幻想を映す水溜り   作:BNKN

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無限のトートロジー

 

 

 

「ただいまー」

 

 

 

 石桜舞い散る春の地霊殿。

 

 そのテラスで一人、本を開いていた私は放浪癖のある妹の声にゆっくりと立ち上がった。

 

 久々に帰ってきた妹の姿にいつも少し大きくなった様な錯覚を覚える。それだけ外にいる時間が長いということだろう。

 

 

 

「一杯、お土産話があるんだよ」

 

 

 

 楽しそうに、それでいて無意識に、妹が零れ落とす言葉を聞き漏らすまいと耳を傾ける。どうにも心を読む事に慣れていると妹との会話に違和感を覚えてしまう。

 普段は相手の手元のボールを掠め取る作業ばかりしているのに無理やりキャッチボールさせられているような感覚だ。

 

 だがしかし、こいしは私の唯一の妹。そんなことで妹との会話に手を抜く私ではない。

 こいしが嬉しそうに語る地上の大冒険譚は本当に楽しそうで、羨ましいと思うこともある。別に、外に出て遊び暮らしたいと言う話ではないけれど、地霊殿に毎日缶詰めというわけでもないけれど、何も考えないでフラフラとするこいしは何時だって楽しそうだ。少し位、思う所が無いわけじゃあない。

 

 ともあれ、今私がこいしの様にサードアイを閉ざしてしまうことは許されない。そうしてしまえば、こいしを守る者がいなくなってしまう。私を地獄へ打ち立てる禊はこいしであり、私なのだ。

 

 それでいいんだ。それを知らぬこいしもそれを知る私もこうして今は笑顔で暮らしている。妖怪にとって過去には然程価値はない。たとえそれが妖怪としての存在定義に障る事だったとしても。

 

 

 

 〇

 

 覚という妖怪は心を読む妖怪である。

 

 妖怪は基本的に肉体よりも精神に存在としての比重がある為、心の臓を貫かれるよりも心を抉られる方が堪えるのだ。勿論、それは覚自体にも当て嵌められる事で、他の人妖の精神に触れるという事は覚にとっても極めて危険な動作である事に違いはない。

 

 先にも述べた通り、妖怪は精神面が比較的脆い。つまり、それは精神が妖怪を妖怪として成り立たせているという事に他ならないわけで、他の生物たちの心を自己の中から見ると言うのはイメージでいうと、思った事が直接頭の中へと響く感触に近い。これの何が危険かと言えばそれは即ち、覚の妖怪としての自己霧散である。他の生物の思い、感情を自己に還元して読み取る事で、覚妖怪は自らの抱くあらゆる感情が自己の物であるのか、他者の物であるのか判別がつかなくなる。文字通り自分を見失うわけだ。

 

 そして覚の体はそんな都合良く作られていないわけで、心を読むという動作...性質に歯止めが効かない。その体外に露出したサードアイが見つめるだけで精神の同期へと導かれてしまうのだ。心の強い、或いは自己を強く確立した覚ならば自己と他者の混同は無くなるが、未熟な覚は直ぐに自分の存在を認識出来ず、消えてしまう。特に産まれたばかりの覚なんかは極めて繊細で壊れやすいのだ。

 

 そして、精神同期で最も危険な対象は同族である。

 

 これは最早言うまでもない事だろうか。

 覚が覚の心を読めば、それは合わせ鏡の様に果てしなく終わることがない。「~と思っていると思っていると思っていると思っていると.....」この状態こそ自己の崩壊を進める一番の近道となりうる。

 一人一種の妖怪の様に雌雄を決める事が出来ない妖怪と違い、覚はそれなりに個体が存在する。しかし、どの覚も子を為すとそれを自らから遠ざけるのはそういう事だ。

 

 

 そして、今ここにも親から捨てられた幼い二人の覚が座り込んでいた。

 一人は落ちた蝉の抜け殻の如き脆い心、一人は取り付く島の無い程、頑強な自己を持っていた。

 

 

 

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「....」

 

 酷く荒んだ目をした姉のさとり。冬でもないのにガチガチと歯を鳴らせ、コードの伸びたサードアイを抱いて足を三角に折りたたんでいる。

 

「...じゃあ行ってくるね」

「...」

 

 笑って手を振る妹のこいしにさとりは何も応えない。応えが返ってこない事はこいしも良く分かっている所であり、そこを追求すること無く、子供の作った秘密基地の様な些末な家から出ていった。

 

 こいしが姿を消すと同時にさとりの震えは止まり、表情にも柔らかさが出てくる。心の弱いさとりにとって妹の覚妖怪は天敵なのだ。己より弱い意志を持った人間くらいならば心を読むことも問題ないだろうが、こいしはそうではない。一緒にいる事が既にさとりにはストレスになってしまう。

 

 さとりは散らかるほど物のない我が家を見渡す。彼女が心治まるのはこうして、こいしが人を襲ったり、人里に盗みに入りに行っているこの時に本を読む瞬間だけであった。昨日食べた人間の残骸の横には沢山の本が重ねられていて、その全てがこいしが姉のために盗んできたものだ。

