新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~   作:ぬえぬえ

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『向日葵』の『太陽』

 気が付くと、雪風は廊下を歩いていた。

 

 誰かに手を引かれている、誰かに引っ張られている。

 

 

 傷もない、痛みも、疲れもない。

 

 確かにあった傷も。

 

 身を裂かんばかりに襲ってきた痛みも。

 

 泥のように眠ってしまうだろう膨大な疲れも。

 

 

 何も無い。

 

 

 まるで今までのことが無かったかのように。

 

 『夢』の続きかもしれない、そう勘違いしてしまうかのように。

 

 

 何もかもが、同じように見える(・・・)

 

 

 今までもこれからも、過去も未来も、呪縛と一蓮托生、決して逃れられることが出来ず。

 

 この心臓が動き続ける限り、この血液が巡り続ける限り、この身体が呼吸を続ける限り。

 

 ずっと、ずっと、永遠に、永久に、背負わされ続ける(モノ)を背負い。

 

 

 このまま『雪風』として、(終わり)を迎える。

 

 

 

 そう、思っていた(・・・・・)

 

 

 そして手を引く誰か。白い軍服が見える。それを身に纏う存在を、雪風は一人しか知らない。

 

 

 だけどその背中は、前と一致しなかった。

 

 

 前は一切の汚れの無い軍服だった。でも、今目の前に見えるそれは『白』と言うにはほど遠いほど、汚れていた(・・・・・)

 

 

 襟や肩口はヨレヨレ、所々ほつれや所々擦り切れている。

 

 場所によっては穴が空きそう、または既に空いている場所さえある。

 

 帽子も型崩れを起こし、色も落ち、シミや汚れ、傷、シワに塗れ等々。

 

 

 極めつけはその襟から背中に広がる大きな茶色のシミ。まるで頭から何かを被ったかのような、身にまとうのすら憚れるほどの汚れだ。

 

 何千、何万と言う多くの若人たちが『夢』を見て、研鑽し、挑戦し、叶わず破れていった。

 

 その数多の想いを一身に引き付け、魅了し、そして踏みにじってきたであろう。

 

 

 そんな『夢』の証は今、目を疑いたくなるほどに汚れ、傷付き、擦り切れている。若人たちからすれば喉から手が出るほど欲した『(それ)』を、何故ここまで筵に出来るのか、そう激昂されてもおかしくない。

 

 身にまとうことすら憚れる、目にするだけでも気が引ける、さっさと捨ててしまえばいいとさえ思えてしまう、そんな汚れ塗れの軍服たち。

 

 

 

 

 それを()は身にまとっていたのだ。

 

 

 

 やがて、雪風たちはある場所で止まった。

 

 

 そこは重厚な鉄の扉。

 

 

 基本、木材で造られている鎮守府の扉の中で稀に見る鉄で造られてた扉。木造が多い中で鉄で造られるのは、それだけ重要な場所だと言うことだ。

 

 更に言えばしれいかん(・・・・・)の部屋の扉でさえも木造となれば、其処の重要性は一気に跳ね上がるだろう。

 

 

 そしてその扉に、雪風は見覚えがある。

 

 以前、曙さんが一週間の謹慎を過ごした場所――――営倉である。

 

 

 彼は軍服のポケットから鍵を取り出し、鍵穴に挿して右に回す。カチャリ、という音と共に扉は開かれた。

 

 途端、埃っぽい臭いを鼻を刺す――――かのように思えたが、思いのほかそれは無かった。日々、清掃に精を出す妖精さんたちの賜物だろう。

 

 

 そう、あの子も―――――

 

 

 

「雪風」

 

 

 不意に飛んできた声。それを受けて、雪風は顔を上げる。ぼやけた視界の向こうに、雪風を見つめる彼。その表情は分からない。

 

 

 だけど雪風の顔見た瞬間、雪風の手を握る彼の手に力が籠った。

 

 

「……足元、気を付けろ」

 

 

 彼はそれだけ言って前に向き直り、雪風の手を引きながら営倉へと続く階段に足を踏み入れた。

 

 

 

 入って分かった。此処は寒い。

 

 懲罰房であるため、空調に気を遣うわけがない。それに場所が場所であるため、身体がそう感じるだけで実際の寒さはそこまでだろう。

 

 それに雪風は、過去にここで何があったのかを知っている。純真無垢を装っているが、ここで口にすることを憚れるコトが行われていたと知っている。伊達にここで過ごしてきたのだ、人の汚い所なんて嫌でも見てきた。良くも悪くも(・・・・・・)嫌でも(・・・)見てきた。

 

 

 故にこれから何をされるのか、手に取る様に分かるはずだ。

 

 

 

 だけど、分からない。

 

 

 今、雪風の手を引く彼がどんな意図で、何の目的で、何をしようとしてここにやってきたのか。分からない、見当もつかない、理解できない。

 

 

 故に『動揺』があった、故に『困惑』があった、故に『疑心』があった。

 

 

 

 

 だけど、不思議と『恐怖』はなかった。いつもなら真っ先に抱くはずなのに、何故だろうか。

 

 

 そんな思考の海を彷徨っている間に、営倉に辿り着いた。

 

 前回のように、そこに人はいない。生活感の一切を排された個室が二つ。鉄格子を隔てて広がっている。ここで毎晩、ある時は一日に複数回、目を覆いたくなるようなことがあった。伝聞でしか知らないが、ソレ(・・)をされた人たちを嫌でも見てきた。

 

 そんな営倉の一つに、彼は先ほどの鍵を取り出し挿した。カシャン、という先ほどよりも少しだけ重い音が響き、鉄格子が開いた。

 

