新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~ 作:ぬえぬえ
どれだけ経った。
どれだけ持った。
どれだけ待った。
それを示すのは、ここにあるカップのみ。とうの昔に冷え切ったコーヒーがカップの底を僅かに満たしている。それがいつ頃淹れられて、いつ頃人肌並みになって、いつ頃冷え切ったのか、まったくもって記憶にない。
どこから記憶がないだろうか。いや、記憶自体はある。
ずっと書類をまとめていて、キリのいいところで歯を食いしばり過ぎて、口の中をのものを吐き出そうと外に出ようとして、メイド服の曙と遭遇して、陸奥や潮に煽てられて、陽炎に詰められてーーー榛名を否定した。
そこで終わっている。記憶が飛んでいるのか、と言えばそうではない。どちらかと言えば、そこですべての事象が止まっているといった方が正しい。
何せ、それ以降、誰もここに来ない。昨日、一昨日には誰かしらが飛び込んできては口やかましく言葉を投げ掛けられていたはずなのに。榛名を否定して以降、その足はパタリと途切れたのだ。
まるで、俺が榛名を否定したから、誰も寄り付かなくなったみたいじゃないか。
そんな気持ち――――『不安』を紛らわせるために、俺はひたすら手を動かし続ける。そうやって誰にも邪魔建てされず、一心不乱に手を動かしたのだ。
その結果、明日までかかるだと思われていた仕事を終わらせることができた。終わらせた仕事――――いわゆるつかさに渡す用の引継ぎ資料。あとはこれをやつに渡すだけ。それで、
それなのに、俺は今ここにいる。
これを渡すだけなのに、なのに今もここにいる。
ここから離れられないわけではない。ここにいないといけないわけじゃない。
なのに、俺はここにいる。居続けている、しがみついている。
何故、ここにいるのか。
何故、ここから離れないのか。
どうして、ここから
どうして、俺は
「できたかしら?」
ふいに、声が聞こえてきた。その声はよく知った声で、今日も聞いた声。すぐ近くにいたときもあれば、無線越しの時もあった。
いつの間にか顔を下げていたようで、俺はその声にこたえるように顔を上げた。
そこに居たのは、よく知った声の主、加賀だ。彼女はいつもの無表情に近い顔で、俺の前に立っていた。
そう、
「……なんで艤装を?」
「哨戒部隊の子に欠員が出たから、代わりに出撃したのよ。さっき、無線で伝えたはずだけど……適当に返していたわね」
俺の疑問に彼女はそう答えながら、無表情の上にわずかに不満の色を見せる。そのまま彼女は俺の前にツカツカと歩いてくる。だが、それでも俺は首をひねった。
基本的に、艤装は帰還時に工廠で下ろすのが一般的だ。もちろん厳密なルールではないが、鎮守府内の安全を考慮すると自然と暗黙の了解になっているわけだ。
だから、別に彼女が艤装を付けて鎮守府内をうろつこうが目に留まることはあれ指摘されることはない。まして、普段歩けない彼女だからそこに触れるのは憚られるという面もある。
だが、それはちゃんとした理由があるから、という前提条件が必要になる。そして、現時点で俺はその前提条件を見つけられてないのだ。
「じゃあ、なんで艤装のまま執務室に来るんだよ?」
「……その方が
その理由を尋ねたところ、加賀ははぐらかされる。それを詰める前に彼女は俺の目の前まで到達し、片手を差し出してきた。
「
一言、加賀はそういった。その瞬間、何故か俺の体温が下がる。
何故下がったのか、それは驚きとか、怒りとかではない。多分、いやほぼ確実にそれだと言える感情がある。
『恐怖』だ。
「……どうしたの?」
次に声を上げたのは俺ではなく、加賀。彼女は手を差し出したまま、表情一つ変えずにそう言ってきた。
対して、俺はそれに返答することはなく、ただ手に持っていた
併せて、また体温が下がるのを感じた。加賀にこれを渡してしまうことに、恐怖を覚えた。
もっと具体的に言おう。これを渡してしまうと、俺は――――
「『提督でいられなくなる』かしら?」
今しがた思い浮かんだ言葉が、俺ではない人の口から飛び出した。思わず声の主を見ると、彼女は無表情であった顔をわずかにほころばせている。
まるで、待っていたものがようやく現れたかのように。
「あなた、久しぶりに
そのまま、加賀は言葉をつづけた。その顔に、笑みを浮かべながら。
「……どこがだよ」
「あなたがやっていること
俺の問いに、加賀はバッサリ切り捨てる。その言葉を聞いた瞬間、引継ぎ資料を掴む手に力がこもった。
「あなたは今、自分がここを離れるために動いている。柊木中佐からの辞令を甘んじて受け入れ、曙や夕立たちの言葉を無視して、私や金剛の言葉をそのまま鵜呑みにして、今こうして引継ぎ資料を作成した。でも、何故かあなたは自分の進退をかけた演習も受け入れて、作戦会議の場も提供して、なのに作戦会議自体には消極的で、他の艦娘に丸投げて、そして今作成した資料を渡しに行かずにここで止まっている―――――今、
そう長々と話し終えた加賀。彼女は俺に差し出していた手を人差し指だけピンと伸ばし、その先を俺の顔に向ける。まるで、今しがた話し終えたこと、俺が犯している矛盾を一つ一つ指し示すようにだ。
「貴方は矛盾している。それもあの時――――お母さんの言葉を捻じ曲げていた時よりも盛大に、大袈裟に、わざとらしく矛盾している。貴方が望むものが差し出されているのに、それを受け取らない。自分が手を伸ばさないもののために、貴方は周りにあるものを手放そうとしている。なのに、手放そうとしている手は重く、まるで手放すことを拒んでいるよう……」
加賀に指された指を見つめながら、俺は何も言えずに彼女の言葉を聞くだけだ。それは、図星だったから。分かっているから。分かっていたから。
そして、それに抗う権利も資格も、
「さらに言いましょう、貴方はその矛盾を
