誕生の瞬間から始まる小話。
「およよ?何これ?うわぁ!わたしそっくり!」
この瞬間、わたしは誕生した。何故かは分からない。だが、確かに産まれたことだけは理解した。両足をだらりと伸ばし、硬い何かを背にしている。何故そんな姿勢なのかは分からない。
そんなわたしの頬をベシベシと叩く人がいる。痛い。ゆっくりと目を開くと、そこには淡い緑色の瞳があった。
「って、動いた!…あれ、生きてるの?そっかぁ、驚いた驚いた」
ビクリと後退り距離を取った少女をぼんやりと眺めていると、恐る恐るといった仕草で再びわたしに近づいてきて、頬をちょいちょいと突いてくる。痛くはないが、今度はくすぐったい。
楽し気な少女の頬弄りをそのまましばらく受け入れていると、今度は頬を摘まんでぐいぐい伸ばし始めた。痛い。けれど、悪くない。
「貴女、名前は?わたしに教えてくれないかなぁ」
ようやく頬を離してくれたと思ったら、今度はわたしの名前について訊かれた。名前。そんなものはない。わたしはわたしだ。
思わず首を傾げると、少女は驚いたらしく目を見開いた。
「え?名前ないの?」
頷く。すると、少女は腕を組んでうんうん唸り始めてしまった。
「んー…、簡単に決められないよねー」
どうやらこの少女、名前がないわたしなんかのためにわたしの名前を考えてくれるらしい。
少女が考えてくれている間に、わたしは周囲の様子を確認する。鬱蒼と生い茂る樹々。背中には他の樹々と比べて一回り大きな樹。地面が少し傾いている。空は青い。そのくらいだ。
そんなことをしていると、少女は名字だけでも決めたいなぁ、と呟いてからわたしに人差し指を向けて言い放った。
「じゃあ、鏡宮!鏡みたいだし、ちょうどいいよね!名前は、また今度ね!」
◆
…わたしは何故ここにいるのだろうか。わたしは何だ…。 ここは何処だ…。何故産まれた…。分からない。分からない。分からない。
ただ、わたしが鏡宮と名付けられたことは朧気ながら覚えていた。何処の誰に名付けられたかは分からないけれど、大切な人だった、気がする。そんな気がするのだが、結局のところ思い出すことが出来ない。そもそも、本当に名付けられたのかすらも怪しい。
わたしは今日も大木を背に脚を投げ出し、木漏れ日を見上げる。空は青くなり、赤くなり、黒くなり、そしてまた青くなる。その繰り返し。ここが何処だか疑問には思ったが、ここを移動しようとは思わなかった。ここに何か大切なものがあった気がしたから。ここで何かが現れるような気がしたから。誰かを待っているような、そんな気がする。けれど、その記憶も指の隙間からスルリと抜けてしまいそうなほどに曖昧で不確かで頼りない。
時折わたしを見る人がいたが、すぐに目を逸らして去っていった。きっと、不気味なほどにそっくりだったからだろう。…あれ、どうしてそんなこと知っているんだろう?…まぁ、知らないよりはいいか。
空の色が三週ほど回った頃、目の前に一本の線が浮かんだ。ぼんやりと眺めていると、グアッと空間が裂けて大きく開いた。そこから見覚えのない妖怪が顔を覗かせている。上半身のみを出した妖怪はわたしを見て目を見開き、しかしすぐに妖しく微笑んだ。
「ようこそ、幻想郷へ。歓迎するわ、ドッペルゲンガー」
そう告げた妖怪は、わたしを隅から隅まで舐め回すように見つめてくる。…初めてだ。わたしに話しかけてきた人は。…あれ、わたしは名付けられたはずではなかったか?…なら、きっと気の所為だったのだろう。
話しかけてきた妖怪に対して何か言うべきだったのかもしれないが、結局わたしは口を動かすことが出来なかった。ただ、何とも言えない不快感と嫌悪感を覚えていた。何故だろうか。…とても、気分が悪い。
最初の言葉を最後にお互い何も話すことはなく、ただひたすら観察されただけで終わった。出していた上半身を戻しながら裂けた空間がスゥ…と閉じ、そして何事もなかったかのように消え去った。
彼女は、わたしの何を知っているのだろうか。…まぁ、どうでもいいか。彼女の発言からここが幻想郷で、わたしはドッペルゲンガーという妖怪らしいことだけが分かった。しかし、分かったからなんだと言うのだ。
そして、今日も空の色が変わっていく。
◆
「…ドッペルゲンガー?ふぅん、貴女ってドッペルゲンガーなんだ!」
頷く。何処の誰とも知らない不愉快な妖怪はそう言っていた。きっとわたしはドッペルゲンガーなのだろう。
そう告げると、少女はまた腕を組んでうんうん唸り始めた。前回決められなかった名前を決めてくれるのだろうか。
「ゲンガー…、げんがぁ…、げん、かぁ…、現、厳、玄、弦…、火、花、佳、華…」
ドッペルゲンガーのゲンガーからわたしの名前を決めるつもりらしく、さっきからげんげん、かぁかぁと繰り返し同じ音を呟いている。何を迷っているのだろうか?
