新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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提督の『計画』

「さぁしれぇ!! 着きましたよ!!」

 

 そう言いながら元気よく食堂の扉を開け放つ雪風に引っ張られ、俺は食堂に入った。

 

 時間も昼を大分回っているためか、中にいる艦娘たちはまばらだった。まぁ、そのまばらな彼女たちも俺の姿を見つめた瞬間帰り支度を始めたんだがな。もう少しで俺たち以外いなくなるだろうよ。

 

 そんな周りの空気をモノともせず、雪風はズンズンと厨房の方へと進んでいく。その後ろ姿を、俺は複雑な思いで見つめていた。

 

 

 北上の話を聞いて、俺の中で雪風と言う存在がフワフワとしたモノになった。

 

 それは、いつもの笑顔や今までの言動、そして今こうして俺の手を引っ張る彼女が、全て取り繕われたものではないだろうか、と言う不安からだ。

 

 雪風はどんな時でも笑顔を絶やさない。聞こえはいいが、裏を返せばどんな辛い状況でも同じように笑顔を浮かべていると言うことだ。仲間が轟沈した時も笑顔を浮かべている訳ではないが、自身に降りかかる理不尽な罵声や暴力、そして仲間か傷付き、轟沈していく姿を見ても、涙1つ流さないのは異常だ。

 

 

 それはまるで、感情を持たない『兵器』そのものではないか。

 

 

 しかし、その思考に待ったをかけてくるのが今まで彼女と接してきた経験だ。

 

 俺は、雪風が笑ったり、怒ったり、しょんぼりしたり、不安げに見つめたり、優しく微笑んだりする姿を見てきた。それが、取り繕っているようにはどうも思えないんだ。あれは、紛れもなく人間(おれたち)と同じものだった。そう断言していい。

 

 しかし、それも全て取り繕っているものであるかもしれない、と言う考えも無きにしもあらずな訳で。その悶々としたモノが不安となっているのだ。

 

 

 まぁ、その不安の根元である雪風は俺に屈託のない笑顔を向けてくるんだがな。

 

 

「……ご無事で何よりです」

 

 そんな俺たちを出迎えてくれたのが、低い声でそう言いながら頭を下げる間宮。彼女の纏う空気は相変わらず刺々しい。いつかその空気も変わってくれませんかねぇ。

 

「どうぞ」

 

 そんなことを考えていると、頭を上げた間宮が呟くようにそう言ってカウンターの端を上げて厨房へと続く通路を作ってくれる。まだ何も言ってないんだが、雪風を連れている時点で分かり切ってるか。

 

「サンキューな」

 

 短くそう言ってすぐさま通路から厨房に入ろうとするが、何故か間宮が素早く机を下げて通路を塞いでしまった。

 

 いや、俺の前に雪風が何食わぬ顔で厨房に入ろうとしたことが原因なのだろうが。

 

「なんで雪風はダメなんですか!! しれぇに幸運艦の実力を見せつけるチャンスなんですよ!!」

 

「そう意気込んで、この前に汚れ一つない真っ白な厨房を黄色に染め上げたのは誰だったかしら? それも後片付けもせずにどこかに行っちゃうし……あれ、私一人で掃除したんですよ? ただでさえ落ちにくいあの色をシミ一つなく落とすの本当に大変だったんですからね。そんな雪風ちゃんは当分厨房に出入り禁止です」

 

「そ、そんなぁ……」

 

 おい、聞き捨てならないことが聞こえたぞ。あの日、妙に食材が減っているような気がしたんだが、雪風のせいだったか……てか、この真っ白な厨房を黄色に染め上げたって何をどうしたらそうなるんだよ。カレーでも壁にぶちまけでもしない限りそんな状況に出来ないぞこれ。

 

 つうか、そんな奴に飯を作ってもいいのか……?

