幻禍が世界を去ってから少し経った頃の話。
最近、私には大きな悩みが二つある。
「…今日は人間一人と妖精が三人。いつもの者だが、警戒を怠らないように」
「了解です、椛隊長!」
私に敬礼してくれる白狼天狗の仲間に軽く指示を出し、白狼天狗が全員持ち場に就いたことを千里眼で確認してから小さくため息を吐く。
一つ目は、天狗という種そのものの品性を落としかねない射命丸文さん。…昔は様と呼んでいたのだが、気付いたらさんになっていた。そろそろ呼び捨てになりそうな気がするのは何故だろう。
「…ふぅん、射命丸文さまは今日も元気にネタ集め中みたいですねー。鈴奈庵で何か調べてたみたいですよー。…あ、もうそろそろ帰って来るかなー、椛たいちょー」
この場に唯一残り、私の隣にしゃがみ込んでいる覇気のない天狗が、気の抜けた口調で私にそんなことを報告してきた。
「…そんな情報、今は関係ありません」
「えー、だって考えてたでしょう?文さまの事」
「…確かに考えていましたが、それとこれとは別です。貴女は能力があるのですから、真面目に働いてください」
そう注意したものの、まるで気にすることなく遠くを視詰めながらけらけらと馬鹿にしたように笑う。
「…はぁ」
「ため息すると幸せが逃げますよー、椛たいちょー」
「既にここ最近の幸福は尽きていますから、気にしないでください。…はたて様」
二つ目は、天狗社会の異端児である元上司で、私の部隊に所属している唯一の鴉天狗の姫海棠はたて様。
…胃薬、処方してもらおうかなぁ。
◆
そもそも、何故はたて様が私の部隊に所属することになったのか。そうなった原因は、無断で脱走したはたて様が地下牢で拘禁されていた頃に遡る。
『…つまんな』
『話し相手くらいにならなりますよ、はたて様』
『話し相手よりカメラが欲しいわ。没収されたやつ』
『申し訳ありませんが、それは出来ません』
『チッ』
私は上司に一週間この黴臭い地下牢の見張り番をするよう命じられ、はたて様を見張っていた。既に一年近く拘禁されているはたて様は、酷くやつれているものの、不思議と活力のある目をしていたことを覚えている。
はたて様の思想は他の天狗とは大きく外れていた。上下関係は忌まわしく、年功序列は疎ましく、種族序列は馬鹿らしい。秩序よりも混沌。中立よりも善悪。部数競争からいち早く抜け出し、死んだような日々を送っていた。
『…ま、いいや。それじゃあ話し相手になってよ』
『分かりました』
きっと、はたて様でなければ脱走したことに対してここまでされることはなかっただろう。その情報戦で圧倒的有利を得られる能力はあまりにも危険過ぎて、他勢力に奪われることを危惧されていたのだから。
だからこそ、天狗社会から抜け出すことを許されなかった。少し出かけることすら、裏では厳しく管理されていたらしい。どれだけ貶されようと、蔑まれようと、関係なかった。
『正直言ってさぁ、貴女くらいよ?私と話そう、何て言う天狗』
『そうですか』
『…ま、悪くないわ。それにしても、外は相変わらず大変ねぇ。いつも通り新聞振り撒いて情報操作。博麗の巫女が『禍』を討つ、だなんてお笑い種もいいところよ』
ふと、小さな引っ掛かりを感じた。だけど、それが何なのか分からなかったから、流すことにして話を続ける。
『『禍』の噂が本当ならばいいことではないですか?』
『あ、そう。…ふぅん、私生活までカッチリ真面目ね、貴女』
そう言われ、ゾクリと背筋に言いようのないものが走る。どうして私の私生活について知っている?憶測による言葉?それと同時に、先程の引っ掛かりが激しく主張してくる。
