新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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報われた『三人』

 空気を吸えた(・・・)

 

 吸いたくなかった。

 

 

 陽の光を感じた(・・・)

 

 感じたくなかった。

 

 

 誰かの声を聞けた(・・・)

 

 聞きたくなかった。

 

 

 誰かに触れられた(・・・・・)

 

 触れられたくなかった。

 

 

 

 あたしは、雪風は、『あたし達』は。

 

 ただ、一()になりたかった。

 

 ただ、一()にしてほしかった。

 

 

 ただ、忘れられたかった。人々の記憶から消え去りたかった。

 

 ただ、自由になりたかった。この身一つに、綺麗さっぱり、何もかもを失くしたかった。

 

 

 ただ、ただ―――――――ただの『()』になりたかった。何も背負わず、何も持たない、ただの『物』になりたかった。

 

 

 

 

 だから、そう思えた。

 

 ついさっき、視界の全てが薄暗い青に満たされていた時。

 

 今度こそ逃げ切れると、振り払えると、逃れられると。

 

 何もかもから、誰もかもから、過去から、未来から、現在(いま)から、解放されると。

 

 

 ようやく、ただの『物』になれると。

 

 

 

 

 だけど、それは許されなかった。

 

 妖精(あの子)は雪風の手から離れていった。その命を犠牲に、雪風を生き(・・)地獄に突き落とした。それが己の役目だと言うかのように、そんな偽善(・・)を押し付け、そんな自己満足に浸りながら居なくなった。

 

 そしてあの子を寄こしたのは幸運の女神だ。あの女は離さなかった。この手を、この首輪を、この呪縛を、宿命(さだめ)を、『幸運』を、その『代償』を。

 

 

 性懲りもなく。

 

 おこがましく。

 

 厭らしく。

 

 あたしに当てつけ(・・・・)のように。

 

 雪風に宛てつけ(・・・・)のように。

 

 

 

 『雪風(呪い)』を、離さなかったのだ。。

 

 

 

 

「『雪風』」

 

 

 また、誰かが『雪風(呪い)』を口にした。顔を向けず、ただ呼吸を繰り返す。

 

 誰かが雪風の胸倉をつかむ。力の限り、まるで絞殺さんばかりに、捻り潰そうとするかのように。気にもかけず、ただされるがまま。

 

 

 このまま絞め殺してくれれぼ(・・・・・・・・・)どれほど喜ばしいことか。

 

 このまま海中に沈めてくれれば、どれほど有難いことか。

 

 このまま……そう、このままずっと(・・・)――――――

 

 

 

「雪風ェ!!!!」

 

 

 舌打ちが聞こえ、胸倉を締め上げられ、視界が上を向く。青々とした空、照り付ける太陽。その光を背後に抱え、影が落ちる。

 

 だけど彼女(・・)は。彼女はそれでも顔を見せた。その顔(・・・)を見せた。そこにあった、『怒り』を見せつけていた。目を剥かんばかりに見開き、破ってしまうほどに唇を噛み締め、彼女が持ちうる全てを以て『怒り』を見せつけてきた。

 

 

 『目は口程に物を言う』とは、よく言ったものだ。よくもまぁ(それ)だけでここまで雄弁に語れるものだ。

 

 

 『其処に居る』、『此処に居る』、『目を離すな』。

 

 

 

 『目を背けるな』と。

 

 

 

 

「今、何つった?」

 

 

 彼女は――――――北上さんは今にも殺してくれそうな形相で、辛うじて残ったであろう理性を駆使して、その問いを絞り出してきた。

 

 

 

「『沈めなかった』……って、言ったよな? そうだよな? そう言ったよなァ!!!!」

 

 

 どうやら問いではなかった。北上さんは雪風の答えを待つことなくそう捲し立てた。同時に締め上げる力を込め、鬼の形相を更に歪め、喉が潰れるのではと思うほど大音声で言葉を―――――いや、呪詛を吐いたのだ。

 

 

「あんたの足元……一体どれだけの犠牲があると思ってんの? 沢山、夥しい、数えきれないほどの犠牲が、死体(・・)があんのよ? それを踏みにじった末に、あんたがいるんでしょ? 分かってんの? 今まで踏みにじってきた奴ら全て、全部、全員お前のせい(・・・・・)で死んだんだぞ!!!!」

 

 

 呪詛を、呪いを、今までさんざん言われ尽くした、投げつけられた、押し付けられたこと、もの、過去、今、未来―――――『雪風』が持ちうる(モノ)何もかもを彼女は吐き出した。雪風に叩き付けた、投げつけ、押し付けてきた。

 

 

 

 

 それだけ(・・・・)なら、まだ抑え込めた。

 

 

 

「で、何? 今から贖罪(・・)でもしようっての? 今更ぁ? 今頃ぉ? ……で? それが沈むこと? 死ぬこと? それで皆が、大井っちが許してくれる(・・・・・・)とも? 皆の死を無駄にして(・・・・・・・・・)、それが贖罪になるとでも? ふざけるのも大概にしろ!!!!」

 

 

 

 それは初めてだ。いや、初めてではない。今まで幾度となくぶつけられた言葉、過去を背負い、清算しようと目論む愚か者全てに向けられたであろう、この歴史においてもう見飽きたと嘆息されるであろう、手垢塗れの言葉。

 

 

 『死をもって罪を償う』

 

 

 

 なんていう、美談のように見せかけた愚か者の常套手段(・・・・)。それがどれほど滑稽か、みすぼらしいか、『雪風』は知っている。

 

 何故なら、それを駆使した愚か者たちが沈んでいく様を見たからだ。それを駆使して逃げ延びた(もの)たちを見てきたからだ。そんな者たちの後を追えず、ただ離れゆくその背中たちへ手を伸ばせず、見続けてきたからだ。

 