 彼はそのまま中に足を踏み入れる。同様に、彼に引かれた雪風も。

 

 

 その瞬間、何かを足を取られた感覚と共に視界がガクンと下がった。バランスが崩れ、前のめりに倒れる。恐らく、何かに足を引っかけたのだ。

 

 

 

「っと」

 

 

 すると、頭上から少し驚いたような声が降ってきた。そして目の前が先ほど見えていた軍服で一杯になる。

 

 鼻を刺すのはコーヒーの香り。または顎にボタンが食い込んだのか軽い痛み。そして、目の前に広がる制服の向こう。手を伸ばせば届く距離に、しっかりと彼の鼓動がある。

 

 

 何処からか伸びてきた2本の腕、そして雪風程の体躯ならすっぽり覆ってしまうほどに広い胸。それらを以て、彼は雪風を支えていたのだ。

 

 

 そこでやっと、ほんの少しだけ、僅かに、たった一つだけ、分かったことがあった。

 

 

 

 

「……大丈夫か?」

 

 

 

 頭上から彼の声が降ってくる。それに、雪風は反応しない。ただ、目の前に押し付けられた軍服に顔を埋めるだけ。何も発さない、何も言わない。

 

 

 それは、その理由は、その答えは、雪風(・・)が導き出した結論は、こうだ。

 

 

 

「……雪か――」

 

「『死神』なんですよ」

 

 

 

 再び声を上げた彼を遮る様に、雪風はそう応えた。

 

 同時に顔を上げ、彼の顔を見上げ、慣れ親しんだ仮面を―――――『笑顔』を向けた。

 

 

 

「雪風、『死神』なんですよ。比喩じゃなくて、正真正銘、本物なんです。雪風に関わった人は、皆死んじゃう(・・・・・)んです。どんなに強靭でも、どんなに精強でも、どんなに憶病でも、どんなに卑怯でも、どんなに『生』に執着していても……何一つ関係なく、皆同じように、等しく、誰それ構わず死んじゃうんですよ。死神(そういう存在)なんですよ、雪風は」

 

 

 

 彼は知らない、知らないのだ。

 

 雪風がどんな存在か、雪風がどんな軌跡を歩んできたのか、雪風がどんな罪を背負っているのか、何も知らない。彼は出会ってからの雪風しか知らない、それ以前の雪風を知らない。

 

 どれほど非情な、残酷な、卑劣なことを山ほどやってきた雪風を。それを平然と、感情の一切を排して淡々と行う、初代(しれぇ)の雪風を知らないのだ。

 

 

 

「幸運艦、強運艦、異能生存体、奇跡の駆逐艦……そんな煌びやかな名でもてはやされ、喝さいを浴びたと思うでしょう。でも雪風の下には、『雪風(この名)』の下には夥しい数の命があるんです。雪風はそれを踏んで生きているんです。雪風はそれらを身代わり(・・・・)に生きているんです。生き残るために捨て去ったんですよ。それも雪風の手で……雪風が自分の意志(・・・・・)で捨て去ったんですよ」

 

 

 

 彼が知っているのは、彼の下で過ごした雪風だけ。彼の下す采配はどれもこれも真っ当で、真っ白で、道理、理屈、倫理に則したことばかり。雪風はただその采配に従っただけ、故に彼は雪風を自分と同じ清廉潔白な存在だと勘違い(・・・)している。

 

 だからこそ彼は雪風を切らなかった、彼は雪風を捨てなかった、こんな薄汚れた存在なんかに情を向けた。あれ程酷い言葉を浴びたのに、彼はその帰還を喜んでくれた、その生還を望んでくれた。こんな雪風のために人目を憚らず醜態を晒したのだ。今もこうして雪風の身体を支えてくれるんだ、触れてくれるんだ、傍に居てくれるんだ。

 

 

 これほどまでに綺麗なんだ。純真無垢で、実直で、素直な人なんだ。『死神』如きが見ることを憚れる程、光り輝いているんだ。

 

 

 誰しも分け隔てなく光を与え、その行く末を照らし続ける―――――『太陽』のような存在なんだ。

 

 

 

「雪風は確かに幸運です。周りの人を不幸にしてしまうほどに、幸運(・・)なんです。でも、全部が全部幸運なわけないんです。その中でも、きちんと自分の意志で仲間を切り捨てたこともあります。それこそ沈みそうな仲間を見捨てて悠々と帰投した、守りきれたであろう味方を捨てて勝利に固執した、身を徹して守ってくれた仲間を毛ほども気にかけなかった……ほら、雪風はこんなに汚い(・・)んですよ」

 

 

 そんな人に『死神(雪風)』が関わってはいけない。まして、幸運の代償(理不尽な結末)にしてはいけない。

 

 彼が失われれば、路頭に迷う人々で溢れかえる。彼一人が消えるだけで夥しい数の人々が光を失うだろう。それこそ、『死神』一人が沈んだところで取り返せないほどの損失だ。それだけは回避しなければならない、絶対に在ってはならない、最低最悪の『代償』だ。

 

 

 だから雪風は現実を、彼の知らない雪風を、罪を犯して、投げ捨てて、踏みにじって、そのうえで何食わぬ顔で笑っている。そんな『死神』の姿を曝け出した。

 

 

 

 これ以上、彼が関わらないように。

 

 これ以上、彼が悩まないに。

 

 これ以上、彼が苦しまないように。

 

 

 掃いて捨てる程度の存在だと、貴方が目を向けるほどの存在ではないと、すぐにでも捨ててしまえ、真っ先に切ってしまえ、目もくれず、踏みにじり、捨てた事実すらも忘れてしまえ、と。

