新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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変えさせない『モノ』

「で、イムヤの容態は?」

 

「四肢の欠損はありません。また帰投時に意識がなく一人で入渠させるのは危険と判断したため、入渠補助の妖精を緊急召集させています。ただ集まるまで時間がかかるため、その間はゴーヤちゃんが補助をしています。今は妖精に代わっていると思います」

 

 

 廊下を歩く中、俺は後ろを歩く榛名に問いかける。その問いに、榛名は手元のファイルを開きつつ俺の問いに答えた。横目にその様子を窺った時、そこに居たのは先ほど演習場で見た怪しい笑みではなく、鋭い視線をファイルに向けるとても頼もしい秘書艦であった。だが、それも俺の視線に気付くとすぐに怪しい笑みを浮かべるのだが。

 

 

「ゴーヤが?」

 

「……はい、本当は榛名がやろうとしたんですが。ゴーヤちゃんが、自分がやると頑なだったのでお任せした次第です」

 

 

 それをスルーしつつ俺は疑問を口にすると、榛名はスルーされたのが不服だったのか不満そうに頬を膨らませて答えた。まぁ、そんな顔をされたところでスルーするのだが。

 

 

 にしても、ゴーヤが補助を買って出たか。普通考えたら意識を失うほどの重傷に陥った仲間を助けるため、ってところだろうが、試食会の朝にあった二人の会話からはどうも確執があるようだ。それを踏まえると、ゴーヤが何故補助を買って出たのか、と思うわけだ。俺は双方の気持ちを知っているわけではないから、下手に口を出せないわけだが。

 

 

 ま、少なくとも片方の気持ちを知る術を持ってはいるんだけど。

 

 

 と、それはまだいい。先ずは出撃延期をどうイムヤに伝えるのか、だ。

 

 ただ今日の出撃が明日に延期された、と伝えるだけだからそこまで深刻に考える必要はないかもだが、問題はそうなった理由だ。勿論、それもイクたちがそう言ってきたから、と言えばいい。だけど、何故イク達がそう言ってきたのか、と掘り下げられると少々面倒なことになる。

 

 まぁ、それはイムヤを休ませるため、ってことだけど。むしろ、この理由こそがそもそもの問題なんだが。

 

 

「あ、見えてき……まし……?」

 

 

 ふと、後ろに控えていた榛名がそう声を上げる。だが、それは語尾に向かうほど弱く、小さく、どちらかと言えば言葉を発することよりも己の感情が出てきてしまったようにも見える。まぁ、そうなってしまうのもしょうがないだろう。

 

 

「提督でちか」

 

「何やってるんだ?」

 

 

 その理由である人物に声をかけると、その人は俺の声に腕に埋めていた顔を上げ、面倒くさそうに顔を向けてきた。ピンク髪に同じ色の髪飾りを揺らし、これまた同じ色の瞳とその顔に疲労の色を携えた艦娘。その恰好はイムヤと同じセーラー服にスクール水着と言う選定した奴の性癖がこれでもかと盛り込まれた変態仕様だ。

 

 イムヤ率いる潜水艦隊の一員、伊58ことゴーヤである。

 

 そんな彼女は何故か廊下に腰を下ろし、立たせている両脚を胸の辺りまで引き寄せ、それを抱えるように両腕を回している、要するに体育座りをしているのだ。その背中は壁にもたれ掛かっている、つまり身体は壁と反対側を向いているのだ。

 

 そして、その反対側に在るのは一つの扉。それもただの扉ではなく、そこにはバケツの模様がほどこされた暖簾。俺も風呂場として利用する、今現在はその名の通りの役割を担う場所、ドックだ。

 

 

 ゴーヤはドックへと続く扉の反対側の壁にもたれ、体育座りをしているのだ。それも、一度俺に向けた視線を再びそちらに向け、今までずっとそうしてきたかのように片時も離さず。

 

 

「何やってるって、見ての通り摘み出されたんでちよ。妖精さんが到着したからお役御免だって、必要ないって、そう言われたんでち」

 

 

 視線をドックに向けながら、ゴーヤは乾いた笑い声を上げる。確かに、彼女は笑っていた。だけどその笑い声は、その笑顔は、その姿は、とても笑っているようには見えなかった。

 

 

「誰に?」

 

「そんな汚い言葉、妖精さんが向けると思うでちか? 麗しき我らが潜水艦隊の旗艦様から頂いた、有難いお言葉でち」

 

「その顔も?」

 

 

 俺の指摘に、ほんの一瞬その笑顔に陰りが見えた。しかし、それも次の瞬間には乾いた笑い声と、乾いた笑みに変わる。そんな乾き切った表情を浮かべるゴーヤの顔、正確には頬の辺りがほんのり赤くなっているのだ。色の境界線がハッキリとしているため自然に赤くなったものではない、人為的なものだろう。

 

 

「愛の鞭でち」

 

 

 そう吐き捨てたゴーヤは表情を消し、真顔のまま口元までを腕の中に沈める。ただその目は、何処か遠いものを見つめるように細められたその目は、風に吹かれて揺れる暖簾の向こうに注がれていた。