 そして『僚艦を沈ませた』と、『周りの幸運を吸い取っている』と、『味方を死に追いやっている』だと。逃げ延びた者たちの『罪』すらも背負わされた。死んだものだけが報われ、生き残ったものがその『罪』を、『業』を、『結末』を押し付けられてきたからだ。

 

 

 だから、雪風(・・)にとってそれは初めてなのだ。紛れもなく、初めて手を伸ばしたのだ。手垢塗れの方法(もの)なのに、誰しもがそれに縋った宿願(もの)なのに。

 

 

 

 『それすらも、雪風(お前)手にしてはいけない(・・・・・・・・・)

 

 

 

 そんな赤の他人(・・・・)が、被害者が、被害者面した部外者が、その皮を被った加害者ども(・・)が。

 

 当然と、平然と、当たり前のように、悪びれも無く、事の発端から原因、結果、影響など、ありとあらゆる『不都合』をもって、雪風の手を払いのけた。

 

 自分たちの都合よく事を運ぶために、平気な顔で全否定を叩きつけ、あまつさえその原因(・・)すらも雪風に押し付ける。

 

 

 誰しもが手をとれるものすら手にさせてもらえない、誰しもが身に纏えるものすら纏えない、仮初めながらも守ってくれるものにすら守ってもらえない。

 

 

 

 そんな、幸運の代償(えこひいき)を。

 

 

 

「違ぇよ、違ぇんだよ……そうじゃないんだよそれじゃないんだよそんなことよりももっと先にすべきことがあるだろ!!!!」

 

 

「――……だよ」

 

「あぁ!? 聞え――――」

 

 

 

「誰が『助けて(・・・)』って言ったんだよォ!!」

 

 

 いつの間にか、雪風(・・)はそう言葉にしていた。

 

 

雪風(・・)は一度も言ってない……雪風(・・)は一度も望んでいない……一度たりとも、一ミリも一秒たりとも『助けて』なんて言ってないんですよ!!」

 

 

 吠えた、怒号を上げた。声を荒げ、喉を潰さんばかりに、血を吐き出さんばかりに、あたし(雪風)はそう叫んでいた。雪風(・・)はそう叫んでいた。

 

 

 

 

 初めて(・・・)、『雪風』は心をひけらかした。

 

 

 

 

「一言も『助けて』なんて言った覚えはない!! 『庇って』なんて!! 『盾になって』なんて!! 一言たりとも言ってないんですよォ!! なのに、なのに……何で庇うんですか、何で盾になるんですか、何で勝手に(・・・)沈んでいくんですか!! 勝手に庇って、勝手に盾になって、勝手に沈んでいくんですか!!」

 

 

 出した、曝け出した、ひけらかした、ぶちかました。雪風がずっとずっと抱えてきたものを。物になり損ねた、物のくせに抱いてきた心――――物心を、出してしまった(・・・・・・・)

 

 

「それなのに……それなのに『お前のせい』だって、『お前が沈めた』って、『お前は死神だ』って。何で、何で言われなきゃいけないんですか……こっちは!! 勝手に!! 沈まれただけ!! 雪風(・・)が沈めたわけじゃない!! 雪風(・・)が沈んでって望んだ(・・・)わけじゃない!! 雪風(・・)が沈めって願ったわけじゃない!!」

 

 

 

 そこで息を吸い、太陽を睨み付け、北上さんに顔を向け、掴まれた胸倉の手を掴み返し、あらん限りの声でこう言い放った。

 

 

 

 

雪風(・・)のせいじゃない!!!!」

 

 

 その瞬間、辺りは静寂に包まれた。

 

 

 聞こえるのは雪風の荒い息遣い、足に当たる白波の音だけ。それ以外、何も音が聞こえない。何も音を拾わない。振り払い、捨て去り、聞こえなくした。情報をシャットアウトした、全てを放棄した。

 

 

 

 ただの、『物』になろうとした。

 

 

 

 

「そう」

 

 

 だけど、その声だけは振り払えなかった。

 

 

「分かった、お前の言い分は分かった。じゃあ、こうしよう……いや、こうしてやる(・・・・・・)

 

 

 そう発した彼女は締め上げていた手を離し、雪風を解放する。だが、次の瞬間その腕は砲門があり、それは雪風に向けられていた。

 

 

 

 

「あたしが、殺してやるよ」

 

 

 

 そこにあったのは、真顔の北上さん。感情の一切を捨て去って、ただ淡々と言葉を発する機械のような表情で。そう音を発した。

 

 

「ただし、殺すのは大井っちに『謝罪』をしてからだ。それまでは何が何でも、どんな手を使ってでも、お前を沈ませない(・・・・・)。沈みたいと言っても、死にたいと言っても、絶対に死なせない(・・・・・・・・)。誰かが代わりに傷付こうが、誰かが悲しもうが、誰かが沈もうが、何が何でもお前だけは沈めない、死なせない……逃がさない(・・・・・)

 

 

 北上さんの言葉は、雪風にとって理不尽の極みだ。沈むことを、死ぬことを望む雪風にとって、何が何でも阻止してやる、そう言うことだ。だが、彼女は同時に救いの手を提示した。目の前に突き付けてきた、同時に砲門を突き付けてきた。

 

 むしろ、彼女にとってもこちらが本音なのだろう。彼女は雪風を憎んでいる。沈めたい程に、殺したい程に。殺すためなら何だって手を染めよう、そんな揺るがない決意を携えて、腹の底に横たえて、薄っぺらい言い訳を用意してでも叶えようとしている。

 

 

「ただ謝罪さえすれば、いつでもどこでも何度でも殺してやるよ。今ここで懺悔すればその頭ぶち抜いてやるよ、自室で懺悔すればそこを砲撃してやるよ、演習場で懺悔すれば雷撃処分してやるよ。だから―――――」

 

 

 そこで言葉を切った、いや切れてしまったのだろう。何故ならその瞬間、彼女の瞳から一滴の涙が零れたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「謝れよ、あたし(大井っち)に」

