「やばいっ! やばいっ!」
長閑な朝の住宅街に流れる静寂をぶち破る声が響いた。
丁度、通勤・通学の時間が終わった事もあり、人っ気のない道路の中心を走る少女がその声の主だ。
「あぁあぁあぁあ――っ!」
それはとても年頃の乙女が発するとは思えない声であった。
春眠暁を覚えず。
唐代を代表する詩人、孟浩然(もうこうねん)が残した言葉だ。
春の夜は眠り心地が良いので、朝が来たことにも気が付かず、寝過ごしてしまう。ということらしい。
なるほど確かにそうだと初日は一人納得する。
つまるところ――寝坊したのだ。これ以上なく完璧に。
入学式から二週間の時が流れ、学校生活にもなれてきたかという頃の朝。
初日は鳴り響く携帯電話の着信音に目を覚ました。
「誰? こんな朝早くに電話しやがって……ニワトリか何か?」
口汚く発信者を罵りながらも ベッドからのそのそと起き上がり、充電器にぶっ差してあるそれを開いた。
ディスプレイに表示されていたのは津山睦月という発信者を示す文字。
いったい何の用事なんだ。
初日は機嫌の悪さを隠そうともせず、舌打ちしつつ通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あ、やっとつながった。どうしたの? 今日学校休むの?』
「へ? 行くよ? アホか。睦月こそこんな朝早くのどうしたの? 春だから頭に妖精さんでも沸いたの?」
『アホ!? 妖精!? 初日こそ妖精さんにいたずらされたんじゃない? あと五分でホームルームなんだけど』
睦月は、被っていた猫が二~三匹剥がれ落ちている初日の言葉に驚きながらも事実を伝える。
「は……? ちょっと待って」
電話を耳から離し、ディスプレイを覗き込むとそこには八時二十分と示されていた。
「え、うそ……」
『確か、一時間目が始まる前に教室に入れば遅刻扱いにはならなかったと思う』
「それって……あと十五分で学校に着けってこと?」
『うむ。あ、先生来たから電話切るね』
通話口から流れるツーツーという音をBGMに初日はいつもの台詞を吐いた。
「ついてねぇ……」
「うぅん……」
昼休みの教室。
初日と睦月が机を付き合わせ、食事を取っていると隣の席で妹尾佳織がうなっていた。
普段はほんわかした表情を浮かべている癒し系美少女の佳織だが、今は珍しく口を真一文字に結び、真剣な表情で手に持つ紙と睨めっこをしている。
「妹尾さんどうしたの?」
「あ、津山さん……えっと実は……って言っちゃダメなんだった。えと、ごめんなさい。何でもないです」
「ならいいんだけど……」
佳織はそう思わせぶりな態度を取ってまた手に持つ紙と格闘を始めた。
細かい文字が読み辛いのか、メガネを上げたり下げたりしながら、時折「むむむ……」などと、声にだしているあたりがあざとい。いや、かわいらしい。
睦月は「って言っちゃダメなんだった」という部分が非常に気になったが、本人が何でもないと言っている以上突っ込んだらダメなんだろうと引き下がることにした。
「何見てるの?」
しかし、空気を読まない(読めない?)初日が、佳織の背後に回り覗き込もうとすると、佳織は紙の表面を抱きかかえる様にして、内容をひた隠しにする。
「な……何てものを……」
「み、見ましたか……?」
「うん。綺麗な顔をした男と男が裸で抱き合っている絵を」
初日の爆弾発言で隣に座る睦月の顔が引きつった。
「ああーその何だ。えっと……趣味は人それぞれ多種多様にあるものだと思うぞ。うむ」
傷つけてしまってはいけないと再起動を果たした睦月がフォローに入る。
すると佳織は顔を真っ赤に染め上げ、紙の束を睦月に突きだした。
「違いますっ! これですっ! これっ!」
「や、止めろっ! 変なものを見せるなっ!」
「変じゃないですっ! ちゃんと見てくださいっ!」
