痴物語-シレモノガタリ-   作:愚者の憂鬱

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いやぁ、なんか纏まらないなぁ。
自分の文体を見失っている気がします。
まぁそもそも自分の文体なんてこと言えるほど確固たる文章力持ってないんですけどね。










其ノ捌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その感覚を、何と言い表したものだろうか。

 ──そう。

 それはまるで高熱の水銀、熱と不快な粘着質が綯い交ぜになった何かに、頭蓋の内側を満たされているかのような。

 ともかく意識はその間ずっと不鮮明で、正常な思考回路を取り戻すまで何分、何時間経ったのかも分からないまま、気が付けば俺はアスファルトに仰向けで倒れていた。

 

「……は…………………」

 

 自分が今どういう状況なのか、いったいどういう事情があって現在に至るのか。記憶を掘り起こしていくとすぐに思い出せたので、ひとまず安心した。

 全身から力が抜け落ち、骨の奥まで浸透している倦怠感が、依然俺の体を地面に縫い付けている。ふと眼球だけを左右に振って辺りを見回すと──相変わらず人工光の無い夜空の下で、存外、街は元のまっさらな状態を保っていた。意識が飛ぶ前の一悶着で起こった破壊の跡こそ見られるものの、俺が覚えのないこと──新たにビルが倒壊しているだとか、電柱がひしゃげているとか、道路がばっくり割れているだとか、そんな痕は見当たらない。つまりは、俺がかの野菜王国戦闘民族が満月を見た時の如く、傍迷惑な大暴れを演じることなく、事なきを得たということ……って。

 いや、それはそれでおかしくないか。

 人狼に転じる瞬間。あの時感じた全身に漲る力は、それこそ俺の理性がぶっ飛ぶほどの人外の力だ。そんなものが俺のコントロールから外れて、街中で放たれたんだぞ。それが、こんなチリ一つ舞わない結果に落ち着くなんてはずがない。

 

「…………何が、どうなってんだ……」

 

 とにかく体を起こそうと試みるが、異常なまでの疲労が俺の駆動を鈍らせる。気合を振り絞り、なんとか上半身だけを起こすと、まん丸い満月の光に照らし出され辺りがより鮮明に見渡せた。

 やはり、特筆すべき破壊痕は見当たらなかったが──代わりに俺の瞳は、見過ごせそうもない物体を新たに見つけた。

 

 全身をボロボロに擦り減らしたカテゴリーキラーが、仰向けに倒れている。

 

 傍に打ち捨てられた奴のハットは、鋭利な刃物で切り付けられたかのような痕を残し、夜風に頼りなくそよいでいる。

 

「───────っ」

 

 咄嗟に目に入った外敵の姿に俺は思わず息を呑むが、遠目にぴくりとも動かないカテゴリーキラーの体を見て、平静を取り戻し──人狼と化した俺の聴覚が、奴の微かな呼吸音を捉えた。

 それから、俺は大きく胸をなで下ろした。

 もはや奇跡としか言えないかもしれないが、どうやら俺の当初の『目論見』は上手くいったようだ。

 軋む全身に鞭打ち、一歩また一歩とカテゴリーキラーに歩み寄った俺は、精一杯顔面を精悍に強張らせる。

 

「…………よぉ、生きてんな」

 

 俺の声に、コートの袖から覗いていたカテゴリーキラーの指が僅かに動いた。

 

「………………どういう、つ……もりだい?」

 

 カテゴリーキラーの顔には、全身の裂傷に比べて微かな擦り傷程度しか見当たらず、窶れた双眸からは、限界まで磨耗した緊張感が覗いていた。

 

「なんだ、言葉が喋れる程度には余裕あんじゃねえか。もう少し殴った方が良かったか」

 

「…………それは勘弁…願いたい」

 

