朝起きたときに不快な汗をかいていないと思うと、夏もそろそろ終わりかなー、と思えてくる。今日は慧音が来る日…のはずだ。
「…なーんで複製したら駄目なのかなぁー…」
いつものスープモドキを作りながらちょっとだけ愚痴ってしまう。理由は分かっている。全く同じものが何枚もあったらおかしいからだ。今までは慧音が自分で何枚も書いて準備していたから、僅かずつではあるものの違いがあった。生徒がその違いが無くなるのに違和感を覚えてほしくないから、と言われた。
「…分かってるけどねー、やっぱ面倒なんだよなー…」
チラリと棚に目を遣り、二本の未開封で小さめのお酒を見る。これまで何度かやった写生の報酬だ。たまに来る萃香さんが勝手に飲んでしまうため、あまり溜まることがない。
「ま、仕事だからしょうがないか」
器に移し、軽く熱を飛ばしてから少しずつ飲み込む。今日はちゃんと乾燥茸が戻っていたからいいことがありそうな気がする。しかし、水が多かったのか調味料が少なかったのか味が薄かったのでそこまでいいことは起こらないかもしれない。
◆
そろそろお腹も空いてきたし昼食にしようかなー、と思っていたら扉を叩く音が響いた。
「慧音だ。すまないが両手が塞がっているから開けてくれないか?」
「ええ、分かりました。ちょっと待ってくださいね」
『幻』を一つ出し、扉をゆっくりと開ける。
扉の前には、色々なものを両手に抱えた慧音がいた。…声が全く同じ別人でなくてよかった。そう思いながら『幻』を撤去する。
「すまない、少し遅れた。昼食を食べてないなら私が作るから、その紙を写しててくれないか?」
「こんにちは、慧音。昼食は食べてませんから、そうしてくれると助かります」
慧音から墨汁と筆を受け取り、紙を見る。んー、これは算数かな?問題がビッシリと書かれている。縦に十七問、横に三問。左下にあるべき五十一問目がないから、計五十問。
早速書き出そうとしたら、慧音が小さな袋を取り出した。
「これは先週渡された茸を売った結果だ。どう使うかは知らないが、大切に使えよ?」
「ええ、ありがとうございます」
ジャラリ、と金属同士がぶつかり合う音を立てる袋を受け取り、中身を取り出す。…えーと、八厘か。いつもより多いな。
調理をし始めた慧音に聞いてみたら、すぐに答えてくれた。
「なんか珍しいのがあったらしくてな。それが高く売れた」
「へー、どれですか?」
「鮮やかな赤色で丸い、卵みたい形の茸」
へー、あんな毒茸みたいな茸が高く売れたんだ。つまり、その茸屋さんはタマゴタケを知っているんだね。物知りだなー。
「私には毒茸にしか見えなかったからな、渡されたときは何を考えているんだと思ったよ」
「あはは、まあ毒茸は色鮮やかなのが多いですからねー」
ベニテングタケなんかはタマゴタケと似ている。あれも鮮やかな赤色をしている。
「その婆さんが早速その日の夕食にしてたよ」
「え、茸屋さんに売ってたんじゃないんですか?」
「ん?茸屋?里に茸屋があるがどうかは知らないが、顔馴染みの八百屋の婆さんに売ってる。あそこは新鮮なものなら買ってくれるからな」
「…八百屋って茸も売ってるんですね…」
「あそこは売ってる。しかし売っていないところもあるな」
「そもそも茸って野菜なんですか?八百屋って野菜売ってるところでしょう?」
「確かに八百屋は野菜を売っている店で、茸は菌類であって野菜ではない。しかしまあ、気にすることはないんじゃないか?」
…さて、一応今のうちに聞いておこう。
「その八百屋のお婆さんって、わたしのことどう思ってますか?」
「年齢を重ねて残された人生を全て店番で送ると言っている、快活な方だよ。そして、お前のことを禍だと言っていない数少ない人間だ。というより、お前のことをどうでもいいと思っているかもしれんな。たとえどんな者であろうとこの店で売り物を買ってくれるなら全て客だと言っている」
「へー、それは凄い方ですねぇ」