 

 さとりは、その一番上の本を手に取ると親指を噛みながら本を捲った。

 

 

 

 〇

 

 私は本が好きだ。

 絵本であれ童謡であれ、紙の上に垂らされた黒文字や絵の心を読むことは出来ない。私が剥き出しにされることは無いのだ。私を犯すものは何もいない。

 

 

 私は物語が大好きだ。

 他人の作った世界とは言えど、そこには蠱惑的で神秘的な魅力がある。読むだけでその中の住人達と共に暮らしている様な、同じ場面に佇んでいる様な感覚の波に浸れる。

 

 

 私は妹を愛している。

 こいしは弱い私を思って、私の世話を焼いてくれている。感謝しても仕切れない。たとえ、どんなに私の覚としての本能がこいしを嫌おうと、私という(さとり)はこいしを愛している。霞のように薄ぼんやりと漂う私の中でその一心だけは揺るがない。

 

 

 こいしは強い。

 彼女の心はきっと私の何万倍も堅牢だ。

 他者の荒れ狂う荒波の如き感情を前にしても彼女が崩れ落ちる事はきっと無い。

 

 でもそれはきっと全てサードアイのお陰。

 

 覚である事のお陰。

 

 妖怪として、こいしとして彼女が強く立っていられるのはこのサードアイが彼女をそう足らしめているから。サードアイが閉じてしまえば、彼女の存在は酷くぼやけた物になるだろう...それこそ私よりも。

 

 なんせ、誰にも定義付け出来ない妖怪となり果てるのだから。

 

 

 

 

 

 今日、私が辿った物語は王子様が気弱な平民の女の子を数多の魔物から守り、幾多の敵をなぎ倒して結ばれるなんていう、何処にでも転がってる手垢まみれのシナリオだった。そんな平凡で幼稚な話であったのに、私は何故だか引き込まれた。何故だろう。この気弱な女の子が自分のようだと勝手に思っているのだろうか。

 

 

 

 

 

「お姉ちゃんまたそれ読むの?」

「...」

 

 あれから数週間。

 私は未だにその本を読み続けていた。手垢まみれのストーリーの端は、いつの間にか私の手垢で黒ずんでいた。

 

「また、何か盗って来るから待っててね」

 

 ありがとう。そんな簡単な言葉ですら私の覚は許してくれないらしい。ガタガタと震えるばかりで目も向けやしない。サードアイと本を抱くばかり。

 

 本当に嫌になる。

 

 

 

 

 

 私のたちの家の壁は薄く、外の物音も時折耳に入る。

 

 ある日、こいしが私の為に外に出ている時に妖怪たちの話し声が聞こえてきた。

 

「最近人里の方で陰陽師の奴らが活発になってるみたいだぜ」

 

「ああ、知ってる知ってる。あれだろ、覚妖怪を殺しちまおうってんだろ?確かに豪勢に食い散らしてるらしいからなァ。精々俺らと関わりなく死んでくれたらいいんだが...」

 

 間違いなくこいしだ。

 この辺に私たち以外に覚妖怪がいるなんて聞いたことないし、私はここから滅多に出ない。陰陽師に目をつけられたのはこいしだ。

 

 どうしよう。どうすればいい。

 

 こいしが殺されるなんて嫌だ。嫌だけど一体私に何が出来るのだ。

 

 頭を掻き毟る手は無意識に本の表紙に触れていた。

 

 

 

 

 

 相変わらず私の覚はこいしを前にするとどう仕様も無くなるらしい。意識して唇を噛んでもガチガチと音を鳴らし続ける。本当に気味の悪い妖怪だ、私は。

 

 今しがた、こいしが人間の死体を持って帰ってきた。盗ってきたという本を二冊手渡されて、こいしが死体を切り分けに外に出た時の事だ。

 

「きゃあっ!!」

 

「ここが覚の巣だな」

 

 こいしの悲鳴が聞こえた。

 

 人間の声も。

 

 ドタドタと家に近寄ってくる足音も聞こえる。私は咄嗟にベッド代わりに積んである藁の中へと身を沈ませて息を潜めた。ガチガチと震える口は相変わらずだが、人間は気付かなかったらしい。やがて外に出ていく音がした。

 

「コイツだけみたいだ」

 

「離してよっ!!」

 

「誰が離してやるもんか。お前には散々殺されたんだ。生かしちゃおけねえ」

 

 こいしが殺されようとしている今この瞬間だって私は震えるだけだ。

 

 情けない、情けない。

 

 私は本にすがり付いて身を沈ませようと、人間たちにバレまいと、自分だけ助かろうとするばかり。

 

 本当に嫌いだ。

 

 私なんて大嫌いだ。

 

 

「この忌まわしい糞目玉も潰してやるよ!」

 

「やめて! 止めてくださいっお願いします! それは――」

 

「うるせえよっ!お前が殺してきた人間だって命乞いしたろうが!! 」

 

 一拍。

 瞬間だけ静まった。

 けれど直ぐに千切る様な悲鳴が耳を劈いた。

 

