新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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墓穴を掘った『先』

「はぁ~ぁ……」

 

 

 肩まですっぽりと湯船に浸かり、だらしない声が水滴が滴る壁や天井、濡れて表面が光る床に当たっては跳ね返り、それが幾度となく繰り返され、段々と小さくなっていく。それを目視することは出来ない、当たり前だけど声だからさ。まぁ、仮に見えたとしてもこれだけ真っ白な湯気では見えないだろうけど。そんな思考もじんわりと伝わる暖かさの中に呑まれていく。

 

 

 工廠前の海に落ち濡れ鼠となった俺はイクによってドックに放り込まれ、こうして温かい湯船に浸っている。もし入渠者がいたら濡れ鼠のまま待ちぼうけを喰らっていたかもしれない。いや、多分着替えて待つんだろうけど、まぁ誰も使っていなかったのは本当に運が良かった。因みに、俺を叩き込んだイクは濡れた服を持っていき、そして着替えを取りに行ってくれている。

 

 

 そんなことを思いながら、今度は口元まで湯船に浸かった。首周りにじんわりと暖かさが広がり、鼻からは暖かい湯気が入り込こんでくる。その暖かさに意識が持っていかれそうになり、いっそここで手放してもいいのかもしれないとも思ってしまうが、後々のことを考えたら色々と不味いから無理矢理頭を振って意識を繋ぎ止める。

 

 

 その際、湯船に落ちるお湯の音が響く―――――と思ったら、それに紛れて違う音も入ってきた。

 

 

 その音にドック内をぐるりと見回してみる。勿論、湯気に阻まれてぼんやりとしか見えないため音の正体は分からないが、よく考えてみたらドック内で音を立てることが出来るのは俺だけ。そうなると、考えられる場所は限られてくる。

 

 

 その時、また音が聞こえた。その元は考えた場所の一つ、脱衣所だ。多分、イクが着替えを持ってきてくれたのかな。でもイクなら声をかけると思うんだが……まぁいいか。

 

 

「おーい、持ってきてくれたのかー?」

 

 

 脱衣所に向けてそう声をかける。しかし、反応が無い。あれ、イクなら返事をしてくれると思うんだが……まさか他の艦娘? え、イクに頼んでいつも俺が入っている時に貼る紙を貼ってもらった筈だよな。張り出してから入ってくるようなことは一度も無かったし、むしろ誰も入ってこないだろうし。でも実際居る訳で、しかもドックに来る用事は一つしかないし……。

 

 

 いや、今はいいか。取り敢えず、入ってきた艦娘は俺の存在に気付いてくれたはず。多分このままほっといても出て行くと思うけど、一応声をかけておこう。

 

 

「ごめん、今使っているから後にしてくれないかー?」

 

 

 そう、声をかける。しかし、またもや返事がない。聞こえる筈だよな、まぁ扉を隔てた向こうに俺が、しかも裸で居るわけだから声も出せないかもしれないか。取り敢えず伝えることは伝えたし、あとはほっといても大丈夫だろう。

 

 

 そう決めつけ、俺は再び口許まで湯船に浸かった。しばし、その心地よさに意識を半分ほど委ねるために目を閉じて軽く身体を浮かせ、湯船に身体を預けてみる。それほどまでにその心地よさを存分に堪能しようとしたため、気分も幾分か緩んでいた。

 

 

 故に、気付かなかった。脱衣場から聞こえてくる音が、俺が声をかける前と全く同じである(・・・・・・・)と。

 

 故に、向いてしまった。不意に聞こえた音、扉を開ける音(・・・・・)に何も考えず、顔を向けてしまった。

 

 

 だから、見てしまった。真っ白な湯気の中に佇む一人の艦娘を。その透き通るような赤髮を揺らし、華奢な体にタオルすら巻いていない、文字通り生まれたままの姿を。

 

 

 

 

 そんなイムヤを。

 

 

 

 

「ばッ!?」

 

 

 その瞬間、俺の大声に湯船が盛大に揺れた。同時に、大きな水しぶきも上がった。でも、俺はそれらを目にすることは出来なかった。何故なら、その一瞬で真後ろに身体を向けたからだ。

 

 いやいや、んなことどうでも良い!! なななな、何で裸ぁ!? いや、それは風呂だから当たり前……違う違う!! だからそれはどうでも良いんだって!! 常識とかそういうのは良いんだよ!!

