新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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『見ている』人と『見られていた』人

「ほれ、報告書だ」

 

 

 その言葉と同時に、大きな音を立てて目の前に紐で縛られた紙の束が降ってくる。落ちた衝撃で揺れる書類の山を寸でのところで支えた。崩れなかったことに安堵しつつ、すぐに目つきを鋭くさせて目の前に立つ人物を見る。

 

 

「崩れるから静かに置いてくれ」

 

「その山を作り上げたのはご自身でしょう? 自身の怠慢を私に押し付けないでください」

 

 

 俺の苦言にその人物―――――林道はニコニコと微笑みながら毒を吐いてくる。煽る様なその態度にイラつくも、書類が山積みになっているのはひとえに俺の手際の悪さだから正論であるとして何とか納得する。俺の傍らにすまし顔で書類を処理する大淀も、一瞬ヤツを睨み付けていたから気持ちは一緒だと思う。同時に、手際が悪くて申し訳なくも思う。

 

 

「それよりも、早く目を通せ」

 

 

 そんな俺たちを尻目に、林道は先ほど置いた書類を読めと催促してくる。こちとら絶賛執務中なんだが……いや、読むことも執務なんだけどそもそもの優先順位が……なんて、沸々と沸き上がる愚痴染みた言葉を飲み込みつつ、ヤツの言葉に従い束から一枚だけ引っ張りだして目を通す。

 

 

 そして、すぐに目頭が痛くなった。

 

 

「……またか」

 

 

 その報告書に書かれていたのは、昨日とある駆逐艦が別の部屋に居たという内容であった。それも夜間、本来であれば自室で寝ている筈の時間に、更に言えばその駆逐艦と彼女が居た部屋の主である子も今日の朝から出撃があったのだ。そのため二人に厳重注意し、自室に戻らせたとある。

 

 その後は嫌味のオンパレード。早々に目を離したのは言うまでもない。

 

 

「翌日に出撃を控えているのに夜更かしとは見過ごせん。相変わらず、上司部下共々国防の意識が足りてないな」

 

 

 目頭を押さえる俺を前に林道はそう言ってわざとらしく肩をすくめた。その何度目かも忘れた姿を横目で流し、これまた何度目かも忘れたため息を吐き出す。

 

 

 最近、この鎮守府は以前のような重苦しい空気に戻りつつある。少しだけだが増えていた笑顔も減り、あれだけ騒がしかった食堂を始めとした鎮守府内は静かになった。夜の鎮守府を歩けばたまに見られた眠れない艦娘たちがワイワイしている光景も、この一週間で見なくなってしまったのだ。

 

 その原因は言わずもがな、今目の前に立っているヤツ。そのきっかけは着任早々に言い放ったこの言葉だろう。

 

 

『先に言っておこう。大本営はお前たちがやったことを忘れたわけでも、況してや許したわけでもない。その上で俺を派遣するに留めているのだ。お前たちは黙認(・・)されていることをしかと心に刻み、心を入れ替えて誠心誠意奉仕(・・)するように』

 

 

 執務室の一件後、食堂にて改めて設けた林道と艦娘たちの顔合わせ。その際、ヤツは自己紹介をするわけでもなく、ただただ憮然とした態度でこう言い放ったのだ。その言葉に、場の空気は凍った。いや、凍ってくれた(・・・・・・)。もし他の反応だったら、仮に『怒り』が爆発してしまっていたら、今この鎮守府が存在していたのかすら分からない、灰塵と化していたかもしれない。まさに紙一重であった。

 

 勿論、ただただ凍ってくれただけではない。その後、正確にはそう言い放ったヤツが脇目も振らずに出て行った直後、止まっていた時計が動き出す様に彼女たちから感情が噴き出した。本来であれば、その多くは『怒り』だろう。大本営からやってきた初代にされた仕打ち、その後の大本営の対応、俺がここにやってきてから今まで見て、聞いて、そして触れてきたモノが、彼女たちが胸に秘めていた言葉の数々を物語っている。故にそれらを完全に無視し、否定したその言葉に誰もが『怒り』をぶちまけるはずだった。

 

 だけど、彼女たちが真っ先に見せたのは『恐怖』だった。誰しもの顔が青ざめ、震え、そして泣き出す者もいた。『喜怒哀楽』の中で真っ先に現れた『哀』、その光景に俺は改めて思い知らされた。未だに、彼女たちの中に『初代』が染みついていることを。

 

 

 同時に、未だに彼女たちの提督(・・・・・・・)は初代なのだと。

 

 

 改めて突き付けられた現実を飲み込みつつ、俺は何とかその場を収めた。無論、俺一人の手じゃ回らなかったため、その場にいた長門や龍驤、曙たちの手を借りてだが。その上で、今後何かされたらすぐに俺に言うように伝えて、その日は終わった。

 

 

 だが、それは始まり(・・・)だった。

 

 

「……何度も言うが、夜間の外泊許可を出したのは()だ。申請書も書かせたし、それも渡した」

 

「あんな理由、認められるか」

 

 

 あの日のことを思い出しながら、無理矢理絞り出した言葉を、林道はすぐさま否定してきた。それに、思わず顔を上げると、同じく目付きを鋭くさせたヤツの顔が映った。

 

 

