春雪異変の際に出会ったと言っていたドッペルゲンガーの小話。
これは二十年以上昔に釣り馬鹿と出会った話。
「…え、なにあれ…?人間?…こんな時に?」
最初は頭がおかしいと思った。釣竿を持った青年が霧の湖にふらっと現れたのだが、その時は真冬で氷が張っていたし、さらに言えば軽く吹雪いているくせに防寒具はほとんど着ていない。肩に積もった雪を素手で払いながら歩くその姿は、死にに来ているようにしか見えなかった。
そんな青年を見つけて、その時の私はちょうどいいと思ったのだ。あの人間を襲うもよし、放っておいても勝手に死んで私の餌になってくれそうだと。だけど、それと同時に興味が湧いたのだ。こんな頭のおかしな人間、滅多にいない。放っておいてもどうせ死んでくれるのなら、少し見てからでも遅くないかもしれないと。
だから、私はその青年と接触することにした。近くで拾っていた大きめの石を両手で振りかぶっている青年の背後に近づき、そして気さくに挨拶をしてみた。
「こんにちは~」
しかし無言。返事なし。チラリと私に振り向いたのだが、たったそれだけで氷の張った霧の湖に向き直り、石を振り下ろして氷を叩き割った。飛び散る氷の破片と湖の極寒の水飛沫。しかし、そんなもの意にも介さず、しかも平然と雪の上に腰を下ろし、釣糸を湖の中に放り込んだのだ。
振り返った際に少しだけ見えた青年の唇が紫色で震えていたのを覚えている。そんなに震えるなら、ちゃんと寒さ対策すればいいのに、と私からすればおかしなことを考えてしまったことも。
それからしばらく、青年は体をガクブルと震わせながら釣りに没頭していた。私はその隣に立っていたのだが、とてもではないが釣れるとは思えなかった。あんな大きな石を放り込んで、しかも氷を叩き割って、その近くに魚が近付くとは考えにくい。
「…駄目か」
そう呟いた青年は腰を持ち上げた。ようやく諦めたかな。…そう思っていた時期が私にもありましたよ。
帰るのならささっと寒気を増して凍死させてあげよう、と思ったのだが、予想に反して歩いて来た方向とは真逆にふらっと歩き出す。しかも、さっきと似たような大きさの石を拾いだす始末。そして、案の定、別の場所の氷に石を落として穴を空けて釣糸を垂らしたのであった。
体を震わせながら釣糸が引かれるのを待っている青年に、思わず私は訊いてみた。
「ねえ、釣れるの?」
「…釣るんだ」
そう言い切った青年は、それっきりだんまりである。とは言ったものの、やはり釣れるはずもなく、釣糸は吹雪に煽られるだけだった。
そして、また駄目かと呟いて立ち上がり、ふらっと別の場所へ歩いて穴を空けて釣りを再開する。それを何度も繰り返していた。…馬鹿だと思うし、それに付き合っていた私も相当馬鹿だったと思う。けれど、その時の私は、何となく最期まで見届けてあげようかなぁ~、なぁんて思っていたのだ。
そして、十個目の穴を空けた頃。私は遂にこの静けさに耐えられなくなって、今度は会話をしてみることにした。けれど、きっと、その時の私は静けさよりも湧き上がる興味を抑え切れなくなったんだと思う。
「あのさ」
「……………」
「…えーっと、その、なんでそんなに釣りたいのかな~?」
「……………」
「それに…、ほら!こんな季節だし、湖に氷が張ってるし、吹雪いているし。悪条件ばっかでしょ?」
「……………」
「しかも格好もおかしいし。別に、今じゃなくてもよかったんじゃないかなぁ~、なぁんて?」
「……………」
しかし、青年の口を開くことは出来なかった。意地でも口を開いてもらおうか、と意気込んだのだが、青年の湖を見詰める真剣な目付きを見て、私は口を閉ざしたのだった。
◆
そして時間は流れていき、既に真夜中。隣に焚き火を置いた――なんと、私も手伝ったのだ。この時点で私も相当おかしくなっていると思う――とはいえ、人間には堪える寒さだろう。吹雪が止んだとはいえ、十二分に寒い。
「……………」
「釣れないわねぇ~…」
「………そうだな」
思わず口にした私の言葉に、その青年が返事をしたことに私は驚いた。あの凍り付いて貼りついてしまったんじゃないかと思っていた口を開いたのだから。
だから、私はその調子で言葉を続けることにした。もしかしたら、今度こそ会話が成立するかもしれないと思ったから。