 そうかよ、と適当に返事を返す。

 俺は今一度辺りを見回すが、やはり目立った破壊の後は見当たらない。

 それが指すことはつまり、『勝敗が一瞬で決した』と言うことなんだろう。余計な損害を生む間も無く、敵が足掻く術すら残さず、俺はまさしくカテゴリーキラーを圧倒したのだ。

 報復を成してスッキリすべきなのだろうが、その間に俺自身記憶が全くないため、いまいち釈然としない。

 俺はボロボロにほつれた袖の下の、傷一つない──いや、傷一つ『なくなった』手で、後ろ頭をぼりぼり掻いた。

 

「……別に、俺は俺が思う以上に臆病だった、ってだけの話だ。本当は一思いにぶっ殺すつもりだったんだけどな」

 

 吐き捨てるような俺の言葉に、カテゴリーキラーが顔色を変える事はなかった。或いは、顔色を変える力も残されていなかったのかは分からない。

 だが、そんな事は今はもうどうでもいいのだ。どうせこの男はもう動けない。ここから先は、紀元前から繰り返されてきた人間同士の闘争において、勝者が、無力化された敗者に対して与えることのできる──至極当然の権利を、俺は行使する。

 

「本題はここからだ。今からお前に、俺がずっと引っかかってることを質問する。……返答によっては、ろくな死に方はさせないつもりだ」

 

 この男の生殺与奪権は、既に俺の手中にある。

 泣いて詫びながら靴を舐めさせることも、考えうる最悪の屈辱を与えてから薊の前に引きずり出すこともできるが、そんな一時の優越感に浸って、本来の目的を忘れちゃあいけない。

 

「……良いだろう、勝者は君だ、謹んでお受けしよう」

 

 カテゴリーキラーが応える。

 俺は胸中に燻る疑問──この巫山戯た三流伝奇譚のような現実にあって、ずっと聞きたかった質問を口にする。

 

「…………お前、薊に何をしたんだ。命を狙われるほどのことを、本当にしたのか」

 

 ──暫しの沈黙。

 夜の街に染み入るような無音が続く。

 十秒か一分か、カテゴリーキラーが漸く口を開いた時、最初に俺の耳に入ったのは、乾いた笑い声だった。

 

「は、は……は……そうだね。そういえばまだ君に語ってはいなかったか」

 

 体を仰向けに投げやった体勢のまま、カテゴリーキラーがコートの内ポケットに手を突っ込んで、ゴソゴソと何かを探っている。

 俺は一瞬身構えたが、ふわりと柔らかな放物線を描いて俺の元へ投げ込まれた『ソレ』を受け取り、恐る恐る眺め、漸く警戒を解く。

 なんて事は無い。特に攻撃的な仕掛けもありそうにない、赤い液体が封入された試験管だった。

 

「それがあの女の狙いさ」

 

 ……いまいち話が見えてこない。

 俺が訝しげに眉を潜めるのが見えたのか、カテゴリーキラーは苦しげに小さく咳払いをすると、再び口を開く。

 

「あの女、『人狼の姫』の血だよ。不死身の怪物の血液が持つ効力なんて、わざわざ説明しなくても大方察しはつくだろう。君にだって既に経験があるはずだ」

 

「……不老不死の怪異、の血液。あの馬鹿げた治癒力の事か」

 

 俺はそう答えながら、脳裏にチラつく雪ノ下さんのすらりとしたエロ──、じゃなくていやらし──、……綺麗な脚を思い出した。人狼の血が持つ仙豆も涙目な回復力は、既に身を以て体験しているし。

 要はこの男、この血を第三者に売って金儲けでもしようと企んでいたのだろうか。だとしたら俺も納得の屑野郎だし、このまま然るべき報いを与えるのもやぶさかでは無いんだが。

 しかし、そう思って睨みつけたカテゴリーキラーの顔は、またしてもこの男らしからぬ──そんなことを言えるほどこの男のことは知らないが──予想だにしない表情を浮かべていた。