「何が『翌日の出撃に関する意見交換をするため』だ。『仲良くお喋りしたい』の間違いだろうが。実際、向かったら意見交換をしているとは思えないほど騒がしかったからな。大体、お前の艦娘は――――」

 

 

 紙面から目を離したはずの嫌味がヤツの口から垂れ流され始めた。それを聞いているふりをしながら、思わず零れそうになった言葉を、『それもお前のせいだよ』と言う悪態を飲み込む。

 

 

 ヤツが着任したその翌日、俺の元には新たに大量の報告書が山と積まれるようになった。その殆どは艦娘の素行不良を記した、いわばこれだけお前の艦娘は悪いことをしていたというもの。当初、俺はそれに背筋が一気に冷たくなった。まさかうちの艦娘たちが俺の見えないところで何かしていたのかと言う不安と、ヤツに報告の口実を与えてしまったのかと言う危機感に駆られたからだ。

 

 だけど、それは内容を読んですぐに氷解した。夜遅くまで起きていたや食堂で騒がしかったなど、どれもこれも大事では無く、且つ誇張しようの無いものばかりだったからだ。そのせいか、末尾にはその場で注意をした程度で済まされている。ヤツ自身もここまで大事にする気も無いようだ。だから、渡された当初はヤツの入念な仕事ぶりに呆れただけだった。

 

 しかしそれが翌日、その翌日、そして今日まで欠かすことなく続けばどうだろうか。内容は似たり寄ったりではあるが同一人物が同じことを繰り返した、という報告は決して無い。もう、それは『入念』を通り越して『やり過ぎ』、もしくは『異常』と言える。そしてヤツが仕事をこなせばこなすほど報告書の数も増え、それを確認しなくてはならない俺の仕事も相対的に増えていく。なので、ここ最近で俺は睡眠時間を幾分か減らされてしまった。まぁ、それはそこまで気にしていない。

 

 

 問題はもう一つだ。

 

 

「憲兵殿、少々よろしいでしょうか?」

 

 

 つらつらと小言を吐き出す林道に、今まで沈黙を保っていた大淀が声を上げる。言葉自体は丁寧であるものの、その語気やそう零す彼女の表情には明らかな『反感』が見て取れた。それを受けた林道は一瞬キョトンとした顔になるも、すぐに待ってました(・・・・・・)と言わんばかりの笑みを浮かべる。

 

 

「何か?」

 

「ここ最近における艦娘たち(私たち)の素行不良は認めます。しかし、それは憲兵殿の過剰な巡回が一因でもある、と言えます。今まで咎められなかったことが大半を占めており、現に艦娘たちからも過剰過ぎるのではと言う声が届いています。その責を提督、ひいては私たちに非があるとするのは如何なものでしょうか?」

 

「それは鎮守府のモラルが底辺であるせいだ。私はそれを『一般的』にしているだけで、今までそれを放置し続けたお前たちの責任であるのは明白だろう?」

 

「ですが、その方法が強引すぎると申しています」

 

 

 彼女に珍しい喧嘩腰の大淀と笑みを浮かべて飄々とする林道。彼女の会話に出てきた『過剰な巡回』。それは今まさに俺が問題視していることそのものである。

 

 

 林道が異常な量の報告書を毎日のように寄こしてくる、つまりそれだけ鎮守府内を巡回しているということだ。いや、『巡回』なんて生易しい言葉じゃない。『監視』もしくは『威圧行為』とも言えるほど、執拗に艦娘を見ている(・・・・)のだ。

 

 巡回中に艦娘と鉢合わせすれば先ず一喝、その後適当な理由を押し付けて更に叱責する。それならまだ良い方であり、時には『抜き打ち』と称して艦娘たちの自室に押しかけることもある。未だに傷跡が残る艦娘たちにしてみれば、良く知りもしない男がいきなり部屋に押し掛けいちゃもん染みた理由で叱責してくるのだ。それは『恐怖』しか無いだろう。

 

 しかも先ほどヤツが見せてきた報告書にあった夜間での外出行動。そもそもの発端はヤツが部屋に押しかけたことである。それのせいでよく眠れないと相談され、十分な睡眠をとれるようにと俺が許可を出したのだ。同時に、ヤツとの行き違いを防ぐために俺が認可した申請書を用意して提出した。

 

 しかし、結果は報告書の通りだ。むしろ申請書を出したせいでそのことを知り、敢えて押しかけたともとれる。気配りが仇になったと言うわけだ。

 

 

 そんな、ヤツの異常な巡回に艦娘たちは辟易している。現に出撃の準備のためにやってくる旗艦たち、そして食堂で顔を会わせた艦娘から林道に対する不平不満をぶつけられている。勿論、全員が口々にぶつけてくるのではなく、龍驤や長門、加賀など比較的話が出来て且つ周りを纏める立ち位置に居る艦娘が代表してぶつけてくるので、負担的にはそこまで重くはない。

 

 しかし、逆に言えば個々人が抱えている感情を把握できないと言う不味い状況ともいえる。龍驤達も不満の全てを把握しているわけではないため、俺たちの知らない所で不満が爆発、ということも十分あり得る。更に何で林道を好き勝手にさせているのか、提督の許可したことが憲兵に通じない、などと俺への不満も少なかず出ていると聞いている。今は龍驤たちが抑え込んでくれているみたいだが、それも時間の問題だ。