 

 

 今すぐにでも。今この場でもいい。直接手を下してもいい、誰かの手を借りてもいい。

 

 

 とにかくこの息の根を止めてくれ、と。

 

 

 

 

「……」

 

 

 だけど、彼は何も言わない。

 

 

 真っ直ぐ雪風の顔を見て、素直に雪風の言葉に耳を傾け、仮初め(・・・)のすまし顔でいるだけ。

 

 

 

 いつまで経っても、『死神』を糾弾する言葉が来ない。

 

 いつまで経っても、『死神』を罵倒する言葉が来ない。

 

 いつまで経っても、彼はその場から―――『死神』の傍から離れようとしない。

 

 

 ただ、ただ、雪風(・・)の話を聞くだけだ。

 

 

 

「……ですよ、酷いでしょ? 残忍でしょ? それが雪風なんです。これが『死神』と呼ばれる所以なんですよ……それにほら!! 雪風は比叡さんを……しずめ、まし……た、し」

 

 

 

 そこで言葉が途切れた。同時に胸の奥が締め付けられ、息をするのも困難になる。同時に目頭が熱くなり、視界はぼやけてしまう。手足が微かに震え、体温が下がる。

 

 あれ程すらすら吐き続けてきたのに、何故かその話になると。いや、いざその話になると、雪風は口を噤んだ。

 

 これが雪風の最も汚い所だ。都合の悪いことは口にせず、たいして思っていないことは流水のようにスラスラ言えてしまう。

 

 だからこそ『死神』なんだ、だからこそ北上さんがそう称したんだ。清廉潔白な貴方に程遠い、汚れに塗れた存在なんだ。

 

 

 

 (汚れ)だらけなんだよ、雪風は。

 

 

 だが、それでも彼は何も言わない。今まで通り、ずっと黙って雪風の話を聞くだけ。次に続く雪風の話を待っている、口を開く気配もない。餌を寄こせと喧しく騒ぎ立てる雛鳥の方がよっぽどマシだと思えるほど、彼は頑なに沈黙を貫くだけ。

 

 

 そのまま、互いに口を開くことなく沈黙が支配した。彼は動かない、動く気すらない。そんな彼を前にしたら、こちらがまた話をするしかない。しかし、今しがた話し始めたことは憚れるため、何かしら別の話題を用意しなければ。

 

 

 

 

 

「……あ、あたし(・・・)は!!」

 

 

 

 そんな思考であれやこれや考えて考え抜く中、ポロリとそんな言葉が()が零れた。

 

 

 その瞬間、雪風は口を噤んだ。慌てて言葉を噛み殺した、その先の言葉を飲み込んだ、零れかけた感情をすぐさま拾い上げた、ぶちまけかけたパズルのピースを寸でのところで掴んだ。

 

 

 

 

 

 

「言ってくれ」

 

 

 その瞬間、今まで沈黙を保っていた筈の彼が動いた。

 

 

 

 

「言ってくれ」

 

 

 彼は雪風が噛み殺ろうとした言葉を引っ張り出してきた。

 

 

「教えてくれ」

 

 

 彼は雪風が拾い上げた感情に手を添え、雪風の手ごと包み込んできた。

 

 

「話してくれ」

 

 

 彼は雪風が掴み損ね床に落ちたピースを摘まみ、雪風の手に押し付けてきた。

 

 

 

 

 

「俺は()を……雪風になってしまった君(・・・・・・・・・・・)と話がしたいんだ」

 

 

 彼はそう言ってきた。

 

 そう言って、雪風を真っ直ぐ見つめてきた。

 

 そう言って、彼は最後(・・)のピースを嵌め込んできた。

 

 

 

 雪風(その)向こうにいる、あたし(パズル)を完成させたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しに、たく、ない……」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』はそう漏らしていた。

 

 

 

「しず、み、たく、ない……」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』はそう答えていた。

 

 

 

「しず、め……たく、ないぃ……」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』はそう懇願していた。

 

 

 

 

「……あたし(・・・)あたし(・・・)はぁ……あたし(・・・)は!!!!」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』は声を荒げて、涙でぐちゃぐちゃであろう顔を前に向け、前に居る彼に対して、しれぇ(・・・)に対して、こう叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「『死神(雪風)』じゃない!!!!!」

 

 

 

 ようやく(・・・・)、『あたし』は『あたし』をひけらかした。

 

 ずっと、ずっと押し込んでいた心を、想いを、『雪風』に支配されつつあった『あたし』を。

 

 『雪風』なることを頑なに拒否し続け、それに反して日々押し付けられていく膨大な罪に押し潰されかけ、その逃げ道を与えられ、その代償に忠実な駒になることを求められ、それに縋り続け、やがて何もかもから逃げるために沈むことを望むようになった。

 

 

 

 『雪風』になることを拒否した筈なのに。何時しか『雪風』になることが、『雪風』として沈む(死ぬ)ことが目的となっていた『あたし』を。

 

 

 

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 そしてその結果。それはしれぇの微笑みと共に返ってきた。

 

 罵声でも怒号でも恨み節でもない。凡そ艦娘になって初めて向けられたであろう。

 

 

 

 感謝(・・)の言葉だ。

 

 

 

「そしてごめん、ごめん……()と話すのが遅くなって、()のことをずっと放っておいて、()に辛い選択をさせてしまって……本当にごめん」

 

 

 

 しれぇはそう言って、今まで微笑みを浮かべたまま深々と頭を下げる。そして、数秒後に下げた頭を元に戻し、再びその微笑みを向けてくる。

 

 