 

 

「……ご苦労さん。それと、今日の出撃は明日の朝に延期になった。イクとハチはもう食堂に行ってる、お前も飯食ってゆっくり休んでくれ」

 

「了解、ありがとうでち」

 

 

 そんなゴーヤにため息を吐きつつ俺が出撃延期の旨を伝えるも、彼女は俺の方を一切見ずにお礼を述べただけ。それ以降はピクリとも動かず、ただ目の前を見つめ続けるのみだ。その姿に、俺はただ黙って見つめ、榛名は少し困ったような顔でゴーヤと俺を交互に見る。

 

 

「イムヤには俺から伝える、だから―――」

 

「ゴーヤの休む時間はゴーヤが決める、それにここで泣き寝入りするのはゴーヤの名が廃るでちよ。旗艦様にはしっかり伝えるから、提督こそ執務に戻るでち」

 

 

 埒があかないと踏まえた上で促すも、ゴーヤは相変わらず俺を見ず淡々とした口調で言葉を返してきた。その心遣いはありがたいけど、相手が違うんだよな。

 

 

 いや、相手は合ってる。ただ、遣い過ぎてる(・・・・・・)んだ。

 

 

 

「いつまで続けるんだ?」

 

「……旗艦様が出てくるまででち」

 

「いつまで意地を張り(・・・・・)続けるんだ?」

 

 

 ゴーヤの言葉を遮った俺の声に、頑なに暖簾の向こうに注がれていたその目が動く。同時に、欠片も無かった感情が浮かび上がり、それは動いた目の向こう―――すなわち俺に向けられた。

 

 

 そこにあったのは怒りでも嫌悪でもない。途方もないほどの疲労を宿した、寂しさだった。

 

 

「提督……」

 

 

 ふと、後ろから声が聞こえ、同時に片手を誰かに握られる。目だけを向けると、先程よりも近いところで俯く榛名。その頭、そして俺の手を握る彼女の手が、小刻みに震えている。それは恐怖のためか、怒りのためか、はたまたそれ以外の感情のためか、俺には分からない。

 

 

「何だ?」

 

 

 だから、俺は問いかけた。彼女が何故俺の名を呼び、まるで引き留める様に手を握っているのか。その答えが分からないから知っているであろう張本人に、握りしめられた手を強く握り返した。

 

 

「すみません、何でもないです」

 

 

 だが、榛名は答えなかった。そう言って、逃げるように俺の手を振りほどいて離れた。俯いたままなので、その表情は分からない。何故答えず、そして逃げるように離れたのか、その理由も分からない。だけど、改めて(・・・)分かったことがあった。

 

 

 

「お前もか」

 

 

 そう呟いた。誰にも聞こえない程小さく、囁くような声で。そのおかげか、榛名は顔を下げたままだ。それを見て、俺は再び前を向く。そこには、腕の中に顔を埋めるゴーヤが居た。心なしか、いや確実に震えている。

 

 

「……ゴーヤにも分からないでち」

 

「そうか? 俺は、お前が素直になればすぐにでも終わる気がするけど」

 

「それじゃ意味がないでち」

 

 

 傍に近付いてきた俺に、ゴーヤは鋭い視線を向けてくる。先ほどの疲労を滲ませながらも、その奥に強い意思を携えた目だ。その目を捉え、なのに何も言わないでいる俺に向け、彼女は更に口を開いた。

 

 

「あいつが分からないと、分からせないと駄目なんでち。言い聞かせただけじゃすぐに戻って、何度やっても戻りやがる、それを繰り返すといつしか聞き入れることすらも拒むようになったでち。言うだけじゃ分からないなら行動で示すしかない、それを誰かがやるしかない、やり続けるしか、張り続けるしかないんでち」

 

 

 溜まりに溜まった感情を吐き出す様に、後ろに行くにつれて語気が荒くなっていくゴーヤ。その顔にははっきりと、怒りが刻まれている。今、それは俺に向けられているが、恐らく彼女は別の人物へと向けているつもりなのだろう。そして、それがお門違いだと分かっていながら、それが事態を硬直させていると知らずに。

 

 

 

「あいつって?」

 

 

 唐突に聞こえた問い。それは俺でも、ゴーヤでも、榛名でもない。その声にゴーヤと俺は同時に、同じ方向に目を向ける。その方向とは暖簾の先、ドックへと続く扉だ。次の瞬間、その扉が勢いよく開け放たれた。

 

 

 腰まで届くほどの赤髪を振り乱し、透き通るような緋色の瞳に疲労感、そして強い敵意を惜しげもなく滲ませている少女、伊168ことイムヤだ。だけど、ほんの一瞬だけ、彼女がイムヤであるのかが分からなかった。何故か、それは彼女ら潜水艦の代名詞である、あの変態仕様の水着が無かったからだ。

 

 

 もっと言えば、彼女は水着は愚かタオルすらも巻いていない、生まれたままの姿だったからだ。

 

