日々変わる。
この日からも生徒会は事務処理に忙殺され続けた。
予期されていたことではあるが、どう見ても動員された人々の労働効率が落ちた。簡単に言えば、被服科から生み出される服の数が初日から3割減ったのである。ここでひとつ喝を入れたいところだが、それを入れられる風紀委員会は組織改編の真っ最中である。ただ耐えるしかない。その材料となる布地さえ十分確保している訳ではないのだから。
そう、真っ先に出る問題は授業を止める程の緊張状態に相応しい程の動員を必要とする仕事が十分でないことである。被服科だってせいぜい3桁いれば十分であるし、船内の鉄鋼の切断や水産科の手伝い、商品の売り込みなどは専門技術を必要とする。輸送など専門技術を必要としない所でさえ、少なくとも体力がいる。おまけに農業科は追加の人員を現状必要としていない。
緊張状態が続かねば、生徒会がすべての権限を握っている理由が無くなる。それをもとに反発されるのだけは避けねばならない。だが島に送り込もうにも向こうは大人数を受け入れることは出来ない。
ではどうするか。無理にでも仕事を創り出すしかない。半ば本末転倒であるが、戦車道の関係上会長があのように発表した直後に導入せざるを得なかったのだから、今更どうにもならない。一応方法はある。
一つは輸送を人力で置き換えることである。どうせ人の燃料たる飯は配給分だけなのだから、それで石油が減らせるならこちらとしては有難い。しかし住民の不満は免れない。
もう一つは農業科に無理を言って投入し、向こうで育てる為の苗の栽培する農地をより拡大することである。しかしこれには農業科の支えが不可欠であるし、試しに話した所向こうでの水の手配の安定化と十分な肥料を寄越すのが最低条件だそうだ。前者は淡水化装置の移設で何とかならなくもないが、後者だけは生ゴミで堆肥でも作らないと他に手がない。リンや窒素なんか貴重品である。
結果商業科に頼み、回収時のトラック輸送の多くを手に置き換えて増員して貰った。効率なんかゴミ箱に投げ捨てた。燃料保存という大義名分もある。そして数日毎に働く人を入れ替えることにした。また被服科にも服をたたむなどの単純作業にて人員を拡大して貰った。これも人員を交代することにしたのだ。
残念ながら船舶科の鉄鋼輸送は人力では、出来る人に限りがあるとして拒否されたが、全体が増えただけマシだ。そして定期的に入れ替える人員の選定の仕事が、生徒会にのしかかったわけだ。
こうして部分的に解決されたが、本質的には住民を島に送り込んで開発を進めなければ意味がない。早く、少しでも早く第2波を送り込みたい。
他にも問題はある。いつ原子力エンジンを止めるか、石油の備蓄はいつまで保たせるか、漁業をした場合の配給方法は、魚の種類、個体による不平等をいかに埋めるか、若しくはほっとくか、保存食にする際にどのような手法を取るか、島に移る際にどれほどの荷物の持ち込みを認めるか、大陸とより頻繁に連絡出来るようにする為の手段は何か、塩田開発をどこに任せるか、生徒会の増員をするか、ゴミの回収処分をいつまで続けるか、島に移った後の居住先をどう振り分けるか、町内会は存続させるか、物は売れるのか、技術者となれる者はいるのか、そしてそもそも我々は本当に移転出来るのか。
最後は会長が良い返事を持って帰って来なければいかなる手も打てない。他の問題の解決か判断を進めつつ、その時を待つしかなかった。
この間に風紀委員会では緊急総会が開かれ、後藤さん、金春さんの辞表の受理と、園さんの風紀委員への復帰と風紀委員会委員長への就任、また佐渡さんの風紀委員会副委員長の就任が過半数の支持を得て承認された。
就任を受けて園さんは組織の改変に着手した。今回の蜂起側に参加した担当長の委員会から正式に追放し、その中でも大規模な中学治安維持、高校治安維持、学園艦治安維持の3担当は解体し、店舗運営補佐も含めて学園治安維持担当に統合、そして後藤さんが新たにここの担当長に、矢暮さんが副担当長に就いた。条件に合った人員や高3生の復帰などで規模が拡大したら、見張り担当、鎮圧即応担当などに再分割するそうだ。