彼女の問いを受ける。それに、俺は心の中で肯首する。その通りだ。ただ、それを表に出さない様に努める。それを出してしまうと、それこそ終わってしまうから。
本当の本当に、俺が『提督』にいられなくなってしまうから。
「私にくらい、本当のことを言ってもいいんじゃない?」
不意に聞こえた言葉。それはスラリと耳に入り、喉を通って腹の底に落ちた。そして視線を上げた時、俺の視界は彼女の青いスカートが映り、そして視界の上で前髪が揺れていた。
同時に、頭を撫でられる感覚があった。
「ここには、私しかいない。貴方の弱さを知っている私しかいないわ。自惚れを承知で言うけど、貴方の過去を知っていて、その時に貴方が抱いた想いを聞いて、その矛盾を解いた私がいる。今、あなたが抱えている矛盾を、もしかしたら解いてあげられるかもしれない。だから、もう我慢しなくてもいいんじゃないの?」
彼女の言葉が頭に、身体に、胸に、心に染み渡る。まるで、カラカラに乾いた大地に垂れた一雫のように。俺の心に染み渡った。それは今まで動かなかった俺の心を解き、身体に活力を与え、頭の中をスッキリさせ、喉に力を与えてくれた。
『お前にここを守れるのか? 今までずっと守られてきただけのお前が?』
だが、それも頭の中に響いた声―――
『お前に彼女たちを守れるのか? あんなに苦しそうな顔をした榛名を否定したお前が? 雪風の命を危険に晒し、その姉から許さないと宣言されたお前が? 本当に彼女たちの命を守れるのか?』
『お前に彼女たちを指揮できるのか? 撤退の判断さえ私情で渋ったお前が、今まで全ての戦闘指揮を無能だからという理由で丸投げした、ずっと逃げ続けたお前が? 本当に彼女たちに的確な指示を出来るのか? 本当に彼女の命を預かる資格があるのか?』
『お前にできることはあるのか? 書類整理もままならない、指揮もできない、できるのはせいぜい飯を作ることぐらいだ。むしろ、何故そんなお前が今日まで、提督としてここにいられたのかが不思議でならない。そして、今後は未知の敵に襲撃される最前線になることが確定している。そんな場所に、提督としての力量が何よりも必要とされる場所で、そのどれもこれを持っていないお前が、『何もできることがないお前』が、本当にここでできることがあるのか? 残っているのか? そもそも
それらの言葉が――――俺の言葉が全身にのしかかってくる。喉を締め付け、身体をこわばらせ、心を蝕んでいく。まるで踏み入れたら最後、地の底まで沈んでいく底なし沼のように。そこへそこへ沈んでいく。同時に、思考も鈍くなっていく。
そんな思考の中で、彼女にかける言葉を探す。微塵も動かない思考のぬかるみに手を突っ込み、無造作に手に触れた言葉を掴み、無理やり引っ張り出し、彼女に差し出した。
「『俺の役目』は、もう終わったんだ」
「……役目って、なに?」
次に聞こえた言葉。そこには、僅かに上擦っているようだった。だが、それを触れる資格を持っていない俺は、続けてぬかるみから引っ張り出した言葉を彼女の差し出す。
「ここにいるみんなは、もう大丈夫だ。最初のように誰かが無理をしていたり、したくないことをいやいややり続けていることもない。みんな、ちゃんと向き合って、自分の想いを話して、ちゃんとわかり合ってくれた。それに元々、みんな強い子達ばかりだ。今更上が変わったって、大丈夫。これならつかさがいっていた未知の敵にも、それこそ姫級だって敵じゃないよ。だから―――」
そこで、俺は言葉を途切れさせざるを得なかった。何故か、今まで俺の頭にあった彼女の手が離れ、俺の胸ぐらを掴んでいたからだ。
同時に、彼女の顔が目の前にあった。あの時―――初めて俺の過去を話した時、俺の矛盾を指摘して、非難した時と
失望の色を存分に孕んだ、蔑むような目をしていた。
「それ、本気で言っているの?」
「あぁ」
次に投げかけられた彼女の言葉を、俺はすぐに打ち返す。打ち返した後、加賀は黙って俺を睨み続けた。それを、俺はまっすぐ見つめ返す。
しばらく、沈黙が部屋を支配した。
どのぐらい経っただろうか。その時間はわずか数秒だったと思う。でも、俺にとってはそれが長く感じられた。
いや、長く感じたかったのだ。何故なら、その沈黙は、目の前の存在が俺から興味を失わせていく時間に思えたから。
『艦娘と提督』から、『艦娘とただの人』に格下げされるまでに要した時間――――俺が『彼女たちの提督』でいれた時間と同義だったから。
「あなた、前に私に約束したこと覚えている?」
ふいに、
そして、そこに込めた願いももちろん覚えている。
なにせ、ついこの間、
そして、俺が心の底から願い続けていることだからだ。
「『絶対に、帰ってこい』」
「そう、それが私たちの願い。矛盾を解きほぐした末にしぼり出した、貴方の
俺の発した言葉を、彼女はすぐさま打ち返す。それも、特大の矛盾を添えて。目を逸らすことができなくなるほど間近に、目前に差し出しながら。
だから、俺はすぐに打ち返せなかった。言い返せなかった。目線を逸らし、口元を固く結び、両手をぎゅっと握り締める。
「『ここから逃げたい』、でしょ?」
だが、それは別の声が答えた。それは俺でも、彼女でもない。まったく別の声、人物、こんなところにいるのが場違いな存在。
俺たちは同時に声が聞こえた方、廊下へと続く扉を見る。
そこに、
窓から月明かりが差し込み、開け放たれた扉を薄く照す。そんな照らされた扉にもたれかかり、けだるげな視線をこちらに向けている
「……山城」
その名前を、彼女がこぼす。名前を呼ばれた存在―――山城は至極面倒くさそうに顔をしかめるだけ。それだけだ。
でも、その視線は俺から全く離すことはない。ずっと俺を見ている。俺を見透かしている。
まるで、腹の底を見透かしているように。お前の思考なんぞお見通しだと言わんばかりに。