 だけどその目に、うっすら涙が溜まっていた。

 

 

 

「俺、どこか安心していたんだ。君は……雪風(・・)はいつも俺の味方だって、そう勝手に思い込んで胡坐をかいていたんだ。事実、君が俺のやることを否定したことが無かった。間違っていたとしても頭ごなしに否定せず、意見を取り入れつつ別の案を出して上手く軌道修正してくれた。だから、君だけは俺を裏切らないだろうって、勝手に思っていたんだ……」

 

 

 しれぇは何処か自虐を滲ませながらそう語る。

 

 

「それに君が周りの艦娘とは違う、『異質』であることも気づいていた。特に北上が、そして今しがた君が語った比叡について。君がそれを抱えて苦しんでいることを知っていながら、俺は見て見ぬふりをした。何処か他人事のように思っていたんだ……」

 

 

 その言葉は、何処か震えていた。

 

 

「その結果、君が初めて俺に反抗した。それに俺は何も言い返せずに路頭に迷った。今回は大淀、林道、夕立、響、そして曙のお蔭で何とかなった。結果はどうあれ、今回の采配は紛れもなく『失敗』だ。あいつらの奮戦が無かったら、俺は全てを失った。俺一人だったら、何もかもを失う『失敗』だっただろう。そのきっかけも俺だし、導き出したのも俺。万が一に俺が正しく判断できれば……いや、仮に判断できたとしても、金剛と吹雪、夕立や曙、そして君を含めあの作戦に参加した艦娘(みんな)の誰かが沈んだかもしれない。今回は皆の奮戦と……幸運に恵まれただけ、全ての歯車が都合よく噛みあっただけ……」

 

 

 そこで言葉を切ったしれえは、まるで今から吐き出そうとする言葉を飲み込もうとするかのように、その顔を苦痛に歪めた。

 

 

「……もし、その一つ(・・)でも違っていたら」

 

 

 

 しれぇは苦痛に苛まれながら、それを吐き出した。それは有り得たかもしれない未来、敷き詰められた数多の道筋の殆どがたどり着いたであろう至極現実的な結果―――――誰かの轟沈だ。

 

 今回はその道筋の中で数少ない全員生還と言う答えに辿り着いただけ。普通に考えれば有り得ない答えであり、本来ならそれを勝ち取ることは出来なかっただろう。一歩間違えれば容赦なく前に現れたであろう、()悪とは言い難いが、彼は是が非でも辿り着きたくないであろう答えだ。

 

 彼は不本意ながらその答えを導き出そうとした。寸でのところで他の艦娘たちの奮戦があり、辛くも回避できたのだが、結局のところ彼が導きだしたのは全員生還(・・・・)の『最適解』ではなく、必要な犠牲(・・・・・)を伴う『模範解答』だ。

 

 

 

 しれぇの独力では、どう足掻いても『模範解答(誰かの轟沈)』が最適(・・)解だっただろう。

 

 そう語る、そう悟る(・・)、そう諦める。そんな彼の顔が、悲痛に歪む彼の顔が、途端に変わった。

 

 

 

 苦痛に覆われていた顔は驚き、そして何かを悟った顔に。

 

 

 

 

「……ほら、これだ」

 

 

 悟った顔でしれぇはそう言って、おもむろに自分の手を見せてきた。

 

 

 そこにあったのは小刻みに震えている彼の手。そしてその手をしっかりと握りしめる、『あたし』の手だった。

 

 

 

「ぅぇ、あ、す、すみま―――」

 

「ありがとう」

 

 

 しれぇに指摘されてすぐさま引こうとするあたしの手を、彼は感謝の言葉と共にその手を掴んだ。掴んだまま、離さなかった。彼はあたしの手を掴み、そのままぎゅっと握りしめた。

 

 

「俺はこの手に何度も救われた。最初は食堂に引っ張り込まれた時、次は寝起きのまま食堂に引っ張らりこまれた時、その次は曙を営倉(此処)に放り込んだ時、その次は大本営に召集され……あぁ、あれは(これ)じゃなかったが……まぁいい。とにかく俺はこの手に何度も救われた。何度も掬われ(・・・)救われ(・・・)た。この手のお蔭で、この手があったから、この手が救って(掬って)くれたから……」

 

 

 しれぇはそう話しながら、あたしの手を包む力を僅かに強める。決して痛みを伴わせないように、だけどしっかり締め付けられる感覚を与えるように、『その手を決して離さない』という言葉を込めるかのように。

 

 

「それが、その手を差し出してくれたのが誰か(・・)。『雪風』なのか、『君』なのか、そのどちらかでもあり、そのどちらでもないとしても、俺が救われた事実(・・・・・・・・)は変わらない。例え『雪風』が否定しようとも、『君』が拒否しようとも、『君』が何にも思っていなくても、『雪風』が当たり前のことだとしても……俺はきっちり、しっかり、臆することなく、疑うこと無く、声高に、胸を張って、『君』に届くように、『雪風』に届くように」

 

 

 そう言って、しれぇはあたしの手を離し、そのまま自身の膝に置き、背筋を伸ばし、目線を下げ、真っ直ぐあたしに向き合った。

 

 

「俺は『雪風』に救われた、俺は『君』に救われた――――――『俺』はこの二人(・・)に救われたんだ。この二人に救われて、この二人のお蔭で、この二人がいたから、この二人が生きていてくれた(・・・・・・・・)から、俺は此処に立っているから……だから(・・・)

 

 

 

 そう言ってしれぇは大きく息を吸う。あたしを、雪風を。真っ直ぐ見つめ、口を開いた。

 

 

 

 