 涙を流しているのだ。

 悪辣、軽薄、外道の男。

 そう俺が判断したはずの男が、それらの悪性とはかけ離れた表情で、静かに頬を濡らしている。

 

「少年。『これから死にゆく男』から最後の頼みだと思って、どうか私の願いを聞き届けてはくれまいか」

 

 それは、とても穏やかで優しい。

 何かを達観しているような、何かを諦めてしまったかのような。物悲しさに縁取られた、優しい声だった。

 

「……あ?」

 

 わずかに混乱した俺は、カテゴリーキラーの言葉に思わず過剰反応する。

 一体どういうことだ、何故そんな顔をしている。俺を殺した癖に、一方ではそんなに綺麗な涙を流すのか。

 ──ふざけんじゃねぇぞ。

 

「いや、何も言わなくてもいい。君が思うことは至極当然だ。それだけの事を私が君にしたのも分かっている。……ただ君は突如投げ込まれたこの異常な世界の中でも見失うことのない、確固たる倫理観を持っている」

 

 いつの間にか拳を握りこんでいた俺に対して、なおもカテゴリーキラーは穏やかな声色で言葉をかける。

 

「そんな君のどこまでも甘い人間性を見込んでのことだ。どうか私がこの世で最も大事にしているモノを、助けてくれ」

 

 ふ、と。

 今度は在りかを探ることも無く、カテゴリーキラーがコートの内ポケットから、小さくて薄い、ボロボロに擦り切れた紙片を投げてきた。

 俺はその紙片を、拳を解いた掌で捕らえる。そっと手の内のそれを覗き込むと──写っていたのは、とても綺麗な女性と、その足元に座り込んだ年端もいかない少女。

 

「娘と、妻だよ」

 

 俺の頭の中は真っ白になった。

 俺自身、思考回路が正常に働いていないことも、目の前の現状を理解しきれていないことも分かる。それでも俺の両目は、紙面の向こうから満面の笑みを浮かべてこちらを見ている二人の女性に、釘付けになってしまった。

 

「銀の弾丸は、ついさっき無効化された……私の生命力、つまりは心臓の鼓動を呪いの源にしているからね。私の心拍数が一定以下になると、自動で……解除されてしまう」

 

 カテゴリーキラーの声色に、かすかな嗚咽が混じり始めた。

 

「私はもう助からない。だがどうか…………どうか……頼む…私は……!」

 

 心臓が早鐘を打つ。

 ──分かってしまうからだ。

 頭はこんなにも混乱しているはずなのに、人狼の五感が、これから何が起こるのかを俺に伝え始めている。

 遠く遠く、まるで地下から響いてくるかのような、くぐもった爆裂音。瓦礫の海をかき分けて、猛烈に速い『ナニカ』が空に飛び出した。

 そのまま。

 風邪を切る音、遥か上空。

 風上から漂い始めた、梔の薫り。

 天から現れた、地獄の使者の高笑いが木霊している。

 俺は必死になって、カテゴリーキラーの次の言葉を待った。

 

「おい待て、なんだお前‼︎ さっきから一体どういうつもりで……──」

 

 

 

 

 

 瞬間、空気の壁が俺の全身を打った。

 

 

 

 

 

 一拍遅れてやってきた、爆音、轟音。

 カテゴリーキラーが寝転んでいたはずの地点から弾けた、コンクリートの破片と、肌を焼く熱風が、俺を飲み込む。

 

「─────────ッッ? ッ⁉︎⁉︎」

 

 まるで地球そのものが爆発したかのような衝撃。方向感覚を失って、全身に鋭い痛みを感じながら、俺の身体は地面をボールのようにゴロゴロ転がり、道路脇のガードレールにぶつかってようやく止まった。

 

「ハ、ハハ、ハハハ、ハハハハハハハハ‼︎」

 

 周囲に噴煙が立ち込める中、次第に小さくなって行く轟音に反比例するかのごとく、けたたましい高笑いが聞こえてくる。

 間違いない、この声の主は──

 