「離れたいんでしょ? あんた」
背を預けていた扉を離れ、人様の部屋だというのにズカズカと入り込み、先ほどと同じ言葉を
「きゅ、急にどうし――――」
「うだうだうだうだうだうだ言ってるけどさ? 『ここが窮屈だー』って、いい加減吐きなさいよ」
なんとか押し殺した俺の声をかき消し、山城はさらに言葉を吐き散らしながらこちらに向かってくる。相変わらずその目は俺を見据えている。俺を見透かしたような面をしている。
一瞬、俺たちの間に沈黙が流れる。やつは俺の出方を見ているようだった。だが、俺が出ないと判断したのか、再度口を開く。
「そんなに
奴はそうまくし立てながら近づいてくる。それも、俺の手の届く範囲に。今思いっきり腕を振り回せば、こいつのくそ生意気な顔面をかき消すことができるだろう。
もちろん、ヤツもそれを承知だ。なおかつ振り回されようともなんとでもできるとタカを括っている。だからこそ無防備に近づいてくる、こちらを舐め切った態度で、最大級の侮蔑を向けてこれるのだ。
「んで? いざそのチャンスが現れて、あんた自身もそれに沿って動いているくせに、なーんで最後の一歩が踏み出せないのかしら? おかしいわね? 何故かしらね? まるで
今度は年相応の笑みを浮かべながら、わざとらしく上ずった声でそうほざいてくる。『煽ってますよ』、と分かりやすく示すために。気持ち悪い笑みを浮かべて、小生意気に首をかしげて、俯き加減の俺を下から覗き込みながら。
その目に、最大級の『侮蔑』を込めて。
「でもさ」
そこでヤツは、山城は表情を変えた。同時に声色も、纏っている空気も、俺に向ける目も、全てを変えた。
あおり散らかしているくそ生意気なガキから、無機物を見るような一切の温度を感じない冷徹な視線。
「それがどれだけ
そして、その口から吐き出された――――いや、明確に俺を刺しに来た言葉。それは一寸の狂いもなく俺の胸に突き刺さった。深く深く突き刺さり、腹の底に落ちて、何も言い返せなくなってしまった。
それは何故か、決まっている。腹の底に落ちたから。腑に落ちたから。自分の行動が『そうだ』と納得してしまったからだ。
「こちとら、この数日あんたんとこの艦娘から色々やられているわけよ。それに対応する手間についてはこの際別に良いけどさ。そもそもあんたが最初から明確に答えを出していれば、あいつらも
山城はそこで言葉を切り、同時に一歩踏み出し、俺に近づく。ほぼ彼女との距離はないに等しい。俺が俯きその真下。そこに入り込んでヤツは俺を見上げている。瞳孔が開いた眼を、まっすぐ逸らすことなく、俺を見上げているのだ。
「今、あんたがやっていることは『迷惑』なの。全部、周りにとって迷惑以外何物でもないの。逃げたいなら、とっとと逃げればいいじゃない。辞めたいなら、とっとと辞めればいいじゃない。解放されたいなら、とっとと解放されればいいじゃない。万が一、他の理由があるならそう言えばいいじゃない。なんで、何も、言わないの? なんで、ずっと、黙っているの? なんで―――」
次に向けられた言葉。それは。それは、とてもシンプルな
「
答えを出す――――それは、以前言われた言葉。林道に言われた、同じような状況で投げ掛けられた、『提督の責務』。正解を
俺自身が、今この場で最も『正解』に
この鎮守府にとって、ここにいる艦娘たちにとって。
そしてそれはついこの間、
『また、同じ失敗を繰り返すんですか?』
そんな声が聞こえてきた。それは目の前の山城でもなく、横に立っているであろう加賀でもなく。俺の頭の中に響く、
山城でもなく、加賀でもなく、それこそ榛名でも陽炎でも、曙でも夕立でも金剛でも吹雪でもない。
同じ失敗によって最も被害を被った存在。
勝手に進撃して、命を投げ捨てようとして、頬を引っ叩いて、一緒に泣いて、この手首にあるミサンガに、新しい願いを込めた存在。
―――雪風の声だ。
「なるほど、なんとなく分かったわ」
だが、次に聞こえたのは雪風の声でなかった。それは俺の後ろから聞こえた。振り返ると、俺に背を向けて立っている加賀。
彼女が向いているのは、執務室にある巨大な棚。そこには大量の書類や資料、記録が綺麗にファイリングされ、丁寧に色分けやラベル分けされている。
それらは、艦娘の名簿から施設内の設備に関する契約書や取扱説明書、果てに資源の資料から戦果書類、大本営に送った書類、朽木中将に送った請求書など。この鎮守府であったすべての記録。
ここが出来てから、俺が着任し、そして俺が異動になるまでの今日まで。ありとあらゆる書類や記録が――――この鎮守府の全てが詰まっていた。
それを前にして、加賀はおもむろにゆっくりと片手を上げる。その手には、彼女の艤装である、身の丈を超える大きな弓。その端を掴み、横一線に構えていた。
その姿を目視したのは、その瞬間だけだった。
「こうすればいいんでしょ」
何気ない様子で漏らした加賀。だが、それは目の前の光景と。
バラバラに飛び散るファイルや書類の束、木の破片やホッチキスで埋め尽くされる中で、弓を横一線に振り切った加賀の後ろ姿と、まったくもって合わなかった。
何が起こったのだろう。
脳が理解を拒むとか、心臓を鷲掴みにされるとか、息をのむとか。そのレベルではない。
視界の端から、甲高い口笛のような音が聞こえてくる。
おそらく音の主は山城なのだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、ただ。目の前の光景―――――目の前で破壊されていく『鎮守府の全て』を、見つめることでいっぱいいっぱいだった。
「こうすれば、貴方がここにいる理由が消える」
意識の外から、そんな声が、加賀の後ろ姿から聞こえてくる。だが、それも何かをぶつけ、破壊し、大量の紙やファイルが床にたたきつけられる音がかき消す。同時に、再び振り抜かれた加賀の弓、その軌道に沿うように大量の資料やファイルが宙を舞う。