 

 

 

 その言葉、そこに込められたもの。思い、感情、心、それら全てをひっくるめた末に導き出した彼女の『願い』だ。

 

 

 

 同時に、それはあたし(雪風)にとって。『最高』の逃げ道(・・・)だ。

 

 

 

 

 

 

「すみませんでした」

 

 

 その言葉に続いて、雪風はそう言っていた。その瞬間、能面のようであった彼女の顔に憤怒が宿り、拳を握りしめ大きく振り上げた。

 

 

 

 

「いい加減にして」

 

 

 だが、それが振り下ろされる前に横から声が飛んできた。振り上げた拳を止めるほどの気迫も重みもない言葉の筈なのに、何故か北上さんは振り下ろそうとした拳を止めた。同時に、その視線をその声の主に向ける。それに遅れて雪風も視線を向けた。

 

 

 

いい加減に(・・・・・)、して」

 

 

 もう一度、同じ言葉を発したのは曙さんだった。片腕を組みながら、肩で息をしながら、倒れてしまいそうな程の満身創痍の身体。

 

 そんなボロボロの彼女は、刃物のような鋭い視線を向けている。たったそれだけ、それだけであった。彼女は北上さんの動きを止めようとする素振りもなく、ただ一言そう言っただけだ。

 

 

 

 なのに、言葉(それ)に乗せられた彼女の感情が―――――――凄まじい『憤怒』が雪風たちを止めたのだ。

 

 

 

「……これより帰投する。北上さん、金剛さんと一緒に吹雪の曳航。雪風、あんたはあたしの補助。潮、響は夕立の曳航。良い?」

 

「ぽーい」

 

「了解」

 

「はい」

 

 

 だが、それは次に続けられた各々への指示には全くもって無かった。どちらかと言えば至極冷静で、淡々とした指示だ。そして曙さんの指示に夕立さん、響さん、潮さんは二つ返事で了承し、指示のもとに動いていく。

 

 

「チッ」

 

 

 その姿を見て北上さんは小さく舌打ちをし、曙さんの指示通りに金剛さんに近付いていった。北上さんを迎えた金剛さんも手早く吹雪さんを曳航する準備に取り掛かり始める。

 

 

 

「……ごめん、ちょっと肩貸して」

 

 

 一人動けない雪風に曙さんがそう詫びを入れながら身を預けてきた。その身体を何とか支え、その鼓動を、その命をしっかりと抱き留めた。曙さんは雪風に寄り掛かりながら一息つく。その姿は先ほどの剣幕からは尊像出来ないほど、気の抜けた顔だった。

 

 

 

 

「何で……進撃したんですか」

 

 

 そんな彼女に向け、雪風はそう問いかけていた。

 

 

 それは彼女に向けた糾弾。雪風を棚に上げ、それを悪びれもせず突き付けた糾弾文だ。それを受け取った彼女の肩が、僅かに動いた。

 

 雪風が独断で進撃した後、彼女は北上さんから旗艦を譲渡されたと聞いた。そしてこの無茶苦茶な作戦を立案し、あまつさえ実行したのは彼女。つまり、本来は雪風だけであった危険に艦隊全員を突っ込んだのは彼女なのだ。

 

 更に言えば、旗艦を譲渡された時点で雪風を放って帰投することも出来た。況して旗艦になる前に金剛さんと通信出来ていたのなら、尚更帰投するべきである。夕立さんと北上さんも、無線を通せば撤退することも出来た筈。わざわざ独断で大破進撃した駆逐艦一隻のために、艦隊全員を危険に晒すことはない。

 

 そして何より、彼女は砲撃された雪風とリ級との間に走り込み、あまつさえ雪風を庇おうとした。結果だけ見れば砲撃に切り替えたのだが、それまでは確実に自分が盾になろうとしていた。

 

 

 雪風に全てを押し付けてきた愚か者たちのように、沈もう(逃げよう)としていたのだ。

 

 

 

輸送艦(・・・)一隻と、駆逐艦一隻。どっちを取るか、子供でも分かるでしょ?」

 

 

 

 そして、彼女は悪びれもせずそう言ってのけた。その言葉に、雪風は思わず食い掛ろうとした。

 

 

 

 

 だが顔を上げた先で、彼女はこちらを見据えていた。それも、今まで見たことのないほど冷たい視線を向けていた。

 

 

 

「何?」

 

 

 曙さんはそう問いかけてくる。恐らく雪風が何を言うとしたのは分かった上で、敢えて問いかけてくる。同時に、彼女は目で語ってきた。

 

 

 

 『それ(・・)を、お前が言うな』と。

 

 

 

 その目に雪風は何も言い返せず、ただ視線を下に向けた。それ以上曙さんも追及する気が無かったようで、それ以降雪風たちの間に会話は無かった。

 

 

 やがて、他の面々の用意が整った。雪風に支えられた曙さんの周りに皆が集まる。しかし、誰も雪風を責めない。いや、責めることは愚か見向きもしない。更に言えば、敢えて視界の外に置こうとしている節さえあった。

 

 

 

 唯一視線を向けてきたのも、北上さんの憎悪に満ちたモノだけだ。

 

 

 

 

 

「よし、じゃあ帰投する」

 

 

 

 そんな曙さんの号令で、雪風たちは撤退を開始した。

 

 

 旗艦の曙さん、それを支える雪風、金剛さん、吹雪さん、潮さん、夕立さん、響さん。この並びで単縦陣を敷く。雪風と曙さんは索敵に集中、他は曳航をしているため誰も声を発することはない。そのため、一同は終始無言で海上を進む。

 

 

 

「MVP、何もらおっかな~」

 

 

 そんな中、一人警戒も攻撃もしなくていい身の上の夕立さんがそんなことを言い出した。先頭を行く雪風はその呑気な問いに何も言えなくなってしまう。だが、支えていた曙さんは小さく噴き出し、後ろからも笑い声が上がる。