 

 

 そんな頭の中が疑問符で溢れかえる俺の耳に、濡れた床を歩く音が聞こえてくる。それに頭が更にいっぱいになったのは言うまでもない。だけど、それでも考え続けることだけは止めなかった。

 

 俺、声かけたよな? 俺が居るって分かったはずだよな? なのに何で入ってくるの!! しかもはだ……だからそれは良いんだって!! いや、精神衛生上、そして俺の社会生命上非ッ常に悪いけど!! 常識的には良いんだよ!! さっきと矛盾してるけどそれもどうだって良いんだよ!!

 

 

 尚も肯定と否定を散々繰り返す俺であったが、それも何かが水面に浸かる音、それに合わせるように湯船が揺れたことで、もっと言えばその揺れの間隔が短くなってきたことで、それら全ての思考が弾け飛んだ。

 

 え、待って、これ入ってきてる? そして近づいてきてる!? 何で!? 何で!? 訳分かんないって!! 仮に入るまで良いとしても何で近づいてくる必要があるんだよ!! って、理由は後だ!! まままま、先ずはこの状況を切り抜け――――――

 

 

 そこで、俺の思考は完全に止まった。何故か、それは背中に感覚があったから、誰かに触れられたからだ。

 

 

 もう、声も出せず、頭も真っ白、何も考えることが出来ない。人は心の底から驚くと声も失うことを『絶句』と言うが、まさにこのことだろう。しかし、『感覚』だけは消えない。むしろそれ以外の全てが止まった分、余計研ぎ澄まされたのかもしれない。

 

 

 ともかく、その『感覚』は様々なモノを俺に与えた。

 

 

 湯船に身体を揺さぶられる感覚、お湯が背中にかかる感覚、背中の一部にしかなかったのがいきなり背中全域に広がる感覚、さらさらした髪のようなものが背中に触れる感覚、背中にかかる体重が一気に増えた感覚、小刻みに浅い呼吸が耳に届く感覚、それに合わせて背中に小さな風が当たる感覚。

 

 

 そして何よりも、それら全ての『感覚』を受け取った俺の心臓がほんの一瞬止まった、ほんの一瞬だけ時間が止まったような感覚。ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ。その一瞬だけ、俺の身体は全ての生命活動を停止したような感覚に襲われた。

 

 だけど、それは一瞬故、すぐに消え去った。いや、消えさせられたのかもしれない。

 

 

 

 

「しれ……かん……」

 

 

 何故なら、イムヤが俺のことを呼んだから。蚊の鳴くような弱弱しく、触れただけで崩れてしまいそうな程脆い声で、縋る様に。

 

 

 その声に、俺は思わず振り向いてしまった。そう、しまったのだ。声の方を向くと同時に、俺に首に何かが絡みついてくる。それがイムヤの腕だと分かったのは、振り向いた先で彼女の顔を見たからだ。

 

 

 目を閉じ、頬を紅潮させ、唇を少しだけ尖らせた顔を、間近(・・)で見たからだ。

 

 

 

 その時、湯船が大きく揺れた。それは俺が振り返ったからであり、イムヤが一気に顔を近づけてきたからであり、俺たちの間にあったお湯が両側から押し出され、逃げ場を失ったそれが大きな波を作ったからだ。

 

 俺は目を閉じていた。それは間近に迫ったイムヤの顔に驚いたから、だから目を閉じた。目を閉じたせいで、またもや『感覚』が鋭くなった。

 

 

 波が身体にぶつかる感覚、お湯の温かさとは違う『熱』の感覚、顔に何かを押し付ける感覚、首に絡みついた彼女の腕に少しずつ力が入っていく感覚、段々と『熱』が近づいてくる感覚、先ほどよりも早く洗い呼吸が耳に届く感覚、それに合わせて()に熱い空気が当たる感覚。

 

 

 