「貴方を縛り付けていたもの、
次に聞こえた声。それは棚を破壊する音にまぎれながら辛うじて聞こえる。その声は、いつもの無感情なものではなく、何処かくぐもっているような気がした。
そのあと、時折彼女の声が聞こえたものの、全てその手で行われる蛮行じみた行為によってかき消されることになる。
その間、俺の目の前では破壊が行われる。この鎮守府の全てが破壊されていく、この鎮守府の記録が破壊されていく。
文字通り、言葉通り、それは先ほど彼女が口にした言葉――――『俺がここにいる理由』を消していく。
ふいに、あれだけ騒がしかった音が止む。
聞こえるのは肩で息をする加賀の荒い息遣いと、無残にも破壊し尽くされた残骸が悲鳴のように漏らす音だけ。それ以外に、音がなかった。
出せなかっただけかもしれない。出さなかっただけかもしれない。少なくと、前者は俺だ。後者は山城かもしれない。
ただ、目の前の光景を呆然と、もしくは興味深そうに見ることしかできなかった。
そんな中、ふいに加賀が動き出す。
この執務室にはもう一つ棚がある。そちらも、先ほど彼女が破壊し尽くしたものと同様の記録がある。彼女は、それすらも破壊しようとしているのだ。
それを破壊するために、彼女は俺の前を横切る。その時、俺の目に映ったのは2つ。
一つは、彼女の手。弓の端を握りしめる手。そこには大小さまざまな切り傷や刻まれ、手の内側に少ない数の内出血らしき痕があった。
弓一本、それも手袋もない素手で棚を破壊し尽くしたのだ。少なくない傷を負い、それこそ振るうごとに弓の反動で手の平に看過できない痛みがあったかもしれない。それに構わず、彼女は弓を振るったのだ。
そしてもう一つ。それは、彼女の横顔。
いつもの無表情の上にあった、目尻から伸びる一筋の痕だ。
「……何?」
ふいに、加賀の声が聞こえる。いや、俺に向けて投げ掛けられる。
上を向くと、彼女は俺を見下ろしていた。そこにあったのはいつもの無表情。そして、
それを見ないように視界を下げる。次に映ったのは、先ほど見た傷だらけの彼女の手。その手首を掴む俺の手だ。
「……痛いのだけど?」
ふいに投げ掛けられた加賀の声。それと同時に、彼女の手は振りほどこうと力が入る。だが、俺はその手を離さない。言葉通り、掴まれたことで痛みがあるだろう。だが、離さない。
それは何故か。
「加賀」
「……何?」
彼女の名前を呼ぶ。すると、加賀は答えてくれた。そこに感情はない。ただ、名前を呼ばれて、それに答えただけ。
だが、そのあと続いたのは沈黙だった。俺は、それ以降黙ってしまったのだ。
「……提督?」
また、加賀の声が聞こえる。だが、それに答えない。いや、答えられない。答えたくないわけでもない、答えられないのだ。
だって、それは。ただの、ただの――――。
「バーカ」
突然横やりが入る。その方を向くと、腕を組んで仁王立ちしている山城だ。彼女は少しだけ上体を逸らしながら、何処か俺を見下すような姿勢で立っている。その目は俺をとらえていた。
だが、その目は先ほどの侮蔑も、刺すような冷たさもない。 まるで、駄々をこねる子供を前に頭を抱える母親のような、あらゆる手を尽くしてご機嫌を取り、ようやく思い通りになったような、そんな顔だ。
「さっさと吐いちまえよ、『万が一』をさぁ?」
『万が一』――――彼女が言ったのは、万が一にあるかもしれない、『他の理由』。
逃げたい、とか。辞めたい、とか。解放されたい、とか。
それらとは違う、万が一に存在するかもしれない『他の理由』
「みんなを、守りたい」
そう、声が漏れていた。かすれるような声だ。絞り出したかのような声だ。何かの拍子に別の音が鳴れば、それにかき消されてしまうほどに小さな、か弱い声だ。
俺は、あんなに苦しそうな顔をした榛名を否定してしまったけど。雪風の命を危険に晒し、その姉から許さないと宣言されたけど。
誰一人取りこぼすことなく彼女たち全員の命を守れるどうか、正直不安で不安で仕方がないし自信もそこまでないけど。
それでも、『みんなを守りたい』
「みんなに、此処に帰ってきてほしい」
そう、音が漏れた。蚊の鳴くような音だ。同時に、視界がわずかに滲んでいた。よく見えなくなった視界で、加賀の手が動いた。
俺は撤退の判断さえ私情で渋ってしまった。判断することを、俺が答えを、正解を導くことを恐れていた。
今まで全ての戦闘指揮を無能だからという理由で丸投げしていたし、ずっと逃げ続けていた。正直、本当に彼女たちに的確な指示を出来るのか、彼女の命を預かる資格があるのか、そもそもここにいてもいいのかすら分からない。
そんな不安にずっと押しつぶされていて、ずっと帰ってくる場所から離れようとしたような俺だけど。
それでも、『みんなに帰ってきてほしい』
「みんなの、傍にいたい」
そう、想いが漏れた。紙のように軽く、息を吹きかけるとどこぞへ飛んで行ってしまうかのようなほど、ちっぽけで、何の価値のない様に見える想いだ。
そんな想いを掬い取るかのように、なにもかもがぼやけた視界の中で、自分の手が誰かの手に包み込まれる感覚があった。
俺は書類整理もままならない、指揮もできない、できるのはせいぜい飯を作ることぐらい。むしろ、今日まで提督としてここにいられたのかが不思議でならない。
そして、最前線になることが確定している場所に、提督としての力量が何よりも必要とされる場所で。そのどれもこれを持っていない『何もできることがない俺』に、ここでできることがあるのか? 残っているのか? そもそも
それを今、現時点で指し示すことはできないし、証明することもできない。
それでも、『みんなの傍に居たい』
そう、『俺はみんなを守りたい』し、『みんなに帰ってきてほしい』し、『みんなの傍に居たい』。
でも、それは背反する願いだ。