 

 しかもカレーのあの色は落ちにくいことで有名だし……いや、むしろそれをここまで綺麗にした間宮さんすげぇな。流石、補給艦。家事スキルの高さは伊達じゃないってか。

 

 そんな思考をしている俺の目の前では、間宮の出禁令を喰らった雪風がカウンターをよじ登って厨房へと侵入を図っている。無論、間宮がそれを見逃すはずはなく、呆れ顔で雪風を撃退する光景が目の前で繰り広げられるわけだが。

 

 しかし、それも不意に投げかけられた言葉によって終わりを告げる。

 

 

 

「……『補給』、お願いしてもいいかしら?」

 

 何処か疲れた声色に俺たちはその方を振り向く。そこには、膝まである赤い髪をポニーテールを憂鬱そうに揺らし、疲れが見え隠れする表情の少女が立っていた。

 

 

 ポニーテールと同じ色のアホ毛に半目開きの緋色の瞳。その瞳から――――いや、ダランと垂れた両腕やちょっと前のめりの姿勢から疲労の匂いを漂わせている。そんな彼女の服装は異様で、上は他の艦娘たちが着ているようなセーラー服の上着。なのだが、下はゴム製の黒スパッツのような……いや、これ明らかにスクール水着だよな?

 

 

 まぁ簡単に言うと、スクール水着の上にセーラー服の上着だけを着ているのだ。

 

 何? これも初代の趣味なの? 初代ってやっぱり変態だったの?

 

 

「イムヤちゃん、オリョクルお疲れさまね。この後はお休み?」

 

「残念だけど今はゴーヤの入渠待ちよ。ゴーヤの入渠と『補給』を終わらせたらまた出撃するわ。だから、4人分(・・・)お願いね」

 

 間宮の問いにイムヤと呼ばれた艦娘はため息交じりにそう応えながら後ろに目を向ける。その視線の先には、イムヤよりも疲れ切った顔で椅子に座っている少女が二人。

 

 一人は金髪碧眼、頭に水兵帽、顔に赤渕の眼鏡をかけておりその奥の瞳には疲労の色が見える。もう一人は青紫色の髪を何か説明できないような結び方でまとめており、金髪の艦娘同様その赤い瞳には疲労の色が浮かんでいる。

 

 

 そして、その二人はイムヤのスクール水着にセーラー服ではなくただのスクール水着だ。因みに金髪の子に関しては白いニーソックスを履いているし。なんだこの男の欲望をこれでもかって詰め込んだトンデモ衣装。

 

 

 やはり初代は変態だったんだな。

 

 

「潜水艦隊さん、お疲れ様です!!」

 

 今までカウンターによじ登っていた雪風は手早く降り、イムヤの元に駆け寄って満面の笑みを浮かべて敬礼する。それを受けたイムヤは疲れた苦笑を返す。何か姉妹みたいに見えなくもないな。

 

 

 ん? 潜水艦隊って確か……。

 

 

 

「襲撃の時、哨戒を怠った奴らか?」

 

 

 それが思いついたようにそう言った瞬間、その場の空気が凍る。いや、正確にはイムヤが俺に視線を向けた。

 

 

 先ほどの疲労を感じさせない、殺気に満ち満ちたを視線を。

 

 

「……あんた、新しい司令官?」

 

 先ほど話していた人と同一人物とは思えないほど冷え切った声色で、イムヤは俺に問いかけてくる。それと共に向けられる視線に、背中に冷たいモノを入れられたような寒気を感じる。そのせいで言葉を発せずに、俺はただ頷くしかなかった。

 

 

「……そう」

 

 それだけ呟いたイムヤはそれ以降黙り込んでしまう。ただ、その視線は俺に向けられたままだった。そのため、思わずイムヤから視線を外す。

 

 

 その視線は、イムヤの向こう側に座っていた青紫色の髪の艦娘の目と合った。

 

 

 

 

「ごごごご、ごめんなさいなのね!!」

 

 

 その瞬間、彼女はそう叫びながら椅子から転げ落ち、俺に向かって土下座した。突然のことに目を丸くする一同―――いや、その中でイムヤはその姿を悲し気な目で見つめていた。

 

 

「イク達が哨戒を怠ったのは事実なの!! で、でもあの時は連日のオリョクルだったの!! 寝不足で仕方がなかったの!! だから今回は許してほしいの!! お願い……お願いしますなの!! 今後、こんなことが無いようにするの!! だ、だから今回は……今回だけは許してなのぉ!!!!」

 