 

 

「ばッ、な、何やってんだ!!」

 

 

 そんな彼女の姿に一瞬だけ思考が停止したがすぐに復帰し、大声を上げながら彼女に近付く。その間に上着を脱ぎ、すぐに彼女の肩にかけて隠させた。そうしたのは、彼女が裸だったからだ。だけど、それだけなら俺は再起動するのにもう少し時間を要しただろう。では、何故すぐに復帰したか、それは勿論彼女の身体を見たからだ。

 

 

 正確には言えば、彼女の身体に至る所に刻まれた傷を、治りかけているのであろうグチャグチャになった傷口を見たからだ。

 

 

「何出てきてんだよ!! まだ途中だろ!!」

 

「あいつって誰?」

 

 

 駆け寄った俺が大声を張り上げるも、イムヤは俺など隣に居ないかのように振る舞い、一歩前に踏み出す。その時、彼女の長い髪から無数の水滴が落ちるのが見えた。そしてそれが落ちた足元に、イムヤの足に縋り付く妖精たちも。鬼のような形相でしがみつく彼らを見て、彼女が本当にヤバい状態であると余計理解した。

 

 

「そんなこといいから早く戻れって!!」

 

「痛いから離して」

 

 

 俺が声を張り上げながら彼女の身体を掴むと、氷のような冷たい声色でイムヤがそう言い顔を向けてきた。その言葉、そして彼女が向けてくる視線に寒気に襲われた俺は思わず掴んでいた手を離す。すると、イムヤは俺から目を離した。その後ろ姿、そして今まで掴んでいた場所、そして至る所がほんのりと赤く染まっていることに気付いた。

 

 

「イム―――」

 

「分かってるから、今は行かせて」

 

 

 それでも呼び止めようとした俺の言葉を、イムヤが掻き消した。彼女の声はそこまで大きくなく、どちらかと言えば俺の方が大きかった。だけど掻き消された、いや俺が口を噤んだ。何故か、それは見たからだ。

 

 

 俺に背を向けて一歩一歩進んでいくイムヤの先、そこで今までにないほど怯えた表情を浮かべたゴーヤを見たからだ。

 

 

 

「あいつって誰?」

 

 

 再び、イムヤが問いかけた。彼女の表情は分からないが、その言葉にゴーヤはビクッと身を震わせるほどの表情をしていると言うことは分かった。

 

 

「誰?」

 

 

 再びの問い。今度は短く、簡潔だ。しかし、ゴーヤは答えない。もう一度身を震わせ、顔を背けるのみだ。

 

 

「私?」

 

 

 問い。今度はもっと簡潔。言葉を発せずとも答えられる問いだ。だけど、それでもゴーヤは答えない。身を震わすこともせず、ただ黙っているだけだ。

 

 

 やがて、イムヤはゴーヤの目の前まで近づいた。彼女は何も言わない、何も言わずただ黙ってゴーヤを見つめ続けるだけだ。対して、ゴーヤも同じく顔を背け続ける。誰も動かず、何も言わず、ただ沈黙のみが支配した。

 

 

 

「分かってるわよ」

 

 

 沈黙を破ったのは、イムヤだ。そう吐き捨て、彼女はゴーヤの前で踵を返した。そして、ゆっくりと歩を進める。彼女が歩を進め始めた時、ゴーヤは背けていた顔を上げる。そこに浮かんでいたのは恐怖ではなく、何処か縋りつくような顔だった。

 

 

 

「あんたたちが、私を恨んでるって」

 

 

 だが、その表情もポツリと漏れたイムヤの言葉で一変した。縋り付くような顔から、親の仇でも見るような顔へ。そしてゴーヤの身体は動いた。歩を進めるイムヤに近付く、その肩を掴んで自分の方を向かせる。今にも殴り掛からん勢いに俺は思わず駆け寄ろうとしたが、それも途中で止まった。

 

 

 

「分かってないでち」

 

 

 感情の一切を殺した声色で言い放つゴーヤの表情が、侮蔑を携えたものに変わっていたから。ゴーヤはイムヤと同じように吐き捨て、同じように踵を返し、同じように歩き出した。違っていたのは、彼女が歩き出した方向が廊下の向こう側であったこと、そして進んでいく歩がイムヤよりも速かったことだ。

 

 

「待ちなさい!!」

 

 

 その背中に声をかけたのはイムヤだ。離れていくゴーヤに向き直り、先ほどの淡々とした口調から一変、獣のような咆哮をゴーヤにぶつけた。だが、ゴーヤの歩みは止まらない。だが、その顔は少しだけイムヤの方を向いた。

 

 

「分かってないヤツに、言えるわけないでち」

 

 

 その言葉と共にハイライトが消えかけた瞳を向けた。それもほんの一瞬で、すぐに前に向き直り何事も無かったように歩き出す。だがその一瞬、その一瞬だけでこの場に居る全員を動かなくすることは出来た。

 

 

 

「分かるわけないでしょ」

 

 