「生きてくれて、本当にありがとう」

 

 

 

 

 それは『あたし』に向けた感謝、『雪風』に向けた感謝、『あたしたち』に向けた感謝。

 

 ……『初めて』じゃない、『初めて』じゃない。これは二度目、二度目だ、二度目なんだ。前にも言われたことなんだ、前に一度(・・)言われたことなんだ、比叡さんが言ってくれたことなんだ、しれぇだけじゃないんだ。

 

 でもその言葉を直接(・・)向けてくれたのは、『雪風』ではなく『あたし』に直接向けてくれたのは―――――

 

 

 

 もう、もう、うぬぼれでもいい、自意識過剰でもいい。

 

 勘違いでも、深読みでも、解釈違いでも、鼻で笑われ一蹴されるようなことでも、いい(・・)

 

 

 今この時、この時だけ、この瞬間(とき)だけ。

 

 

 唯一無二の瞬間(とき)でも、永遠にやってこない時間(ページ)でも、この人生最大の栄華(ピーク)だとしても、これからの未来が急転直下の墓穴(バットエンド)でも。

 

 あたしの、雪風の、あたしたちの集大成が今ここに。大きく、美しく、煌びやかな、凛とした二輪の華(・・・・)が開いた。

 

 『太陽に向けて自らの存在を誇示する』――――その健気にも力強く、美しい姿に人々はその華に『太陽の華』と呼ぶようになった。

 

 

 しれぇ(・・・)はあたしの、雪風の、二人の『太陽』になってくれた。

 

 

 あたしは、雪風は、二人はしれぇ(『太陽』)の、彼と下で燦燦と咲き誇る『向日葵』になれた。

 

 

 

 

 

 

「……こちらこそ、ありがとうございました(・・・)

 

 

 

 だからこそ、尚のこと。あたし(向日葵)しれぇ(太陽)から離れなければならない。

 

 

 一重(ひとえ)に、向日葵は太陽に近づき続ける(・・・)ことが出来ない。己の身が焼き焦げてしまうからだ。

 

 

 二重(ふたえ)に、太陽は分け隔てなく照らし続けなければならない。たかが二本の雑草(・・)のために、周りの華たちをないがしろにしてはいけないからだ。

 

 

 三重(みえ)に、太陽はほんの気まぐれ(・・・・)で向日葵を一瞥したに過ぎない。それに狂喜乱舞し、後に深い傷跡を負う愚行を幾度となく犯してきたのは、何を隠そう向日葵(雪風)だからだ。

 

 

 四重(しじゅう)に、それは向日葵が背負う罪、呪い、『幸運の代償』にしてはならない。これはありとあらゆる理由や事情、想いを無視し、ただ一つ――――『死神の傍に居る』だけで無差別に、際限なく適応されてしまう代物からだ。

 

 

 五重(いつえ)に、雪風は(・・・)――――――――

 

 

 

 

 

 

 

「……なぁ、君の名前(・・・・)を教えてくれないか?」

 

 

 いつしか思考の海に沈んだ雪風(・・)。その言葉の意味を、解することが出来なかった。

 

 故に呆けた顔を上げ、目の前にいる太陽に目を向けた。本来なら、強すぎる日差しに目を焼かれてしまうはずだった。

 

 でも目を上げた先に居たのは、煌びやかに輝く太陽ではなく――――

 

 

 

 

 

 

「あ、えっと……よ、要するに、『真名』を、だな……」

 

 

 ほんのり顔を赤らめ、気まずそうに視線を逸らしながら頬を掻く一人の青年(・・・・・)だった。

 

 

 

「あ、や、えっと、そういう意味(・・・・・・)じゃなくて!! た、ただ、その、君は『雪風』って呼ばれるのがその……嫌、なんだろ? で、でも俺……『雪風』以外に知らないからさ……な、なんて君を呼べばいいのか……その……」

 

 

 何処か慌てた様に言葉を捲し立てるも徐々に徐々にその大きさは小さくなっていき、やがてよく耳を澄まさなければ取りこぼしてしまうほどの大きさになった。そんな姿、太陽とは程遠い姿、恐れ多くも人の姿に見えてしまった。

 

 

 

 そんな()に、雪風(死神)その姿(・・・)を現した。

 

 

 

 

「分からないです」

 

 

 

 あたしの言葉に、しれぇの顔から血の気が引く。ほら、こうなった。こうなってしまった。

 

 

 

もう(・・)分からないんですよ。あたし(・・・)は、『あたし』が」

 

 

 

 いつしか、あたしは『あたし』の名前を忘れてしまった。もう、何時忘れたのかすら分からない。少なくとも鎮守府(ここ)に配属された時には、あたしが何者かが分からなくなっていた。だからこそ(・・・・・)、卒業出来たのだろう。

 

 本来、艦娘はどれだけ同化が進もうが、人の頃に授かった名を決して忘れない。そう教えられ、実際にそうだった。恐らく、今現在この世に存在する艦娘の中で、あたしのような例は他に居ないだろう。

 

 

 

 だけど何もかもを忘れてしまった中で、唯一これだと言える根源があった。

 

 

 

  ―― 陽炎型駆逐艦8番艦『雪風』 卒業席次(ハンモックナンバー) 3位 『雪風』適合率 93% ――

 

 

 これはあたしが卒業時に渡されたあたし(・・・)の評価だ。『適合率 93%』という数字がどれほどのものか、他と見比べたことが無いためにいまいち分からない。

 

 だがこの数字は何の前知識のないあたしから見ても、高いと見える。況してお偉いさんがわざわざ口に出して褒め称えたことだ、外聞からしても高いのだろう。そして『史上最高』だ、『前例のない』、というのであれば、周りとの『乖離』も頷ける。

