痴物語-シレモノガタリ-   作:愚者の憂鬱

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なんと、日刊ランキングにこのSSが載っているとな。
ありがたいことです。ひとえに皆様のおかげ。
これからもちょくちょく更新していきますので、何卒宜しくお願いします。


【挿絵表示】


また、絵を描いてみました。
やっぱり息抜きには最適ですね。


其ノ肆

 人狼が持つ能力について。

 俺がよく嗜んでいる映像作品や読み物(大半が漫画)には。

 とくに、伝奇物とバトル物を掛け合わせたような作風のものには。

 狼男というキャラクターは、最早定番と言っていいほど頻繁に登場している。少なくとも俺には、そんなイメージがある。

 泣けるよね、おおかみこ◯もの◯と◯。

 シングルマザーって大変。もし俺が念願叶って専業主婦になったとしても、あんなにいい母親には絶対なれない。

 まぁ性別的に俺は母親になれないけど。

 ……そもそもあれはバトルものじゃありませんでした。

 まぁ、冗談はさておき。

 そんな俺が、まことに勝手ながら考えていた『人狼』の力は、大まかに説明するとこんな感じだ。

 その一、変身能力。

 満月を見ると勝手に発動し、自分の意思でコントロールが出来ない。体毛が生え、骨格が組み変わり、理性を失って文字通り『獣』に成り下がる。

 その二、身体能力の強化。

 単純な膂力、脚力や腕力を始めとしたものだけでなく、狼の特性を引き継いだことにより、嗅覚や聴覚などの『五感』に分類される器官も同様に機能が向上する。

 その三、再生能力と弱点。

 人間を遥かに上回る治癒能力を誇っているため、致命傷を負って戦闘不能に陥っても、瞬く間に復活する。ただし、銀製の物体による攻撃ならば確実に有効なダメージを与えられる。

 結果として、俺の立てたこれらの推測、そのほとんどは的中していた。

 唯一、遠からずも近からず、といった感じだったのは『変身能力』について。

 彼女。

 薊が語る『人狼』の変身能力は、俺が思っていたより格段に自由度が高かったのだ。

 曰く。

 満月を見なくても変身が可能。

 多少の反復練習をこなせば、任意の一部分だけの変身が出来るようになる。

 理性を失うのは、満月の日など極端に体調が良い日に、必要以上の変身を繰り返した時などで、基本的には滅多にないこと。

 とのことだ。

 まぁ正直なところ、大まかな説明を受けただけでは心許なかった俺は、実際にそれらの能力を自身の目でちょいと確かめようと、千葉駅前の小さな公園に足を運んでいた。

 ちょうど息抜きと、彼女からの『依頼』について考える時間も欲しかったところだ。ただボケーっと考え込むよりは、体を動かして有効な時間を使おう。

 ……今のとても帰宅部の言葉とは思えねぇな。

 ちなみに、目的地に到着するまで人はガチで誰一人見かけなかった。結界ってすごい(白目)。あと死ぬほど心細かった。

 孤独が身に染みるなんて感覚、久しぶりだ。

 ふえぇ……僕だけしかいない街だよぉ……。もしリバイバルできるなら、回避したい過去の黒歴史が多過ぎるな。

 

「……あっ」

 

 そういえば。

 俺は、現在最も頼りになるかも知れない人物と連絡を取れることを思い出した。

 雪ノ下陽乃さん。

 もし、彼女と落ち合うことができたら。

 事態が解決するとまでは行かずとも、少しくらいは改善されるかも知れない。

 本当、なんでこんなことに今の今まで気付かなかったのか。自分で自分が許せない。

 俺は懐から勢いよく携帯電話を取り出して、電源ボタンを押した。

 

 ……ん? でも待てよ。

 この結界の中って、電話とかそういった類のやつ通じるのか?

 だとしたらセキュリティ低くね?