「私が世間話をしていたときに一回だけ禍、つまりお前のことが出たよ。思い切ってどう思っているか訊いてみた。どう答えたと思う?」
「…さぁ?わたしにはサッパリ」
「『残念だが私の店には来たことがないね。ここの美味い野菜を食べたことがないなんて勿体ない』…だとさ」
「あはっ、きっとそのお婆さんにとっては客とそうじゃないのの二つにしか分かれていないんでしょうね」
「違いない」
そんな人間もいるんだなー…。まあ、一握りも居るか怪しい数だろうけれど。
「さて、そのお婆さんは十分わかりました。…今の里、どうですか?」
「過激派が増えた」
「…どのくらい?」
「私が知っているのは一人だけ。二十くらいの男だな」
外に出てまでわたしを討伐しようと考える人間が、また一人増えた。しかし、それは表立っている人間。隠れている悪意は、どれほどなのだろうか…。
「今のところ、外に出ようとはしていなさそうだ。しかし、刀だの短刀だの棍棒だの、そういった武器を常備しているものがチラホラ見え始めた」
「まあ、仕方ないんじゃないですか?」
「異常だよ。仮にも里の中では私怨以外で妖怪が襲撃をしない。その里の中で武装など、今までならほぼなかった」
「それもわたしの所為ですかね?」
「んー、多分違う。一昨日突然発狂した者がいてな。刀を振り回し、七人が怪我、うち二人が重症ということがあったからかもしれん」
「…で、それもやっぱり?」
「あー、一部の人間が禍の所為だ禍の所為だと騒いでいたよ」
「ですよねー…」
「とりあえずその所為にするのはどうかと思うんだがなぁ…」
とりあえず、里の不幸は禍の所為。酷い考え方だ。決め付けは、真相への道を閉ざすことが圧倒的に多い。
「結局、誰だか知らんが翌日には解決した」
「それで?」
「全く関係のない妖怪の仕業だと分かった途端にだんまりだ」
「意外。その妖怪を放ったのは禍だー、とか言わないんですね」
「悪いがそこは分からん。何か理由があるんだろうが…」
真っ先に思い付くのは、直接の原因に仕立て上げることで凶悪感を煽り、過激派勢力を伸ばそうと考えた。他にも考えれば思い付くだろうけれど、考える必要がない事に気付いて止めた。
「私が知っていることはこのくらいだ。あとは普段と特に変わらん」
「そうですか。…とりあえず、半分は書き終わりましたよ」
「そうか。なら残りはあとに回してくれ。丁度完成した」
机の上のものを退かすと、慧音が持って来ていた野菜をふんだんに使った料理が並べられる。
「さっきの話に出てきた八百屋の野菜だ。残さず食えよ?」
「それならきっと美味しいんでしょうね」
「当然だ。いただきます」
「いただきます」
小分けされたり料理を一つずつ食べる。うん、美味しい。薄味だが、その分野菜の味がよく分かる。
「ごちそうさま。あー、そのお婆さんに美味しかったって言えないのが悔しいですねー…」
「私が伝えてもいいんだぞ?」
「慧音に迷惑がかかるでしょう。わたしとの関係はあんまり表に出さない方がいい」
「知っている人は既に知っているのだが…」
「今は無事に寺子屋をしていて怪我をしていない。だけど、これで知っている人が増えて、慧音が寺子屋を止めることになったり、里から追い出されたりするのは嫌ですよ」
「…そうか。お前がそう思うならやめておこう」
八百屋のお婆さんには、お礼の言葉の代わりにこれを贈るしよう。
「これ、持って行ってください」
「ん?帰るときに渡せば――これ、全部さっきの茸か?」
「ええ。今回は売るんじゃなくて、贈り物ですから」
「そうか。普段から美味しい野菜を売ってありがとう、とでも言っておこう」
「そうしてください」
食器を片付け、残りを二人で分けて写生する。最後に慧音が全部を確認し、今回の仕事は終わった。報酬であるお酒を受け取り、棚に置いておく。
残った時間を使って、慧音と一緒に野菜の塩漬けを作った。一週間はもつらしいので、当分は食料に困ることはないだろう。