 

 

 あたしが誰よりも『雪風』に拒否反応を示したこと。

 

 なのに『雪風』に在り続けてしまったこと。

 

 そして『雪風』と同じく幸運の女神に見初められ、その代償を周りに科してしまったこと。

 

 

 やがて己の名前を――――『あたし』と言うの指針を失わせ、身も心も、はて記憶さえも、何もかもが『雪風』となり、最期は『雪風』として沈むことを望んでしまったこと。

 

 

 

 あたし(雪風)も、そういう運命だったのだ。

 

 

 

 

 

 

「そっか」

 

 

 だが次に飛んできたのは、そんな軽い言葉だった。

 

 

 そして向けられたのは―――――

 

 

 

「なら、思い出したら教えてくれ」

 

 

 まるで赤ん坊を見つめる母のような、子供を見つめる父のような、大切なモノを見つめるような。それらの言葉では全てを表現できないほど、本当に柔らかい表情を浮かべた。

 

 

 

「待ってる」

 

 

 

 そんな言葉を向けてくれた、()だった。

 

 

 

「……待ってる?」

 

「あぁ、待ってる。君が思い出して、教えてくれるまで、ずっと待ってる(・・・・・・・)

 

 

 

 あたしがその言葉を咀嚼すると彼は再び同じ言葉を、いや同じじゃない。さっきのが平手打ちなら、次に来たのは握りこぶしだ。

 

 だけど、そこに痛みは無かった。痛みの代わりにあったのは、苦痛の代わりにあったのは、嫌悪の、憎悪の、何もかもを過分に含んだ絶望の代わりにあったのは。

 

 

 

 

 

 

「……いいんですか?」

 

 

 『それ』を受け取り、押し付けられて、ぶつけられたあたしは、雪風は、あたし(雪風)は、雪風(あたし)は。そんな問いを差し出していた。

 

 その問いに、彼は何も言葉を発さない。だけどしっかり、あたしが差し出した問いを受け取ってくれた。受け入れてくれた。

 

 

 

「……待ってくれるんですか?」

 

 

 彼は頷く。

 

 

「……時間がかかりますよ?」

 

 

 彼は苦笑いを向ける。

 

 

「……それまで色んな言葉を、色んな重荷を背負わせるかもしれませんよ?」

 

 

 彼はもう一度あたしの手を優しく握る。

 

 

「……幸運の代償(えこひいき)、されるかもしれませんよ?」

 

 

 彼は一瞬キョトンとした顔になる。

 

 

「……貴方が傷付いて、誰かが傷付いて、沢山の人を傷付けるかもしれませんよ?」

 

 

 彼は先ほどの問いを解したのか、キョトンとした顔を戻す(・・)

 

 

 

「……馬鹿みたいに時間がかかって、見たくなくなるほど沢山の人が傷付いて、嫌になるほどツラいことが、ふりかかるかも、しれ、ないん……ですよぉお?」

 

 

 

 もう見えなくなっていた。涙でぼやけ過ぎて、彼の輪郭だけしか見えなくなっていた。その表情がどんなものか分からなくなっていた。

 

 

 

「そ、れ、でもぉ……」

 

 

 

 見えない筈なのに。

 

 手の届かない筈なのに。

 

 

「それ、でも、ぉ……」

 

 

 近づけない筈なのに

 

 

 近づき続けられない(・・・・・・)筈なのに。

 

 

 

「……そ、そ、それでぇもぉおっ!!!!」

 

 

 

 向日葵(あたし)の傍で微笑む太陽()が、好く(・・)見えた。

 

 

 

 

 

そば(・・)に、ずっとそばに……いてくれるんですかぁあ?」

 

 

 

 それ(温もり)を、与えてくれていた。

 

 

 

 

 

 

「いやぁ、それは無理だ」

 

 

 

 だけど次に聞こえたのは、本当に突拍子もない言葉だった。

 

 

 

 

「えッ」

 

「だって俺、君たちと違って海に出れないもん。それに男だし、仮に四六時中ずっと一緒に居たら憲兵に捕まっちまうよ」

 

 

 

 だけど、次に飛び出した言葉、こちらの方こそ本当に突拍子の無い言葉。それを受け取り、真っ白になった頭が再起動する。

 

 

 ……どうやら、彼はあたしの言葉をそっくりそのままの意味で受け取ってしまったようだ。そのことに、安堵の息を漏らした。

 

 勿論、そこまで一緒にいろなんて言わない。本当に望んでいたとしても、それはただの我が儘だ。あたし以外にも、彼を必要としている存在は多い。

 

 

 だから――――

 

 

 

 

「だから」

 

 

 同じ(・・)ように(あたし)の口から漏れた。

 

 同じ(・・)ように(あたし)の手があたし()の手を握った。

 

 

 

 

「帰ってきてくれ」

 

 

 

 先に(・・)、彼がこう言った。

 

 

 

「俺が『君』の傍に居られるように、俺が『雪風』の傍に、俺が『皆』の傍に居られるように……帰ってきてくれ、還ってきてくれ、生きて帰ってきてくれ」

 

 

 

 そういう彼の顔は、今まで見たことが無いほど()に塗れていた。

 

 

 

 

「俺の傍に……必ず、帰ってきてくれぇ……」

 

 

 涙に塗れながら、声が震えながら、あたしの手を痛いほど握りしめながら、彼はそう溢した。願いを、望みを、懇願を、哀願を吐き出した。

 

 

 

 

 しれぇではない彼――――――明原 楓という一人の『人間』として。

 