その次の日には逃げていた最後の担当長、浜公子が艦内の倉庫で確保された。この者が蜂起側のうち最後まで逃げ続けた者では無かったが、これで彼らが再び蜂起する可能性は潰えた。担当長は収監後の態度次第では特別風紀指導の対象になるだろう。彼女らに復帰の道はない。
18日には第1波を乗せていた輸送船が漁獲調査を終えて帰還した。荷物を島に運ぶだけでゴムボートが沖合と島を少なくとも10往復したそうだ。しかし第1波が上陸したことで拠点は確保した。まずは大万山島の南西部にある湾を中心に中心部に向けて広げていく予定である。
漁獲調査の結果は上々だったそうだ。海鮮料理も多い広東料理の母たるこの島付近の海は、気候が温暖であるのと大陸棚が広がっているお陰で良い漁場になっている。魚の種類も量も豊富で、生活の支えには十分なるだろう、とのことだ。水産科が大規模な養殖場を設置するのを計画している事もあり、向こうからの食料購入量を減らすことが出来そうなのは喜ばしい。
船舶科には輸送船の簡単な整備の後、島への浄水と仮説住宅の追加輸送と共に、会長を広州へ迎えに行って貰う。雨は派遣後に降ったから大丈夫だとは思うが、タンクがまだ設置されていなかった場合に対処しておく。帰りには広州で約束された物資を受け取る予定だ。容量が足りなければ漁船として運用予定のもう一隻も向かわせる。
これと同時に無線を島と繋げる方策を実行する。現在のアンテナは艦橋の天辺にあるのだが、それでも島まで電波は届かない。その為に仮ではあるが中継拠点を途中に浮かべることが計画され、実際に試験機械を投下することになった。
電波を中継するアンテナを工学科の協力の下一つ取り外し、電波を中継出来るようにして貰う。それをビニールプールを分厚くしたようなものに乗せて、潮に流されないように重りを垂らして浮かべるのだ。もっとも使っているのは電池であるし、将来的には艦橋の天辺のアンテナの通信可能範囲を広げるのが最善だが、今はここから運び出すものに関して密に連絡を取れるようにするだけで良い。船が帰るまで状況が分からないよりありがたいのだ。
そしてこの船も次の日には出港していった。
前回の中国国民党全国代表大会は1931年に行われた。その時は汪兆銘らを中心に広州国民政府が組織されており、彼らとの妥協も兼ねて南京と広州で日程を分けて行ったそうだ。が、今回の第五次全国代表大会は全日程がここ南京で行われる。
2日間の予備会議を終えて始まった本会議では、まず国民政府主席の林森が開会を宣言した。赤い服を着せて恰幅をさらに良くすれば冬の街角に立ってそうである。次いでかの孫文の息子孫科が中央執行委員会を、張継が中央監察委員会を代表して党務報告を行なった。この中で孫は中華民国憲法の制定に関しても触れた。総統が実質的に実権を有するものだそうだ。
翌日は蔣介石が中央の政治について、また何応欽が軍事について報告した。何応欽の報告の中心は6〜7月にあった河北からの撤退に関するものであり、半ば内政干渉ではとの疑問には、日本からの要求を自発的に履行したと応じた。
1日の休日を挟んで翌日から会議が再開された。しかし会則の変更など主眼となりそうなことはあまりなかった。
この日までに陳さんや李さんのツテを通じて多くの人物と面会した。
まずは閻錫山。彼は山西省を中心に華北の一部を掌握しているが、保境安民を唱えて山西省を模範たる省に育て上げた。その能力と実績は評価に値する。さらに山西省は河北や共産党の拠点とも近く、情報を得るにも有り難い存在だ。蔣介石に睨まれないようにではあるが、緩やかに連携を図ってみよう。