俺はみんなを守りたい。もし守ることを考えると、俺はここを離れて指揮権をつかさに譲渡した方が良いと思っている。みんなを守るためなら、俺はみんなの帰りを待つことも、みんなの傍にいることはできない。そう思っていたから、曙や夕立、龍驤や扶桑の意見を退けていた。
だが同時に、みんなの傍にいたいという想いの方が強いことも自覚していた。そして、どちらを取ることもできないことも分かっていて、その選択を迫られていることも理解していた。
その上で、それを
この判断で、みんなが沈むかもしれない。みんなが傷つくかもしれない、みんなが悲しむかもしれない。俺がここに残った場合、その可能性は大いにあるだろう。そして、その責任は全て俺にかかる。
当たり前だ、それが提督というものだからだ。
そして何より、俺はついこの間、失敗している。判断することを渋り、答えを出せないままだった。それは誰も沈むことはなかったが、俺にとって明確な失敗であった。
だから、怖かった。
今度こそ、
それは全部、あり得るリスクだ。ここが最前線になるが故に、確実にあるリスク。
それを加味しても、俺は俺の『答え』を―――吐いて捨てるようなほど軽い『
俺自身のことですら、俺自身が判断することを避けていたのだ。
なので、誰かの言葉を待っていた。
いや、正確にはこの鎮守府でも屈指の影響力を持つ存在。それに当てはまるのは、一人しかいない。
――――金剛だ。
彼女が必要だと言ってくれるなら、俺はここに残ることを選んだ。
彼女が居てもいいと言ってくれるなら、俺はここに居ることを望んだ。
彼女が言うなら、彼女が言ったから、
我ながら、クソみたいな考えだ。本当に、提督としてあるまじき、風上にも置けないような。情けない男だ。
そして、彼女はそう言ってくれなかった。むしろ、俺をここから離れさせることに賛成だった。
そして何より、俺がここに居ることを―――俺の『我儘』だと断じた。
そうだろう。そんな自分勝手で、誰かに責任を押し付けようとしていたんだ。そんなの、『我儘』以外の何物でもない。
故に、彼女はそれを我儘だと断じた。お前の責任を背負わすな、と。お前のケツ拭きなんかゴメンだ、と。そう思わなかったかもしれないし、そう思っていたのかもしれない。
……ああ、今考えると、『残らなかったこと』すらも彼女に責任転嫁しているな。ハハッ、性根まで染み込んでらぁ。
そんな俺だ。やっぱり、誰かに責任を押し付けるような、クソみたいな男だ。
今まで良い顔をできていたのも、結局は俺自身に責任を負わない立場だったから。もしくは、全てちゃんと上手くいく算段が付いていたから。落としどころが見えていたから、躊躇なく飛び込めた。この身を賭して、動くことができた。
その点で言えば俺の役目は―――できることは、もうなくなったんだ。これは変えようのない事実であり、絶対に逃れない誇り高き
そうやって己を守り、そして殺してきた。それはあの時から、そして今日まで変わらない。結局、加賀が教えてくれたように、みんなが俺の価値を差し出してくれたが、俺は受け取ることをしなかった。今までやってきたことが、どうしても俺のおかげでできたんだ、って、思えなかったからだ。
挙句、何も保証も責任も負えない局面に遭った時。俺は判断を放棄した、責任を放棄したのだ。
そんな存在だ。崇高でも、聖人でも、清く美しい存在でもない。その辺に転がっている石ころみたいな存在。そう断じられても、黙って受け入れられる存在。
そんな存在が、そんな存在である俺が。そんな存在である俺だとしても。そんな存在であるからこそ俺は――――
「此処に、この鎮守府に……俺は、居たい」
そう、ようやっと、ずっとずっと心のうちに秘めていた『答え』を
与えられた役目をこなすことが出来なくても。
誰かの悲しみを和らげることも、しんどいことや辛いことを失くしたり、傍にいて、寄り添ったりすることが出来なくても。
誰かに必要とされなくなっても、誰にも目を向けられなくなっても、誰かのために動くことが出来なくなっても。
俺は、ここに居たい。この鎮守府に居たい。この鎮守府に居て、みんなの帰りを待っていたい。
いや、違う。俺はここに帰ってきたいのだ。ここに、みんながいる鎮守府に。何処に行ったとしても、俺はここに戻ってきたい、帰ってきたい、還ってきたい。
だってもう、此処は俺にとって、絶対に失いたくないほど大切な、『還る場所』だから。
「……やっと、
そう、加賀の声が聞こえてくる。ため息交じりの声だが、その手は―――俺の手を包み込むその手は暖かいまま。まるで貴方が言ったことを、少なくとも私は否定しない、そう言いたげに。これも俺の勝手な妄想だ。だけど、そう勘違いさせてくれるほど、その手は優しかった。
「でぇ~? 次はどうするのー?」
ふいに飛んできた声。それは山城であり、彼女はすぐそばのソファーに身体を預けていた。だが、その目はずっと俺を見つめている。
そこに侮蔑も冷たさもない。何処か呆れているような気もするが、何故か面白いものを見るような目をしていた。
それを見たとき、俺は何故か既視感があった。いや、何故かではない。前もあったことだ。
その時やったことを。もう一回
「加賀、俺は―――」
「それ、もっと
そう言おうとしたら、すぐさま加賀からツッコミが返ってくる。そうだな、確かに、現時点でもっと言わないといけない『みんな』が居た。
俺はすぐさま起き上がり、近くに散乱していたティッシュをひっつかんでみっともない顔をどうにかする。その間、加賀も立ち上がって先ほど自分が破壊し尽くした残骸をてきぱきと掃除していく。
「これ、使って」
なんとか人前に出れる顔になった時、加賀からそういわれて黒い端末を差し出された。見たところ、手のひら二回りほどの大きさがあるタブレットだ。見たことないけど、こんなのあったっけ?