 

 

 更に言えば、俺は林道に待たせていることがある。それは龍田の一件だ。

 

 一歩間違えれば殺傷事件、そして鎮守府の解体になりかねなかったあの事件。実は未だに決着がついていないのだ。と言うのも、両者の頑な姿勢が原因である。

 

 龍田は、俺の『先ずは互いに謝れ』と言う発言から先ず林道が謝罪するのが筋であり、それが無い場合は理由を話さないと主張している。

 

 対して林道は、俺の『発端は龍田である』と言う発言から発端であるならその理由を述べるのが筋であり、それが無ければ自分の非を判断できないから謝罪しないと主張している。

 

 天龍に至っては龍田が頑なに面会させないせいでその主張を知ることが出来ない。出撃自体には出ているようだが報告は全て龍田伝いであり、食堂でも龍田がベッタリであるため声をかけることが出来ないのだ。それなら俺だけにでも理由を教えてくれと龍田に言ったが、林道に伝えられたら困ると拒否されて聞けずじまいだ。

 

 そのため、この一件は止まっている。また林道もこの一件があるから強引な手段に出ているのだろう。奴からすれば、この件を振りかざせば俺は動けず、このまま強引な手段を取り続ければいずれ他の艦娘からボロが出る。それを拾って報告するも良し、それを餌に更に揺さぶっても良し。

 

 まさに、この鎮守府は完全にヤツの手の内である。それも八方塞がり状態。

 

 

 この状況を打開するためには戦果を挙げる―――具体的には北方海域への進出しかないわけである。勿論、それは今の現状をなるべく維持しつつ、日に日に増え続ける報告書を片付けながらだ。

 

 

 目の前で繰り広げられる大淀と林道の舌戦の中、ふと扉がノックされた。それに二人は舌戦をやめて扉に目を向け、対して俺は時計を見る。時間的にそろそろ帰ってくる頃か。

 

 

「失礼するでぇー」

 

 

 今までピリピリしていた執務室の空気をぶち壊す、何処か間延びした声と共にファイルを抱えた龍驤が入ってくる。彼女は今日の秘書艦だ。その手にあるファイルは今日の出撃報告書であろう。そして、この空気を塗り替える救世主だ。

 

 

「おい、誰が入っていいと言った」

 

「え、ノックはちゃんとした(・・・・・・・・・・)でぇ? あぁ……まぁ、旗艦ならいるかもしれへんなぁ。でも、今日のうちは秘書艦や。早く報告書を持ってこうへんとあかんのに、いちいち許可とってたら間に合わんやん?」

 

「……急ぎには見え―――」

 

「はいはい、お小言は後々ぉー。んで、報告書や」

 

 

 噛み付く林道を片手間であしらいながら、龍驤はファイルを差し出してくる。ある意味、林道を手籠めできる数少ない存在である。そんな彼女はファイルを手渡した後、なんとも人懐っこい笑みを浮かべて林道に向き直った。

 

 

「あと、これから北方海域に関する報告をせんとあかんから、部外者(・・・)は出て行ってくれや」

 

「き、貴様ァ!!」

 

憲兵の職務(・・・・・)は鎮守府内外の治安維持やろ? 出撃なんか微塵も関係ないですやん。それとも、我々の提督を差し置いて出撃の指揮を執れる権限が憲兵殿にお有りなのですか? もしくは越権行為におよぶつもりですか?」

 

 

 笑顔できついことを言った後に正論で進路を叩き潰すお得意の論法。今回は逆上に備えて丁寧語を用いる入念っぷりを龍驤は披露した。それを向けられた林道は表情を更に歪ませるだけで、何も言ってこない。いくら大本営のパイプ役と謂えども、表向きはただの一憲兵であることを分かっているのだろう。それに下手に動き過ぎて目立つのも立場的に避けたいだろうな。

 

 

「どうやら、ご意見は無いみたいやな……ほな、憲兵殿。大本営様の為にも、誠心誠意ご自身の職務を全うしてくださいませぇー」

 

 

 なんとも絶妙なタイミング、尚且つあの時の言葉を意識した返答に、林道は怒りを滲ませた目を龍驤に向ける。しかし、龍驤は動揺することなく微動だにしない。恐らく、向けられたヤツの目を見つめ返しているのだろうが、その表情がどのようなモノであるかは分からない。

 

 

「……失礼する」

 

 

 だが、怒りを滲ませていた林道を引き下がらせるだけの眼力であったのは間違いないようだ。そう呟いた林道は踵を返すとさっさと執務室を出て行ってしまった。ヤツが出て行った瞬間、執務室を支配していた重苦しい空気が消え去り、その反動で俺は思わず嘆息を漏らした。

 

 

「なんや、つまらんなぁ」

 

「いや、あの状況でそう言えるお前のメンタルがおかしいって」

 

「『楽しい』は自分で作るもんやで」

 

 

 林道が出て行った扉を見つめながらそう言い放つ龍驤にほとほと呆れてしまう。その言葉に龍驤はそう言いながら先ほどの人懐っこい笑みを浮かべた。見た目も相まって本当に歳相応に見えてしまう。まぁ、『楽しんでいる』状況が歳相応をすっ飛ばして真っ黒なのだが。