 

 

 

「夕立……あんた、まさか今回もMVPがあるって思ってるの?」

 

「何で? 夕立、一番敵を沈めたよ? 皆が来るまで時間稼ぎもしたよ? これだけ頑張ったんだもん!! MVPは夕立に決まりィ!!」

 

「いやぁ、あ、あのね夕立ちゃん? そういう問題じゃなくて……」

 

「待って欲しい。ここは夥しい敵の艦載機勢を一網打尽にした私にこそふさわしいんじゃないか?」

 

「うぅ、そ、それはそうっぽ…………って、それ夕立の御膳立てがあったからっぽい!!」

 

「ふふ、『沈黙は金』さ。だから、黙っておいてくれよ?」

 

「嫌っ!!」

 

 

 そんな調子で、曙さん、夕立さん、潮さん、響さんが軽口をかわし始めた。それを契機に、艦隊を包んでいた雰囲気は幾分か軽くなる。その空気に毒を抜かれたのか、金剛さんの笑い声も聞こえてくる。その和やかな雰囲気で、言葉を発さないのは雪風と北上さんだけだ。

 

 

 

 だけど、それは唐突に途切れた。

 

 

 

「敵機」

 

 

 その言葉を、雪風が溢した。それと同時にあれだけ和気あいあいとしていた空気は消え去り、誰もが目を鋭くさせる。そしてその視線たちは頭上に、雪風が指を向ける空へと集めた。

 

 

 

 そこに居たのは敵機―――――と、思われるもの(・・・・・・)

 

 加賀さんや龍驤さんが放つ緑色の機体ではなく、敵から放たれる灰色の機体でもない。

 

 白濁とした白色の丸い機体、其処から涎を垂らす様に大口を開け、舐めまわす様に()をぎょろぎょろと動かしている。その姿は艦載機か、飛行機か、況して鉄の塊か、などと問うことが愚問のように思える程、生き物のようであった。

 

 

 本当に、『生き物』のようであった。

 

 

 羨ましい程に、『生きていた』。

 

 

 

「……気付かれてない、ね」

 

 

 その答えを出したのは、響さんだ。彼女の言葉通り、その敵機らしきものは獲物を探す様に機体をあちこちに向けている。元々霧で視界が塞がれやすい海域故に目を向けなければならない範囲が広すぎるのだ。

 

 そのためたった一機の索敵だけじゃ賄い切れず、索敵に穴が空いてしまう。どうやら、雪風たちはその賄い切れない穴に居るみたいだ。

 

 

「すぐ霧に紛れる。面舵一杯」

 

 

 それを受けた曙さんは静かに号令を発し、雪風たちはすぐさま右へ進路をずらす。その先に待つ霧の壁に突入した。

 

 

「視界不良につき原速、宜候(ヨーソロー)

 

 

 視界を霧に覆われてすぐ、曙さんが矢継ぎ早に指示を飛ばす。視界を霧によって覆われたせいで索敵能力は著しく低下、更に言えば僚艦同士も間隔を把握が困難になったための減速指示。また減速によるエンジン音の抑えることで『音』によって気付かれる可能性を限りなく低くしたのだ。

 

 ほんの一瞬、藁の山から探し出した針に等しい僅かな時間。それだけでこれだけの判断を下し、瞬く間に指示を飛ばした曙さん。彼女は恐らく、いや確実に、間違いなく、生きよう(・・・・)としている。

 

 

 先ほど自らの身を投げうとうとしたのに。死のうとしたのに。逃げようとしたくせに(・・・)

 

 

 眩しいほど、『生きよう』としている。

 

 

 

「もうすぐ、抜ける」

 

 

 曙さんの言葉通り、視界を覆っていた霧が段々と薄くなっていく。それに合わせて艦隊の速度も上がっていく。その足取りはおぼつくことも無く、ぶれることも無く、ただ真っ直ぐに前を向き、しっかりと水面を踏みしめ、堂々としている。

 

 

 手を伸ばすのを憚れる程、『生きよう』としている。

 

 

 

 

「ぃぃなぁ」

 

 

 僅かに、雪風の口から漏れた。だが、それを拾う者は居なかった。誰もが、『生きよう』としていたからだ。誰もが、『生き延びよう』としていたからだ。

 

 

 誰も、『死』を望んでいなかったからだ。

 

 

 そして、視界が晴れた。空が見えた、太陽が輝いていた、陽の光を浴びた、風を感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 其処に、ソレ(・・)がいた。

 

 

 

 透き通るような白い肌、陽の光にきらめく銀色の腰まで届く長髪、その一房を纏め左肩に流したサイドテール、黒いセーラー服に身を包み、華奢な手足に似つかわしくないほど重厚な装甲を身に着けていた。

 

 ソレが身を預けるモノ―――黒々とした椅子のような艦首を模した艤装、その両端からは大小様々に飛び出す機銃類、ソレがもたれ掛かっている黒鉄の砲台、ソレの両脇から前方へと伸びるカタパルト。

 

 

 ソレを何と呼べばいいのか、分からない。ソレを前にしてどうすれば良いのか、分からない。ただ、霧の向こうにソレがいた。それだけなのだ。

 

 

 空を仰いでいたソレ。見惚れてしまうほどに美しい髪で表情が見えない。その顔はゆっくりと下に動く。それに合わせて、その髪は絹のようにほどけて良き、やがてその横顔が見える。

 

 人形のように白い肌に、少し釣り目だった。そしてその瞳は、赤い光を帯びている。何処か物憂げな表情で、視線を下へ下へと向けて良く。息をするのも忘れる程に、美しかった。

 

 

 だが、そこに『生』の感情は無かった。

 

 ただ、其処に居るだけのモノだった。存在しているだけの物にしか見えなかった。『生きよう』とも、『生きたい』とも、『生きる』と言う言葉すら知らないのではないかと思うほど。