「な、んで……」

 

 

 そんな、弱弱しい声が聞こえた。そう、『声』が聞こえたのだ。その声に俺はすぐに反応せず、ただ全神経を一か所に集中させた。それは耳でも、口でも、手でも、脚でもない、己の額に。何故なら、そこに『熱』を感じたから。

 

 

 

「熱い、な」

 

 

 そう溢した。感じていたそれを。同時に、イムヤが身体を震わせたのが分かった。その理由は、小刻みに揺れた湯船、首に絡みつくその腕、そして彼女に触れている額からだ。同時に、何故彼女が身体を震わせたのかも分かった。それは彼女の唇に、俺の吐息が触れたからだろう。

 

 それを受けて、俺は目を開けた。見えるのは、先ほどよりも赤い顔のイムヤ。目が見え、鼻が見え、そして紅潮した頬と共に口許が、そしてお湯が滴る顎まで。全部見えた。それも目前、お互いの顔の距離はほんの数センチ、唇に関してはお互いの吐息が唇にかかる程近くに。

 

 

 そう、それはほんの一瞬。間近にあったイムヤの顔を見た瞬間、俺の身体は動いていた。顎を引き、代わりに額を前に出して、互いの唇が重なることを防いだのだ。

 

 

「なんで」

 

 

 だが、その距離も耳に届いた一言によって侵攻を許してしまう。首に絡みついたイムヤの腕に力が一気に籠り、不意打ち気味にその距離が一気に詰めてきたのだ。が、俺の身体はすぐに反応し、今度は額ではなく湯船の中にあった両腕でイムヤの肩を掴み、縮められた距離を一気に開かせた。

 

 それは同時に、首に絡みついていたその腕がほどけ、イムヤ自身を俺から引き剥がすことに成功したことを示している。そして、これまた同時に間近では見えなかった彼女の顔が見えるようになった。

 

 

 

 イムヤは泣いていた。緋色の瞳を歪め、そこに大粒の涙を溜めて、歯を食いしばり、悔しそうに眉を潜め、泣いていたのだ。

 

 

 

「お願い」

 

 

 また、その一言が。その瞬間、イムヤは俺の首に腕を伸ばし、再び絡みつこうとしてくる。だが、既に彼女の肩をガッチリ掴んでいる俺の腕がつっかえとなって、その腕はただ俺の目前で空を切るだけだ。

 

 

 

「イムヤ」

 

「お願い、させて」

 

 

 彼女の名を呼ぶ。しかし、彼女は目を伏せて、空を切るだけの腕を精一杯伸ばしてくる。俺の声は聞こえていないのか、はたまた無視しているのか、そのどちらかであるか判断することは出来ない。だけど、彼女が口にした『お願い』が何を指しているのか、それだけは分かった。

 

 

 

「イムヤ」

 

「ほんの一瞬でいいから、今だけでいいから、もうこんなことしないから」

 

 

 もう一度、彼女の名を呼ぶ。しかし、やはり彼女は反応しない。ただただ、俺に向けて腕を伸ばし、その度に湯船を揺らすだけ。違うところを挙げるとすれば、彼女の顔が徐々に徐々に下を向いていく、そして伸ばされた手が何かに縋る様に空気を掴むことぐらいだ。

 

 

 

「イムヤ」

 

「今しかないの。ここで見せないと、私だって出来るんだって、分かってもらわないと駄目なの。でないと、でないと……」

 

 

 もう一度、彼女の名を呼ぶ。やはり、彼女は反応しない。その顔も既に真下を向いており、今彼女がどんな表情をしているか分からなくなった。既にあれだけ執拗に伸ばされていた腕は湯船に浸かり、彼女が俯く先に水面には小さな波紋がいくつも現れては消えるを繰り返している。

 

 

 

 

「許して、もらえないから」

 

 

 そう、彼女が漏らした瞬間、またもや大きく、いや最も大きく湯船がゆれた。それは、俺が動いたから。今まで自らが死守してきた距離を放棄し、彼女の距離を詰め、彼女の肩を掴んでいた腕で俯いているその顔を無理やり上を向かせ、顔をグイっと近づけ、大声を出すために息を吸った。