はたて様は外界の情報を知る機会はほどんどない。この地下牢は外からの音が漏れて聞こえるような場所ではないのだ。ならば、何故『禍』の新聞について知っている?前の見張り番から聞いた?…いや、違う。さっき言ってたではないか。私くらいだ、と。
『…はたて様』
『何?』
『…何を、視ているのですか?』
これは、予感。はたて様の目がどこか遠くを視詰めている気がしたから。私と似た能力を有しているような共感覚。
『あの子を視てるのよ』
そのことを上司に伝えると、私の部下になっていた。意味が分からない。
◆
念視をする程度の能力。…要は、道具を介して写すことから、自らの目で視るように変化したらしい。かと言って、念写が出来なくなったわけでもないそうだ。…ハッキリ言えば、私の千里眼のほぼ上位互換である。ただし、ちゃんと使えばだが。
千里眼で妖怪の山を隅々まで監視しながら、私ははたて様に訊いた。もう何度も同じことを訊いていることを。
「…戻ろうとは思わないのですか?」
「何に?それとも、何処にかな?椛たいちょー」
「その能力を上司に売れば元の地位、…いえ、それ以上の地位にだって就けるはずです」
「興味ないわ、そんなもの」
そして、答えはいつもと同じだった。何度訊いても、変わらない。
鴉天狗が白狼天狗と同じ立場、場合によっては下にいる現状。はたて様は堕ちるところまで堕ちた、鴉天狗の面汚し、などと同じ鴉天狗に蔑まれている。白狼天狗達も元上司がここまで落とされたことを裏で馬鹿にしていたのを知っている。それに関して、はたて様はどうでもよさそうに聞き流していた。…本当に、どうでもよさそうに。
けれど、見ている私は嫌な気分になる。はたて様が傷付きもしないことと、そうやって馬鹿にしている周囲の存在に。
「…あぁ、楽しそうなことしてるわねぇ…」
「何か見つけたんですか?」
「いいえ、なぁんにも」
…まただ。また、はたて様は何かを視ている。きっと、あの子、なのだろう。何処の誰かは知らないが、随分お気に入りのようだ。これが愛のなせる業、だそうだが…。
「うふ。うふふふふふ…」
「…監視、忘れないでくださいよ?」
「してますよー、椛たいちょー。左目で」
「…はぁ」
幸せが尽きているのなら、いっそため息が出なければいいのに…。
一人の人間と三人の妖精がいつも通り迷い家へと行ったことを確認して一息吐いたところで、急速にここへ飛んでくる存在を視認した。
「あやや、今日もご苦労ですね」
「…文さん」
文さんだ、と思うときには既に私の前に降り立っていた。手帳とカメラを手に愉しげに笑っているのを見るに、いいネタが見つけられたのだろう。
そして、文さんの視線が私の隣でしゃがみ込んでいるはたて様に向けられていく。…明らかに侮蔑の色を孕んだ眼で。
「貴女もご苦労様ですねぇ、はたて」
「ふふっ。美味しそう」
「…無視ですか、そうですか。ここまでつまらない存在になり果ててしまうのは、全く嘆かわしい…」
「今度私も料理して――…あ、いたのね、文さま。ネタ探しご苦労様ー」
「…ッ!…ふん」
クシャリと顔を歪めながら去っていった文さんを見送り、対するはたて様は何事もなかったかのように変わらずいることにまたため息が零れる。…また文さんははたて様に突っかかってきた。これで何度目だろうか。
…いや、理由は知っているのだ。煽るだけ煽って反骨精神でのし上がってほしい、と深酒に酔い潰れかけていた席で私に愚痴っていたから知っている。はたて様が書いていた花果子念報には他とは違うものがある、と柄にもないことを言っていた新聞を止めて逃げたことに苛立っていることも。
けれど、結果はご覧の有様だ。もはや誰が何と言おうと、はたて様は二度と花果子念報を刷ることはないだろう。
「…けれど、あんな果実あるかしら…?」
はたて様は名前の知らないあの子にご執心のようだから。