「そこに、
「へ?」
加賀の口から出た言葉に、思わず動きを止める。まじまじと顔を見つめると、彼女はいつもの無表情に薄く笑みを浮かべる。そのまま今しがた片付けていた残骸、そして彼女の魔の手を逃れたもう一つの棚を指さした。
「以前から記録管理システムを更新しようって大淀と相談していてね? ちょっと前から、少しずつ情報を移していたの。そして、つい昨日全ての記録を移し終えてね。動かすのもだるいから、近々盛大にぶっ壊す予定だったのよ」
「……聞いてないよ?」
「どうせ
俺の言葉に、加賀は少しにらみつけるような目つきでそう刺してくる。うう、それを言われると何も言えない……ちなみに、引継ぎ資料などもまとめていたから、わざわざ紙にまとめる必要もなかったそうだ。
「まぁ、ここ数日分の仕返しだと思ってちょうだい」
「……あい」
溜飲が下がったのか、珍しく笑顔を浮かべる加賀を前に、俺はただ何も言わずに返すしかない。だが、次の瞬間、俺の背中は彼女の手によって押されてた。
数歩歩き、そこで振り返る。
そこに居たのは、俺に向けて握りこぶしを向ける加賀。その顔はいつも通り無表情であったが、何処か期待に満ちた顔をしていた。
それを見て、俺は何も言わずに頷き、同じくこぶしを差し出す。俺のこぶしは彼女のこぶしに触れ、互いに軽く押し合うことで離れた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
加賀の声に、俺は応える。そして、そのままソファですごい顔をしている山城を無視して、扉を開けた。
「わぁ!?」
「おッ」
廊下を出たとき、すぐ横で小さな悲鳴が聞こえる。その方を向くと、何故か床にへたり込んでいる雪風がいた。胸を押さえながら肩で息をしている。驚かせちゃったか? というか―――
「ここで何してるんだ?」
「い、いえ!! たた、たまたま前を~通りかかった~だけですよ~?」
当然の疑問をぶつけると、何故か雪風は視線を泳がせてわざとらしく口笛を吹く。というか、口笛できないから口をすぼめてヒューヒュー息を出している。あからさまに怪しいぞ。
―――――お、そうだ。
「ちょうどいい! 雪風も来てくれ!」
「……へっ? ひぁあ!?」
そう言って、返答も聞かずに雪風の腕を掴んで強引に立たせて、その背中と膝裏に腕を回しそのまま持ち上げる。彼女の身体は軽く、いとも簡単に持ち上げられた。対して、いきなり持ち上げられたせいでバランスを保つため、俺の首に腕を回してくる。
「あ、あの!? そ、その、し、しれぇ……?」
「うし、じゃあ行くぞ!!」
腕の中で石みたいに固くなる雪風にタブレットを持たせ、俺は意気揚々と歩きだす。雪風もまさかそのまま歩き出すとは思わなかったのだろう。何故か小さな悲鳴を上げながら、己とタブレットを落とされまいと俺の身体にしがみついてくる。そのまま、俺たちは廊下を進んでいいった。
「つつ、つかぬ事をお聞きしますがしれぇ!!」
「なんだ?」
途中、しがみつきながらも雪風がそう声をかけてきた。普段使わないような言葉だな、と思い彼女に目を向ける。すると、何故か雪風は目が合った瞬間赤くなり、タブレットの影に顔を隠してしまう。
「え? 大丈夫か?」
「だだだだだだ大丈夫です!! ちょっと近い……いえ、雪風は大丈夫です!! ハイ!! じゃ、じゃなくて!!」
普段聞かないような声色でそう答えた雪風。そう答えながらも顔の大部分をタブレットで隠した彼女は、なんでもないような質問が投げかけられた。
「……その、しれぇの『幸せ』って、なんですか?」
彼女から投げ掛けられた問い――――俺の『幸せ』ってなんですか? なんて。
突拍子もないかつ曖昧で、場合によっちゃ答えに窮する問いだ。だけど、今の俺にとって、なんてちょうどいいタイミングだと思う。
だって、ついさっき。俺は『俺の答え』を、『俺の願い』、ひいては『俺の幸せ』を引っ張り出して、ようやく声に出せるようになったのだから。
だから、恥ずかしげもなく。いや、こうして『幸せ』って言われると、ちょっとこっぱずかしくもなる。だけど、俺はその問いに対する答えを、今なら、いやこれからも惜しげもなく答えられる。
「みんなと――――此処の鎮守府のみんなと、何よりも大切な此処を、誰よりも大切なみんなと一緒に守っていくこと! かな」
そう、はっきりと口にする。こうして口にすると、すっごく恥ずかしいことを言っているようだ。でも、仕方がない、そうなのだから。一寸の狂いもなく、オブラートにも包まず、誤魔化すこともしない。
正真正銘、言葉通り。『俺の答え』そのものだからだ。
それを聞いた雪風は一瞬呆けた顔をするものの、すぐに表情を引き締め、いつもの溌溂とした笑顔を向けてくれた。
「良いですね!! 一緒に、守っていきましょう!!」
彼女の言葉に、俺はちょっぴり驚いた。まさか、肯定されるなんて思わなかったからだ。
そして、同時に俺の子供みたいな答えが、誰かに受け入れられたのがうれしかった。
嬉しさのあまり舞い上がってしまったのだろう。そのまま、俺は歩いていたはずの足を速めて、走り出してしまう。
「わ!? わ!? し、しれ!? しれぇ~~~~!?」
腕の中で悲鳴を上げる雪風を抱えたまま、バカみたいに走り続けた。
そんなこんなで、ようやく目的地が見えてきた。既に、雪風は悲鳴すら上げずに俺の身体にしがみついている。なので、彼女を下ろすことなくその状態のまま、目的地の扉を開けた。