 

 

 

 

 

 でも、俺の口から大声は出なかった。いや、出せなかった。寸でのところで、飲み込んだのだ。吐き出した方が楽だったと思うけど、それでも無理矢理飲み込んだ。何故か、それはイムヤの顔を、盛大に頬を引きつらせ、目も眉も歪み、口を半開きにした、何もかもに怯え切った泣き顔を見たから。

 

 

 その顔が、あの時の金剛に、そしてあの時の自分に見えたから。

 

 

 

「しれ……かん?」

 

 

 そんな俺に、脅え切った顔のまま、イムヤが声を漏らした。その声は震えて、いや彼女自身が震えていたから声も同じようになったのだろう。そして、震えていたために彼女の瞳に堪っていた大粒の涙が零れてしまった。それを見て、俺は気持ちを落ち着かせるために目を閉じて深呼吸をし始める。

 

 落ち着け、俺はあの時なんて言われたかった? 怒鳴られたかった? 責められたかった? 違うだろ、全部違うだろ。あの時の事、あの時の気持ちを思い出せ、あの時加賀に言われたこと、そして隼鷹に言ったこと、そこに答えがある。

 

 

「しれ……?」

 

「大丈夫、落ち着いた」

 

 

 もう一度、イムヤが声を漏らす。いきなり近づき、上を向かせられ、鬼のような形相で近づかれたのに、何も言わずにただ目を閉じて深呼吸をし始めた俺の意図が読めなかっただからだろう。その言葉に俺はなるべく冷静に、且つ自分に言い聞かせるようにそう呟き、ゆっくりと目を開けた。

 

 

 見えたのは、やはり先ほどと同じ表情のイムヤ。俺が目を開け、その目と目が合ったでまたもや身体を震わせ、その瞳に浮かぶ『恐怖』の色が一層濃くなる。それを見て次に踏み出そうとした一歩を躊躇しそうになった自分に、心の中で言い聞かせた。

 

 

 大丈夫、あの時とは違う。ちゃんとイムヤは俺を見てくれている、頭ごなしに否定するヤツはいない。大丈夫だ、やれるはずだ。でも、先ずは……―――

 

 

 

「いきなり近づいてごめんな。怖かっただろ」

 

 

 なるべく柔らかく、接しやすく、恐怖を与えない様に。表情を、声色を、首の傾け方から手の動かし方まで、一挙手一投足の全てを『恐怖を与えない』という命題の元に動かす。そのおかげか、イムヤの表情が少しだけ緩んだ。

 

 

「でも」

 

 

 だが、その一言、そしてそれと同時に俺が彼女の肩から手を離し、片方をその顔に近付けたことでことさら強張ることになった。が、次の瞬間にはその強張りは消え、呆けた表情になっていた。まぁ、ただ引きつった頬が一気に緩んだことしか分からないが。

 

 

 

「……しれぇ?」

 

「うん、やっぱり」

 

 

 何処かの駆逐艦みたいに舌足らずで俺の名前を口にするイムヤ。恐らく、彼女は俺に目を向けているだろうが、生憎その目元は俺の手がスッポリ覆っているため見ることが出来ない。もっと言えば、俺の手は彼女の顔上半分をスッポリと覆っているのだ。そして、もう片方の手は俺自身の額に触れている。

 

 

 何故、そんなことをしているのか。その答えは俺が今しがたやっている行為だ。

 

 

 

「熱あるぞ、お前」

 

「そう……なの?」

 

 

 

 今しがた手にした結論をイムヤに伝えるも、彼女は不思議そうに首を傾げるのみ。昼の凛とした表情をしていた彼女とは思えない鈍い反応に、思ったよりも重症であると悟った。

 

 

 そう、彼女は熱がある。それも高温、風呂に入っているせいもあるが、それを踏まえたとしても明らかに高すぎるほどに。そして、彼女の身体は微かとは言い難いほどに揺れているのだ。湯船に揺られているだけだと思うが、逆を言えば湯船の力に押し負けてしまうほど力が入ってないとも言えるだろう。

 

