「暑いですねぇ」
「ええ、本当に」
まだ朝だっていうのに、もうじりじりと照り始めている太陽。白い大きい入道雲に縁取られた、鮮烈に蒼い空。夜の湿りを吸い取って、むあっとした空気はほとんど揺れることもなく。足下を覆う雑草は、臑辺りまで擽ってくる。
そんな中、井戸から汲み出した水は、浸した手が軽く痺れる程冷たくて。
じーわ、じーわという蝉の鳴き声に、夏だなぁとしみじみと思った。
「井戸の水は冷たいんですよね。桶に汲んで、本堂前に撒いときますか?」
両手を桶の中に浸してそう訊くと、星さんは軽く苦笑した。
「素敵な提案ですが、別にいいでしょう。本堂の中はそう暑くもないと思いますし」
ざぶ、と釣瓶から桶へと井戸水を流し込む。それだけで仄かな冷気が立ち昇って、心地が良い。
「あ、そうだ。星さん、西瓜………じゃなくて、えっと………梵天瓜、なんてありません?」
「梵天瓜、ですか?そうですね……。参詣の方々からは、頂いてなかったと思いますが」
「ありゃ。残念」
がっくりと肩を落とす俺に、星さんはまた軽く笑う。
「梵天瓜はありませんけど、桃はありますよ。お勤めの後、お昼に頂きましょうか」
「わあ!いいですね、大歓迎です!」
思わず諸手を突き上げる。そういやここのところ、甘いものなんて全然食べていなかったっけ。
「でも、まずはお勤めですよ?桃はご褒美です」
くすくす笑いながら、星さんは悪戯っぽく釘を刺してくる。立てた人差し指と腰に当てた手を見て、やっぱりこの人は教師の素質があるんだなぁと感じた。最近では説法の方も堂に入ってきて、近隣の人々にもなかなか好評だって言ってたっけ。
嬉しさを隠そうとして、でも隠しきれていない様子でそれを教えてくれた、あの素直じゃない鼠さんは、今もどこかで見守っているんだろうか。
そんなことを考えたら、思わず頬が緩んだ。
そんな俺を不思議そうに見てくる星さんの視線に気づいて、気持ちを切り替える。
「よし!そうと決まればちゃっちゃとお勤めを終わらせちゃいましょう。
俺、本堂の床の方を雑巾がけします。星さんは、柱とかの方をお願いできますか?」
「はい。わかりました」
「あ、高いところは残しておいて下さい。俺の方が上背がありますし、床の方は早めに終わらせますので」
「お願いします。でも、いい加減にやっては駄目ですよ?」
「任せといて下さいな」
よっこらせ、と井戸水の満ちた桶を持ち上げて、反対の手を頭上に翳す。じりじりからぎらぎらに変わりそうな太陽を見るに、まだまだ暑くなりそうだった。
「本堂の中は、本当に案外と暑くないですね」
「今は誰も居ませんし、風通りが良い上に日はほとんど差しませんから」
がらんとした本堂は、三方の戸が引かれている。仕切のないほぼ正方形の構造をしていて、長い庇が日光を防ぐから、確かに風通りは良く日光が入らない。
掛け声と共に桶を下ろす。既にぬるくなり始めているけれど、雑巾と一緒に少し長すぎるほど腕を水に潜らせてみれば、まだまだ十分に気持ち良い。
じゃぶじゃぶ桶をかき混ぜていると、向かい側の星さんに、またくすりと笑われる。流石に恥ずかしくなって、慌てて話し掛けた。
「そういえば、そろそろお盆ですね。ここも混むんですか?」
寺住まいの良いところは、行事や何やらで暦がわかることだ。もう旧暦7月の半ばに近いし、そろそろ準備か何かが必要じゃないんだろうか。
「おぼん?」
きょとんとした顔の星さん。
「あれ?」
「はい?」
お互いに首を捻り合う。
「お盆、って知りません?ほら、野火を燃やしてお迎えしたりお見送りしたり。
茄子と胡瓜で牛馬を作ったり」
「うーん、申し訳ありませんが、わかりません。
何かの行事なのですか?」
「先祖供養の行事、ですかね。お盆の間、ご先祖さまの霊にお越し願って、一緒に過ごすんです」
すると、星さんはふむと唸った。
「多分、それは盂蘭盆会の変形でしょう」
「うらぼんえ?」
雑巾を絞りながらそう聞き返すと、星さんは「はい」と頷いた。
「お釈迦さまのお弟子さまが、亡くなったご尊母を救済するべく供養なさったことから始まる法会ですね。都の人々は今でも行うそうですが、こちらではあまり行いません」
へえ、と感心していると、星さんは少し苦笑した。
「まあ、正統な仏事ではないのですけれどね」
「へ?」
「盂蘭盆会は、その名もずばり盂蘭盆経というお経に基づく仏事なのですけれど、どうやらその経典自体が偽経なんだそうです。