次いで孔祥熙、小太りなこの人物は財政部長を務め、今回の幣制改革を主導する人間の一人である。広東や広西でも正式に法幣を採用する流れとなり、その為に調整の場が設けられた。ここでは私が口を挟む機会は無かったが、陳さんや李さんを通じて導入に関する調整を行ったそうだ。細部は銀行間で詰めるらしい。これで両広は浙江財閥に経済的に握られることとなるだろうが、日中戦争で長江下流、中流域が荒らされたら、香港に近い広州にもチャンスがある。
他にも孫科などにも面会する機会があり、彼曰く今後暫くは蔣介石独裁への動きは止まらないだろうとのことだった。
会った中で特に目立つ人物はドイツのファルケンハウゼン氏だった。陳さんからは今回の条件によってドイツからのさらなる借款やドイツ資本による工場建設は厳しくなった、と伝えていた。私も取り敢えず英語で自己紹介して握手を交わしたが、背も高く正直無愛想な感じだった。
別れた後陳さんが感じ悪そうな顔をしていたので訪ねたところ、彼が先代と同様予定の2倍の給与を受け取っているからだと答えた。もっともその分役に立っているから何も言えないそうだが。
その間に、私は張さんの発音に記号をつけた紙を見ながら、宿泊先で冷泉ちゃんと共に音読を繰り返していた。
翌日、遂に私が話さねばならない日が来た。この日はまずは蔣介石が再び壇上に登った。彼が報告するのは外交に関してである。
「……我々は和平が完全に絶望となる前には決して和平を放棄してはならないし、犠牲は最後の最後まで、むやみやたらと犠牲を口にしてはならない。しかし彼の国が我が国に止め処なく侵攻を開始し、即ち最後の最後という段階に達したならば、党と国家の命令に服し、最後の決心を下す。」
こう言って演説を締めた。日本が河北への影響力を拡大している以上、それ以上の南下に対しては何か手を打たねばならない。しかしその為には残存赤匪を駆逐して背後を固めねばならない。これがこの蔣の意思であり、この考えのもと現状の国民政府は回っている。
この後にある案が提出された。その名は
『切实推行地方自治以完成训政工作案(地方自治をしっかりと遂行し、訓政活動を完成させることに関する案)』
である。実はこの案の中に今回の両広政務委員会の設立と大洗の参加及び学園都市建設の許可に関することが記載されている。これが可決されねばならない。
その為にまず陳さんが壇上に立ち、今回の両広政務委員会の設立及び大洗の受け入れに関する経緯を話した。
「……訓政、ひいてはその先へ我が中華民国を発展させるべく、商工業の統制と交通の整備を完遂せねばならないのです。……両広は日本からも共産党からも影響の少ない地であるからこそ、ここでならば統一中華完成後の未来を見つめることが出来ます。……」
事前に言った通り私たちが日本から来たことは伏せてくれている。もっとも、お偉いさんがたは知っているだろうが。何れにせよ我々はここに来た以上、この場所存続の為に全力を尽くすだけである。新学園都市が安定したら可能な限り援助するよう言わなくては。
次いで李さんがそれに伴って為された南京国民政府との合意について説明した。
「……我々は蔣氏による赤匪の撲滅を支持します。その為に必要とあらば、我が広西も礼送出共の考えを捨てて、陝西に部隊を派遣することも厭いません。……」
共産党は恐らく日本と戦う前に根絶出来ないだろう。私はそれを知っている。だがここで少なくとも1948年までいなければならない以上、彼らの力が弱まるに越したことはない。
そして遂に私の番が来た。私が日本語ではなく、中国語で演説をする時が。李さんが次が私だと伝えた後、壇上から降りる。三つ折りの紙を片手に、私は太陽の紋章が正面に彫られた卓の後ろに立った。ここから見える顔はあの時よりも少ない。だがそれが成す迫力はそれよりも遥かに大きい。息を深く吸って吐き出す。
「見面初次。是我,前頭那樣被介紹的角杏。
(お初にお目にかかります。私が紹介されました、角杏です。)」
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