 そう言って何度も何度も土下座を繰り返す青紫色の艦娘――――イク。彼女が頭を下げる度にゴンッ、と言う鈍い音が響き、その度に彼女の額は赤く染まっていく。

 

「ハチからも……お願いします」

 

 そう声を漏らしたのはいつの間にかイクの隣でへたり込んでいる金髪の艦娘―――ハチだ。彼女は土下座をしない。その代わり、その顔には彼女ぐらいの年頃の子が絶対に浮かべることが出来ない悲痛に満ちた表情を浮かべている。

 

 

「こんなことをお願いするのはお門違いだって分かってます。他の皆からすれば都合が良すぎることも、無責任であることも重々分かってます。……でも、でも今回だけは……今回だけは見逃してもらえませんかぁ? ハチ達はもう……」

 

 

 そこで言葉を切ったハチの瞳から、大粒の涙が零れた。

 

 

 

「痛いのはもう……嫌なんです……」

 

 

 その次に聞こえたのは小さな嗚咽だった。ハチは顔を下に向け、必死に手の甲で涙を拭い始める。横のイクもいつの間にか額を床に着け、小さな嗚咽と共に身体を震わせていた。

 

 彼女たちが今までどのような()を受けたのか想像するに易い。ましてや、それが彼女たちに深い傷を負わせたと言うことも痛いほど分かった。しかし、これから更に彼女達を傷付けることになるかもしれない、と言う不安もあった。

 

 だがしなければならない、と決意し声を掛けようとした時、俺の視線にフワリと揺れる赤い髪が映った。

 

 

 

「……罰ならイムヤが受ける。だから、この子達には手を出さないで」

 

 

 そう言って、床に崩れる二人を守る様に立ちはだかるイムヤ。その顔には他の二人のような悲痛の色は浮かんでいない。

 

 

 ただ、純粋な殺気を、俺に向けてくるだけであった。

 

 

 

「残念だが、それは出来ない」

 

 

 そんな三人の様子に、俺はそう言葉を吐きだした。その瞬間、イムヤ達の動きが一瞬止まる。そして、次に聞こえたのは2つの泣き声。

 

 

「……二人に手を出さないで」

 

 

 唯一、言葉を発したのはイムヤ。その目には先ほどよりも強い殺気が窺える。

 

 

「確かにお前たちは連日の……オリョクル? まぁ、たぶん出撃で疲労が溜まっていたのは分かる。それで敵空母を見逃してしまったのも仕方がないと言える。が、そのせいでうちの鎮守府は甚大な被害を受けた。その大きさはこの後も駆り出されるお前らが一番分かっているはずだよな? それに曲がりなりにも俺はここの提督。俺はこの鎮守府とここに所属する艦娘、及び周辺住民の安全を確保する義務がある。だから、今回他の艦娘や周辺住民を危険に晒したお前らを罰しなくちゃならない。そうしないと俺も納得しないし、周りも納得しない。分かるな?」

 

 

 そこで言葉を切って問いかけるも、それに応える者はいなかった。相変わらず殺気を惜しげもなく向けてくるイムヤを尻目に、俺は更に口を開いた。

 

 

「それに、今回お前らは潜水艦隊として動いていた上で敵を見逃した。これは一人の責任ではなく、艦隊全員の責任だ。一人安全地帯でのほほんとしている俺が言うのも何だが、お前たちは命を張り合う戦闘を主にしている、そこで1人のミスが艦隊全体に影響を及ぼすほどの甚大な被害に繋がるか分かるな? 些細なミスが艦隊の全滅をも引き起こす、それを心得させるために連帯責任だ。だから、お前だけ罰を受けるのは無しだ。お前ら全員、同等の罰を受けてもらう。そして―――」

 

 

「そんなことは分かっているわ!! さっさと……さっさと言いなさいよ!! 今度は何をさせるつもり!? モノによっては容赦しないわよ!!」

 

 俺の言葉を遮ったのは犬歯を剥き出しにして吠えるイムヤ。しかし、その言葉とは裏腹にその目から先ほどの殺気は消え失せ、代わりにイクやハチよりも悲痛に満ちた表情を浮かべていた。唇から血が流れているのは、歯を食いしばった際に噛み破ったのだろうか。それほど、彼女にのしかかってくるものだったのだろう。