 

 

 

 プツン

 

 

 

 ふと、そんな音がした。

 

 

 微かな音だったが、あたしは気付いた。

 

 何故なら、それはあたしの手首から聞こえ、それと同時に僅かに手首が軽くなったからだ。

 

 

 

「……切れた」

 

 

 同時に、彼もそれに気付いた。

 

 何故なら、彼の目の前でそれ(・・)が落ちたからだ。そして、『それ』は彼があたしに託したものだからだ。

 

 

 

 

 白と黒のミサンガだ。

 

 

 

「……なんで、今ごろ(・・・)切れるんだ?」

 

 

 それを見て、彼はそう溢した。

 

 

 これは本作戦の成功を祈願して艦隊全員で付けたミサンガだ。であれば、あたしたちが帰投した時点で切れるのが筋と言うか、まぁ何となしに納得できる。

 

 

 そう、彼は思っているだろう。

 

 

 

「まぁいいか。やっぱり付け……」

 

 

 そう苦笑いを溢す彼の言葉を遮った(・・・)

 

 

 正確には、そう苦笑いを溢す彼の顔にあたしが手を添えたのだ。突然触れられて目を白黒させる彼を尻目に、あたしは彼の頬を、額を、その頭にゆっくりと手を滑らせた。

 

 

 

 今しがた切れたミサンガ。

 

 あたしはそこに、彼とは違う願いを込めた。

 

 

 正確には、その込めた願いすらも違う―――――胸に秘めていた願いが、つい今しがた叶った願いが、いや動き出した(・・・・・)願いだ。

 

 

 

 

「沈みません」

 

 

 

 あたしは、そう力強く答えた。

 

 

 

「誰も沈めません」

 

 

 雪風(・・)は、胸を張ってそう答えた。

 

 

 

 

「必ず、帰ってきます」

 

 

 

 あたしと雪風―――――あたしたち(・・・・・)はそう彼に向けた。

 

 

 

 彼は『あたしたちに傍に居てほしい』、そう願った。そう願い、それを与えてくれた。

 

 あたしたちは『誰かの傍に居たい』、そう願った。そう願い、それを与えられた。

 

 彼はあたしたちに、あたしたちは彼に、その願いを手渡し、受け入れた。

 

 故に彼はあたしたちの『居場所』となった。

 

 あたしたちが生きる帰る『場所』になった。

 

 そして『居場所』を守る様に願われた。

 

 

 

 あたし達の『居場所』を、彼の『傍』を守る――――――三人の『願い』となった。

 

 

 

 

 

 

「絶対、大丈夫!!」

 

 

 

 そう、力強く、元気よく、あたしたちは彼に笑顔を―――嘘偽りのない、二人(・・)の笑顔を向けた。

 

 

 

 

 

 

「……で、何時まで触っているの?」

 

 

 だけど、その返答は彼からではなかった。あたしたちは揃って声の方を見る、其処に居る声の主を見て、思わずその名を叫んだ。

 

 

 

 

「あッ、曙さん!?」

 

「ごめんねぇ? よろしく(・・・・)やってるところ邪魔して……」

 

 

 

 あたしの叫び声に、曙さんは柔和な笑みを浮かべながら手をヒラヒラさせた。いや、曙さんだけじゃない。

 

 その後ろ―――――正確には壁からひょっこり顔を出す曙さん、その下に夕立さん、その上にイクさん、その後ろに潮さんなど、今回の作戦に参加した面子が勢ぞろいしていたのだ。

 

 

 

「ッぇ」

 

「あぁ、皆。入渠は終わったのか?」

 

「……えぇ、何処の誰かが惜しみなくバケツを使ってくれたおかげでね? さて、邪魔するわよ」

 

 

 絶句するあたしを尻目に、しれぇと色々と言いたげな曙さんがそう言葉を交わし、そして壁の向こうに居たメンツがぞろぞろと営倉に、あろうことか鉄格子をくぐってズカズカと入ってきたのだ。

 

 

 

「てーとくぅー!!」

 

 

 その中の一人、イクさんが鉄格子をくぐって早々そう声を上げてしれぇに飛びついた。突然のことなのに、しれぇは驚く様子もなく当たり前のように彼女の方を向き、腕を広げて彼女を受け止めた。

 

 

「おっ、まさかの胸でホールドと来た!! これは色々と新展開がありそうなのね!!」

 

「これ以上お前に腰を砕かれちゃ困るんだよ。ほら、とっとと立った立った!!」

 

「む~いけずぅ……ところで、イクの真名聞く気ない?」

 

「……あのな? そうやって安売りしてるうちは絶対に買わないから安心しろ」

 

「安売りしてるわけじゃないのね~……うん」

 

 

 しれぇの明らかなにあしらうような口調に何処か不満げな顔になるイクさん。それを受けて、しれぇは助けを求める様に曙さんに視線を送る。

 

 

 

「何? 教えないわよ?」

 

「違うわい!! ……で? どうしたんだ?」

 

 

 

 だがその視線を勘違い……いや敢えて曲解した答えを返し、しれぇのツッコミでオチが付く。という取り敢えずの収束を迎え、話題を変える様にしれぇはそう問いかける。だけど、曙さんの視線はしれぇに注がれてはいなかった。

 

 

 

「雪風」

 

 

 その視線の先にあたしを見据えながら、曙さんはあたしの名を呼んだ。後ろで「え、無視?」というしれぇの呟きを更に無視して、彼女はあたしに近寄った。

 

 

 

「待つっぽい」

 

 

 更にそれを遮ったのは、曙さんよりも早い歩調であたしに近付いてきた夕立さんだ。

 