「たのもー!!」
声を張り上げなら、扉を開ける―――いや、もはや突撃する形で中に飛び込んだ。
突撃したのは俺の寝室、もとい、作戦会議室。
中にはつい先日勝手に模様替えさせられた机が中心にあり、そこに広げられた地図の周りに
もちろん、それは今も一緒で、中ではみんながそれそれ制服だったり寝間着だったりの格好で、くつろぎ半分、真剣半分の緩い空気で戦術を練っていた。
そんなところに勢いよく飛び込んだとなれば、一同の視線は俺に集まるわけだ。
「あーーーーーーーー!!!! ズルーーーーーーーーーーい!!!!」
最初に声を上げたのは夕立。いきなり飛び込んできた俺の声で目が覚めたようで、目をこすりながら俺を見て、そしていきなり目をかっぴらいて大声を上げながら俺の指さしたのだ。
「ず、ずるいって?」
「ズルい!!! ズルいっぽい!!!! いますぐ夕立と変わるっぽい!!!!」
ものすごい剣幕でまくし立ててくる夕立に若干引きながら、周りに助けを求める。
そこには、「あらあら~」と口元を抑えて静かに微笑む扶桑。
瑞雲を磨きながらどこか呆れたような表情を向けてくる日向。
口元を両手で抑えながら机に上体を預け、そのまま笑いをこらえるように震えている龍驤。
そして、あれ? 曙は――――
「さっさと下ろせぇセクハラ野郎ォ!!!!」
曙の声が後ろから聞こえてきて、同時にケツに強烈な一撃が入る。それも、ちょうどガタがきはじめていた腰回り。そこにピンポイントに衝撃、おそらく蹴りを入れられた。その痛みは、想像を絶した。
「あッ!? あ、あぁ、、、、!?」
腰に響く激痛を耐え抜き、何とか倒れないように全力でバランスを保つ。その際、なんか胸のあたりに「むにゅ」と声が聞こえた気がする。
「な、なななななに更に抱え込んでんのよヘンタイ!!!!」
「いや、今のは曙のせいだぞ」
後ろから曙の悲鳴じみた声が聞こえ、前から冷静にツッコミを入れる日向。それに、我慢ができず伏せながら吹き出す龍驤。
「なんだ……このカオス空間は」
「提督ぅ~? 多分、ぜ~んぶあなたのせいよ? とりあえず、その子を下ろしてあげたら?」
扶桑の緩いツッコミを受けて、俺は痛みに顔をしかめながらその子とやらを見る。その子は、腕の中で顔を真っ赤にさせながら目を回してグッタリしている雪風だ。
何故こんな状態!? って、俺がバランスをとった時に、間違えて抱え込んじゃったからか。
「ごめんな、雪風。ほら、降りていいぞ」
「い、いえ……ゆきか、雪風は、だいじょーぶです……むしろもういっか―――」
「さっさと離れろ、エロネズミ」
いつもの舌足らずでしゃべる雪風を、何故かすごい剣幕で引きはがしていく曙。なんでそんな怖いの? そんな曙をしり目に、腰に手を当ててぷりぷり怒る夕立が近づいてきた。
「雪風ちゃんだけズルい!!!! 夕立も『お姫様抱っこ』してほしいっぽい!!」
「…‥なんだ、そんなのいくらでも―――」
そこで、俺は言葉を途切れさせざるを得なかった。なぜなら、その瞬間どこからともなく夕立の身体が近づいてきて、まるで猫のようにスルリと入り込んできた。
そして、どうやったのか分からないが、何故か俺が彼女をお姫様抱っこする状態で納まった。
「夕立ィ!!!!」
「これはセクハラじゃないっぽい!!! 同意の上っぽい!!!!」
「そういう問題じゃないわアホ犬!! んで、あんたもなに撫でてんのよ!!」
すぐさま声を上げる曙を無視して、夕立はそう言いながら俺の胸に顔をこすりつけてくる。髪形のおかげで犬っぽいなと思っていたが、今は完全に猫である。猫が懐に来たなら撫でるのが普通では? そう返したら殴られました。
「でぇ~や……急にどうしたん?」
そんなこんなで、ようやく場が落ち着いた。いや、騒がしくした原因である俺が言うのもなんだけど、ともかく一同地図が広げられた机を挟んで、俺の向かい側に龍驤以下演習メンバーが、対して俺側は俺と雪風が座っていた
「急にアホみたいなテンションで入って来よって……へんなクスリにでも手ぇ出したんかおもたわ」
「ま、まぁ、なんだろ、変なテンションであったのは認めるよ」
「初めて見たわよ~、提督もあんなことするのね?」
「すご~く誤解を生むような言い方はやめてくれ」
楽しそうに笑う扶桑に釘を刺すが、どうやら糠っぽい。まぁ、いいや。
「改めて、みんなに伝えておきたいことがある」
そう前置きをする。その言葉に一同の顔が引き締まり、視線が俺に集まる。それを受けて、俺は先ほどの言葉を発しようとした。
だが、その瞬間、さきほど抱いた不安が――――『本当に、みんなに受け入れられるだろうか』が過ぎった。そのせいで、言葉に詰まってしまう。
その時、横の雪風が俺の袖を掴んできた。彼女に目を向けると、彼女は俺と目を合わせて、『大丈夫です』と言いたげに頷いてくれた。
それを受けて、俺は一度目を閉じて深呼吸をし、閉じた目を開きながら再び目の前にいる『みんな』に向き直った。そして、もう一度息を吸い込み、口を開く。
「俺は、みんなを守りたい」
最初に発した言葉。それを受けても、みんなの表情は変わらない。半分ぐらいは、『知っているよ』という顔。もう半分は『だから何だ?』という顔。
「正直、みんなを守ることを考えると、俺はここから離れた方が良いと思う」
