月城鈴音の執事 マジョルドーモ・コンシエルヘはいつものように主人の右斜め後ろに立ちながら事の次第を実にくだらないものを見るように見守っていた。
いつものようにこの空座町の見回りをするという少女について回り、いつものように襲いかかってきた
その日の変化といえば、数日前は同じように主についていた子鬼達と眼を扱う同僚がいないというくらいか。それも数日前がたまたまいたというだけで普段は屋敷の方に引きこもっているので別段変わりはない。多少周囲の警戒が疎かになるが、いてもいなくても同じようなものだ。
その時も、不躾な野良犬が美しい主にヨダレを垂らし近づいてきたのでいつものように消し飛ばそうとした。
しかし、それは叶わなかった。
「うん、いいよ。おいで」
その一言。
そのたった一言でシエルは行動を制限される。
他ならぬ主の言葉は執事であるシエルにとって神にも等しい。それがどれだけ危険な状況を生み出すとしてもシエルは動くことはできなかった。
(お嬢様、お止めください! 貴女はまた――――)
何があっても主人に危険が迫れば止める。
それがシエルの考えであり、覚悟だった。それでも、今回は条件が悪かった。
野良犬はシエルの苦悩を知ってか知らずかその体を変化させる。一丁前に捕食に適した形態へ移行したその姿を見て歯噛みする。
あまりに弱い。
弱すぎるがゆえにシエルには手を出せない。
これが本当に主を脅かすほどの強さを持っていればシエルはそれが例え自身の全てを言っても過言ではない主の命令でも背いて排除に映るだろう。
だが、目の前の野良犬は違う。
アレでは主は――――お嬢様は喰い尽くせ無い。
単純な容量の問題。
出来たての虚ではお嬢様を食い尽くすことは出来無い。
それが分かっているからこそ、シエルは動くことができない。
心がないことが悔やまれる。
もしもこの身に心があれば、その赴くままにお嬢様に牙を剥いた野良犬を八つ裂きにしていただろう。
しかし、残念な事に虚であるシエルにはそんなものはない。人間と同じように思考し、時に感情的になろうとも、それはどこか打算的なものだ。最終的には自身の欲望を満たすための行為でしかない。
人間達のように無意味に他人を手助けするという考えは虚には存在しないのだ。
腹が減ればそれを補うために行動する。それは本能であり、理性で縛ろうにも心がない虚達ではどうしても御しきれない。
だからだろうか。
多くの虚達が心を持った人間であるお嬢様に惹かれる。霊的存在である自分たちが見える人間。それでいて、他の者達のように恐れずに近づき、手を差し出し受け入れてくれる存在。
心を失い、胸に空いた孔を埋めて心を補うため心を欲するようになった虚にとってその存在は掛け替えのないものだ。
(勿体無い。あんな喰らい方では――――――私ならもっと綺麗に頂くというのに)
まさに犬といった感じで四足歩行で移動し、主に喰らいつく虚に対しシエルは殺意を抱く。しかし、それは主が喰われているということよりもその食べ方についてだった。
お嬢様――――月城鈴音は特殊な体質だ。
生まれながらの驚異的な霊力もそうだが、その身体は虚に対して強烈な【蜜】を発している。その身は魂魄だけでなく肉や骨は勿論、髪の一本から剥がれ落ちた垢や血の一滴まで虚にとっては極上の餌になる。
ただ町中を歩いているだけで虚に狙われる。
寧ろ、彼女を狙って周辺の街から虚がやって来る。
そういう理由もあり、今の空座町には非常に虚が多い。
シエルのようにお嬢様のその
(その意味ではコイツはまだマシか。本当の意味でただお嬢様の魅力に惹かれてしまっただけなのだから――――かといって、許せるものではないがな)
シエルがその思考を野良犬に対する
(終わったか)
シエルが視線を向けた時、その場に立っていたのは捕食者である虚ではなく、血だらけの主人だった。
「うん、お休み。ゆっくりね」
つい、先ほどまで自分に襲いかかっていた虚の頭を撫で、愛おしそうにその白い仮面に触れる。魂魄と一体化し、着脱が不可能な筈の仮面がゆっくりと剥がれ落ちていく。虚の仮面の下から出てきたのは涙でグチャグチャになった酷く情けない男の顔だった。
「辛かったね。もう、大丈夫だよ。これからは私が救ってあげる」
月城鈴音は笑っていた。
肉が裂け、骨すらもいくつか切断されている状況でなぜそんな風に笑えるのか。心のないシエルには見当もつかない。そもそも普通の人間なら間違いなく致命傷どことかオーバーキルの筈だが、なぜ平然と立ち上がっているのか。
「終わりましたか。――――今回は見逃しますが、次回からはもう少し考えて行動してください」
「ごめんね、シエル。でも、身体が勝手に動いちゃった」
「全く、貴女は――――」
「でも、困っている人がいたら助けるのが普通でしょ?」
いたずらっ子のように笑う少女にシエルは静かに上着を着せる。
常軌を逸した霊力で傷を瞬く間に消し去っている鈴音だが、ボロボロに敗れた衣服までは治すことができない。シエルと違い、その姿は一般人にも視認できてしまうので、このままではマズいのだ。ただでさえ眼を引く容姿鈴音が無防備な姿を晒せばよからぬ輩が寄ってくる。これ以上の面倒事は御免だ。シエルとて、自制しきれるものではない。
「それで、これはどうしますか?」
問いかけるのは下手人の処遇。
鈴音をよく知るシエルからしてみれば聞かなくてもわかっていることだが、万が一ということもある。
「うん、ウチで飼おうか。ここで放っておくと他の子達に食べられちゃうし、新しい死神の子も来たみたいだしね。本当に飼うかどうかはこの子の意見も聞かないといけないし、今はとりあえず屋敷まで運ぼうか」
「かしこまりました」
平然と言ってのける少女に恭しく頭を垂れる。
そこで殺せと言ってくれればすぐさま行動に移すのだが、なぜ自分に危害を加えた相手を許さないという当然の選択肢が存在しないのか。
主の霊圧を喰らった野良犬を放置するわけにも行かず、霊圧遮断のための
願わくば屋敷に着くまではこの野良犬にそれなりの苦しみを。
この空座町担当の死神 朽木ルキアは尸魂界から送られてくる情報から虚討伐の為、現場に急行していた。
先日、正体不明の虚から受けた傷は未だ癒えず、始解さえ不可能な状況だった。
『なんだよ、助けてはくれない癖に邪魔はすんのかよ?』
頭に浮かぶのはあの虚が言った言葉。
恐らくあれは成りたてだ。死神の魂葬が間に合わず、虚に成り果ててしまった魂魄。
現世に来てから一週間ほど経つが、もしかすると間に合ったのではないかと自責の念が浮かぶ。あの魂魄が虚になる前にもしもルキアが間に合っていれば――――と、いう過程がもう幾度も浮かんでは消えていた。
(あれは危険だ。油断していたとはいえ、私の袖白雪の一撃を受けきった。成り立てであれならば、もしも他の魂魄を喰らい、成長すれば手が付けられなくなるかもしれん。――――その前に、私の手で)
虚の魂は死神の斬魄刀で斬ることで虚となってからの罪を濯ぎ、その魂を元の人間のものへと戻し尸魂界へと送ることができる。それが間に合わず、アレを虚としてしまったルキアのせめてもの償いになる筈だ。
死神は今日も街を駆け抜ける。
救われぬ魂をその刀で救うために。それこそが全ての魂にとっての救いであることを信じて。