佳織は慌てて目線を逸らそうとする睦月の顔を左手で押さえ、右手に持つ紙へと向けさせた。
「ん……これは麻雀の役の一覧表?」
「そうですっ! 決して男の人同士が抱き合っている絵じゃないですっ!」
「何だ……びっくりした。言ってくれたら私達が教えてあげたのに。それよりも初日っ! またいいかげんなことを言ってっ!」
「いや、あまりにも反応がかわいかったから……つい、からかいたくなって……その、ごめんなさい」
睦月の怒りの鉄槌が初日の頭に振り下ろされた。
頭頂部を押さえ、机に突っ伏し微動だにしない初日を余所に、二人は話を再開していた。
「……あの、智美ちゃんから聞いてませんか? 部員を一人勧誘したって話。あ、智美ちゃんっていうのは私の幼なじみで麻雀部の部長の」
「うむ。そう言えば部長が後一人だけなら何とかなるかもって……」
「たぶん、それ私のことです」
「ん? じゃあ何でさっきあんなに隠してたの?」
「二人には秘密にしておいた方がおもしろい反応が見られそうだからって智美ちゃんが……」
「ああ、なるほど。確かにあの人ならそんなことしそうだ。改めてごめんね、これのせいで」
睦月は器用に初日の頭をひじで突きながら手を合わせ陳謝した。
結局、放課後部室には三人で向かうことにした。
「ついてねぇ……」
その道中、まだ傷むんだけど、と初日は恨みがましい目で睦月を睨み付ける。
「自業自得だ」
「あはは……」
その視線に睦月は我関せずと腕を組んだままそっぽを向いて言葉を返し、佳織は気まずそうに頬をポリポリとかきながら苦笑した。
「やっぱりバレてたみたいだなー、ワハハ」
三人で部室に入るや否や蒲原は作戦の失敗を悟った様だった。
「やっぱりってどういうこと、智美ちゃん」
「ワハハ」
「答えてよ、もうっ」
このままではいつまで経っても夫婦漫才が終わりそうにない。
そう判断した加治木が二人ストップをかける。
「幼なじみ同士仲が良いのは大いに結構。だが、そろそろ自己紹介させて欲しいのだが……」
「おお、そうだった。ユミちんは佳織とは初対面だったかー。ワハハ、失敬失敬」
蒲原は口でそういいつつもこれっぽっちも悪びれたそぶりを見せない。
「加治木ゆみだ。蒲原から聞いているかも知れないが、こいつの友人兼仲間として良くさせて貰っている」
加治木は佳織の正面へと立つと、よろしく頼むと右手を差し出す。
佳織は初対面で緊張しているのか、及び腰になりながらも右手を握り返した。
「妹尾佳織です。えーと……麻雀のことはまだ良く解らないのですが、がんばって覚えるのでよろしくお願いします」
「ああ、何でも聞いてくれ。初心者だと聞いたが、麻雀を打ったことはあるのか?」
「えっと、智美ちゃんと一緒にパソコンでやったことがあります。役はタンヤオに役牌、トイトイ、七対子くらいしかまだ覚えてないですけど……。点数計算も全然できませんし……」
「誰だって最初はそんなもんだ。私も去年まで点数計算はおろか役なぞ一つも知らなかった。今からでも、インターハイ予選までに、それなりの打ち手に仕上げてみせる」
佳織の手を握りしめ、真摯な表情で理路整然と話し続ける加治木の姿は、まるで愛の告白をしている様にも見える。
真っ赤になりながら「私がんばります」と言っている佳織の姿もそれに拍車をかけていた。
「ユミちんに佳織を盗られちまったなー、ワハハ」
思い返せば、初日にしろ睦月にしろ麻雀歴は加治木より長いか同じくらいかというところ。
後輩に対し、あまり教育的なことを行った記憶がなかった。もしかすると完全な初心者が入って来たことが嬉しいのかも知れない。
(ユミちんって、意外と世話好きなんだなー)
普段の仏頂面をどこかに放り投げ、熱心に場決めの方法を教えている自身の友人の姿を見て、蒲原はそう思った。