 外部との連絡が取れちゃうなら、それは標的を完全に隔離できていると言えるのか。

 

 ……というか。

 携帯。

 充電切れてるし。

 

「くそっ‼︎」

 

 いつぶりかも分からなかったが、堪え切れない苛立ちに俺は思わず声を上げてしまった。

 とことんついてない。

 ……今に始まったことじゃないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……よし、」

 

 気を引き締めて、まずは変身から実演を試みる。

 俺は、公園の端に植えられた太さ一メートル──あくまで俺の目測だが──ほどの太い木の前に歩いて行き、パーカーの両袖を肘の辺りまで捲った。

 少し腰を落とし、重心を沈める。

 ……ふぅ。

 ていうか。

 

「どうやったら変身できるんだ?」

 

 うっかりしていた。

 俺は薊から知識としての『人狼』を教えてもらうばかりで、実在の『俺』という『人狼』に関する体感覚的なレクチャーをまるで受けていなかった。

 これじゃあ、いきなり離れて暮らしていた父親に呼び戻され、汎用人型決戦兵器に乗せられた中坊並みに勝手が分からない。

 こんなの、こんなのできるわけないよぉ!

 

「……力んでみるか……」

 

 自分でもどうかと思うが。

 何も分からなさ過ぎて、俺は取り敢えずなんとなくで思ったことを実行に移す。

 ……こんなんでうまいこといったら苦労しないだろうけど。

 両腕を体の横につけて、大きく息を吸う。数秒の間を置いて、それを一気に吐き出しながら、だんだん、ゆっくりと、二の腕から指先にかけた全ての筋肉に力を込めていく。

 ……どうだ?

 

「──……うぉっ」

 

 俺の想定は、いい意味で裏切られた。

 突如。

 俺の両腕を、まるで内側から爆裂したかのような衝撃が襲ったのだ。不思議と痛みは感じなかったが、驚いて目をやると、前腕部の筋肉が明らかにふた回り以上膨張している。

 しかし、そんなことより俄然目を引く大きな変化があった。

 皮膚が張り詰め、表皮に浮き出た血管の色が鮮明に見える、俺の前腕は。

 俺の地毛よりも深い『黒』の体毛に覆われていた。

 

「……き……」

 

 気持ち悪っ!

 俺の前腕気持ち悪っ!

 なんだこれ、すね毛が濃くなるとかそんな次元の話じゃない。植毛だよ植毛。

 いや、それもあるけど。

 明らかに二の腕よりも太くなっているせいで、これでは遠目に見たときのアンバランス感は否めないだろう。

 試しにもう一度両腕を体の横につけてみたが、やはり予想通り。元の腕の時は太腿のあたりにあった手が、今や膝にまで届きそうな位置にある。

 くそっ。

 うまくいったらセルフもふもふが半永久的に楽しめるかも、とか甘い幻想を抱いていたのに。

 ……でもよく考えれば、出逢い頭の薊も、今の俺と同じようなことで腕だけを獣化させていたから、成功といえば成功なのか。

 まぁ、仕方ない。

 そんなもんだろ、人生なんて。

 この魔法の言葉で、俺はあらゆる不条理を乗り越えてきた。皆もどうしようもない逆境に挫けそうな時に呟こう。俺と一緒に諦めようぜ!

 俺は再び木の方に向き直り、獣とかした両腕で、見よう見まねのボクサーっぽい構えを取ってみた。

 そう、男と同じ。

 重要なのは体毛(見た目)ではない、威力(中身)だ。

 実体験を元に語るなら、満身創痍の薊が放ったパンチですら、人間一人を粉々にする威力を誇っていたのだから、『人狼』の身体能力というものは底が知れない。

 果たして、ぺーぺーのド新人『人狼』であるところの俺が、どれほどの力を引き出せるのか。

 暫く木の前に立ち尽くして、じっと睨み合う。

 ……よし、行くか。

 俺は腰を捻って、思い切り全身を引き絞り。

 手首から先を投げつけるように、右拳を振り抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは漫画の中でしか見た事のないような、巫山戯た光景だった。

 衝撃。

 一瞬遅れて、轟音。

 俺が殴った木は、根元からへし折れて。

 ぶっ飛び。

 鉄棒にぶつかり。

 ジャングルジムにぶつかり。

 滑り台にぶつかり。

 決して広くはない公園の中を、ピンポン球のように跳ね回った。

 何度も鉄製遊具に激突する度、だんだんと崩れていく木が、一向にその勢いを弱めることはなく。

 巡り巡って、ついに俺と感動の再会を果たす。

 危ない危ない危ないって!