 

 その姿を前にして、俺は大きく息を吸った。

 

 

 

 

 

 

「明日の朝、食堂に集合してくれ」

 

 

 

 俺の言葉にイムヤの表情が崩れる。目尻に刻まれたしわ、固く結ばれた口許が僅かに緩み、悲痛に満ちた表情から鳩が豆鉄砲を食らったような顔に変わる。

 

 

「は?」

 

「聞こえなかったか? 明日の朝、食堂に集合だ」

 

 何秒か遅れたイムヤの呆けた声。その様子に改めて同じこと告げるも反応はさほど変わらない。ただ呆けた表情のまま首をかしげるぐらいだ。

 

「お前らは哨戒任務を怠り大勢を危険に晒した。その罰として、明日の朝食堂に集合するように」

 

「……何するの?」

 

 俺の言葉にイムヤが声を漏らす。先程までの呆けた表情から不安げに上目遣いで見つめてくる。

 

「悪いんだが、秘密事項だから詳細までは言えない。取り敢えず、今言えるのは人手が欲しいって事だけだ。詳細は明日の朝、集合したときに必ず話す」

 

 そう言うと今まで上目遣いだったイムヤの目から光が消え、疑心に満ちたモノに変わる。信用できない、と言う気持ちが痛いほど分かった。

 

「ただ1つ、言えることがある」

 

 その視線を受けた俺はそう言って膝を折り、イムヤと同じ目線になる。突然のことに動揺する彼女を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。

 

 

 

「初代がお前らに課したことは、絶対にしない」

 

 

 俺の言葉を聞いたイムヤの目が大きく見開いた。そして、彼女の口許が微かに緩む。

 

 

 しかし、次の瞬間イムヤは弾かれたように立ち上がる。いきなりのことに驚いて何も言えなかったが、立ち上がった時に彼女の緩んでいたその口許が固く結ばれたのは見えた。

 

「間宮さん、『補給』を」

 

 俺を一瞥することもなくそう言ったイムヤは後ろで泣き崩れているイクとハチに駆け寄り、二人を立たせたる。イムヤによって何とか立てた二人だったが、嗚咽を漏らしながら手の甲で何度も顔を擦っている。

 

「ほら、もうすぐゴーヤの入渠が終わるわ。3人で出迎えてあげましょ? ね?」

 

 子供をあやすような優しい声色のイムヤに背中を押され、二人は間宮が用意したトレイを受け取る。それを見届けてイムヤは残った二人分のトレイを受け取り、間宮に頭を下げて食堂の出口に向けて歩き出した。

 

「お、おい」

 

「大丈夫」

 

 思わず声をかけると、有無も言わさないと言いたげな声色のイムヤが遮ってくる。その言葉と共に、彼女は初めて見たときの疲れた表情を向けてきた。

 

 

「明日の朝、食堂に集合でしょ? 分かってるわ。命令だし、すっぽかすようなことはしないわ」

 

 それだけ言うと、イムヤはイクとハチを引き連れ食堂を後にした。その姿が見えなくなったから、俺は思わず大きな溜め息をこぼした。

 

「ちゃんと来てくれるかね……」

 

「大丈夫です!! イムヤさんは来てくれますよ!!」

 

 独り言に元気よく答えてくれる雪風。その頭を軽く撫でる。ふとその視線の先に、机を上げて厨房へと続く通路を作って待っている間宮が見えた。

 

「ナイス!!」

 

「えっ!? ああっ!!」

 

 そう言いながら雪風の頭から手を離した俺は素早く厨房へと続く通路に滑り込む。数秒遅れて雪風が走り込んでくるも、間宮によって既に通路は塞がれてしまっていた。

 

「酷いですよしれぇ!! 雪風を一人除け者にして!! 入れてください!! 雪風もそっちでお手伝いしたいですぅ!!」

 

「恨むんなら、あの時後片付けをしなかった自分を恨むんだな。あと、それ以上ごねると飯無しにするぞ?」

 

 その言葉を言った瞬間、あれだけ騒いでいた雪風の叫び声がピタリと止んだ。その代わり、雪風はカウンターに顎をついて頬を盛大に膨らませていた。

 