 他にも、いつも以上に赤い顔、考えられない程鈍った反応、舌足らずな口調。挙げ出すとキリがないが、決定打は今朝彼女の姿を見て抱いた違和感、そしてイクが教えてくれたことだ。『体調不良』と判断するには十分すぎる証拠が揃っている。

 

 だから張り紙を見落としたのも、俺が声をかけても気づかなかったのも、恐らく熱で頭がボーっとしてたせいだろう。いや、そう思いたいが、それだけでは先ほど彼女が漏らした言葉の意味が説明できない。であれば、ここで説明を求めたいところだが、その前に涼しい場所に移動させて水分を取らせる必要がある。都合がいいのはイムヤ達の部屋か。

 

 

「色々と聞くのは後だ。取り敢えず、部屋まで送……」

 

「だめ」

 

 

 そう言いかけた俺の言葉を遮るようにイムヤは声を漏らした。そして、額に当てられていた俺の手を掴んだ。いきなりのことに何も言えない俺、それと同じように手を掴んでから動かないイムヤ。だがその手は、掴んでいるその手にはゆっくりと、だが確実に力が込められていく。まるで離さないように、縋るように、確かめるように、身を震わせながら、それは込められていった。

 

 

「今じゃ、今じゃ早すぎる。これじゃあ分かってもらえない。絶対に、分かってもらえない。だからもう少しだけ、もう少しだけここに……」

 

 

 縋る様に、逃さぬように、イムヤは言葉を吐いた。いや、言葉だけだろうか。他にももっと、もっと大事なモノも一緒に吐き出そうとしているのではないか。残念ながら、そこまでしか分からなかった。しかし、同時にこのまま部屋に引っ張っていくことは先ず無理であることも分かった。

 

 

「……分かった。ただ脱衣所までは出ること、いいな?」

 

 

 このまま湯船に浸からせておくのも、ドック内に居るのも、俺はどちらも許すつもりはない。そして、イムヤは部屋に帰るのは避けたい、出来るだけドックに長く留まっていたい。それを踏まえての落としどころはここだろう。俺からすればここが最大限の譲歩だ、これ以上は譲れない。

 

 

「しれぇかんが……一緒なら」

 

 

 と思ったら、イムヤはサラッと新しい条件を突き付けてきた。俺も同伴って服無いんだけど……いや、寒いとか以前にこれ以上裸を晒すのは色々と不味いだろう。誰かが入ってきたらそれこそ、いや服を着ようが着まいが艦娘と脱衣所に居るって時点でアウトか。それより優先すべきは彼女だ。

 

 

「それでいい。じゃあ……」

 

「まって」

 

 

 イムヤの条件を飲みさっそく湯船から出ようとする俺の手を掴んだまま、またもやイムヤが声を漏らした。先ほどよりも幾分か和らいだ声色で、彼女も少しは落ち着いたのだろうと安心した。だが、それも次に彼女が漏らした発言によって瞬く間に消え去ってしまう。

 

 

 

 

 

「……身体、洗いたい」

 

 

 それは極々普通の言葉だった。風呂に入ったのだ、身体を洗うのは当たり前だ。俺だって湯船に浸かる前に洗った。だけどそれはあくまで体調が万全であり、身体を洗う行為に一切の支障をきたさない場合だ。

 

 でも、目の前に居る少女はどうだろうか。湯船に浸かっている分体温が高くなり、意識も、口調も、全身の力さえも心もとない。そんな彼女が湯船から出て、身体を洗い、脱衣所まで行けるだろうか。いや、それら全てに加えて脱衣所でもすべきことがあるのだが、その全てを今の彼女が出来るだろうか。

 

 

 

「……出来る、よな?」

 

 

 念のため、彼女に確認をとる。それは自分が出来ると言う前提で発した言葉かどうか、そして彼女にそれだけの道筋が見えているかどうか。間違っても誰か(・・)の手を借りようなんて思ってないだろう、そう念を押すために。

 

 だけど、彼女がその問いに答えなかった。ただ俺の手を掴む力を少しだけ強め、今まで下げていた目線を上げて、縋る様な目を俺に向けてくる。

 