そう、次の言葉を発した。それを受けて、半分の顔が曇った。『知っているよ』と言ってくれていた勢が、『やっぱりか……』と言いたげな顔に。
「でも、それ以上に……それ以上に、俺はみんなの傍に居たい。ここに居たいと思っている」
そう発した。今度は全員の顔が同じ感情に染まる。『信じられない』といった顔だ。
「俺はみんなが、この鎮守府にいるみんなが本当に大事だ。誰一人欠けることなく、みんな無事にここに帰ってくる、還ってこれる場所。みんながそう思っているか分からないけど、少なくとも俺はここを――――この鎮守府を『みんなの還ってくる場所』にしたい」
そう、言葉をつづける。
若干視界がぼやけている気がする。ところどころ、つっかえそうになる。
だが、その度に傍らの雪風が、俺の手を優しく握ってくれる。
そのおかげで、多少ぎこちなくとも、しっかり目を見て、『みんな』と話せる。
「俺は、提督らしいことはあまりできない。現に指揮もできるか分かんないし、時には失敗することもある。でも、それでも、俺は『みんなの還ってくる場所』を、何よりも大切な此処を守りたいんだ。そのために、みんなの力が必要だ。何よりも大切な此処を守るために、誰よりも大切なみんなの力を借りたい」
視界のぼやけがひどくなった。それは、目の前にいるみんなの表情が見えないぐらいに。
どんな表情をしているだろうか。
どんな感情を抱いているだろか。
もしかして、こんなに頼りない男が自分の提督なんだと、失望しているかもしれない。
でも、だからこそ。だからこそ、俺一人ではここを守ることが難しいからこそ。
「『我儘』なのは分かっている。むしろ、俺の『我儘』でしかない。それを承知で、お願いする」
そこで、俺は言葉を切って頭を下げる。
それは今まで態度を曖昧にして、彼女たちの意見や動き、それらを無視し続けてきたことへの『懺悔』。
これだけでは返しきれないであろうが、それでも少しでも返していくという意思表示。
ひどいことを言った、ひどいことをやった、何より心労を負わせて、それでも歯を食いしばってこうして集まって、明日の演習のことを考えてくれた。
それに、俺は
「どうか、どうか俺に力を貸してほしい。俺が何よりも大切な此処を守れるように、誰よりも大切なみんなの傍に居られるように。俺と一緒に、此処を守り続けてほしい。俺を――――」
そこで再度顔を上げ、ぼやけてほぼ見えなくなったみんなに向けて、俺の答えを、願いを、雪風に伝えた幸せを向けた。
「みんなの傍に、居させてほしい」
そう口にしてから、どれだけ時間が経っただろうか。
ぼやけた視界の中で、目の前にいるであろうみんなは動かない。
我ながら、情けないことを言っていると思う。でも、仕方がない。これが本心だから。これが、俺の答えだから。
これが、俺の『願い』だから
「司令官」
ふいに、龍驤の声が聞こえてきた。同時に、ぼやけた視界の中、一つの人影がこちらに手を伸ばしてくる。それはまっすぐこちらに伸びてくる。躊躇なく近づくそれに、俺は思わず目を閉じた。
「よぉ言うた!」
「ふがっ」
ふいに聞こえた彼女の声、それに俺は変な声で返すことしかできなかった。何せ、その声が聞こえたと同時に、鼻のあたりにティッシュを押し付けられたからだ。
「ったく!! 言うのが遅いわアホ!! 二日前ぐらいに言うとけやボケェ!! このままやと貫徹コースやないか!!」
「うが、ふがっ、ふぅ!?」
「言いたいことは分かるけど、とりあえずそのみっともない顔をどうにかしなさい。夕立ィー!! さっき片づけた駒出してー!」
「ぽーーい!!」
「あら~、じゃあ、私は間宮に新しいお茶とお菓子でももらってこようかしら?」
「私も同行しよう。瑞雲の運用について、歩きながら話したい」
視界の外で、いろんな『みんな』の声が飛び交う。その声を聞きながら、俺は龍驤に押し付けられたティッシュで顔をどうにかしようとする。
だけど、それでも、溢れてきてしまう。顔を台無しにする、視界をぼやけさせる涙が。だけど、いつまでもこの状態にさせておくわけにはいかない。
何度かティッシュをもらいつつ、俺は無理やりみっともなかった顔をどうにかする。ようやく人前に出せる顔になったので、傍らの雪風を見る。彼女は片手にティッシュの箱を持ちながら、周りを見回していた。
ふと、俺の視線に気が付き、そのままニコッと笑いかけてくる。まるで、『ほらね、大丈夫だったでしょ?』とでも言いたげに。
「おい、なにイイ雰囲気になってんや? そこのエロネズミ! お前もこのまま朝まで付き合ってもらうで!!」
「誰がエロネズミですか!? ていうか、あたしも一緒に考えるんですか!?」
「なんや、そのために司令官が呼んだんちゃうん? まさかお姫様抱っこされるためだけにくっついてきたんか!?」
「ちち、違います!! あれは、なんか事故で……って、もういいです!! いいでしょう……朝までやったりましょう!!!!」
売り言葉に買い言葉か。雪風は顔を真っ赤にさせながら龍驤の元にすっ飛んでいく。そのまま、あれよあれよという間にお茶にお菓子に、海図に、駒に。まるで作戦前夜の夜、最終確認のような雰囲気になる。
まぁ、これから一から練っていくんだけどな。
そんな言葉を飲み込み、俺は一同を見回して大きく息を吸う。そして、お前が言うなといの一番に言われそうな言葉を宣言するのだった。
「ただいまより、明日行われる第二四鎮守府との合同演習。その作戦会議を始める!」