「良し、なら早速打ってみるか。蒲原は妹尾のうしろでフォローを頼む」
(ワハハ、知らない間に佳織に打たせることになってるしー)
東風戦 アリアリ 喰い替えなし 25000点持ち30000点返し
東家 加治木ゆみ
南家 津山睦月
西家 妹尾佳織
北家 藤村初日
東一局0本場 ドラ:{東} 親 加治木ゆみ
(智美ちゃんが私を頼ってくれたんだ……)
よーし、がんばるぞと佳織は拳を握りしめ気合いを入れた。
一巡目佳織手牌
{一二四七九③④⑦⑧229東} ツモ{八}
({七八九}で面子ができちゃったからタンヤオは難しいよね……。どうしよう……)
ネット麻雀での自身の十八番、タンヤオが今回は使えそうにない。
頭を悩ませながらも{9}を切った。
(リーチしたら役なしでも和了れるから……。みっつずつ、みっつずつ……)
二巡目佳織手牌
{一二四七八九③④⑦⑧22東} ツモ{④}
(待ちが被っているところから削っていくんだよね……ってことは)
打{一}
三巡目佳織手牌
{二四七八九③④④⑦⑧22東} ツモ{五}
(えっと……ここはさっきと同じで……)
打{二}
四巡目佳織手牌
{四五七八九③④④⑦⑧22東} ツモ{⑥}
(ドラの役牌は切っちゃダメって智美ちゃんが言ってたけど……)
熟慮の末、佳織は河に{東}を置いた。
打{東}
(これ……いらないよね)
その瞬間、対面の加治木が動きを見せる。
「ポン」
加治木手牌
{■■■■■■■■■■■} {東横東東}
(あわわ、加治木先輩が二枚持ってたんだ……)
五巡目佳織手牌
{四五七八九③④④⑥⑦⑧22} ツモ{六}
(えっと……この場合は両面待ちになる様にするんだっけ)
「で、できました……。リーチします!」
佳織は{④}を曲げて河に置き、ゴクリと喉を鳴らした。
そして1000点棒を取り出そうとすると、加治木から声がかかる。
「そのリー棒、出さなくて良い」
「えっ?」
「ロン。ダブ東ドラ3、12000」
加治木手牌
{③⑤⑨⑨567北北北} {東横東東} ロン{④}
(うぅ……いきなりロンされちゃった……)
加治木ゆみ 37000(+12000)
津山睦月 25000
妹尾佳織 13000(-12000)
藤村初日 25000
東一局1本場 ドラ:{⑦} 親 加治木ゆみ
「ツモ。リーヅモ一発平和、1300・2600の1本場は1400・2700です」
十一巡目睦月手牌
{二三五六七③④⑤66678} ツモ{一}
続く1本場は睦月がツモ和了った。
「また和了れなかった……」
「ワハハ、惜しかったなー」
同巡佳織手牌
{三四五②②②⑤⑤33} {横⑦⑦⑦}
(もう少しだったのに……)
佳織の目尻には涙が溜まっていた。
加治木ゆみ 34300(-2700)
津山睦月 30500(+5500)
妹尾佳織 11600(-1400)
藤村初日 23600(-1400)
東二局0本場 ドラ:{8} 親 津山睦月
八巡目佳織手牌
{二三四六六八⑦⑦⑦赤5688} ツモ{4}
(できた。タンヤオに……えっと、ドラもみっつある)
「リーチですっ!」
打{八}
佳織、今日三度目の聴牌。
今度こそと意気込んでリーチをするが、
「ロン。白ドラ1、2000」
再び加治木の餌食となった。
加治木手牌
{六七九九123} {横③④赤⑤} {横白白白} ロン{八}
「あわわわっ」
「ユミちん容赦ないなー」
(またリーチした瞬間、加治木先輩にロンされちゃった……)
加治木ゆみ 36300(+2000)
津山睦月 30500
妹尾佳織 9600(-2000)
藤村初日 23600
東三局0本場 ドラ:{}五 親 妹尾佳織
一巡目佳織手牌
{四赤五七八①②⑥⑦⑧77東北} ツモ{東}
(親番だ……。点が1.5倍になるから、ここで差を縮めないと!)