 

 

「と言うか、その物言いだと俺の時も楽しんでいたことになるんですが……」

 

「それはそれ、これはこれや。そんなことより、ほらぁ、読んで読んで」

 

 

 あの時に向けられた視線と物言いを思い出しながらそう零すも、龍驤は取り合う気も無い。早々に話を切り変え、且つ俺の手にあるファイルを軽く小突いてくる。その姿にちょっとだけ視線を向けるもその返答は先ほどの笑みであった。

 

 

 だが、その笑みは途中で強張り、同時に彼女が息を呑んだ気がした。それを俺は見間違いだと片付け、彼女の言葉通りにファイルを―――――『北方海域調査報告書 第一海域 モーレイ海について』と題されたそれを開いた。

 

 

 北方海域――――南西諸島海域に蔓延る深海棲艦に打撃を与えたうちの鎮守府が次に向かうべき、もしくは大本営への信頼回復の条件として指定された目標である。

 

 この海域はモーレイ海、キス島沖から始まりアルフォンシーノ方面へと抜ける広大な範囲を指している。そのため、一度の出撃で全ての海域を制圧しようなんて無謀なことは出来ない。先ずはモーレイ海の敵を撃破することが第一目標だ。

 

 そして、その第一目標であるモーレイ海。海流や天候の移り変わりが激しい北方海域の中では比較的マシな方である本海域は、軽巡洋艦や重巡洋艦を中心とした艦隊が展開しているようである。ただ何回か戦艦の報告もあるためそう楽観視も出来ないし、元々する気も無い。

 

 潮の流れは複雑ではあるものの艦種を制限されるほどではないが、逆に進路は羅針盤の妖精たちに委ねる形になる。そのためどちらかと言えば羅針盤が正しく艦隊を導いてくれることが重要となりそうだ。勿論、艦娘の編成から装備、艤装のメンテナンスなどの万全を喫した状態で出撃を前提としている場合だ。それが整わない限りは出撃したくないが、如何せん林道(やつ)の目があるため悠長に構えることも難しいか。

 

 さて、報告によると道中に敵空母がほとんど見かけられないようだ。しかし、最深部から外れた場所に軽空母の一団を補足したとあるが、数もそこまで多くはないようだ。しかし、こちらの航空戦力である龍驤、隼鷹、加賀の中から最低二人ほどは編成に組み込んでおこう。航空戦力の脅威は演習で身を持って知ったからな、用心するに越したことは無い。

 

 となると、あとは他の四人か…………さて、どうしたもの――――

 

 

「そぉーい」

 

 

 不意に聞こえた間延びした声と共に、俺の視界一杯に広がっていた報告書がいきなり視界の上へと引っ張り上げられた。いきなりのことに思考が途切れ、そのまま丸くなった目をただ茫然と前に向ける。

 

 そこにはいつの間にか机に身を乗り出し、俺が今しがた持っていたファイルを上に掲げる龍驤が居たのだ。そんな彼女の後ろには、俺同様ポカンと口を開けた大淀も居る。そんな中、龍驤は掲げていたそれを下ろし机に置いた。身を乗り出したまま俺に微笑みかける。

 

 

「はい、おしまい」

 

「は?」

 

 

 ポツリと漏れた龍驤の言葉に俺はそう声を漏らす。だが、彼女はそれ以降何も言わず、ただ微笑みかけるのみ。その姿にようやく再起動を果たした俺は彼女から机に置かれたファイルに目を向け、手を伸ばす。しかし、それは視界の外から伸びてきた彼女の手によって届かないところまで下げられてしまう。

 

 

「あの……」

 

「おしまい言うたやん」

 

 

 俺の言葉に、龍驤は先ほどと同じ言葉を吐き出す。その姿に再度首をひねる。おしまいって何が? そして北方海域の報告書を何で遠ざけるの? 北方海域の報告がおしまいってことだとしても、まだ始まってもいないよ?

 

 

「司令官、ちゃんと寝とる?」

 

 

 そんな疑問符で頭が一杯の中、不意に龍驤がそんなことを言ってきた。その言葉と同時に龍驤の手が伸び、俺の顔をグイっと上げる。その時、彼女の顔は何処か心配そうな表情があった。

 

 

「ね、寝てるよ?」

 

「嘘つけ、目の下にこんな隈作っとるやないか」

 

 

 俺の浮ついた言葉を龍驤はピシャリと叩き、その言葉に従うかのように俺の目の下に指を滑らせる。あの、その、この状況……結構不味い気がするんですが。あの、大淀さんが居るんだよ? 当の本人は顔を真っ赤にしながら見ているだけだけど……居るんだよ?