 

 

 その目が語っていた。彼女の前提は俺のそれとは違っていると、そしてその前提に俺が組みこまれていると。

 

 

「……じゃあ、持ち上げるから首に手を回して」

 

 

 これ以上イムヤを湯船に浸からせるのは不味い、そしてもうここまで来たらどうしようもないと諦めた上で俺は妥協した。さっきこれ以上妥協しないとか言ったけどすぐこれだ。でも、イムヤの体調には代えられない。俺の言葉にイムヤは口元に微かな笑みを浮かべ、俺の首に腕を巻き付けてきた。

 

 

 その時、俺は嫌な予感がした。それは首を巻き付けてから俺がその身体を持ち上げ、運び終わるまでの間に彼女の唇がまた近づいてこないだろうか、という予感だ。こっちが言った手前もう訂正は効かないし、首に巻きつかれたら最後、後は彼女の為すがままだ。

 

 不味い、と思った。しかし、首に巻きつき、頬と頬がくっつきそうな距離になってもイムヤが唇を近づけてくることは無かった。むしろ避けるように、触れないように顔を背けている。さっきはあれ程お願い(・・・)したのに、なんて残念がる気持ちは生憎だが持ち合わせていない。それとは別の感情が、感情と言うよりも怒りがあったからだ。

 

 

 

「無理すんなよ」

 

 

 それを言葉(・・)にして、俺は湯船に漂うイムヤの膝裏、そして背中に腕を伸ばし、なるべく揺らさない様、ゆっくりと湯船からその身体を持ち上げた。

 

 お湯から冷たい空気に身体を晒したことで、俺は小さく身震いした。同時に、俺の腕の上でイムヤが震える。俺よりも大きく、そして今なお続いている。俺は揺らさない様、割れ物でも運ぶように彼女を運んだ。浴槽の中を歩くので結構苦戦したが、それさえ抜ければ大丈夫だ。

 

 浴槽から脱出した俺は出口に一番近いシャワーまで移動して脚で腰かけを蛇口の前に動かし、そこにイムヤの腰を預けた。その後、首に巻かせた腕を解かせるも、俺と言う支えを失ったイムヤの身体は前のめりに倒れるので、前の鏡に手をつかせることで支えさせた。

 

 倒れないことを確認し、一旦俺は脱衣所に向かった。そして手短にあったコップを複数掴み、傍の蛇口で水を入れてドック内に持っていく。

 

 

「ほら」

 

 

 横から俺コップを差し出すと、イムヤはひったくるように受け取って一気に飲み干した。意識は朦朧としていても、身体は水分を求めていたのだろう。続けて二杯、三杯と彼女は貪るように飲み干し、その度に大きく息を吐いた。一息ついたのを確認して彼女からコップを受け取り、傍に置いた。

 

 

「じゃ、本当に洗うぞ?」

 

 

 そこで、最後の確認をする。先ほどより体温も下がって、水も飲んだ。正気と言うか、ちゃんと頭が働くようになった筈。なら、俺が彼女の身体を洗うなんて考えが少しでも変わるかも、と願った。

 

 でも彼女は何も言わず、一回頭を上下に振っただけ。それによって俺の願いは脆くも崩れ去る。いや、それで全てが崩れ去ったわけではない。有るには有るが、これを使うと墓穴を掘ることになるのだ。だから使いたくない、でも優先すべきは……決まってるよな。

 

 

 

「なら、その間に色々と聞かせてもらうぞ。いいか?」

 

「……うん」

 

 

 俺の言葉に、イムヤは若干の間を置いた後に頷いた。その間は聞かれることにある程度検討を付けただろうか。それを受けて、早速俺は質問を投げかけた。

 

 

 

「分かってもらいたい相手って、誰だ?」

 

 

 そう俺が口にした。その瞬間、あれ程弱っていたイムヤの目に光が宿り、同時に緩み切っていた表情が引き締まり、刃物のような鋭い視線を俺に向けてきた。その変わりようは凄まじく、普通なら驚いてしまうだろうが俺は気にすることなく更に質問を続けた。

 

 