 だが一人だけ。イムヤだけは小さくなっていくゴーヤの背を見ながらそう呟き、同じように踵を返した。彼女が踵を返したことで俺は彼女の表情が見えるようになる。

 

 

 そこにあったのは、怒りでも悲しみでもなく、ただただ寂しそうな顔だった。

 

 

「これ返すわ」

 

 

 だが、その表情も唐突に聞こえたイムヤの声と共に視界が真っ白に染まったことで見えなくなった。いつの間にか俺が掛けた上着を脱いだ彼女が投げ渡してきたのだ。視界一杯に広がった上着を慌てて掴んだ時、その内側全体にベッタリと血が付いているのを目の当たりにした。

 

 

「ごめんなさい、駄目にしちゃって」

 

 

 上着の向こうで、申し訳なさそうなイムヤの声が聞こえる。広げていた上着を下げると、裸のままドックの扉へと歩いていくイムヤの後ろ姿、その背中にとてつもない大きな傷が見えた。それに、思わず駆け寄って上着を着せる。

 

 

「……もういらないわよ?」

 

「そんな身体で出歩かれちゃこっちが困るんだよ。着替えは?」

 

「妖精が用意している筈です」

 

 

 俺の問いに今まで黙っていた榛名が答える。その言葉に俺は今もイムヤの足にしがみつく妖精たちに目を向けると、彼らは何度も頷いていた。俺がそれを見たのを確認してか、イムヤは着せられた上着を脱ごうとするも俺は頑なにそれを阻止した。

 

 

「いらないって言ってるでしょ」

 

「頼むから俺が居なくなるまでは着てくれ。色々と目のやり場に困るんだよ」

 

 

 頑なに押し付けながら漏らした言葉に、イムヤの抵抗が止んだ。何事かと目を向けると、キョトンとした顔で俺を見つめていた。突然のことに同じようにキョトンとした顔を向けると、彼女の口が開いた。

 

 

「そうなの?」

 

「そうなのって……お前だって、目の前で傷口を晒されたら嫌だろ?」

 

「……そうね、確かにそうよね」

 

 

 俺の言葉にイムヤはキョトンとした顔から何故か苦笑いへと変え、俺の手から離れた。思わずその後を追おうとするも、彼女の足にしがみついていた妖精の何人かが通せん坊してくる。それを見て俺は歩を止め、遠ざかっていくイムヤに声をかけた。

 

 

「今日の出撃は明日に延―――」

 

「聞いてたわ。それを考えたのがゴーヤで、司令官に伝えたのはあの二人だってことも。お言葉に甘えて、ゆっくり休ませてもらうわね」

 

 

 俺の言葉に、イムヤはそう言って手をヒラヒラさせる。尚も彼女に言いたいことがあったが、それは妖精たちがドックへの扉をピシャリと閉めてしまったことで叶わなかった。閉じられた扉の前で、俺は行き場を失った片手を下げ、一つ息を吐き踵を返した。

 

 

 返した先に居たのは榛名。彼女は柔らかい笑みを浮かべている。そう、()は柔らかい笑みだ。だけど、その前、ほんの一瞬だけそれとは違う表情が見えた。

 

 

「榛名」

 

「はい、榛名は大丈夫です!!」

 

 

 その名を呼ぶと彼女は元気よく返事をして、流れる動作で敬礼をする。そこにあるのは、やはり柔らかい笑みだ。それを見て、思わず苦笑いを溢してしまう。

 

 

「どうされました?」

 

 

 すると、榛名は不思議そうな顔を向けてきた。当たり前か、笑われるようなことは何一つしていないのだから。

 

 

「何でもないよ。それより少しくたびれた、帰ったら一休みするか」

 

「良いですね!! では、榛名は飲み物を貰ってきます!!」

 

「あぁ、頼むよ」

 

 

 榛名の提案に賛同すると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせて食堂へと向かっていく。その足取りは軽く、本当に嬉しそうに見える。その後ろ姿を見ながら、俺はため息を吐いた。

 

 

 

 『大丈夫か?』なんて、一言も聞いてないのだから。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「終わったぁ~……」

 

 

 そう言って、俺は手にしていたペンを置き、机に身を預ける。その横で、椅子に背を預けながら大きく伸びをする大淀、その向こうで今しがた俺が書き上げた書類をファイルにしまう榛名。三人の様子は各々だが、どの顔にも疲労の色が浮かんでいるだろう。

 

 しかし疲れた、量的にはいつもと同じなのだが今日はいつも以上に疲れを感じる。それはまぁ、昼間のことがあったからだけど。長時間同じ姿勢を取り続けた節々の痛みよりも、曙に叩かれた尻が痛いから多分そう言うことだろう。

 

 

「あ」

 

 

 ふと、横の大淀が素っ頓狂な声を上げた。目を向けると、驚いた顔の彼女が一枚の書類を手にしている。チラリと見えたそれは、工廠に持っていった艤装点検の調査に関する書類だったはずだ。

 

 

「それ、工廠に持ってくヤツか?」

 