 

 

「あの……」

 

「ホンマ、キミはちゃんと寝なあかんで。まぁ、今の状況じゃ難しいかもしれへんけど……お、せや!!」

 

 

 俺の言葉を無視して何かを思いついた龍驤は俺の目の下を滑らせていた手を頬、そして顎に持っていき、顎を軽く掴んでクイッと持ち上げた。それと同時に彼女も更に身を乗り出し、俺との距離を詰める。それはもう、互いの鼻がくっつきそうなくらいに。

 

 

 

 

うちを抱いてみる(・・・・・・・・)か?」

 

 

 そんな距離で、そんな爆弾発言を平然と吐き出したのだ。その瞬間、執務室の空気が凍り付く。しかし、それもすぐに消え去った。

 

 

「なななななな何言ってんですかぁ!?」

 

 

 今まで沈黙を貫いていた大淀が突然大声を上げて立ち上がったのだ。その際、ガン!! と言う音と共に彼女が向かっていた机が大きく持ち上がったので、恐らく立ち上がった時にその足がぶつかったのだろう。その痛みは相当なもののはずだが、当の大淀はそれを感じさせないほどの鬼気迫る顔を龍驤に向けている。

 

 

「なんや、いきなり大声出して……」

 

「いきなりそんなこと言われたらそりゃ出しますよ!! と言うかこんな……白昼堂々と、何を、言い出してる、んです、かぁ……」

 

 

 迷惑そうにそう漏らし、龍驤は不満そうな顔を大淀に向けた。今もなお彼女の手は俺の顎を掴んでいる。その姿に大淀は更に顔を赤くしつつ大声で吠える。しかし、その方向も後ろの方に行くにつれて小さく、弱弱しくなる。そんな大淀の姿に龍驤ははて、と言いたげに首を傾げた。

 

 

「白昼堂々……何言うてん? うちは単純に、抱き枕みたいに(・・・・・・・)抱いて寝るか? って言ってるだけやで」

 

「……へ?」

 

 

 龍驤の言葉に大淀はそう小さく声を漏らし、そしてその言葉を最後に固まってしまった。再起動には時間がかかりそうだ。この謎の時間を終わらせるために、俺は顎を掴まれながら龍驤に問いかけた。

 

 

「つまりどういうこと?」

 

「言葉通り、うちを抱き枕みたいに抱いて寝てみたら、って提案や。自分で言うのも何やけど、うちぐらいの身体ならちょうど抱き枕代わりになれそうやん? それに人肌に触れていれば安心して眠れるってよぉ聞くし、ちょっとした仮眠なら付き合ったるでぇって話や。それとも何や?」

 

 

 そこで言葉を切った龍驤は、再びあの笑みを近づけてくる。

 

 

「大淀が想像した通り(・・・・・・)にしたろか?」

 

「丁重にお断りします」

 

 

 今度こそ投げつけてきた本当の爆弾発言を、俺は即座に受け流す。すると、龍驤は笑みを崩して何処かつまらなそうな顔を浮かべた。それと同時に俺は彼女の身体を押し退け距離を取る。

 

 

「なんや、食いついてくると思ったのに……」

 

「……あのな、さっき目の前であんなことを堂々と言われたんだぞ? 今、お前がこの状況を完全に『楽しんでいる』って分からないわけないだろうが」

 

「えー……でもキミ、うちみたいなちっこい子好きなんやろ? 雪風、曙、吹雪、夕立、ハチ、潮、イムヤ、イク……もう確信犯やん?」

 

 

 彼女たちの名前を挙げながら指を折る龍驤。おい、人を子供が好きみたいに言うな。確かに一番関わることが多いのが彼女たちだけど、他にも間宮、長門、天龍、加賀、隼鷹、そしてそこで固まっている大淀とも良く関わっているからな。と言うか、それで良いのか軽空母さん。今の物言いだと、自分も駆逐艦と同じだと言っているようなものだぞ。

 

 

「まぁ冗談はさておいて、とにかくキミは少し寝なあかん。そんな顔で執務されたら他の子達に余計な心配をかけるし、そんな状態で今の鎮守府を上手く回せるとでも? 今更言うけど今日の執務で書き上げた書類、結構ミスがあったで?」

 

「本当に今更だな……」

 

 

 先ほどの会話から一転、真剣な顔で龍驤が問いかけてくる。それに軽くツッコミを入れつつ、頭の中でしばし考えをめぐらす。正直、睡眠不足であるのは事実である。しかしそれを度外視してでも進めなければいけないことが目の前にあるため、寝不足ぐらいで後回しに出来ないってのが本音だ。

 

 

「ほら、とっとと決めてや。うちを抱き枕にして寝るか、大淀の膝枕で寝るか」

 

「何勝手に言ってんですか!!」

 

 

 そんな俺を尻目に龍驤は更なる爆弾発言を繰り出し、その言葉で再起動を果たした大淀が再び声を上げる。まぁ、そりゃ勝手に選択肢に挙げられればそうなるか。

 

 

「流石にそれは横暴だろ……」

 

「何で? うちじゃ眠れないからって他の子を呼び出すわけにもいかんやろ。なら、もう大淀しかおらへんやん」

 

「いやいやいやいやその理屈はおかしいですよ!!」

 

 

 トンデモ発言からの恐ろしい屁理屈に大淀がますます声を上げる。と言うか何、龍驤の中で俺が寝るのは決定事項なの? それも人肌に触れながらってことも。

 

 

「そもそも、司令官がこんな状態で放っておいたのはキミやろ? 補佐(・・)として、それはどうなん?」

 

「そ、それは…………」

 

 