「あと許してもらいたい相手に……そしてそいつと何があったか」

 

「そんなこと、言う必要ないでしょ」

 

 

 先ほどよりも力強く、地に足が付いているほどしっかりした声で彼女は言い切った。熱があると、つい先ほどまでフラフラしていた彼女とは思えないほどの眼光を、その奥にある炎を宿して。でもそれは想定内であり、もしくは確信であり、事を早く進めるための近道であった。

 

 

「だってお前、ついさっき『分かってもらえない』、『許してもらえない』って言ったよな。それが、今までやってきたことの理由なんだろ?でも、俺が聞きたいのは、何故それを口にしたのか、それが『誰』に対してか、そしてその『誰』と何があったのか。そんなこと(・・・・・)だ」

 

 

 俺の問いに、イムヤの顔に深い皺が刻まれる。恐らく、彼女は自らの行動を説明する(・・・・)とばかりに思っていただろう。張り紙を見落とし、そして俺の声が聞こえず、『間違えて』ドックに入ってしまう。しかしいざ入ったら動けないほどに苦しくなり、先に入っていた『誰か』に助けを求めた。それがたまたま『司令官』で、それに気づくのが遅れてしまった。それもこれも、全て自分が『体調不良だと気付かなかったから』だと、そう説明して終わらせようと、そう検討を付けて俺の質問を受けたのだろう。

 

 でも、俺は一部始終を見ている、だから分かっている。分かっていることを改めて聞く必要なんてないし、説明で終わらせて『本当の理由』を隠すつもりだと分かっているなら尚更だ。そして『本当の理由』(それ)が先ほど彼女が口走った言葉だろうと、それを俺が口にした際に見せたその反応で確信できた。

 

 

 だからこそ、『聞きたい』と言ったのだ。『説明してほしい』ではなく『聞きたい』と。説明すれば済むと思った彼女に、彼女が隠していたモノ、そしてその先に居る『誰か』を、俺は聞いたのだ。ある意味、先ほど彼女が俺の前提を覆したように、今度は俺が彼女の前提を覆させてもらった、と言ったところか。だけどこれではまだ足りない。だからこそ、彼女が言い逃れしない内に決定的な一手を打った。

 

 

「それに、あの時言っただろ? 『今後、こういうことは私以外の子に聞かないで』って」

 

 

 俺の言葉にイムヤはほんの一瞬だけ呆けた顔になり、そして次に心当たりがある様に手で顔を覆った。そう、彼女は言ったのだ。あの日、試食会の準備の時、初代に『補給』を強要された際に言われたことを俺に教えた時だ。その時、彼女は自分から言ったのだ、『過去の出来事(こういうこと)は私に聞け』と。多分、彼女は墓穴を掘ったと思っているだろう、実際掘ったわけだが。

 

 

「た、確かに言ったけど……」

 

「俺にここまでさせておいて、教えてくれないのか?」

 

 

 なおも渋るイムヤに、俺は逃れるための梯子を外した。これ、前に加賀にやられたことと似てる。最初は何も言わずにやるだけやって後でその対価を要求する、まるで詐欺の手口だ。まぁ、それでも何度か確認し、取り消しにする機会も何回かあったわけだからまだ良心的だと言える。いや、知らない間に逃げ道を塞いだともとれるか? どっちが悪質だろうか。

 

 そんな考えを他所に、イムヤは先ほどよりも更に鋭い視線を向けてくる。少なくとも、彼女は俺が悪質だと思ってるな。ハメられたわけだし、いつの間にか逃げ道を塞がれたんだから。

 

 でも、よく考えて欲しい。これ、実は元々条件の一つに組み込む必要が無い。ただ単に前にこんなこと言ってたよねって話題に出して、それを根拠に根掘り葉掘り聞けばいいだけだ。今俺がやってるようにイムヤの身体を洗う対価として要求するなんて二度手間であり、前者がノーリスクなのにこっちはリスクを背負うことになる、どう考えても俺に不利益しか生まないのだ。

 

 

 でも、それを度外視しても余りあるメリットがある。それは俺ではない、今目の前で俺の言葉に躊躇している少女に。

 