「はい、先ほどの書類と一緒に持って行って貰う予定でしたが、いつの間にか紛れ込んでいたみたいで……渡してきます」

 

「あ、榛名が持っていきますよ」

 

 

 大淀の言葉に真っ先に手を上げる榛名、その言葉にどうしようかと迷う大淀。工廠に持ってく……のか。

 

 

「俺が行ってもいいか?」

 

「「えっ」」

 

 

 俺の言葉に、二人の顔がぐるりとこちらを向く。声を発してこちらをに振り向くまでの速さが異常だったことにビビりつつ、二人に問いかけた。

 

 

「いつも二人に行ってもらってばかりだし、たまにはいいだろ?」

 

「……明日は雪ですね」

 

「おい」

 

 

 疲れた様に目頭を押さえる大淀に突っ込みつつ、その手から書類を受け取る。だが、受け取った瞬間に横から手が伸び、今しがた俺が手にした書類を掴む。その手の方を見ると、少し焦った様子の榛名が居た。

 

 

「榛名がやっておきます。だ、だから提督は」

 

「榛名には昼間、というか秘書艦の時はいつも走り回ってくれているだろ? 今日ぐらいは労わせてくれ」

 

「で、でも」

 

「大淀」

 

 

 俺の言葉になおも食い下がる榛名から視線を大淀に向ける。大淀は俺の意図を汲み取ったのか、すぐさま榛名の横に移動してその腕をガッチリホールドし、ズルズルと引き摺り始めた。

 

 

「ささっ、行きますよ」

 

「え、ちょ、は、榛名は大丈夫ですから、ま、ちょ」

 

 

 大淀によって強制連行される榛名は最後まで抵抗するも、大淀の巧みな手さばきの前に為す術もなくズルズルと引き摺られていった。

 

 前は立場が逆だったが、最近はこっちの方が良く目にする。翌日辺りに大淀から榛名を引きずっていった謝礼を要求されるまでがセットだ、何かしら考えておかないと。

 

 それもこれも……いや、今はいい、取り敢えず持っていこう。

 

 

 そう頭を切り替え、執務室を後にする。廊下へ出ると、窓の向こうから山裾に消えようとする夕日が差し込んでいた。もうあと少しで山の向こうに沈んでしまうだろう、見慣れた光景だ。そんないつもの風景を見つつ、俺は工廠へと向かった。

 

 廊下を歩き、階段を降り、時折出くわす艦娘たちと言葉を交わしつつ、とは言っても未だに避けられることが多いが、それでも今日は少しだけ多い気がした。

 

 

 

「あ、しれぇ!! ご無沙汰してます!!」

 

 

 そんな中で、久しぶりに聞く声が聞こえ、振り向くとこちらに手を振りながら近づいてくる雪風が見えた。俺が提督の仕事をまともに始めてからめっきり顔を会わせる機会が減ったので、こうして言葉を交わすのは本当に久しぶりだ。そして、そんな彼女の横には無表情のまま白い帽子で顔を隠しつつ手を振ってくる響が。二人が一緒に居るところ、始めて見たな。

 

 

「珍しい組み合わせだな」

 

「はい!! 今日はヴェールヌイさんと同じ哨戒部隊でしたので、ご一緒にご飯でもとお誘いしたんです!!」

 

「別に断る理由が無いからね、承諾したまでさ」

 

 

 元気よく答える雪風と対象に少し素っ気無い顔で答える響……いや、ちょっと待ってくれ。一つ、聞き慣れない名前があるんだが、確認していいか?

 

 

「ヴェールヌイって、響のことか?」

 

「そうだよ。私の正式な艦名はВерный、ロシア語で『信頼できる』って意味の言葉さ」

 

 

 俺の問いに、響……ヴェールヌイはさも当たり前のように、そして流暢な発音で己の名を答えた。あぁ、そうなの? じゃあ『響』は? お前の名なのか?

 

 

「勿論、『響』も私の名だよ。艦艇時代()の私がロシアに渡った際、『Верный』と名前が変えられてね? その名残か、最終改装を終えた艦娘()の私も正式な艦名がそっちに変わったってことさ。まぁ、本当は『響』の方が良いんだけど、丹陽は『Верный』(こっちの名)が馴染み深くてね」

 

「ちょっとヴェールヌイさん? 雪風は、まだ『雪風』ですよ?」

 

 

 響、いやヴェールヌイ? ともかく彼女の発言に唇を尖らせる雪風。いや待って、『丹陽』? 誰それ、って言うか雪風? 雪風のことか? ちょっと待ってくれ、本当に色々と分からなくなってきたぞ。

 

 

艦艇時代()の雪風はヴェールヌイさんと同じく台湾に渡った際、艦名を『雪風』から『丹陽』に変えられたんです。でも、雪風はまだ改装されてないので『雪風』のままですよ!!」

 

 

 元気よく反論してくる雪風……いや丹陽? いや雪風? 一体どっち、どっちで呼べばいいの? 響、というか『雪風』って言葉が色々と溢れて訳が分からなくなってきたぞ? よし、一先ず置いておこう。目先のことに目を向けよう。