 

「ちょっ……!」

 

 俺は反射的に、正面から飛来する木に対して右手を突き出して目をつむり、一瞬の後に訪れるであろう衝撃に備えた。

 しかし。

 俺のそんな姿を笑うように。

 既にボロボロだった木は、俺のほんの少し手前、目と鼻の先の空中でバラバラに崩壊。

 無数のおが屑と化したそれは、俺の体を避けるようにして、左右に分かれ吹き抜けていった。

 

「……」

 

 ……やばい。

 これはヤバイな。危うく怪我するところだった。

 今の俺が、どれだけ生物として規格外かが分かった。

 だが、この力はきっちり制御して、必要に応じた加減ができるようにならなければ。いつか俺自身が危険な目にあうかもしれない。

 どっと疲れが出た俺はその場に座り込んで──へたり込むとも言う──、一息ついた。

 今までの認識が甘かったのかもしれない。

 獣の黒腕のまま、ついいつもの癖で後頭部をぽりぽりと掻く。

 ……ん?

 え、なにコレ。

 指先に、今までにない違和感を感じた。最初は寝癖か何かかと思ったが、そうではない。

 耳だ。

 薊の頭頂部から生えていたアレが、俺にもある。つーかいつの間に……。腕に気を取られて気付かなかったのか。

 フサフサだ……。ちょっと気持ちいい。

 でも果たして誰得なのだろうか。どうせ獣耳を生やすなら、もっと美少女高校生とか巫女さんとかあるだろ。眼の腐った男子高校生なんかに生えてしまっては、謎の化学変化が生じてしまって。それは最早ただのの哀しい生き物なんじゃないか。

 放心状態で暫く耳を弄り回していた俺だったが、今度は腰回りにも何かの感触を得た。

 ……まぁそうですよね。

 耳が生えているなら、そら尻尾も生えるわ。

 俺の視界の端で、ゆらゆらと揺れ動く黒い尻尾。長さは、一メートルちょっとといったところ。耳と同じく、毛並みはフサフサ。触れている自分の掌の感触があることから、神経が通っているのも分かる。

 これで俺も、晴れて『人狼』の仲間入りか。

 

「……人間だった頃の感覚のままでいるのは、まずいかもな」

 

 さしあたっては。

 薊の『依頼』の件を抜きにしても、目下の目的は『馴れる』事だと。

 俺は、一層キツく気を引き締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数十分の時間をかけて。

 取り敢えず四肢の獣化は一通り試してみた。

 やはり、そのどれもが右腕の時の例外に漏れず、驚異的な威力を内包していた。

 ……道のりはまだまだ遠い。

 サイクロンでも通り過ぎたかのように荒れ果てた公園の中で、俺は辛うじて原形をとどめていたブランコに座った。

 ギィ、ギィ、と。

 錆びたブランコは、俺の体を規則正しい感覚で揺すっている。

 ……そろそろあいつのところに戻るかな。

 しかし、腰を上げようと体に力を込めた時。

 ふと、素朴な疑問が頭を過ぎった。

 もし俺が、これから『カテゴリーキラー』を倒しに行くとして。

 覚悟を決めて、倒しに行くとして。

 奴が今どこにいるかを正確に把握する必要性が、やはり出てくるのではないか。

 と言うか、断片的な情報を繋ぎ合わせて推測するに、奴が現在千葉市内にいるかどうかも怪しい。奴は『同業者』たちと合流し、『ある吸血鬼』を倒すために、『直江津』へ向かったという。

 現在、時刻は午前零時半。俺が地下の結界に迷い込んだのが午後七時だったはずだから、つまりは単純計算で、俺が奴と遭遇してから既に五時間以上が経過していることになる。

 ……本当にあのまま徒歩で移動していたとしたら、今はどの辺りにいるんだろう。

 

「でもまぁ、よく分からん術とか使える『専門家』だってことを考えるなら、もう目的地に着いててもおかしくないか……」

 

 しかし俺の中には、拭い去れないふたつの違和感があった。

 まず。

『カテゴリーキラー』が、わざわざ吸血鬼に使うはずだった大規模結界を、こんなところで使い捨てていること。

 そして。

 果たして『カテゴリーキラー』という男は、手負いの獲物を放っておくような、ハングリー精神にかける奴なのか、ということ。

 