 

 

 

「吐き出せば、楽になる」

 

 

 そんな彼女に最後のとどめを、最後の後押し(・・・)をする。俺の言葉に、あれ程眉を潜め、苦悶の表情をしていたイムヤの顔が一瞬にして呆けたものになった。それは俺の言葉が予想外過ぎたからであろう。用意周到に追い詰めてきた相手が、いきなり掌を返して友好的になったのだから。

 

 

 俺がイムヤに示した『楽になる』というメリット。彼女しかり、潮しかり、隼鷹しかり、そして金剛しかり、此処の艦娘たちは本音を溜め込むヤツが多い。しかも溜め込むだけ溜め込んで、何処かに、誰かに吐き出そうともしない。許容を越えてもなお溜め込もうとするから、彼女たちのようにふとした拍子に暴発してしまう。

 

 だから、暴発する前に吐き出す場所を示す。重要なのはそいつが吐き出せるかどうか、そうであれば誰だっていいのだ。潮のそれが曙だったように、隼鷹のそれが加賀だったように。乱暴に言えば、場所が何処だろうと、誰であろうと吐き出せさえすればいいのだ。

 

 そして、溜まりに溜まったものが吐き出されれば、それだけ楽になる。それは溜め込んだ分、内包し続けた時間が長いほど楽だと感じるのだ。その感覚はとても心地よい、このまま溺れてしまいたいと思うほどに甘美だ。傍から見れば毒のようにも見えるのだが。

 

 まぁ、その感覚を甘い蜜にするか、それともこの先ずっと身体や思考を蝕み続ける毒にするかは、本人ではなく周りの存在次第だ。周りの人間がそれに近いこと、それが必要にならないと感じるほどのモノを用意すればいい。だけど、それは提督()の役目ではない。その役目を担うのはいつ何時、どんな状況でも彼女の傍に居る存在、存在たち(・・・・)だ。差し詰め、俺はその感覚を味わうためのきっかけかな。

 

 

 そのためなら俺が彼女の身体を洗わざる負えなくなるリスクなど、些細なことだろう。

 

 

「……ホント?」

 

「絶対とは言えないけどさ。ただ、俺は楽になったよ」

 

 

 半信半疑と言いたげな顔で問いかけてくるイムヤに、俺は苦笑いで答えた。そう、俺はそうなったのだ。あの時―――――龍驤に問い詰められた時も、加賀に話した時も。俺は内に秘めた不安、苦痛、悲観、自責、憤怒、そして己の過去を曝け出した。そうしたら、楽になった。更に秘めたモノ全てを曝け出そうと、周りに止められてもなお話し続けようとした程に、楽になろうとした。

 

 

 だからこそ、彼女にそれを味わって欲しい。彼女には、自分にはそれが必要だと分かって欲しい。

 

 

 俺の言葉に固まっているイムヤを尻目に、俺は彼女の前にあるシャワーヘッドを手に取りもう片方の手で蛇口を捻った。その瞬間飛び出したのは水であり、お湯に変わるには少し時間がかかる。それがイムヤにかからないよう注意してその変化を待った。同時に、イムヤの返答も。

 

 

 

「あのね」

 

「うん」

 

 

 シャワーが人肌より少し温かいお湯に変わった頃、イムヤは呟くように言葉を吐いた。それに、俺はお湯をかける場所を何処にするか考えつつ返事をする。その後、イムヤは少しだけ顔を上げて鏡と向き合った。いや、正確には鏡に映る俺を見ていた。

 

 

「私ね」

 

「うん」

 

 

 またもや、イムヤが溢した。それに返事をして、シャワーをその背中に向けた。その瞬間、俺の目の前は白い湯気に包まれ、イムヤの顔が映っていた鏡が見えなくなる。だけど、その中でほんの数秒、小さな光を見た。

 

 それは鏡の中。先ほどまでイムヤの顔、それも目元の辺りから現れ、まるで頬を伝う様に下へと消えていった光だ。そしてその光が消えた後、ポツリと彼女の震えた声が聞こえた。

 

 

 

 

「身代わりにしちゃったんだ、皆を」

 


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