「おはようございます」
「ん、ええ。おはよう」
縁側から空を仰ぐと、未だ星の散らばる暗天の、その遥か東方に掛かる薄靄が、ぼんやりと紫色に染まり始めていた。澄み切った空気は、痛みにも似た冷気を孕んでいて。吹き抜ける風は清廉で、僅かに残っていた眠気を一緒に連れ去ってくれた。
「今朝も寒いですねぇ」
両袂に両手を突っ込んで、ぶるり、と軽く体を震わせてみると、
「んー……まあ、今が寒さの底さね。如月にもなれば暖かくなるわよ」
昼間は頭巾で隠している空色の髪をぼさぼさとかき回して、一輪さんは眠たそうに欠伸をかみ殺した。
「昨日も大分降ったみたいですね。暗くてまだ良くわからないですけど」
井戸の方へと続く縁側を一輪さんと並んで歩きながら、外の景色を見やる。
闇に紛れながらも、浮かび上がるような白。もう雪は止んでいるようだけど、眼下に広がる庭は、既に真っ白だった。闇に沈む向かいの山も、うっすらと白い。
「そうね。今日の掃除は大変そうだわ」
「水蜜さん辺りがはしゃぎそうですね。こう雪が積もると」
「あなたも、でしょう?」
一輪さんは眠たそうな半目のまま、意地悪い笑顔を作ってこっちを見る。
「ま、まあ………迷惑にならない程度にはしますよ」
「星もなんだかんだ乗ってきそうね。そうなると、ナズーリンも付き合うかしら」
「一番乗ってきそうなのは白蓮さんな気がします」
「あー……。確かに。姐さんは純真なままでいらっしゃるところがあるから。
もう少し、威厳というものにお気を払って下さるとね……」
私たちも……、と一輪さんがなんともいえない顔で言いかけたところで、
「おはようございます、ふたりとも」
と、後ろから声を掛けられて、ふたりして飛び上がった。
「ななななななな!?」
奇声を発しながら振り返ると、
「ど、どうしたんですか?」
そこには、寝癖で髪の毛を跳ねさせた、白い寝間着姿の星さんが、びっくりした顔で立っていた。
「な、なんだ………びっくりした」
「ちょ、ちょっと星!あんまり驚かせないでよ!」
「はい?」
きょとんとしている星さんを余所に、お互い安堵の溜め息をつく。
「内緒話ですか?誰かに聞かれたらいけないお話をするのはいただけませんね」
「うーん。別に誰かに聞かれてそんなにまずい話でもないんだけどね……」
「なんとなく………はい」
「?」
「いえ。………それはそうと、おはようございます、星さん」
「あ、おはよう、星」
「ええ、おはようございます」
丁寧にお辞儀を返す星さん。これでもうさっきのことは突っ込まれまい。
「さ、早く顔を洗ってきましょう。お勤めに遅れたら大変でしょう?」
「そうですよ。ささ、早く早く」
「え?え、ええ……」
星さんは押しが弱い。こういう場合は、押し切ってしまえばこっちのもんである。
と、一輪さんと目で会話しながら、星さんの背中を押して井戸へと急いだ。
朝の身支度も終わり、今は勤行前の仏道修行………という名の雑用の時間。
「寒いですねー」
「……ほんとにねぇ」
今朝の担当は屋外の掃除。という訳で、只今参道の雪かきに勤しんでいる真っ最中である。
まだ昇り始めたばかりの冬のお日さまに照らされて、雪をたくさん載っけた枯れ枝がきらきらと光る。周りの木々だけじゃない、山の麓の方を見渡せば、ずっと向こうの山まで白銀が続いていた。
「うひゃー………。ほんと真っ白ですね」
面を上げたまま、思わずため息を吐くと、
「よそ見してないで、手を動かしなさい。ほら!」
横から、威勢の良い声と雪玉が返ってきた。
思わず、うおっと声を漏らすも、雪玉はてんで見当違いの方向へ飛んでいった。もとより、当てるつもりはなかったらしい。
「麓の方は雲山が頑張ってくれてるんだから、あなたも頑張りなさい。この後の朝の勤行に遅れるわけにはいかないんだから」
「へい、わかりやした、一輪姐さん!」
そう答えて振り向いたところ、顔面に雪玉が炸裂した。ぐはっと呻いて転倒したら、今度は雪の塊が降ってきた。
「す、すみませんでした!勘弁して下さい、一輪さん!」
イラッとした顔でこっちにかき出した雪を放ってきていた一輪さんは、軽く溜め息を吐いて手を止めた。
「まったく。
ほら、ふざけるのは終わり。真面目にやんなさい」
立てる?と差し出された彼女の温かい手を取って、よろよろと起き上がる。不幸中の幸いと言うべきか、早朝の雪は溶け出しておらず、牡丹雪だったのもあって、衣がぐっしょり濡れたりはしていない。
衣にところどころくっついた雪を手で振り払う。悴んだ手では感触なんてわからなかったけど、雪はふわっと落ちていった。
「―――是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦 無無明尽―――」
講堂の中を、透き通るような白蓮さんの声が朗々と響き渡る。
真冬の講堂は、体に突き刺さるような鋭い冷気に満ちている。清澄で、清廉で、静謐な朝の空気。
「――――――」
白蓮さんの読経は続く。まるで音楽のように緩急音程を付けて紡がれるその法声は、まだ修行を初めて九ヶ月、未だ剃髪する勇気も持てない俺の様な小僧でも解るほどに、霊験に溢れている。
講堂に満ちる凄冷な空気は、白蓮さんの声明を通して、荘厳なまでの霊気を湛えていた。