 突然だが。

 今の俺には、人間を遥かに凌駕する感覚機能がある。

 視覚が。

 聴覚が。

 嗅覚が。

 今まで生きてきた世界とは、まるで別物のような情報を俺に伝えてくるのだ。

 つまり、何が言いたいのかというと。

 俺が今腰を落ち着けているこの公園を中心とした、半径何キロかで起こる物音は全て把握できているし。

 そもそも、風上から漂ってくる『匂い』が分かる。

 俺は、先ほど試運転を終えたばかりの『脚の獣化』を行い、全力の二十パーセントくらいの力加減でブランコから飛び退いた。

 一瞬の間を置いて。

 俺が座っていたブランコの直上から。

 

 巨大な銀の十字架が降下した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆音が、空虚な街にこだまする。

 圧倒的質量で上空から飛来した金属オブジェクトは、ブランコの骨組みをいとも簡単にひしゃげて、地面に激突した。

 煙幕のような土煙が、俺の視界を遮るようにもうもうと立ち込める。

 やがてその向こうから現れたのは、件の『怪異ハンター』の姿だった。

 よれよれのロングコート。

 目深のハット。

 長髪を後ろで束ねた、彫りの深い顔立ち。

 口元は、いつかと同じように優しげな笑みを浮かべている。

 間違いない。

『カテゴリーキラー』だ。

 

「なるほど、野生の勘というやつか。小賢しい限りだ」

 

『カテゴリーキラー』の顔から、小気味の悪かった微笑が一瞬消えて、侮蔑と苛立ちに満ちた視線が俺に突き刺さった。

 今まで感じたことのない、明確すぎる殺意の眼差しに、思わず体が竦む。

 なるほど、今のが本音なのね。

 

「久しいな少年。数時間ぶりか」

 

 気がつくと元の薄ら寒い笑みに戻っていた奴の顔が、まるで旧知の仲かのような親しみを込めて、そんな言葉を投げかけてくる。

 

「私が去った後に何があったかは、大体察したよ。あんな野蛮な女に魅入られて、君も大変だったようだね」

 

「ああ、おかげさまでな」

 

 やはりそうだった。

 奴はすでに当初の予定を変更し、『煩わしかった追手にトドメを刺す』事にしたのだ。

 薊を巻く為に使ったはずの結界が未だ効力を失わないのは、意図してやっていたことだった。

 つーか、どのツラ下げて俺の前に現れたんだ。

 どんな感覚してるんだ、コイツ。

 こちとらお前のせいで、比喩でもなんでもなく一度死んでるんだぞ。

 自分でも知らぬ間に、俺は握りしめた拳を小さく震わせていた。

 それが、緊張のせいなのか、抑えきれない怒りのせいなのか。そんなことは今どうでもよかった。

 

「あんた、罪の無い一般人を巻き添えにして殺して、それでも何も感じないのか」

 

 明らかな敵意を込めた眼差しで、『カテゴリーキラー』を睨みつける。

 彼我の距離は、現在五、六メートル。

 相手が普通の人間ならともかく、おそらく互いに十分『仕掛けられる』間合いだ。

 

「あんたは何も感じないで、今、俺を二度殺そうとしてるのか」

 

『カテゴリーキラー』は、俺の問いを受けて、暫く黙り込む。

 やがて何かに合点がいったかのような頷きと共に顔を俯かせ、再び顔を上げる頃には、そこに悲壮な面持ちを『作っていた』。

 

「何も感じていないわけがないだろう。今だって後悔しているよ、すまなかった、少年」

 

 どこまでも軽薄。

 どこまでも残酷。

 コイツは、『そういう』男なのだと。

『こうやって』、今まで生きてきたのだと。

 俺はようやく腹を括った。

 感謝しなければいけないのかもしれない。

 何故なら。

 俺が今抱いている『殺意』が、自発的に思慮を重ねた結果生まれたものではなく、当の本人によって『とどめの後押し』を受けたことで生まれたものであるなら。

 ほんの少しだけ、気が楽になるからだ。

 

「笑えるな。これから嘘をつく時は手鏡でも持ち歩くこった」

 

「……ほぅ、よく分かったね」

 