 

 

「えっと……二人はどう呼んで欲しいんだ?」

 

「雪風は勿論、『雪風』です!!」

 

「出来れば『響』でお願いするよ」

 

 

 俺の問いに、二人は即答する。よし、取り敢えずこれで良い。今は二人がどう呼んで欲しいか、それだけ良い。なんでそうなのか、深い意味は後回しだ。別に知らなくたって現状にさほど影響はない。いつか、それが必要になったら聞けばいい。うん、そうしよう。

 

 

「じゃあ、改めて雪風と響。今日はご苦労様、ゆっくり休んでくれ」

 

「はい、ありがとうございます!!」

 

 

 俺の言葉に、雪風は笑顔で敬礼をするも、響は特に何も反応せずに俺をじっと見つめている。あれ、何か可笑しなこと言ったかな? てか、俺を見ているのか? 俺よりも後ろを見ているような気がするんだが。

 

 

「あぁ、すまない。少しボーっとしていたようだ。ありがとう、司令官」

 

 

 俺の視線に気付いたのか響はそう言いながら小さく笑い、俺の横を通り過ぎた。その瞬間、俺の耳にこんな言葉が聞こえた。

 

 

 

『背後には気を付けた方が良い』

 

 

 

 その言葉を発したのは響だ。ボソリと、呟くような小さな声だ。だが、俺の耳にハッキリ聞こえた。だけど、その意味を聞こうと振り向いた時、彼女の姿は廊下の向こう側へと消えていく最中だった。

 

 

「あ、待ってくださいよぉヴェールヌイさん!! では、しれぇもお気を付けて(・・・・・・・・・・)

 

 

 次に聞こえた雪風の言葉。前半はいつもの明るい調子だったのだが、後半は一変して低く真剣な声色だった。だけど、それも聞こうと振り返った時には、同じように廊下の向こうに消えていく最中だった。

 

 

 しばし、二人が消えて行った廊下の向こう側を見続ける。二人が残した言葉、それがどんな意味を持つのか、それを考えた。だけど、しばらくして俺は再び歩き出す。それは答えを出すことを諦めたからでも、その答えが見つかったからではない。

 

 

 

 今ここ(・・・)ではその答えが出ないと、分かったからだ。

 

 

 そして、再び工廠へと歩を進める。その後、たまに艦娘たちと顔を合わせるも、特に喋ることなく労いの言葉をかけるだけ。まだ俺のことを避けている子も多いので、二言三言声をかけるのみ、会話らしいものは無い。それでも、ちゃんと一人一人に声を掛け続けた。

 

 それを繰り返しながら工廠ヘと向かう道中、ふと甲高い金属音が微かに聞こえてきた。それは工廠のすぐ横、演習で使用される海へとつながる道の向こうから聞こえてきた。その音が気になった俺は工廠への道を外れ、音の方へと近づいていく。

 

 

「おらぁ!!」

 

「甘いわよぉ」

 

 

 音の方に近付いていくと、金属音に紛れた二つの声が聞こえてきた。一つは男らしい勇ましい声、もう一つは相手を嗜めるような柔らかい声。その二つの声に、俺は聞き覚えがあった。そして工厰に続く一本道に出たとき、岸辺にその声を聞いた際に思い浮かんだ人物たちが見えた。

 

 

「んだ、提督じゃねぇか」

 

「あらぁ、珍しいですねぇ」

 

 

 近づいてくる俺を見て、声の主たちは同時に声を上げる。前者は天龍、後者は龍田だ。そんな二人は向かい合い、その手に艤装の一つである刀と薙刀を持っている。先程聞こえた金属音は恐らくそれなのだろうか。

 

 

「何してたんだ?」

 

「何って見りゃ分かんだろ? 稽古だよ稽古、艤装の手入れついでにやってんだ」

 

「……意味あるの?」

 

「たりめぇだろォ? これで敵や砲弾を叩っ斬ったり、避けられないのを弾いたりすんだよ。弾切れの時は武器に、電探が使えない時は光を反射させて目印にしたり、めちゃくちゃ重宝するんだぞこれ。つうか、お前目の前で叩っ斬ったの見てただろ」

 

 

 基本砲雷撃戦がメインと言われる艦娘の戦闘で近接戦闘は起こらないのでは? と言う先入観の元にした質問も、呆れ顔の天龍に一蹴されてしまう。そう言われれば確かに便利そうに見えるし、以前俺も目の前で艦載機を真っ二つにしたのを見たよ? でもさ、その状況を加味した上で考えると結構最終手段的な選択肢じゃないのか、それ。提督的には駄目なんだけど。

 

 

「それに、手ぶらよりも得物とか持ってた方が、なんかこう……格好良いだろ?」

 

「天龍ちゃん、そこは『怖いだろ?』って聞くべき所よぉ」

 

「う、うるせぇな。今は良いだろ、別に……それにあれだ、格好良すぎて気圧されるとかあるだろ? あるよな? なぁ、龍田? 聞いてる?」

 