北が力強く河に置かれた。
トップとは26700点差。
どの程度和了れば良いのかはわからない。
だが、明らかに自分一人が凹んでいるのは理解できている。
自然と打牌に力が入った。
二巡目佳織手牌
{四赤五七八①②⑥⑦⑧77東東} ツモ{④} 打{①}
(ワハハ、佳織焦ってるなー)
普段のおどおどした態度はどこへやら。
自身の幼なじみは鼻息を荒くして一心不乱に自分の手牌を覗き込んでいる。
三巡目佳織手牌
{四赤五七八②④⑥⑦⑧77東東} ツモ{六} 打{②}
({三六九7東}待ちの一聴向。{東}を重ねるのがベスト、次点は{三六九}引き。{7}はあんまりうれしくないなー。三面張でドラドラがあるけどダブ東捨ては……点差的にちょっと)
四巡目佳織手牌
{四赤五六七八④⑥⑦⑧77東東} ツモ{東}
(おおっ! 一発で一番良いのを引いた! ワハハ、この局は佳織がもらったかー)
「リーチですっ!」
{④}が佳織の力強い宣言と同時に河に置かれた。
(っ早い! リードもあるし、この局はオリたいが……)
加治木手牌
{四五六八九九4455889} ツモ{東}
佳織捨て牌
{北①②横④}
自身の手元には現物どころか、スジすらない。
状況から相手の手牌を読むのが得意――というか好き――な加治木だが、この巡目ではどうにも出来なかった。
(まいったな、安牌が一枚もない。……とりあえず隅から落とすか)
打{九}
字牌は安全度が高いが、振れば二翻ついてしまう連風牌の{東}は切れない。
{9}捨ても考慮に入れたが、一巡でも多く凌ぐ為、二枚持っている{九}から捨てた。
「あ、それです!」
「なっ!?」
驚きの声を上げる加治木をよそに、佳織は満面の笑みを浮かべ、手牌を前に倒した。
佳織手牌
{四赤五六七八⑥⑦⑧77東東東} ロン{九}
「リーチ一発に……ダブ東ドラ2つでしょうか」
佳織は一転不安げな表情になりつつも、役を読み上げていく。
「ワハハ、やったなー佳織。それで合ってるけど裏ドラの確認を忘れてるぞー」
「あわわっ! 裏ドラは……ドラ表示牌の下の牌だっけ」
佳織はハッとして王牌に手を伸ばし、おぼつかない手付きで裏ドラをめくる。
そこに眠っていたのは{北}だった。
「ワハハ、裏3を足すと9翻。親の倍満は24000点。これで佳織が逆転トップだ」
「やったあ! 麻雀って楽しいね智美ちゃん!」
肩を落とす加治木を尻目に、二人はハイタッチを交わし喜びを分かち合った。
加治木ゆみ 12300(-24000)
津山睦月 30500
妹尾佳織 33600(+24000)
藤村初日 23600
続く1本場では睦月が平和のみを初日に直撃。
佳織はトップをキープしたままオーラスへと進む。
加治木ゆみ 12300
津山睦月 31800(+1300)
妹尾佳織 33600
藤村初日 22300(-1300)
東四局0本場 ドラ:{②} 親 藤村初日
「ロン」
初日手牌
{一九①⑨19東南北北白發中} ロン{西}
「ふぇっ!?」
「国士無双、48000」
「……よん、まん、はっせん?」
加治木ゆみ 12300
津山睦月 31800
妹尾佳織 -11400(-48000)
藤村初日 70300(+48000)
ほんの数分前、満面の笑みを浮かべていた彼女だが、今そこにあるのは妹尾佳織の抜け殻であった。
「ふふふ、智美ちゃん、麻雀って楽しかったね……」
「ワハハ、過去形になってる……」
しなやかできめ細かさのあった金砂の髪が今はどこか煤けて見える。
睦月の「やりすぎだ、バカ」という声に初日は以下の通り答えた。
「あたしの通ってた麻雀教室では、タンヤオドラ8の直撃でぶっトぶのが通過儀礼だった」
初日曰く「オーラスまで持っただけマシ」ということらしい。
一同はそんな麻雀教室には死んでも通いたくないと心を一つにした。
――十数分後。
「あっそれです、ロンで良いのかな? 間違ってるかも……」
早くも立ち直った佳織は再び卓についていた。
そして、初日が捨てた牌を見て、少し自信なさげに手を晒す。
「え~と……面前のチンイツなので12000点でしょうか」
佳織手牌
{一一一二三四五六七八九九九} ロン{九}
「んなアホな……」
佳織の手牌を目にし、初日が信じられないと零した。
跳満どころではないその役に、開いた口が塞がらない。
「お前が言うな!」
異口同音に、蒲原、加治木、そして睦月が叫んだ。