「ようやった、八幡‼︎ ぬしは自慢の息子だ‼︎」

 

 煙の向こうから、銀髪を翻す軍服の女が現れた。人狼の姫──薊は、そのゾッとするほど美しい相貌に満面の笑みを浮かべ、俺の胸に飛び込んでくる。

 

「……あ、ざみ…………………」

 

 俺は両手をだらりと下げたまま、棒立ちで薊の抱擁を受け止めた。立ち姿の彼女からは、地下鉄倉庫の血塗れの寝姿に覚えた──不安定で儚げな雰囲気など微塵もない。すらっと伸びた華奢な四肢に、少し尖った印象の美顔、身長はほぼ俺と同じか、俺より数センチ高い。

 いや、そんなことはどうでもよくて。

 徐々に煙が晴れ、鮮明になって行く視界に移ったのは、道路のど真ん中に穿たれた、巨大なクレーター。

 薊は銀の弾丸が効力を失ってすぐ、地下鉄から文字通り『飛び出した』のだろう。人外の脚力で、たった数歩のうちに、ビルの建ち並ぶ街中を飛び跳ねて。

 そして、遥か上空から降り注ぐ隕石のように、カテゴリーキラーを圧殺した。

 当然、その爆心地にいたはずの男は見る影もない。恐らくバラバラに千切れて、粉々に飛び散ったのだ。実際に目にすることはなかったその瞬間を想像して、幼い頃感じた、貧血に近い突発的な目眩が俺を襲う。

 

「ようやく煩わしい面倒ごとを一つ片付けられた。体は快調! 銀の呪いはぬしのおかけで完全に解けたし、この男も無事処分したしな!」

 

 薊はそう言ってはしゃぎ、真っ白い頬を俺の首元に何度も擦り付ける。まるで大型犬のような感情表現の仕方だとは思ったが、生憎今の俺にそんなことまで逐一反応する余裕はなかった。

 

「………おい、」

 

「そうだ! 吾輩から礼をしよう! 何か欲しいものはあるか八幡、すぐに吾輩が用立ててやるぞ!」

 

 俺の声を遮り、更にトーンの上がった声色で、まくしたてるような薊の言葉が続いた。輝く表情は、我が子を慈しむ母親のようで、恋人と再会した少女のようにも見える──ともかく凄惨なまでの笑顔。

 俺はその笑顔の真意を──薊の真意を汲みかねて、ぐちゃぐちゃでまとまらない思考もそのままに、薊の肩を掴んでそのまま俺の体から引き剥がした。

 

「待てッ‼︎‼︎」

 

「……なんだ、どうした」

 

 今度は幼子のように無垢な表情で、薊はじっと俺の目を見つめ返してくる。自分でも何故か分からない──だが薊のその目を見た時、薊の肩を掴む腕に、いっそう力を込めてしまった。

 

「最初から全部説明しろ、カテゴリーキラーのことも、お前のことも‼︎」

 

 わずかな沈黙。

 薊の表情が、水を打ったように静まり返る。

 俺はその様に刹那の悪寒を覚えたが、しかしすぐに、薊またへにゃりと笑みを作った。

 

「それならとっくにしただろう。吾輩はこの男に奪われたモノを取り返そうと……──」

 

「まさか……『コレ』のことじゃあねぇだろうな」

 

 俺は右手に持ったカテゴリーキラーの封入瓶を、薊にかざして見せる。

 

「おお、それだそれだ。やはり優秀だな八幡、よくぞ持ってきてくれた! いやぁ吾輩としたことが寝込みを狙われ、まんまとしてやられたものだ」

 

 ……なんだそれは。

 

「なんなんだよお前……意味わかんねぇぞ、なんでこの程度のモノをそこまでして奪い返そうとするんだ。それに、コレはお前にとってそんなに大きな損失なのか? カテゴリーキラーからすればコレは……ッ」