 

 

 憐れ(・・)なほどに、美しかった。

 

 

 やがて、ソレは遂にこちらを見た。その赤い瞳が雪風たちを捉えた。物憂げな顔のまま、こちらを見たのだ。そして、その表情を変えた。

 

 

 物憂げな表情でもない、嘲る様な笑みでもない。

 

 

 

 

 見つめた先に居る誰か(・・)を安心させようとするような、『微笑み』だった。

 

 

 

 その微笑みを向けられ、雪風は動けなかった。正しく、動けなかった。

 

 それは恐怖からではない。驚愕からではない。ただ、その微笑みに妙な違和感を覚えたから。

 

 

 

 決して深海棲艦に抱くことのない感情――――――『懐かしさ』を、感じたから。

 

 

 

 やがて彼女はこちらから視線を外し、身を預ける艤装を軽く摩る。途端にけたたましい轟音が響き渡り、艤装の口のような所から黒い煙が上がる。その間も、彼女は身体を砲台に預けている。まるで海上クルージングを楽しむように、彼女は悠々と前進を始めた。

 

 そして、それに呼応するように頭上から羽音が聞こえた。思わず目を向けると、先ほど見た白い敵機が頭上高くから降下してくるのが見える。ただその勢いは攻撃、というよりも着艦のように見え、実際降下してきた敵機は彼女の脇に伸びるカタパルトへと飛び込んでいく。

 

 

 やがて、全ての艦載機を着艦し終えた彼女は再度艤装を摩った。すると、前進していた艤装の艦首が左へ逸れていく。

 

 

 

 

 それは、雪風たちとは逆方向だ。

 

 

 

 艦首が見えなくなり、艤装の背面が顔を出した時。今までの中で最も大きな駆動音を響かせ、彼女は前へ進んでいく。やがて霧の壁に到達するも、変わらずその壁に突入した。やがて喧しく聞こえていた駆動音も小さくなっていき、やがて聞こえなくなる。

 

 

 彼女は雪風たちの前から消えてしまった。

 

 

 

「何、今の……」

 

 

 ようやく時間が動き始めたのだろう。潮さんがそんな声を漏らす。その言葉に、他の皆も時間が動き始めたのか荒い息遣いが聞こえ始めた。

 

 誰もが死を覚悟しただろう。誰もが生を諦めただろう。だが、雪風たちは生きている。何故か、彼女は雪風たちを襲わず、こちらに背を向けて逃げた。いや、逃がしたのだ。

 

 

 

 

 

「なんで」

 

 

 その時、雪風の口からそんな言葉が零れていた。それを拾ったらしき曙さんが雪風に顔を向け、そして目を丸くした。その目に映る雪風がどんな顔をしていたのか分からない。 

 

 

 だけど一つ分かるのは、零れた言葉に凄まじい怒気(・・)が孕んでいたこと。だが、それに彼女が言葉を続けることはできなかった。

 

 

 

 次の瞬間、雪風たちの周りに無数の砲撃音が聞こえたからだ。

 

 

 

「全速前進!!」

 

 

 曙さんが声を張り上げる。同時に艤装の唸り声が無数に上がり、艦隊は全速で進む。そして、その後を追う様に無数の水柱が立ち上がった

 

 回避に成功した雪風たちはすぐさま水面に目を走らせる。そして、すぐにその水柱の正体を捉えた。

 

 

 

「敵水雷戦隊発見!! 右方向、距離15000!!」

 

 

 同じく敵を発見した潮さんが声を張り上げる。敵は旗艦軽巡ホ級、駆逐艦ロ級の水雷戦隊。距離からして射程ギリギリからの砲撃だ。あくまで攪乱を目的としたものだろう。攪乱している間に距離を詰め、一気呵成に砲火を上げるのが狙いだ。

 

 それを読み、曙さんは取舵を切る。距離を取るためだ。しかし、負傷艦ばかりの雪風たちが敵水雷戦隊から逃げきれるのはほぼ不可能だろう。それは彼女も分かっている筈だ。

 

 

 

 それがただの『悪あがき』だとも、分かっている筈だ。

 

 

 

「取り舵一杯!! 距離を取―――」

 

 

 そんな曙さんが声を張り上げた瞬間、また砲撃音が聞こえた。

 

 だが可笑しなことに、それは先ほど敵が上げた砲撃音よりも低かった。そして、小さかった、遠かった。

 

 

 

 そして次の瞬間、敵水雷戦隊の一隻が火柱を上げたのだ。

 

 

 その光景に、雪風たちは目を丸くする。それは敵水雷戦隊も同様だった。両艦隊は時間が止まったようにその場にとどまり、火柱を上げた敵艦が水面に沈んでいく様子を見るだけだった。

 

 そして、またもや砲撃音が鳴り響く。今度は複数、先ほどよりも大きく、近く、そして低かった。それに呼応するように敵艦隊の周りに水柱が上がる。駆逐艦では到底上げられないであろう大きな水柱だ。

 

 

 

 まるで、『戦艦』が放ったような。

 

 

 

 

 

 

「榛名さん?」

 

 

 そして、とある戦艦の名前が曙さんの口から飛び出した。まさかの名前に、雪風は曙さんを見る。彼女は驚愕の表情のまま、とある方向を見ていた。その先に、雪風も視線を向ける。

 

 

 そして見つけた。敵水雷戦隊よりも小さな黒い粒が、この距離からでも分かる程大きな砲火を上げているのを。それに呼応するように敵艦隊に水柱や火柱が立ち上がり、反撃するかのように砲火を上げているのを。

 

 

やがて、その砲撃戦は終わりを迎えた。敵水雷戦隊が無数の水柱、火柱の中に消え去り、黒い粒のように見えていた艦隊が姿を現した。

 

 

 

 先頭を進むのは榛名さん。その後ろに軽巡洋艦、駆逐艦、そして駆逐艦の後ろに曳航されている大発動艇が見える。

 