 その顔はいやに険しく、まるで今も戦場に立っているかのようだ。更に言おう、彼女の目は未だに紅い(・・)のだ。

 

 

 

 

 

「提督さんに、ちゃんと謝った?」

 

 

 

 その目のまま、夕立さんはあたしの前に腰を下ろし、その目を真っ直ぐ向けてきた。その目に晒されたあの時、あたしは、背筋に寒気を覚えた。

 

 

 だけど今は、不思議と無かった。

 

 

「……まだ?」

 

 

 だけど、その声色は低く、明らかに何か(・・)を我慢しているように聞こえた。それを受けて、あたしは慌てて身体をしれぇに向けて、深々と頭を下げた。

 

 

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「お、おう……」

 

 

 あたしの言葉に、しれぇは無理やり感半端ない謝罪をおずおずと受け取る。その後、ほんの少しだけ沈黙が支配した。

 

 

 

 

「うん!! よく言えました!!」

 

 

 それを破ったのは先ほどと打って変わって柔らかい声色、そしてあたしの頭をクシャクシャと撫でる夕立さんの手だ。

 

 

 

「え、え、え……?」

 

「よく言えました!! 偉い!! 偉いっぽい!!」

 

 

 何もかもから置いてけぼりにされる一同を尻目に、夕立さんは人懐っこい笑みを浮かべ、まるで子供を褒める様に何度も「偉い」と言ってあたしの頭を撫でてくる。

 

 未だに頭を撫でてくる夕立さんの手にされるがままのまま、あたしは辛うじて視線を周りに向ける。だが、そこにいる面子の誰もかれもが一様に――――温かい目を向けている。

 

 

 

 雪風(あたし)に、だ。

 

 

 

 

「雪風ちゃん」

 

 

 

 ふと、そう夕立さんに名前を呼ばれ、同時にあれだけ忙しなく撫でてきた彼女の手が離れた。それを受けて、あたしは上体を上げる。

 

 

 だが次に待っていたのは、身体をぎゅっと抱き締められる感覚だった。

 

 

 

「おかえり」

 

 

 そして、すぐ耳元で聞こえた夕立さんの声。そして再び頭を撫でられる。あたしは今、夕立さんに抱きしめられ、頭を撫でられている。

 

 

 

 

 『お帰り』と、言われた。

 

 

 

「おかえり、おかえり、よく頑張ったね、よく頑張りました。本当に、本当にお疲れ様」

 

 

 そう語り掛ける様に、そう頭を撫でる様に、夕立さんは何度も何度も同じ言葉を向けてきた。まるで刷り込むように、刻み付けるように、忘れないように。

 

 

 

 『ちゃんと、向けているよ』―――と、教えてくれるかのように。

 

 

 

「これが、あの時の『答え』よ」

 

 

 

 そんなあたしに、曙さんがそう声をかけてきた。彼女の方を見るも、その姿をはっきりと捉えることは出来なかった。

 

 

 

 またも、あたしの視界は涙で一杯だったからだ。

 

 

 

 

 

「おかえり、雪風」

 

 

 

 

 だけど、だけど、その言葉を向けてくれた彼女の顔は、紛れもなく笑顔だった。

 

 

 

「おかえりなさい」

 

「おかえりなの、雪風」

 

「おかえり、雪風」

 

 

 

 その後、口々に向けられた『おかえり』。それは雪風の存在を、あたしの存在を、あたしたちの居場所を。

 

 

 あたしたちの『願い』を、皆が肯定してくれた。

 

 

 それこそ今更(・・)手に入った理由だ。

 

 

 

 

 『皆』が一心に願い続けたから、手に入ったのだ。

 

 

 

 

 

「Wo、これは通報ものネー」

 

 

 

 だが、それは唐突にとんだ一つの声で瞬く間に消え去った。

 

 

 

「こ、金剛ぉ……」

 

「Hey、テートク。ちっちゃい娘をそんなに侍らして、よっぽど憲兵に捕まりたいデスカー?」

 

 

 その声に、その声の主をしれぇが口にする。その言葉に、先ほど曙さんたちが覗き込んでいた壁にもたれかかる彼女がそんな冗談を飛ばした。涙でよく見えないが、彼女は手をヒラヒラとさせている。

 

 

「……捕まる様な事をしてる自覚はないんだが?」

 

「それはそれで問題デース。すぐに憲兵を―――」

 

「金剛さん、私は冗談を飛ばし合わせるために連れてきた訳じゃないわよ?」

 

 

 若干狼狽えるような声のしれぇと面白がる声の金剛さん、そして最後に呆れ声の曙さん。そんな三人のバトンリレーが瞬く間に終わり、ほんの一瞬沈黙が支配する。だが、それは金剛さんの深いため息によって破られた。

 

 

 

「……ぼの? こういうのはもう少し泳がせるのが良いんデスヨ? まぁ、冗談は置いておいて……テートク、一つお願いがありマース」

 

「……なんだ?」 

 

 

 金剛さんの言葉に、明らかに警戒心丸出しでしれぇが問いかける。正直、状況や周りの反応が一切把握できていないので、何が何だか分からない状態だ。

 

 

 だからこそ、得られる情報は各々が発する言葉だけ。

 

 故に、(それ)から得られる情報は嫌でも強調されて聞える。

 

 

 

 だから、あたしの耳にはその言葉が。嫌に大きく(・・・)聞こえてしまったのだ。

 

 

 

 

 

「現在、第三艦隊旗艦を務めている特Ⅰ型駆逐艦――吹雪型一番艦、吹雪。彼女を、その座から引きずり降ろして欲しいデース」


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