 

 恐らく大部分をであろう理由を暴露した天龍に、龍田は彼女の口癖を上げつつしたり顔で窘める。それに天龍はブスッとさせつつ詭弁を振るうも、龍田はただ静かに微笑むだけで乗る気は無いようだ。その様子に何を言っても無駄だと思ったのか、天龍はジト目を向けつつ一つ息を吐き、気持ちを切り替えるためか手にした刀を空中で大きく一振りした。

 

 

 その時生まれた小さくも強い突風が、気が抜けていた俺の手から書類を掻っ攫ったのだ。

 

 

「ちょ、待っ!?」

 

 

 自分でも変な声だと思うほど素っ頓狂な声を上げ、俺は空中に躍り出た書類を掴もうと必死に手を伸ばす。しかしその場では届かず、一歩前に踏み出した。それでも届かず、また一歩踏み出す。

 

 

 もう一歩、もう一歩、もう一歩、頭上高くをヒラヒラと舞う書類に必死に手を伸ばしながら進んでいく。だから、見えなかった。目の前に誰が居るか、見えなかったのだ。いや、『誰が』かは分かった。先ほど互いに向き合っていたどちらか(・・・・)であるのは、その時は分かっていた。

 

 

 

 

「ひッ」

 

 

 だけど、その声。蚊の鳴くように小さく、幼子のように弱弱しく、向き合っていたどちらかが発したとは到底思えない、そんな悲鳴(・・)が聞こえた。だから、俺は『誰が』さえも分からなくなった。だから、思わず頭上に向いていた顔を下げてしまった。

 

 しかし、『誰が』の顔は見えなかった。下げ始めた際、脚に棒のようなモノが触れ、次の瞬間視界が一変したからだ。

 

 

 灰色の地面、赤く染まった空、黒い海面、そして灰色の地面の上で立ち尽くす天龍とその足元に薙刀を向けている龍田、その四つの場面が順番に現れた。脚が地面についている感覚は既に無く、空中に投げ出されているのだろう、と状況を把握しきれていない頭が教えてくれる。

 

 やがて二人の姿が消え、再び空が現れ、それもまた消えて目一杯に広がる黒い海面が現れる。そこで今の状況をようやく悟ったが、既に手遅れだった。

 

 

 何か言葉を発しようと口を開いた瞬間、その口目掛けて大量の海水が飛び込んできた。否、海水が飛び込んできたのではない、俺が海に頭からダイブしたのだ。

 

 

 海面に顔から叩き付けられた衝撃で、少しだけ意識が遠くなる。それと同時に制服が海水を吸って重みを増し、それによって俺は海底へと引き摺られていく。手足を動かそうにも衝撃から頭が立ち直っておらず、上手く動かせない俺の身体は少しずつ、だが確実に下へと向かっていく。日が傾きかけた時間のため水温も低くなっており、余計に俺の頭を鈍らせているのだ。

 

 

 だが次の瞬間、背後から抱きかかえられて上へと引っ張られる感覚、そして背中に押し付けられる体温を感じる。その直後、俺の顔は冷たい海水から少しだけ肌寒い空気へと解き放たれた。

 

 

「提督!? しっかりするね!!」

 

 

 空気に辿り着いた瞬間、激しく咳き込む俺の後ろから聞き覚えのある声が。それが誰か考える余裕はなく、とにかく飲む込んだ海水を吐き出す。その間、背中から胸に回された腕が何度かきつく締め付け、俺が海水を吐き出すのを促してくれた。

 

 

「だだ、大丈夫か!!」

 

 

 次に聞こえた声。それは正面から、叫ぶような声だ。未だにぼんやりとしている視界には、コンクリートの岸から身を乗り出している天龍が見えた。そこで飲み込んだ全ての海水を吐き出し終え、咳が小さな深呼吸に変わる。同時に靄がかかっていた視界がゆっくりと晴れ、少しずつだが頭も動き出した。

 

 

「俺、海に落ちたのか」

 

「いきなり飛び込んでくるんだもん。イク、びっくりしたの」

 

 

 俺がポツリと呟くとそんな声が、海面で俺を抱きかかえているイクが大きなため息が漏らした。海に落ちた俺を海面上に引き上げてくれたのか。いや、今もこうやって俺が沈まないように抱き抱えてくれているのか。

 

 

「お、おい!! とと、取り敢えずこっ―――」

 

「ごめんなさい」

 

 

 視界の向こうでそう言いながら天龍が手を伸ばそうするが、いきなり横から割り込んだ龍田が言葉ごとをそれを遮って手を伸ばしてきた。焦ってる天龍とは対照的に、龍田の声色は至って冷静だ。いきなり目の前で人が海に落ちたとは思えないほどに。

 

 

「守ろうとしたんだけど、まさか落ちるとは思わなくて……」

 

 