 冗談交じりの屁理屈から一転した鋭い指摘――――とは言えこれもこれで屁理屈ではあるが、何故か何も言えずに押し黙ってしまう大淀。いや、体調管理も仕事なんだからその責任は俺にあるんだけど。別に補佐だからってそこまで気にする必要は無いんだけど。

 

 

 あぁ、もういいや。

 

 

「分かった分かった。どんな形であれ、俺が寝さえすればいいんだろ? なら、これから一人(・・)でそこのソファで仮眠をとる。それでいいか?」

 

「えっ、えっ」

 

「……まぁ、ええんちゃう」

 

 

 俺が妥協案を提示すると、龍驤は少しだけ唇を尖らせてそう零す。あからさまに残念がるなよ。隣の大淀も俺の発言に何故か戸惑っているし、何なんだよ。だが、そう聞く間もなく龍驤が手を叩いた。

 

 

「ほな、うちは司令官の仮眠を邪魔しない様、工廠に行ってくるわ。大淀、後は頼んだで」

 

 

 そう言って、龍驤はいつもの笑みを浮かべながら執務室を出て行ってしまった。まさに嵐が過ぎ去った、と言って良いほど俺の身体は途方もない疲労感を抱えている。これ、今までの疲労とかも相まっているのか、いや十中八九龍驤のせいだろう。

 

 まぁいい、嵐が過ぎ去ったんだ。取り敢えずやるべきことを片付けよう。そう頭を切り替え、先ほど龍驤が遠ざけたファイルに手を伸ばす。

 

 

 だけど、またもやそれに俺の手が届くことは無かった。

 

 

 

「何してるんですか」

 

 

 そう溢した大淀が、俺が掴もうとしたファイルを横から掻っ攫ったのだ。そんな彼女に目を向けると、何処か咎めるような目つきで見つめ返している。そして何故か、その顔がほんのりと赤い。

 

 

「何って……報告書に目を通そうと」

 

「さっき、これから(・・・・)仮眠をとるって言いましたよね?」

 

「いや、それは―――」

 

「言、い、ま、し、た、よね?」

 

 

 俺の言葉を敢えて遮りながら念押しの確認を取る大淀。え、いや、あの……その、まさか龍驤が言ったことを気にしてるの? そう問いかける前に、大淀は何故か踵を返した。その姿に何も言えない俺を尻目に、彼女は何処か速足で俺の机を離れ、自身の机を通り過ぎ、何故かソファの前で立ち止まる。

 

 その後少しだけソファを見つめ、意を決したようにソファの端に腰を下ろした。その姿に、俺はただただポカンとするのみ。当の彼女は先ほどよりも更に顔を赤くさせながら固く目を瞑り、何かごにょごにょと呟いている。

 

 

「……何してるんですか」

 

 

 しかし、それもすぐに終わり、代わりに先ほどよりも鋭い目を向けてそう問いかけてくる。同時に発した声に先ほどの冷静さは無く、焦りと言うか、何処か怒りを孕んでいるような気がした。

 

 

「え、えっと……」

 

「早く……来てください……」

 

 

 俺が言い淀んでいると、大淀は何処か焦った声色でそう言い、自らが腰を下ろすソファをポンポンと叩いた。それで俺は理解した――――と言うか、背けていた事実を認めた。

 

 

 大淀は、龍驤がそそのかした膝枕(こと)をやろうとしているのだ。

 

 

 

「あー……大淀さん。あの、別に気にしなくていいんですよ? 体調管理も俺の仕事ですし、補佐だからって気にす―――――」

 

「い、い、か、らぁ!! とっとと来てくださいッ!!!!」

 

 

 龍驤の言ったことをやんわりと否定するも、それを遮るように何故か声を張り上げて大淀は再びソファを叩く。先ほどの『ポンポン』よりも『べシベシ』と表現した方がいいほど力強くだ。

 

 だが、それもどんどん力強くなっていき、同様に大淀の顔も真っ赤になっていく。このままじゃ埒があかない。もう……何なんだよ。

 

 

「分かった。今すぐ行くから、そう叩くなって」

 

「っぇ」

 

 

 俺が観念したら、大淀は何故かそんな声を上げた。そんな彼女を半眼で睨み付けるも、彼女は尚も『バシバシ』とソファを叩くのみ。どっちだよ、と心の中でこぼしながら、今まで腰掛けていた椅子から立ち上がってソファに近付く。

 

 その間に、既に座っている大淀の膝に目を向ける。予想通り、彼女の右ひざが赤く腫れていた。さっき立ち上がった時に机にぶつけたのだろう。

 

 

「大淀、もうちょっと右に寄ってくれ」

 

「なな、なんでですか?」

 

「北枕じゃん」

 

 

 何故か狼狽えている大淀の問いに適当に答えながらソファの前で立ち止まり、無言で大淀を見下ろす。その視線と目を合わせた大淀はすぐさま目を逸らし、俺の言った通りに右端に寄った。

 

 

「よっ、と」

 

 

 それを確認し、俺は軍帽を脱いで近くの机に置き、空いたスペースに身を預ける。その際、あわよくば頭ごとソファに預けようと思ったがその前に大淀に襟を掴まれ、無理矢理彼女の左ひざに頭を預けさせられた。

 