 

 

「救助部隊、かぁ」

 

 

 それを見た曙さんが、安心したような声を上げる。同時に進路を反転させ、榛名さんに向ける。艦隊は速度を上げ、雪風たちと榛名さんたちは瞬く間に距離を詰める。

 

 

 やがて、近付いてきた榛名さんはピシッと敬礼を向けてきた。

 

 

 

「本隊護衛部隊、旗艦榛名です。母港まで、護衛致します」

 

「救出部隊、臨時旗艦曙です。敵水雷戦隊の撃破、真に感謝します」

 

 

 互いに形式の挨拶を交わした。それに倣い、雪風たちも同じく敬礼をする。ほんの一瞬、張りつめた空気が走るも、それは表情を崩した榛名さんによって瞬く間に消え去った。

 

 

 

 何ともみっともない、泣き顔だ。

 

 

 

「良かったぁ……皆さんご無事で……本当に良かっだぁ……」

 

「ちょ、榛名さん、何も泣かなくても……」

 

「だっでぇ……」

 

 

 子供のようにぽろぽろ涙を流し始めた榛名さんに曙さんが苦笑いを浮かべる。傍から見れば、立場が逆だと突っ込まれるだろう。

 

 しかし、榛名さんは今作戦の主力を担えなかった。救出部隊ではなく、まして囮部隊でもなく、護衛部隊としか動けなかった。更に言えば、彼女は金剛さんたちを置いて帰投した。言い方を変えれば、金剛さんを見捨てて帰投した。誰も責めない故に、誰よりも責任を感じていた筈だ。それに押しつぶされまいと必死に堪えてきたのだろう。

 

 

 

 その辛さ、痛いほど分かった。

 

 

 

「榛名」

 

 

 そんな中、金剛さんが彼女の名を呼ぶ。それに、榛名さんは真っ赤に腫らした目を彼女に向けた。そして、彼女は駆け出したのだ。

 

 

 

「お姉様ぁ」

 

「大丈夫、大丈夫……皆無事、皆生きてマス。そしてごめん、ごめんね……心配かけて、本当に申し訳ないデス」

 

 

 飛び込んできた榛名さんを抱き締め、金剛さんはその頭を撫でる。その胸の中で子供のように泣きじゃくる榛名さん。その様子はまさに姉妹であった。生と死の狭間を潜り抜け、再会できた姉妹であった。

 

 

 

 

 その様子が、羨ましかった。

 

 

 

「取り合えず大発に吹雪ちゃんを、他の皆さんも乗ってください」

 

 

 そんな中、大発を引いていた駆逐艦が声を上げる。その言葉に、北上さんが吹雪さんを曳航していた金剛さんの紐を外し、今もぐったりしている彼女を大発に乗せる。それを受けて、各々も大発に乗る準備をし始める。

 

 

 

 

 

「なんで」

 

 

 その様子を見て、雪風はまたその言葉を漏らしていた。その視線の先に居る僚艦たちを見て、忌々し気に。

 

 

 

「なんで」

 

 

 僚艦たちは皆、安心している。そこに誰一人として、恐怖を浮かべていない。雪風が居た場所では、絶対に見れない光景だった。

 

 

 

「なんで」

 

 

 雪風が居るのに、雪風が傍に居るのに。誰も恐怖を覚えていない、誰も悲しみを携えていない。『今まで』とは違う、『あの時』とは違う。

 

 雪風が辿り続けた結末から、唯一逃れた『結果』だ。それが今、目の前に広がっている。それが今、手の届く場所にあった。それが今、手に入れることが出来た。

 

 

 

 『今』、手に入ったのだ。

 

 

 何故、『今』なのか。

 

 何故、『今』だけ(・・)なのか。

 

 

 何故、『今まで』ではなかったのか。

 

 何故、『今まで』では駄目だったのか。

 

 何故、『あの時』に手に入れられなかったのか。

 

 

 何故、『あの時』撤退を選んでしまったのか。

 

 何故、『あの時』敵に遭遇してしまったのか。

 

 何故、『あの時』僚艦の全てが沈まなけれならなかったのか。

 

 

 

 何故、『今まで』こうならなかったのか。

 

 

 

 

「なんで今更(・・)、手に入るんだよぉ」

 

 

 

 そんな泣き声が漏れた。それは雪風の声だ、彼女(・・)の声だ。ずっと押し殺し続けた、幸運の代償(えこひいき)に対する彼女(雪風)の声だ。その筈だ。

 

 

 

 決して、『あたし』の声じゃない。

 

 

 

 

「さぁね、分からないわ」

 

 

 その言葉に応えた人が居た。雪風が支えていた曙さんだ。思わず彼女を見る。対して曙さんは雪風を見ることなく、ただ目の前に広がる光景を、ようやく手に入れた『今』を見つめていた。

 

 

 

「でも多分、いやきっと……あいつが」

 

「あい、つ……?」

 

 

 彼女の言葉を繰り返す。すると曙さんは視線を雪風に向けた。そこにあったのは、刃物のような鋭さも、身も凍り付くような冷たさもない。

 

 

 

 羨ましい者を見るような、熱の籠った目だ。

 

 

 

「……教えない」

 

「え?」

 

 

 次に飛び出したのは、何とも子供っぽい言葉だった。それに疑問符をなげかけるも、曙さんは不服そうに頬を膨らませるだけだった。

 

 

「ほら、曙ちゃんも乗りますよ」

 

 

 その様子に疑問をぶつける前に、護衛部隊の駆逐艦が彼女にそう声をかけてくる。すると渡りに船とばかりに曙さんは雪風の身体から離れ、その駆逐艦の手を取った。

 

 そのまま雪風が口を挟む暇もなく、彼女たちは大発へと行ってしまった。

 

 

 

「さぁ、帰りましょう」

 

 