「あのさ、こんな真夜中になるまで粘ってるけれど、どうしてそんなに釣りたいのかなぁ~?」
「………子供の頃、ここで一際巨大な魚を見た。そんな大物を、いつか釣ってやると思っていた時期もあった。だが、齢を取ってそんなことをしている余裕はなくなった。…しかしなぁ、今でもどうしても釣ってみせたいんだよ」
青年は震える唇で、囁くようにそう言った。あれだけ無口だったのに、これだけ長々と喋ってくれるとは思っていなかったから、少し驚いてしまった。
そのままジィーッと青年を見詰めていると、青年は口端を僅かに持ち上げた。
「思い立ったが吉日、という奴さ」
そう言って、青年は口を閉ざした。けれど、やっぱり今の時期に釣りに出たのは馬鹿だと思うわ。
それからは、私はその青年の釣りに付き合いながら会話を楽しんだ。そのほとんどに返事がないから、この光景を見ている誰かがいれば私が勝手に独り言をしているようにしか見えていなかったと思う。
けれど、その青年が里で有名な家具屋を継ぐために父の元で朝から夜まで日々努力していることとか、会心の出来を父に褒められたこととか、去年妻との間に娘が産まれたこととか、子供の頃無断でここに来たせいでしこたま叱られたこととか、そんなことを話しているこの時間を気に入っていた。
けれど、それと同時に疑問も感じていた。私みたいな妖怪でもこの青年の数少ない言葉からも察することが出来るほどに家具職人として努力をしているのにも関わらず、思い立ったが吉日だからという理由でこんなところに来るものなのかと。
そんな疑問は違和感となって燻ぶっていたけれど、この時間を楽しんでいたかった私は無視しようとしていたのだ。事実、私はペラペラと口数を多くし、出来るだけ気にしないように努めていた。
そして、空が僅かに明るくなり始めた頃。
「――ということなんだよね~」
「…む」
「あれ、どうし――あ」
私が青年に一方的に話し続けていたら、遂にその時はやってきた。釣糸が勢いよく湖の中に引きずり込まれたのである。すぐに釣竿を握り続けていた青年の両手に力が入ったのだが、いかんせんこの極寒の中ではあまり力が入っているように見えなかった。
「っ、私も手伝うよ~!」
青年の最後を見届けたくて、私は咄嗟にその釣竿を掴んだ。仮にも妖怪で、しかもこの寒さ。この時の私の腕力はそこら辺の人間相手と比べれば明らかに強かった。だから、釣竿の先が重いとは感じても、無理だとは感じなかった。
力いっぱい釣竿を引き上げると、湖の張った氷に大きな罅が走る。湖の中で暴れていた魚であったが、氷に叩きつけた所為か急に静かになった。その隙に青年と共に一歩後ろに下がりながら釣糸を引っ張った。そして、私達は氷に空けた穴を広げながら氷塊と水飛沫と共に巨大な魚を釣り上げた。
「…うわぁ…、本当に釣れちゃったよ」
「ああ、そうだな…」
そう呟いた青年は、すぐに巨大な魚を両腕で持ち上げてその場を後にする。…え、ちょっと、それだけ?
「何か言うことないの~?」
「…助かった」
私の言葉に振り返った青年は、淡々とそう言った。もう少し言い方が、とは思ったけれど、素直に嬉しかった。
そして、楽しい時間が終わったことを自覚し、抑え込んでいた違和感が一気に浮上する。だから、私は去っていく青年の前に素早く回り込んで歩みを止めた。
「…ねぇ、貴方、本当に人間?」
「人間だが」
そもそも、まともな人間がこんな時期にこんなところには来ない。それこそ、頭がおかしい人間でなければ。
そして、頭がおかしい人間であっても、この極寒の中まともな防寒着もなしに日を跨いで釣りを続けられるものだろうか。
最後に、私が訊いていたこの青年は朝から夜までずっと家具を作り続けている。努力し続けている。そんな青年が、思い付きなんて理由で釣りに来るなんて思えなかった。
そんなことを思いながら、私は青年を睨み付けた。しかし、睨まれた青年は私の横をふらっとした足取りで素通りしていく。
「…人間だ。ただし、ドッペルゲンガーだが」
「…へ?ど、ドッペ…?」
私の隣を通り抜ける際、小さな声でそう言った。呆気に取られてしまった私は、去っていく青年を見送ることしか出来なかった。
それっきり、その青年がここに現れなくなったことは言うまでもない。