 後頭部にスカートを隔てた太ももの感触が伝わってきた。それは程よい高さと柔らかさで、いつも頭を預けている枕よりも快適である。その心地よさに深く息を吐くと、目の前が真っ暗になる。同時に俺の手よりも一回り小さな手が俺の額、そして生え際を優しく撫でてきた。

 

 その心地よさ、そして先ほど抱え込んだ疲労もあって、俺が意識を手放すのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「寝ました……か」

 

 

 膝の上で仰向けに無防備な顔を晒す提督を見下ろしながら、私―――――大淀はポツリと声を漏らした。無論、それは彼の口から規則正しい呼吸、そして上下する胸を確認した上で漏らした言葉である。もし彼が狸寝入りでもしようものなら、早く寝るようにと口を酸っぱくしていた所だ。

 

 それが現実にならず取り敢えずは安堵の息を吐く、と言うわけにもいかない。それが片付いてすぐに新たな問題を―――それほどまでに彼が疲れていたことを実感したからだ。

 

 今、目下で寝息を立てる提督。私は一度、彼の寝顔を見たことがあるが、その時とは比べ物にならないほど覇気が見受けられない。ちょうど、履き潰される間近の靴のような草臥れた雰囲気を出しているのだ。ここ数日ずっと、朝から晩まで執務をして、一休みでもその眉間に刻まれた皺がほんの少し緩む程度。常に考え事をし、何かに気を向け、警戒し、自分をすり減らしている。

 

 

 それはまさに、提督がやってくる前の金剛さんだ。

 

 

 あの時、金剛さんの横に座っていた時、私はただ毎日処理しなければならない書類を少しでも多く片付けることしか出来なかった。そうしてくれると自分が楽になると、そう彼女に言われたからだ。でもそれだけでは彼女を楽にすることが出来なかったから、もう一つに紅茶を淹れることを始めた。

 

 必要最低限の資材以外口にしなかった彼女が唯一口を付けたそれ。最初に返ってきたのは小さな呻き声と共に舌を出した顔であった。それでも、その一瞬だけ表情が和らいだ、その一瞬だけ彼女は忘れることが出来た。それでも彼女が見せたほんの少しの変化が、妙に嬉しかった。

 

 その直後、そして紅茶を淹れる度に容赦ない駄目出しを食らいながらも続けた。それは金剛さんの表情が和らぎ、色々なことを忘れられる、そのほんの一瞬が積み重なっていくから。そうすればやがて彼女も変わっていくと思ったから。

 

 でも、今考えればそれは逆効果だったのかもしれない。何せ、その時の私はほんの少し前の彼女にそっくりだったからだ。

 

 

 やっていることは違えど、彼女もまた走り回っていた。

 

 見ている人は違えど、彼女もまたその人のためだった。

 

 私と彼女の時間は違えど、彼女もまた続けていた。

 

 その人の居場所(・・・)は違えど、彼女もまた報われずにいた。

 

 

 

 ……まぁ、最後は私の見ている人が変わっただけなのだが。

 

 

「ッ」

 

 

 その時、いきなり右ひざに痛みが走った。提督を起こさない様に身体を前のめりにして確認する。すると、膝小僧の辺りが赤く腫れ上がっていた。それを見て、先ほど立ち上がった時に右ひざをしこたま打ち据えたことを思い出した。その時は龍驤さんの言葉に意識を向けていたから気付かなかったのだろう。

 

 

 そう納得した瞬間、提督の言葉が蘇った。

 

 

「……そういうところですよ」

 

 

 そして、なるべく小さな声を漏らした。そう、そういうところだ。そういうところがあるくせにまるっきり活かせてないから。だから残念であり、駄目駄目であり、目を離せない(・・・・・・)のだ。

 

 

「んっ」

 

 

 膝の上で眠る提督が声を漏らす。その顔を見て、そして起こさないように額を撫でた。今はざらざらとしているけどちゃんと休めばマシになるだろうか。次に額から生え際へ、ちょっと後退したかな。目の隈も酷く、頬も少しだけコケだしてる。それでもあの時の面影はある。分かることはあの時以上に疲れていることかな。

 

 最近のご飯も片手間で済ませられるものが多いし、私が淹れるコーヒーの用途も眠気覚ましだし、ホットチョコレートを持ってきても他の子に渡してくれ、とか言ってくるし、人にあんなこと言っておいて自分はそれを真っ先に破るし。

 

 全くもって残念だ。残念、駄目、駄目駄目、惜しい、心配、気にかかる……気になる。

 

 

 だから――――

 

 

 

見ている(・・・・)んですよー?」

 

 

 ポツリと思いついた言葉、それと同時に漏れていた言葉。それが体現していることを今更捲し立てる必要も無いか。捲し立てる気は無いけど、腹いせぐらいはしていいよね。そう決めつけ、膝の上で眠る提督の頬をつついた。突っついたのがむず痒かったのか、提督はむずむずと身を震わせる。その姿に、私は思わず声を漏らす。

 

 

「だから、とっとと気付けっての」

 

 

 それと同時だろうか、執務室のドアが開いたのは。その直後、思わず顔を上げて扉を見た。そして、顔から血の気が引いていくのを感じた。

 

 

 

「何しているのですか?」

 

 

 そう声を漏らした。開け放たれた扉の前でファイルを抱え、いつもの制服を身に纏い、その顔から一切の感情を削ぎ落した()表情を浮かべた榛名さんが。

 

