いもん』
「わたしはまだ弱いですよ。負けるし、死ぬ。だから、まだ足りない」
「けど、そればっかりになって他のことを蔑ろにしちゃあ駄目だよ?前にも言ったよね?」
「言われましたねぇ。…まぁ、今はやることに対して時間が圧倒的に足りない。切り捨てるものは切り捨てるよ」
「むぅ…」
むくれるこいしの頭を左手でわしゃわしゃと撫でた。くすぐったそうに笑うこいしを見ていると、やることを早急に済ませよう、という意思が固まった。さとりさんに頼まれているからこそ、なるべく早くことを終わらせる必要がある。
わたしがわたしの居場所を手にするために。