 やがて準備が整った雪風たちは泣き腫らした顔の榛名さんの号令に従い、帰投を開始する。

 

 

 その間、敵に遭遇することは無かった。

 

 その間、戦闘も無かった。

 

 

 

 何の問題もなく、いとも簡単に、母港に帰投出来てしまったのだ。

 

 

 

 母港を目の前にした時、その先で沢山の人だかりが見える。艦隊の帰投を待ち望んでいた艦娘たちだ。誰しもが作戦の成功を喜び、全員の生還を喜んでいるのだ。

 

 それを前に、雪風は思わず視線を下げる。いや、下げてしまった。生還を待ち望んでいる皆の目に映るのが、とても憚られた。

 

 自分勝手な行動を起こし、本作戦の崩壊を招こうとした。そんな自分にどんな視線を向けられるのか、考えなくても分かっていたからだ。

 

 

 そんな雪風に向けられる視線は、『今まで』と同じだからだ。

 

 

 やがて近づくにつれて歓声が聞こえてくる。それに、雪風は耳を塞ぎたくなるのを必死に堪えた。その中に自分に向けられた言葉があるかもしれない、それが一体どんなものか、考えなくても分かったからだ。

 

 

 こんな雪風に向けられる言葉は、『今まで』と同じだからだ。

 

 

 ようやく、不安定であった水面からどっしりとした地面に足を踏み入れた。同時に、遠巻きに聞こえていた歓声が嫌というほど鼓膜を叩いてくる。ありとあらゆる視線が雪風に降り注いでくる。

 

 

 

 『今まで』通り、全て同じだ。

 

 

 

 

 

 だが、突然その歓声は水を打ったように消えた。

 

 

 そして、同時に一つの革靴の音が聞こえる。カツカツ、と乾いた一定のリズム。それは少しずつ、早くなっていく。歩いているから早足、そして駆け足になる。

 

 

 その音はどんどん大きくなる。大きくなり、そし近くなってくる。同時に息遣いが聞こえ、足音が荒々しくなっていき、風を切る音が勢いを増してくる。

 

 

 それは、雪風の前に達した。

 

 その時、雪風は下げていた視線を上げる。

 

 

 

 上げた先にあったのは、大きな手の平だ。

 

 

 

 

 

 

 あたり一帯に乾いた音が聞こえる。

 

 

 雪風の視界は真横を向いていた。頬は熱を帯び、鋭い痛みが走った。それはすぐにじんわりとした鈍い痛みとなり、頬を蝕んでくる。

 

 

 だけど、頭は至って冷静だった。

 

 

 これも『今まで』通りだからだ。今までも、幾度となくこんな仕打ちを受けた。お前のせいだと、お前のせいで沈んだと、その言葉とともにこうして平手を喰らったのだ。

 

 

 

 

「なんで進撃した」

 

 

 

 やがて、視界の横からそんな声が聞えてくる。その声色、『今まで』と一緒だ。何もかも、一緒だ。予想通り、一緒だ。

 

 

 

「なんで進撃した」

 

 

 

 また、同じ言葉がやってきた。声色は変わらない、雪風を責めるものだ。雪風を糾弾するものだ。雪風に全てを押し付けるものだ。

 

 

 

「沈むかも……しれなかったんだぞ」

 

 

 

 だが、次にやってきた言葉は違っていた。声色は変わらないが、言葉だけが違っていた。だけど、それが持つ意味は一緒だ。

 

 彼が指しているのは雪風の大破進撃に巻き込まれた曙さんたちのことだ。お前が進撃しなければ、彼女たちが無用な危険に晒されることは無かった。そう言いたいのだ。

 

 

 

「なのに……なん、で……」

 

 

 その言葉は震えていた。怒り(・・)に震えていた。余計な犠牲を出そうとした雪風に、死神(雪風)に。そのくせ沈まずに、あの子を犠牲にして、なおも生き永らえたあたし(・・・)に。

 

 

 だけど、あたしはちゃんと聞いたはずだ。

 

 

 どうすればいい、と。どっちがいい、と。進撃か撤退か、どちらがいいか、と。

 

 

 『あたしを切り捨てろ』、と―――――そう進言したはずだ。

 

 

 なのに、貴方はそれを選ばなかった。何も(・・)選ばなかった。

 

 だから断行した、だから決行した、だから背負った。

 

 

 しれぇ(お前)が選ばなかったから、あたし(・・・)が選んでやったんだ。

 

 

「あたしが――――」

 

 

 それがいつの間にか声に出ていたのだろう。そう言いながら、あたしは顔を上げる。

 

 上げた先にあったのは手の平でもなく、拳でもなく、小さな雫(・・・・)の跡が無数に付いたよれよれの軍服だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よがっ、だぁ」

 

 

 

 そう、声が聞えた。同時に肩を掴まれ、背中に腕を回され、力の限り引き寄せられた。次の瞬間、先ほど視界にあったはずの軍服が目の前にあった。

 

 

 その向こうから、喧しい心音が聞こえた。

 

 

「よが、よ、がっ……た、よがっ……たぁ、よかった(・・・・)ぁ……()がっだよぉ!!」

 

 

 

 頭上から彼の声が、泣き声が聞こえる。

 

 身体を締め付けられる。力の限り、締め付けられる。

 

 頭上から、水のようなものが落ちてくる。それは雪風の制服を濡らす。

 

 

 それらの事実を拾い上げ、ようやく分かった。

 

 

 

 

 

 雪風は、抱きしめられている。

 

 

 

「っご、ごめん……ごめん、ごめん……ごめんなぁ、雪風ぇ……こ……こんな、だ、駄目な提督で……ごめんよぉ……選べなくて(・・・・・)本当に……本当にごめんよぉ……」

 

「なん、で」

 

 

 

 子供のように泣きじゃくる男―――――しれぇを支えながら、あたしはそう声を漏らした。

 

 

 分からなかったから。

 

 