 

 胸を締め付ける思いが、俺の喉をも締め付けたのか、思わず言葉に詰まる。

 

「きっとコレは、奴が家族の命を救うために必要だったものだ‼︎ でもお前にとっちゃあ、ほんの少し体を開けばいつでも手に入るものだろ‼︎」

 

 そうだ。

 街中で時々見かける、献血の募集。アレに並んでいる奴らは、自分の血が何処の誰の為になるかも分からないにも関わらず──それでも、『まだ見ぬ誰かの為に』──そう願い、自ら献血に赴いているのだ。

 それだけ、これは、その程度の話。

 

「なんで、分けてやろうと思わなかった⁉︎」

 

 しかし、それまでの俺は忘れていたのだ。

 人間が、そんなに都合良く、互いを理解し合えるわけがない。今まで何度だって、実感を持ってそれを知っていたはずの俺が、何故こんなことを失念してしまったのか。

 自分にとっての当たり前が、誰かにとってもそうであるとは限らない。ましてや、生物の垣根が違うのなら、その差はより顕著なものになるだろう。

 やがて薊が放った言葉に、俺はそれを思い知らされることとなった。

 

「吾輩がそこまでする価値が無いからだ」

 

 薊の表情は明るくない。

 だがしかし、特別怒っているわけでもなさそうだった。聞き分けのない子供を諭すような──申し訳程度眉を顰めた顔で、ただじっと俺を見つめている。

 

「お前はこれから喰う豚が失血で死にかけているからと言って、自分の体から血を抜き取って輸血してやるのか? そんなことをする手間があるなら、死にかけているその場で殺すだろう」

 

 薊が何かを言っている。

 それはきっと、薊にとっての『当たり前』だ。

 

「何を勘違いしている八幡。我ら人狼にとって人間などそれほど取るに足らない存在なのだ。地を這う虫、生い繁る雑草、それらと並んで立つほどに、吾輩から見た『人間』など、悉く無価値」

 

 それでも、俺にとっては『当たり前』じゃ無い。

 信じられない、信じたく無い。

 よく知りもしない相手を勝手に解釈して、今まで何度痛い目を見たか──やはり俺は忘れてしまったのだろうか。

 俺は勝手に、薊の──あの血みどろの姿に、痛みに喘ぐ苦悶の顔に、カテゴリーキラーを恨む正当な理由と道理があるのだと信じ込んでいた。

 

「……だとしても、何故国を幾つも跨いでまで追い続けた。 カテゴリーキラーが取るに足らない存在だったと言うなら、そこまでして追いかける理由も……」

 

 本当は、こんな質問をする意味など無いと自分でもわかっていた。どんな返答が来ようと、今更何かが変わるわけもないのだから。

 

「おお、それに関しては良い例え話を思い付いたぞ」

 

 はっとした顔で、薊が指を鳴らした。

 

「自分の血を吸った蚊を、わざわざ生かして返そうと思うか?」

 

「…………もう、良い………………………」

 

 力なくそう答えた。

 いつだってそうだった。

 勝手に信じて、勝手に裏切られて。

 そうして今回もまた、俺は勝手に塞ぎ込む。

 俺は薊に背を向けて、ゆっくりと歩き始める。

 

「おい、どこへ行く」

 

「…………………………お前には関係ねぇ」

 

 胸に燻る、堪え切れない虚無感を抱えたまま。

 封入瓶を右手に握りしめて。

 ほんの一縷の希望だけを糧に、俺は何処かも分からない──あの男の大事な人達が待つ場所へ向かう。

 

「あの男の娘なら、とうに死んでいるが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……嗚呼。

 

「吾輩に追われてばかりで故郷の家族の元へ帰れなかった数年の間に……相当悪性の病だったようだ、勝手に死におった。流石に傑作よなァ、奴の、ありもしない希望に縋り続ける憐れな姿は」