「あ"あ"あ"あ"あ"あ"ッッづづっ!!!」

 

「あっはっはっは!!ざまあねえな!!」

 

 こいしの悲鳴に私は、吐き気を催すと同時に震えが止まった。

あれだけ止まれ止まれと祈っても言うことを聞かなかった覚が動きを止めた。

 

 人間に対する怒りや恐怖はナリを潜めて何故か口角が上がった。

 

 ふつふつと自身が湧いてくる様だった。

 

 私なら出来る。

 

 人間を殺してこいしを助けることが出来る。

 

 

 

「さぁて、そろそろ死んでもらおうかね」

 

「ごっごめんなざい"っ!ゆ、許してくだざい!」

 

 私は本を片手に持ったまま藁から滑り出る。

 服に刺さっていた藁の端を叩き落としながら外に出ると直ぐに人間二人が、倒れるこいしを髪の毛を掴んで無理やり持ち上げていた様子が目に入った。

 

「あっ!? おい、もう一匹いるじゃねえかっ! 」

 

「クソっ隠れてやがったのか!」

 

「お、お姉ちゃん!? ど、どうじで...」

 

 こいしは泣いていた。閉ざされたサードアイからは赤い涙が滴り落ちて、こいしの閉じた両の目からは黒い涙が零れていた。

 

 こいしが目を閉じていて良かった。

私が笑ってるなんて知られなくないから。

 

「お、おいっ早くそいつから殺しちまえ!!」

 

「や、止めてっ!! 人間を襲っていたのは私ですからっ!! お姉ちゃんは関係ないがら"っっ!!」

 

 この状況は何度も何度も見た光景だ。

 弱い者が悪党共にボロ雑巾の様に扱われる。

 

 それを助けるのは何時も決まった王子様。

 

 私の天敵は最早いない。私を犯すものはここにはいない。此処に至り、(さとり)は初めて牙を剥く。

 

「想起――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ...はぁ...」

 

「...お、お姉ちゃん?」

 

 やり切った。

 

 私は成し遂げた。

 

 弱き妹を救った。

 

 人間だったモノの赤絨毯の上は生暖かくて、まるで母親の中を泳いでいる様な安心感を覚えた。何時までも其処に座り込んで自分(さとり)を抱きしめたかったが、そうもいかない。私にはまだやる事があるから。

 

「お姉ちゃん...どこ?」

 

 こいしは弱い。私が救ってやらねば、この傷ついた精神では生き残ることも出来ない。なんて言ったって今、こいしは覚ではなくなったのだから。

 

「ここよ」

 

「暗い...怖いよ...お姉ちゃん」

 

 私の膝の上でこいしは手を振って私を探す。

 私はその手を優しく掴んで離さない。

 

「大丈夫...大丈夫よ。私はこいしを離さないわ。絶対に守ってあげるから」

 

 こいしの耳元で、何処かで見たセリフを並べる。私の言葉となった文字列はこいしを幾らか安心させる事が出来たのだろう。次第にこいしの呼吸が整っていく。面白いくらい順調だ。

 

「...だから今はお休み」

 

 全く本当に手垢塗れの稚拙なストーリーだこと。

 

 

 

 

 

 〇

 

「ただいまー」

 

 旧地獄跡地、地霊殿。

 その主たるこいしが外出から戻ってくるとペット達がわいのわいのと囲んで(たか)る。

 

「お帰りなさい。こいし様」

 

 中でもお燐と呼ばれる猫がこいしの足元でお辞儀すると、こいしは屈んで燐に尋ねた。

 

「お姉ちゃんは起きた?」

 

 何を考えているかも分からない顔で尋ねるこいし。お燐は何も言わず首を振るばかりである。

 

「そっか...今日もか」

 

 ペットたちに揉まれた後、こいしは姉の眠る部屋へと足を運んだ。ノックしても返事は返って来ず、虚しさばかりがこいしの心を苛む。

 

 こいしが空気を入れ替える為に部屋の窓を開け、さとりの顔を覗き込むと其処には薄く微笑む顔があった。

 

 

 

 最早、こいしではこの姉の心を読むことは出来ない。どれだけ動物達や他の妖怪、人間の心を読めても一番近しい姉の心は覗けないのだ。

 

 遠い昔にさとりが目を閉ざした、あの日からさとりは覚でなくなってしまった。 今のさとりを言い表すならば、虚無。無意識に生き延びている哀れな元・覚妖怪である。

 

  失ってしまった心を読むことは覚妖怪にも出来ないのだ。

 

 

 

 こいしは薄く笑って、さとりの前髪をさらりと撫でると立ち上がり、部屋から出ていった。

 

 

 

 

 

 動くものの消えた部屋。

 

 開いた窓から吹き出る風が、さとりの枕元に置かれた汚い本の表紙を持ち上げた。

 

 パラパラと捲って止まったページ。

 

 王子様と気弱な女の子が笑顔で手を繋ぐページに迷い込んだ石桜の花弁が静かに落ちた。

 

 

 

 





妄想と現実はしっかり区別しましょうって話です。

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