 

「しれぇのために作ったカレーだったんですよ……」

 

「なら、作ってやるから大人しく待ってろ」

 

 雪風の言葉にそう軽口を叩く。それに雪風は益々ご立腹の表情を向けてきたが、知らないフリ知らないフリ。

 

 

「では、あとはお願いします」

 

「あ、ちょっと待ってくれ」

 

 それを見届けた間宮がそう言ってそそくさと奥に引っ込もうとするのを呼び止める。間宮は俺の言葉に足を止め、クルリと振り向いて不機嫌な顔を向けてきた。

 

「何ですか?」

 

「悪いんだけど、ちょいと知恵を貸してほしい」

 

 不機嫌な顔の間宮にそう言いながら、俺はポケットから封筒を取り出して彼女に差し出す。それを受け取った間宮はブスッとした顔で封筒を開け、中の資料を取り出して目を通し始めた。

 

 無言のまま目を通す間宮。しかし、目が進むごとに彼女の表情が不機嫌から驚愕へと変わっていく。

 

「て、提督!! こ、これは!!」

 

「すまんな、俺の頭じゃ良い案が浮かばなくてよ……それ(・・)の扱いなら間宮の方が慣れているからな。頼めるか?」

 

 資料を手にそう声を漏らす間宮。その顔には驚愕の表情を浮かべており、資料を掴む手は心なしか震えている。まぁ、今まで微塵も考えていなかったことをいきなり頼まれちゃ驚くのも無理ないか。下手したら拒否されるかもしれないし。まぁ、もし断られても土下座して頼み込むつもりだから彼女に拒否権はほぼ無い。

 

 理不尽だと罵られても仕方がないだろう。だが、今回の件はどうしても彼女の手が、この鎮守府で食事の一切を任された彼女だからこそ必要なのだ。そのためなら多少の条件なら何でも呑むつもりだし、最悪俺も手伝うつもりだ。

 

 

 

 あれ、提督の仕事って飯作ることだっけ?

 

 ってか間宮からの反応が一切無いんだけど。そんな衝撃的でした? それとも不本意過ぎて言葉が出ないとか? どちらにしても土下座かな。

 

「あの、間宮……」

 

 恐る恐る間宮の方を振り向いた俺はそこで言葉を失った。

 

 

 

 間宮の目から涙がこぼれていたからだ。

 

 

「ちょっ、間宮さん!?」

 

「提督……」

 

 予想外のことに慌てて駆け寄ろうとするも、間宮の絞る出すような声と、その姿に足が止まってしまった。

 

 目の前の間宮は資料に顔を埋めており、隙間から見える口元は歯を血が出るのではないかと心配になるほど食い縛っている。顔を埋める資料は有らん限りの力で握り締められためにクシャクシャになっており、それを握り締める手や肩、身体全体が時おり聞こえる嗚咽と共に震えているのだ。

 

 先程までのふてぶてしい態度からの変わりように何も言えないでいると、資料から顔を上げた間宮がいつになく真剣な顔つきで見つめてくる。その頬には筋のようなものが幾つも刻まれていた。

 

「これはいつまでにお渡しすればよいのでしょうか?」

 

「え、あ、き、今日中に頼めるか?」

 

 淡々とした口調で投げ掛けられた質問にたどたどしく答えると、間宮は「分かりました」と短く呟くとすぐさま踵を返して歩き出してしまった。

 

 あまりの変わりようにボケッとその姿を見つめる俺を尻目に、間宮は時おり袖で顔を拭う仕草をしながら進んでいく。しかし、奥の部屋へと続くドアの前で立ち止まる。

 

 何事かと思って身構える俺に、間宮はクルリとこちらを振り向いて姿勢を正した。

 

 

 

 

「ありがとうございます」

 

 そう言って、間宮は満面の笑みを浮かべながら頭を下げる。彼女はすぐさま顔を上げ、ドアに向き直ってその奥に消えていく。

 

 

 頭を上げてから消えていくまで、その顔に浮かんでいた満面の笑みが崩れることはなかった。

 

 

「……作るか」

 

 そう言って、俺は包丁を握った。


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