 俺がその手を掴み、イクと龍田に助けられながら岸に上がった時、彼女は小さな声でそう漏らした。俺が海に落ちた原因が彼女だからだ。あの時、一瞬だけ見えた天龍の足元に向けられた薙刀、あれが俺の足に引っかかって俺は海に落ちたのだ。彼女はそう分かっているから冷静で、そして申し訳なさそうなのだろう。

 

 でも、それは俺を守ろうとしてくれたのだ。まぁあの状況で動こうとするなら、得物を俺の前に出して止めることぐらいしか出来ないもんな。悪気があったわけじゃないなら怒る必要もないか。

 

 

 うん、これで俺が何故海に落ちたのかは分かった。そしてもう一つ、先ほど気になっていた『誰が』かも。

 

 

 

 

「って、書類!!」

 

 

 岸に上がった所で、ふとそれら全ての元凶である風に吹かれた書類のことを思い出す。その瞬間、突然叫んだ俺に何故か天龍がビクッと身を震わせたがそれに構う余裕はなく、今しがた飛び込んだ海へと向き直った。

 

 目を細め、沈みかけている日の明るさだけで書類を探す。しかし、どれほど見回しても、目を凝らしても、海面に浮かぶ白い紙は見えない。あぁ、また書き直しか……そう思って肩を落とす。

 

 

「しょしょ、書類って……ここ、これか?」

 

 

 ふと何故か噛みまくる天龍の声が聞こえ、同時に彼女の方を向き直る。いきなり振り向いた俺にびっくりした顔の天龍、そしてその手に今しがた探していた書類があった。それを見て、思わず天龍に駆け寄ろうとした。

 

 

「提督が触ったら、大事な書類が濡れちゃいますよぉ?」

 

 

 だが、またもや天龍との間に龍田が割り込んでくる。今度は先ほどの申し訳なさそうな顔から一変、いつもの柔らかい笑みを浮かべつつ手にした薙刀を構えていた。構えられた薙刀からとてつもない圧を感じた俺は思わずその場で踏みとどまる。

 

 

 そして見た。龍田の背後で、まるで何かに脅えるような表情を浮かべている天龍を。

 

 

 

 

「ぶぁっくしょい!!」

 

 

 だが次の瞬間、俺の口から盛大なくしゃみが飛び出した。それは一つでは収まらずもう一回、更にもう一回。咄嗟に誰も居ない方を向いたため、色々と飛び出したモノは誰にもかからなかった。だが流石に俺まで庇い切れず、色々と飛び出したモノの一つがツーっと垂れ、風に吹かれてユラユラと揺れ始めた。

 

 

 ほんの一瞬、沈黙が支配し、すぐに盛大な笑い声によって破られた。

 

 

「ッあ、な、なんて、なんて顔してんだよぉ……は、鼻、鼻が垂れてやがるぅぅ……」

 

 

 声の主は天龍だ。ツボにハマったのか、龍田の背後で腹を抱えて身悶えしている。その前に立つ龍田は驚いたように目を見開いて天龍を見ていた。勿論、俺も突然ツボにハマった天龍に驚いているわけだが、それも次にやってきた第二波を被害なくやり過ごすことに全神経を集中させた。

 

 

「今日はいつもより寒いの。提督、ご飯の前にお風呂入った方が良いのね!!」

 

 

 何とか第二波をやり過ごした俺に、いつの間にか海から上がったイクが元気よく提案してきた。その言葉、そして示し合わせたように吹く海風の冷たさに俺の中でそれ以外の選択肢が立ち消えた。一つだけ、懸念を残して。

 

 

「でも、工廠に書類を……」

 

「これ……工廠に持っていけば良いのか? な、なら俺たちが代わりに持って行ってやるよ。どうせ、得物(こいつ)を片付けに行くし、何より龍田が海に叩き落しちまったしからな。今回はそれでチャラってことにしてくれねぇか?」

 

 

 俺の呟きにようやく落ち着いた天龍が龍田を押し退けて俺に近付き、お願いするように顔の前で両手を合わせた。彼女の提案はまさに渡りに船、むしろこっちからお願いしたいぐらいだ。それに気にしてないとはいえ、海に落ちた件を遺恨なく片付けられるのも有り難い。

 

 

「……じゃ、頼む」

 

「おう、任せとけ!! 行くぞ、龍田」

 

 

 震えながらも声を吐き出すと、天龍は大きく声を張り上げて胸を叩いた。その姿はとても頼もしく、男勝りな彼女らしい返事だった。

 

 だけど、その後半。龍田の名前を呼び、踵を返して龍田と向き合った時。あれほど頼もしく聞こえた天龍の声から、そして龍田へと向き直る際に一瞬だけ見えた顔から、殆どの感情が消え失せた。

 

 

 

 辛うじて残った、その表情から読み取れた唯一の感情は、『怒り』だった。

 

 

「ささ、早く行かないと風邪ひいちゃうの」

 

 

 だが、それも背中を押してくるイク、そして容赦なく吹きつける冷たい海風によって、結局天龍の後ろ姿に声をかけられないままイクに急かされて海岸を後にした。

 

 


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