 

 もういい。

 

「本当なら吾輩が直々に真実を伝えてやろうとも思ったが、うっかりその前に殺してしまったことだけが心残りだな」

 

 もうたくさんだ。

 ぐらぐらと揺れる視界の中、俺は封入瓶をそっと足元に置いてから──爆速で来た道を戻って、薊に全力の右ストレートを叩き込んだ。巨岩同士がぶつかり合うような鈍い音が俺の鼓膜に打ち付ける。

 

「親に手を挙げるな、痴れ者」

 

 目の前にあったのは、人狼の姫の底冷えする美貌。髪も眉も歯も、全て初雪のように真っ白だ。

 薊は、何処にそんな膂力が隠されているのか分からない細い指で、俺の拳を万力のようにガッチリと受け止めていた。

 

「八幡、ぬしにはわからんだろうが、吾輩はこれでもかなりぬしを気に入っているのだ。このままぬしを手離すなんて選択肢は、はなから存在しない」

 

 薊は緩やかな挙動で俺の拳を引き寄せて、鼻先が俺の首元に付くギリギリまで肉薄して来た。梔の花の香りと、生温い吐息が俺の感覚を刺激して、悪寒が背筋をぞわぞわ撫で上げる。

 

「お前の価値観を無理矢理にでも捻じ曲げてやろう。百回やそこら殺せば、流石に考えを改めるはずだ」

 

 全身の毛が逆立って行くのが分かった。

 獣の本能が、俺の選んだ選択肢を全力で否定して、危険信号を送っているのだと感じた。

 

「……ガタガタうるせぇよ野良犬風情が」

 

 それでも、仮に俺のこの選択が、間違っているとしてだ。

 だから何だ。

 理屈だの運命だのに振り回されるのは、もうたくさんなんだよ。今日だって、俺が一体何をしたわけでもないのに。

 偶々地下鉄で『男』出会い。

 偶々『女』に殺され。

 まともに喧嘩もしたことのないのに、成り行きで命を賭けた闘いに巻き込まれた。

 仇だと思ってた男は実はそんなに悪いやつではなくて。

 一方で憎めないと思ってた女は価値観が破綻した異常者で。

 

 ──ふざけんじゃねぇぞ。

 

 何で俺ばかりこんな目に合う。

 本当はもっとスマートに生きたい。

 腐らずに生きていたかった。

 そう、これは完全な八つ当たりで、俺のロクでも無い人生の中で蓄積されて来た鬱憤が噴き出しただけ。それだけが今この場で、俺を突き動かす原動力だ。

 何が正しいのかなんてのは、どうでもいい。

 

「ハ、ハハ、ハハハ、ハハハハハハハハ‼︎」

 

 大音量の薊の高笑いが耳元で響いて、俺の脳を揺らした。そして薊は、俺の手を離したかと思うと、アスファルトを踏み砕いてひとっ跳び──大きく距離を取ると、細く繊細な指で両拳を握り込んだ。

 薊も始めるつもりなのだ。

 俺を屈服させるために──更生させるために、力を持ってねじ伏せる気だ。

 

「さぁ、我が覇道の前に露と消えるがいい‼︎ 愚息よ‼︎」

 

 唄でも歌うかのように。

 高らかな声が街に響き、空気をギシギシと揺らした。

 薊は中腰に落とし、両手をだらりとぶら下げた独特の構えを取った。ノーガードのように見えて、何故か一分の隙も感じさせない。『人狼の姫』も本気なのだと、今になって冷静に現状を判断してしまう。

 

「死ぬのはてめぇだ、このクソ親が‼︎」

 

 それでも、前に進もうとする右足を俺は止められない。

 彼我の距離は二十メートル強。

 つま先に全体重を預け、加速を開始。

 大地を砕き、一歩目を踏み出す。

 

 そして俺は、音速を超えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




さぁ、ようやく終わるぞう。
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