 彼が泣くのも、彼が『良かった』と口にするのも、彼が謝るのも、彼が謝る理由も。

 

 

 全部、全部、分からなかった。

 

 

 

「で、でも……でも、よかったぁ……良かったぁ……良かったよぉ……」

 

 

 しれぇは尚も言葉を、嗚咽を、泣き声を上げる。それは謝罪ではなく、まして糾弾でもない。ただの安堵、ただの安心。

 

 

 だけど分からない、分からない。

 

 

 何故、しれぇがここまで取り乱すのか、あたしには分からない。

 

 

 

 

 

「帰って、きてくれたぁ……」

 

 

 その答えは、しれぇの口から出た。

 

 その理由は、しれぇが教えてくれた。

 

 

 

 あたしが帰ってきた(・・・・・・・・・)ことが、『良かった』と言ってくれた。

 

 

 

「ほんと、ほんどうに……う、ぁぁぁぁああ……あぁぁああああああ!!」

 

 

 そう漏らした後、しれぇの口から言葉が出てこなくなった。唸り声のような、呻き声のような、泣き声にか出てこなくなった。

 

 

 大の大人が、それもこの鎮守府の最高権力者が。部下たちの目の前で、みっともない泣き顔を晒している。本来、そのような姿を晒すべきではない。隠さなければならないものだ。

 

 だけど、裏を返せば取り繕えないほどのことが起きたと言える。それほどまでに、彼の中では大きなことが、重要なことが、大切なこと(・・・・・)が起きたと言える。

 

 

 

 

 その『大切なこと』、それが『あたしが帰ってきた』ことなのだ。

 

 

 

 

「っぇ」

 

 

 

 いつの間にか、声が漏れていた。

 

 いつの間にか、しれぇの腕を掴んでいた。

 

 いつの間にか、しれぇの胸に顔を埋めていた。

 

 

 

 いつの間にか、あたしの目は大粒の涙で一杯だった。

 

 

 

 

「あぁぁっ……ああぁぁぁああああぁぁ……あぁぁあああああああ!!!!」

 

 

 

 

 しばらくの間、母港には二つの泣き声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……見たくなかったのに、な」

 

 

 母港の真ん中で、わんわんと泣き声を上げる二人。そこから視線を外して私は―――――曙はそう愚痴を漏らした。

 

 こちとらそのみっともない面を見たくないために身体張ったって言うのにさ……ホント、クソ提督なんだから。

 

 

 まぁでも、正直雪風に近付いて平手を喰らわせた時は焦った。誰しもがあいつの行動に目を疑っただろう。確かにあいつはあの憲兵に拳を振るったけど、それを艦娘に振るうとまでは思わなかったかもしれない。

 

 そしてそれを見て、あいつも前のと同じく暴力を振るうかもしれない。そんな恐怖を植え付けるかもという心配も、今のみっともない姿を曝け出した時点で問題ないわね。

 

 

 そこで、何故か私は安堵の息を漏らした。そして、なおも泣き喚く二人に目を向ける。二人は今も喧しく泣き喚いている。

 

 

 まぁ、どちらもずっと押し殺してきたものが一気に溢れ出たんだから、こうなるのは当たり前か。本人たちのことを思えば、もう少しそっとしておくのが良いんだけど、流石に周りの目もあるしねぇ……。

 

 

 うん、そろそろやめさせよう。

 

 

 

「ほ~ら、二人とも? みっともないから、いい加減泣き止ん―――」

 

 

 二人に近付きながら、そう呆れ声をかける。だけど、その言葉は途中で途切れた。

 

 

 

 

 不意にあいつに手を掴まれ、そして抱き締められたからだ。

 

 

「ちょ、え!?」

 

 

 突然のことに変な声を上げ、その手から逃れようと力を込めた。

 

 

 

 

 

「ありがとうぅ……」

 

 

 だけど、次に聞こえたあいつの言葉。それを聞いて、私は暴れるのをやめた。

 

 

 

「ありがとうぅ……ありがとうぅ、曙ォ……ありがとうぅ……」

 

 

 あいつは泣きながら、私に『ありがとう(その言葉)』を向け続ける。それを前にしちゃ、受け入れるしかないでしょう。そして赤子のようにその頭を撫でた。

 

 

 

「大丈夫、大丈夫よ、ちゃんと連れて帰るって言ったじゃない」

 

「ありがとうぅ……ありがとうぅ……」

 

 

 だって、あんたが望んだんじゃない。

 

 だって、あんたが信じてくれたんじゃない。

 

 だって、あんたが待ってくれたからじゃない。

 

 

 私は『雪風を連れて帰る』(あんたの願い)を叶えるのが役目なんだから、そんなの当たり前じゃないの。

 

 

 

 

「無事に帰ってきてくれて……ありがとうぉ……」

 

 

 

 だけど、次に飛び出した言葉は。いや、あいつが私に感謝してくれた(・・・・・・・)ことは。

 

 雪風の無事ではなく、艦隊みんなの無事ではなく、私が無事であった(・・・・・・・・)ことだった。

 

 

 私の安否も、しっかり留意してくれていた。

 

 私の生還も、しっかり願っていてくれていた。

 

 

 

 私も、しっかり見てくれていたのだ。

 

 

 その後、あいつはまた泣き声を上げるだけになった。それに、私はなだめるよう声をかけることが出来なくなっていた。

 

 

 

 何故なら、私の声もあいつらと同じような泣き声に変わっていたからだ。

 

 

 

 不意打ちのような言葉。

 

 本当に欲しかった言葉。

 

 そしてちゃんと大切に思われていたという事実。

 

 

 それらを一気に手渡して、そして今もなお泣き声を上げてくれる。

 

 そんなあいつ、そんな提督、そんな私の提督。

 

 

 ……あぁ、夕立の言葉を借りよう。借りてしまおう。

 

 

 

 あぁ、もう、ほんと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 好きだ、バカ。


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