…そういえば、この少女の名前をわたしは知らない。わたしの名前を必死に考えてくれている心優しい少女のことを、わたしはまるで知らないではないか。そう思うと、少し恥ずかしい気持ちになる。
「幻、香…。うん!幻に香る、って書いて
この少女の名前を訊こう、と決めたと同時に、少女もわたしの名前が決まったらしい。幻香。鏡宮幻香。…それが、わたしの名前。すんなりとその名を受け入れることが出来、ストンと何かに収まった気分になる。
そこでハッとし、わたしは慌てて少女の名を訊いた。わたしの名付けで満足して忘れてしまうだなんてとんでもない。
「え?わたし?あー、忘れてた!わたし、こいし!古明地こいし、って言うの!」
古明地こいし。わたしの名付け親。初めての人。決して、忘れないようにしよう。
◆
…わたしは何故ここにいるのだろうか。わたしは鏡宮幻香。 ここは幻想郷。何故産まれたは、未だに分からない。
別に何かあったわけではないはずなのだが、不思議と気分がいい。相変わらずここから別の場所へ行こうとは思わないけれど、わたしなんかに一体何が出来るのか知りたくなった。以前空間を裂いて現れたあの妖怪のような何かが、わたしにも出来るかもしれないと、何となく思ったのだ。…まぁ、流石に同じものが出来るとは思わないが。
出来ること、出来ること、出来ること…。わたしに出来ること。ぼんやりと夜空を見上げながら考える。だが、いまいちピンと来なかった。具体的に何が出来る、という実感もなかった。しかし、何も出来ないとも思えなかった。では、わたしには何が出来るのだろうか?
そのまましばらくの間瞼をそっと閉じ、全く微動だにせず考え続けていた。どのくらい時間が経ったかはよく分からない。空の色が何度変わったか数えていないから。けれど、そうしているうちに、何となく出来そうなことが出てきた。
わたしは、同じものを創れる気がする。…何故、そう思えたのだろう。不思議だ。そして、瞼を開いて真っ先に目に付いた小石を増やすことが出来てしまった。それはまるで、その昔に似たようなことをしたことがあるように、すんなりと出来てしまった。わたしにそんな過去なんて存在しないのに。
◆
久し振りにこいしがここに来てくれた。わたしは自慢するように、出来るようになったことを見せびらかす。右手に乗せた小石の左手に創り、そしてこいしの被っていた帽子をわたしの頭の上に創ってみせた。
「ものを増やせるの?…凄いじゃん!」
そう言ってくれると、とても誇らしくなる。凄い、のかな…。今となっては、それが出来るのはまるで当然であるように思えるから、凄いと言われてもいまいちピンと来ないのだ。
そう思っていると、こいしはわたしが被っていた帽子を手に取り、自分が被っていた帽子を見比べ始める。手で触れたわけではないから細部が少し違ってしまっている帽子だ。その粗が見つけられてしまうのではないか、と少しドキドキする。
「んー、本当に似てるね。まるで複製みたい」
その言葉を聞いて、わたしはホッとした。どうやら見つからずに済んだらしい。しかし、これ以上見詰められてはいつかバレてしまうかもしれないと思い、わたしはこいしから帽子をサッと奪い取るように回収してしまう。
…そんなに頬を膨らませないでほしい。あんまりジロジロ見られたくなかったのだ。
「幻香は凄いこと出来るんだなぁ…。これはちょうどいいお土産になったんじゃないかな?」
お土産…?一体何なんだろうか、と思いながらこいしを見詰めると、何やら透明なものに液体が入れられているものを取り出した。
「じゃーん!お姉ちゃん秘蔵の鬼殺し!」
鬼殺し、と言われても何がなんだかサッパリ分からない。鬼、とは何だろうか。その鬼という者を殺してしまうものなのだろうか?…わたしが鬼でなくてよかった、と思った。
これは一体何なのか、と問うと、こいしは悪戯でもするようにニヤニヤ笑いながら答えてくれた。
「これはねー、ちょーっぴり強いお酒だよー!ささ、呑も呑も!」
こいしはそう言いながら、手振りでわたしに口を開くように促してくる。酒と言われても何か分からず、また強いと言われても何が強いのか分からない。ただ、口を開けばいいのなら、わたしはそうしよう。
そう思い、わたしは口を開いた。そして、鬼殺しと呼ばれた酒がわたしに注ぎ込まれていく。口内が熱い。飲み込んでしまうと、喉まで灼けるようだ。
…あれ、あたま、くらくら、する。ふわふわ、くらくら、くるくる、くろくろ、まっくろ。
「え?あれ?ちょっと幻香?大丈――」
◆
…頭が痛い。ぶつけたといった感じではなく、内側から響くような痛みだ。身体を動かそうにも、何やら重く怠い。酷く調子が悪い。
…わたしは酒を呑めない。何故そう思ったのか理由は不明だが、わたしはそう心に刻み込んだ。