また、今日都で行われている盂蘭盆会は先祖供養としての色合いが強くなっていますが、そもそも仏法に於いては、解脱しない限り生き物は死んでしまうと中陰……四十九日を過ごして業に基づいて転生しますから。本来は、本当の意味での先祖供養の類は存在しないんです」
「そ、そうだったんですか」
まさしく眼から鱗が落ちる思いだった。確かに、六道輪廻なんてものが存在するのだから、何十年何百年も前のご先祖さまが霊のままでいる筈もない。
なんだかふっと寂しさみたいなものに襲われて、思わず押し黙ってしまっていると、星さんは優しく笑った。
「それにしても、お盆、で良いのですか?そういった行事が在野で行われるなんて、貴方の故郷は随分と帰依の進んだところだったのでしょうね。仏法に関わる者として、なんだか少し嬉しいです」
「うーん………まあ、そうだったんですかね?」
大体の記憶を喪失中、という設定の者として、なんと答えれば良いか返答に困った。
そりゃ、帰依は進んでいたんだろうけど。なんというか、進み過ぎておかしなことになっていた感は否めない。他のも色々混じってたし。
故郷、か。
と。急に、両手をぎゅっと握られた。
びっくりして見ると、星さんはにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。きっと、もうすぐ記憶が戻って、また故郷に帰れるようになりますから」
「………参ったな。俺、今どんな顔をしてました?」
「いつもと、そんなに変わりませんでした。けれど、どこか寂しそうに見えたもので」
そりゃあ星さんが故郷なんて話を持ち出したからですよ、なんて言わない。
まあ、雑巾絞りで些か冷えてた(大分ぬるくなってはいた気もするのだけれど)手には、あったかくてやわらかい星さんの手は、気持ちが良かったし。
そのやわらかい笑顔は、恥ずかしながら、ちょっとありがたかった。
だんだんと増してくる恥ずかしさに堪えかねて、微妙に星さんから視線を外すと、星さんはまた微笑んだ。
「あー、さてさて。おしゃべりはここまでにしときますか」
「意外と時間をとられてしまいましたね。
では、真面目にお掃除を始めましょう」
「了解です!」
夏の日差しは、昼をすぎると、些か以上に凶悪になってくる。
けれど、下界から離れたこの山の上では、それもずいぶんと和らいでくるらしかった。
「はい。桃を切ってきましたよ」
「あ、どうも。ありがとうございます」
受け取った皿から桃を一切れ、口の中に放り込む。こっちの桃はあっちと比べると甘みに欠けるけど、ここのところ糖分の禁断症状が出そうだった者にとっては、十分に美味い。
みーん、みーんと、蝉達は高らかに鳴く。日は天高くで輝いて、日差しも蝉もますます盛強。蒼い空には幾つもの雲が浮かび、眼下に広がる山々には此処まで匂いが届いて来るほど緑が茂る。
「となり。良いですか?」
「もちろんです」
縁側からの眺めは、なかなかどうして素晴らしかった。
あれから、掃除も勤行も終えて、今は一休み。白蓮さんが居れば講義もあるのだけれど、生憎と今日は水蜜さんをお供に北の山でお説教中。だから、しばらくのんびりしていられるという訳だった。
「夏ですねー」
「夏ですねー」
一言ずつ交わして、後は二人とも口を噤んで、縁側の外を眺める。それは広大で、雄大で。いつまででも眺めていたくなる景色だった。
早々に食べ終わった桃の皿を脇に押しやりつつ、ちらりと右隣を窺う。足を投げ出している俺と違って、星さんは正座して外を眺めている。その背筋がぴっと通っているのは、習慣だろうか、それとも性格だろうか。両方かと思い至って、猫科の出身だって聞いたのにこれはすごいなんて考えて、なんてアホなことを考えているのかと馬鹿馬鹿しくなって前に向き直って、でも気分は悪くはなくて。
しばらくの間。聞こえるものといったら蝉の声ばかりの、静かで、居心地の良い時間が流れた。
「―――ふあ」
唐突に、大きな欠伸が口から漏れた。何やら右半身に視線を感じるが、素知らぬ振りして背中から倒れ込む。
まあ、当たり前といえば当たり前の話。こちとら日の出前には起床して、それから掃除なりの雑務や勤行をこなし続けていたのだ。この三ヶ月で鍛えられたこの肉体をもってしても、一息ついて気が抜けたら、睡魔が襲ってくるのはどうしようもない。