『カテゴリーキラー』は一瞬目を丸くして、今度はやんわりとした関心の表情を『作った』が、すぐにまた元の微笑を浮かべた。

 心底気持ちが悪い。

 俺の目つきだって、ここまで他人を不快にさせることはないだろう。

 ……そうだと信じたい。

 

「兎にも角にも、君は現在、私にとって倒すべき『怪異』なわけだが。残念ながら私は、今まで一匹だって『怪異』の命乞いに耳を貸したことは無いんだ」

 

『カテゴリーキラー』が、袖から覗く左の指で、パチンと音を弾く。

 すると、奴の後方で地面に突き立ったままだった銀の十字架が独りでに動き出し。

 綺麗な円を描いて回転しながら、空を裂く勢いで飛来。そのまま、黒のグローブに覆われた奴の右手に収まった。

 

「どうせ、あの女から代行でも頼まれたんだろう? 私を殺すつもりだったわけだ」

 

 収まったといっても、太さだけで本人の胴回りほどある、巨大な十字架だ。そのまま押し潰されてもおかしくないほどの重量があるはずなのに、『カテゴリーキラー』はいとも簡単にそれを振り上げ、肩に担いで見せた。

 

「びっくりしたかい? これは元々、近く合流するはずだった『同業者』のある男に、スペアとして提供してやるつもりだったものだよ。これなら不死身の『怪異』とだって充分に闘える。ましてや『産まれたて』の少年相手なら、問題にすらならないだろう」

 

 銀製にしたのは、私の勝手なアレンジだけどね。

 依然、微笑みを崩さずに、なんでもない調子でそんなことを言う。

 

「先に言っておく」

 

『カテゴリーキラー』が、十字架を投擲するかのような構えを取り。

 

「大人は、汚いものなんだよ。少年」

 

 それに対して俺は。

 

「……汚くない人間なんかこの世にいねぇよ」

 

 身を低く構え、この場を『全力で離脱するため』跳躍の準備に入った。

 確かに、奴のことは憎い。

 直ぐにでも飛びかかってタコ殴りにしてやりたいところだが、それでは結果が見えている。

 できることなら、正面衝突は避けるべきだ。

 

「なんてこと、考えてるだろう?」

 

 ……全く。

 最近流行なの? 読心術。

 

「簡単には逃がさないよ。君にはついでにあの女の居場所を吐いてもらわないといけないんだ」

 

「……物騒な話だな」

 

 内心ギョッとしているが。

 ついでに言うと思い切り顔に出てしまっていたが。

 そんなことは関係ない。

 今は逃げることこそが、最も生存率の高い選択肢なのだから。

 覚悟を決めろ。

 俺は、俺にやれることを全力でやるだけだ。

 ゆっくりと、心の中で三つ数える。

 

「最後に、あんたに聞きたいんだが」

 

「おや、何かね」

 

 三……。

 

「あんたはいったい、彼女に何をしたんだ」

 

 二……。

 

「……そうか。あの女、君にはそのことを何も言っていないのか」

 

「……答えろよ」

 

 一……。

 

「別に。本当にくだらないことさ。それこそ君に話したら、きっと私と同じことを言うと思うよ」

 

「……そうか」

 

 ……ゼロ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこからの駆け引きは一瞬だった。

 俺が膝を折り曲げ、跳躍の為の力を貯めるモーションに入り。

『カテゴリーキラー』は俺に、十字架を投げ込んだ。

 鋭敏な感覚が、全てをスローに見せる。

 足元に舞う土埃。

 弧を描いて飛来する銀の十字架。

 ハットの下から覗く、不敵な笑み。

 そして。

 

 俺を十字架から庇うような位置に、突如割り込んで来た女の影。

 

 俺には、全てが止まって見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「元気いいねぇ、二人とも。

 

 何かいいことでもあった?」

 

 黒いニットワンピースの裾から覗いた長い脚が、飛来する金属塊を横から蹴りつける。

 火花が飛び散り。

 轟音が鳴り響く。

 たったそれだけで、いとも簡単に軌道を逸らした十字架は、勢いもそのままに公園のフェンスを突き破り、歩道のアスファルトに突き立った。

 

 雪ノ下陽乃。

 

 自称占い好きのお姉さんは、誰もが振り向くその美貌に怪しげな笑みを浮かべて。

 

 凛然と姿を現した。

 

 

 

 


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