 

「や!? え、と、こ、これは……」

 

 

 思わず大声を上げて立ち上がりそうになるも膝の上にいる提督がもぞりと動くのを感じ、立ち上がるのを何とか抑え、出来る限り声を絞る。チラリと提督を見ると、動いただけで未だに寝息を立てている。起きる心配はないと心の中で安堵したが、それも横から突き刺さる刃物のような視線によって瞬く間に消え去った。

 

 榛名さんは先ほどの言葉以降何も喋らない。刃物のような視線を私に向けるのみ。その瞳の奥に見える感情すら分からない。ただ、黙って私たちを見据えるのみ。

 

 

 しかしそう思った直後、その身体は動いた。

 

 先ずは足、前へと伸ばされ、床を踏みしめる。

 

 次は腕、抱えていたファイルを投げ出し、手ぶらになる。

 

 次は膝、ある程度足が床を踏みしめたところでいきなり折られ、その上体が前に投げ出される。

 

 次は再び腕、手ぶらになった腕を前に突き出し、何かを包み込むように輪を模っている。

 

 最後は頭、上体よりも更に前のめりになり、その先は模られた輪の中心に吸い込まれていく。

 

 では彼女の頭が吸い込まれていったその中心とは何処か、私の膝である。

 

 

 正確には、私の膝で眠る提督の顔だ。

 

 

 

「ッえ―――」

 

「静かに」

 

 

 目の前に現れた光景に声が出る前、榛名さんの凛とした声が聞こえた。それに、とんでもないことをしでかしておいて何言っているんだ、と言い出しそうになる。だが、今しがた彼女の声が聞こえたことで引っ込んだ。

 

 もし榛名さんがとんでもないことをしたなら、こうもはっきり彼女の声が聞こえるはずがない。だって、現在進行形で彼女は口を塞いでいる(・・・・・・・)のだから。そう思考がまとまった時、彼女の片手がその頭の下にあることに気付いた。それが何なのだろう、と考える間もなく榛名さんは頭を上げた。

 

 

 その下に見えたのは提督の寝顔ではなく、その顔に覆いかぶさる少々くたびれた白い軍帽だ。それは彼が私の膝に寝転がる際に脱いで傍の机に置いておいたものである。

 

 

「この方が、良く休めるでしょう」

 

 

 視界の外から榛名さんの声が聞こえ、軍帽に注がれていた視線を彼女に向ける。彼女は私に背を向け、先ほど放り出したファイルを拾っているところであった。

 

 

「あの……」

 

ファイル(これ)を渡しに来ただけですから無理に起こさなくても良いですよ。あぁ、でもそれを見た上で今後どうするかをお聞きしたいので、時間を置いてまた来ます。それと北上さんが金剛お姉様について相談したいことがあるそうです。後は……うん、伝えてもらいたいのはそれだ―――――」

 

「あの!!」

 

 

 こちらを向かずに捲し立てる榛名さんの言葉を遮る。それに、榛名さんは捲し立てていた話を断ち切るのみで、こちらを見ようとはしない。拾ったファイルも傍の机に置くだけだ。

 

 

「何ですか?」

 

 

 その後ろ姿から、彼女の声が聞こえた。それは抑揚が無く、とても冷たい。先ほど向けられた視線のような、刃物のような鋭さを帯びた言葉だ。それに思わず今しがた問いかけようとした言葉を飲み込もうか迷った。

 

 でも、言わなければ。あの人のように、言わなければ。もう此処に居ない、彼女を見ていた人(・・・・・・・・)のように。

 

 

「もうこん―――――」

 

あなたたちも(・・・・・・)

 

 

 そう決意した私の言葉を榛名さんの声が遮った。いや、その声自体は私の声を掻き消すほど大きくも、私の言葉を飲み込ませるほど重くもない。ふとした物音にかき消されてしまうほど小さく、ちょっとした声を上げれば何処かへ飛んでいくほど軽い声だった。

 

 

 

「私を、否定するんですか?」

 

 

 だが、その『言葉』は。それとともに向けられた表情は――――何もかもを諦めてしまった『絶望』の表情は。私の『言葉』を飲み込み、『決意』を叩き折るには十分だった。

 

 

「では、そうお伝えください」

 

 

 私が絶句しているのを見て、彼女はそう言った。その表情の上に首の皮一枚ほどの厚さしかないであろう虚勢(笑み)を重ねて。そのまま、彼女は廊下へと続く扉の向こうに消えて行った。

 

 

 その後、扉が閉まる音を最後に執務室は沈黙に包まれた。時が止まってしまったのか、何も、誰も、音を立てない。呼吸すら忘れてしまったのか、そんな小さな音を拾うことを耳が放棄したのか、分からない。

 

 

 だけど、その沈黙はようやく終わりを告げた。

 

 

 

「そういうところだよ」

 

 

 そんな声が聞こえた。そう、聞こえた(・・・・)。つまり、私が発した声ではない。私以外の誰かが発したのだ。そして、この場で声を発することができる存在は限られて、いやたった一人(・・・・・)しか存在しない。

 

 

 その直後だろうか。仕事放棄したはずの私の耳に、わざとらしい寝息が聞こえ始めたのは。


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