庇のおかげで日差しから守られている板張りは、寝っ転がるとひんやりしていて気持ち良い。このまま夕方までひと眠り、なんていうのも、なかなか素敵な考えではある。
すると、隣からため息が聞こえてきた。
「――――こら。だめですよ」
顔をそちらの方に向ける。その先にあるのは、困ったような星さんの顔。
むう、と一言唸ってみると、その眉根はますます寄った。
「ほら、だめですってば。聖がいないからといって、だらしなくして良いという訳ではありませんよ」
白蓮さんがいない今、ここの暫定的な指導者は一番弟子である星さんだ。生まれもっての生真面目さに加えて、指導者代理という任を託されたことで、普段以上に気を張っているように見えた。
苦笑しつつ起き上がる。………正直な話。星さんを困らせるのは、楽しい。けれども、さすがにこれ以上困らせるのは申し訳ないし、後が怖い。鼠の餌になりかけるのは二度とごめんだ。
どことなく申し訳なさそうな星さんに目で返答して、また空を見上げる。
蒼い蒼い夏のそら。向こうの空より、その色は濃い。時が経てば、空ですら変わってしまうのかと、ぼうっと考える。
ふと、朝の会話が頭に浮かんだ。
「そういえば、星さんの場合はここが故郷になるんですよね」
「……ええ、そうなりますね。私は、元々この山の獣の一匹でしたから。
それが永く生きて、言葉も覚えて……」
星さんの目が、遠くを見る。そこに映っているのは、一体どれほどの年月なのだろう。
再び、蝉時雨以外の音が途絶える。
緩やかで、けれど涼やかな風が、並んで座っている縁側を通り抜けて。
庇の向こうの青空と山々を背景に、ぼんやりと佇む星さんの姿を、きれいだなと素直に思った。
ごう、と。一際強く、風が吹く。蝉達も驚いたのか、その合唱を途切れさせて。
ほんの一瞬、境内に静寂が降りた。
星さんもそれで正気に帰ったらしく、こっちを見て、少し恥ずかしそうに笑う。
「……聖のお導きで帰依した後は、様々な御指導を受け、毘沙門天の代理という大任まで託して頂いて。本当に良くして頂いています」
「もう、三カ月ぐらいになりますね。まだ、と言うべきかもしれませんが」
「そうですね。私も、なんと表現したら良いのかわかりません。早いもの、と言えばその通りですけれど、まだ三カ月と思うと、少し意外な感があります」
星さんは再び遠い目になる。でも、今度はそこまで遠くない。
もう少し具体的に言えば―――俺も一緒に覗ける程度。
お互いに目を合わせて、くすりと笑い合った。
「星さんは、もうすっかり板につきましたね。近隣の人達にも好評だって、とある親切な人から教えてもらいました」
「貴方の方こそ、もうすっかり馴染みましたね。
本当のところ、初めの頃は少し心配だったんです。表の方ならともかく、こちらの方に人間が入ってきて、大丈夫だろうか、と。
杞憂に終わって、これほど喜ばしいことはありません」
「皆さんのおかげです。本当に、ありがとうございました」
あの時―――いきなり向こうから落ちてきて、右も左もわからずに途方に暮れていた時。
これも何か縁だと言って拾ってくれた白蓮さんと、色々と手助けをしてくれた星さん達が居なければ、俺はどうなっていたかわからない。
白蓮さんの裏の顔を人間に見せることになったといって、恐らく俺は心配と同時に警戒もされていたのだろう。それでも、最後には受け入れてもらえた。
ありがたいやらうれしいやらで、胸が詰まる。
―――けれど俺は、先の世界を知っているから。
妖怪達が、おとぎ話の世界の中だけにしか存在しない、向こうの世界を知っているから。
別の感情でも、胸が詰まった。
星さんが、不思議そうにこっちを見る。
それでも、その姿は幸せそうで。
せめて、俺がここに居る間は―――向こうに帰れる時までだろうが、ここで人として短い生を終える時までだろうが。それまでは、この幸せが続いて欲しい、なんて。
そんな身勝手なことを、願った。
言葉が、口を衝いて出る。
「星さんは、今、幸せですか」
虚を衝かれたように、一瞬きょとんとした顔を見せた後。
星さんは、ゆっくりと、そして優しく微笑んだ。
「――――はい。
貴方は、どうですか」
「―――」
帰りたくはない、と言えば嘘になる。
向こうには家族も居る、悪友も居る。電気の灯りも恋しいし、直線で構成された街並みも、夏の水色の空ですら懐かしい。
けれど、それでも。
ここでの暮らしは、すごく楽しかった。
だから―――
「はい。
俺は今、幸せですよ」