読経が終わり、御仏への祈りを終えると、ようやく一息をつくことが出来る。白蓮さんも表情を緩めて、車座に座り直した。
「――――さて、お疲れ様です。本日は朝餉ののち私は南の山で説法するつもりですが、星、ナズーリン、ついてきてもらえますか」
「畏まりました」
「承知したよ」
二人が厳かに首を垂れると、白蓮さんは笑みを深めた。
「―――そろそろ、星も独りで説法を行っても良いかもしれませんね。
毘沙門天王の代理を貴女に任せてから九ヶ月。近隣の方々からも、貴女の良い評判を聞いています」
白蓮さんの言葉に、星さんは一層深く首を垂れる。ちらりとナズーリンさんの方を横目で見ると、目を閉じて首を垂れながらも、少しその鼻が膨らんでいるのが見えた。
あっ、薄目を開けてこっちを睨んでる。慌てて目を閉じてしかつめらしい表情を取り繕った。
「他の方々は、再びお勤めをお願いします。今日は、何方からかお願いが届けられているでしょうか」
白蓮さんの問いに、一輪さんが応える。
「はい。麓の恒世様より、積雪で樵小屋が倒壊してしまったため、どうか木材を分けてほしいとのお届けがございました」
「では、そのように。近隣の方々のお力になって差し上げてください」
「畏まりました」
一輪さんも目を閉じて首を垂れる。
その伏せた顔は、必ずしも穏やかではなかったけれど。
朝の勤行と祈りが終わり、一日の身の振りを決めた後は、僧房へ移り朝食となる。今日の朝ご飯は何かな、確か今朝は水蜜さんが作ってたから、これは期待できるかな、なんて考えながら白蓮さんの後ろを歩いていると、一輪さんが速度を落として俺の横に並んできた。
「ん、なんです?」
そう小声で問いかけると、一輪さんも小声で返す。
「なんです、じゃないわよ。私はこの後雲山と一緒に御山の木を採りに行ってくるけど、あなたも怠けずにちゃんと仕事なさいよ?」
「ひどいな。そんなに信頼がないんですか、俺」
「あなたのことは、もう信頼してるけど。仕事に関しては、今一信用が置けないのよ」
「そんな馬鹿な。俺ほど仕事熱心な小僧もそうそう居ませんよ」
「どうだか」
と、先頭を行く白蓮さんがこほんと軽く咳をする。俺と一輪さんも慌てて身を正して静々と歩き出す。
他の人たちもちらりとこちらを振り向いて、星さんは微笑まし気な苦笑を、水蜜さんはやれやれといった顔で、ナズーリンさんは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
……雲山が胡散臭い顔でこちらを見ていたのも見えたけど、それに関しては見なかったこととする。
水蜜さんお手製の朝食を食べ終わると、再びお勤めに戻る。白蓮さん、星さんにナズーリンさんが説法の準備で引っ込んでしまったので、とりあえず水蜜さんは本堂の、俺は講堂の雑巾掛けである。
桶の中の水は、手が千切れるんじゃないかというほど冷たい。もう大分慣れたものではあるけど、既に手の感覚はないし、その手も皸でいっぱいだ。今度軟膏でも貰おうかな、とぼんやり考えながら雑巾を絞っていると、
「ほら」
「へ?」
ぱ、っと頭の上から大きな葉っぱが降ってきた。慌ててキャッチすると、葉っぱの上には灰色のペースト。視線を上げると、一輪さんが呆れ顔で立っていた。
「お早いお戻りで。雲山とは一緒じゃないので?」
「ええ、ただいま。大方集め終わったから、雲山には少し残ってもらって早めに帰ってきたの。
ほら、皸用の軟膏。痛むでしょう?」
「もう痺れてわからなくなってしまってますが…。でも、ありがとうございます」
あとは乾拭きだけだからと、貰った軟膏をいそいそと手に塗り付ける。灰色の軟膏は手によく馴染んで、妙な臭いもしない。
再度お礼を言いながら一輪さんの方を向くと、彼女はくすり、と笑った
「それはね。昔、人間だった頃にお婆さまに習ってよく作っていたものなの。妖怪になった今ではもう必要ないけれど……でも、まだ人間のあなたにはこの時期は辛いんじゃないかと思って。あの頃は、私もそうだったから」
どこか寂しそうなその笑みに、俺は何も言えなくなって、ただ無言で軟膏を塗り付ける。
一輪さんお手製の軟膏は、なんだか少し温かくて、すこし湿った匂いがした。
「んん。じゃあ、私も雑巾掛けを手伝おうかしら」
「ええ、お願いします」
もう一つ置いてあった布切れを渡す。それを受け取って朗らかに笑う一輪さんの顔を見て、やっぱり一輪さんには、こっちの笑顔の方が似合うな、なんてことをぼんやりと思った。
講堂の掃除、庫裡の掃除が終わり、一輪さんと共にお寺傍の畑を土作りのために耕していると、ぶおおおお、という低く重い法螺貝の音が伽藍の方から響いて、午前のお勤めが終わった。流石元舟幽霊といったところか、ようやく大きな音を出せるようになった俺と違って、水蜜さんの法螺貝の音は、力強く四方の山々に響き渡る。
いつもならここらで中食の時間だけど、未だ白蓮さんたちも帰ってこないということで、畑のわきで朝食の粟飯の余りで作ったお握りを頬張る。
手についた粟をぺろっと舐め取ると、横から一輪さんの呆れたような視線を感じた。
……考えてみれば。俺、一輪さんには呆れられてばかりのような気もするぞ。
一輪さんの方を見れば、彼女は大口も空けず、至極上品にお握りを食べていた。
「……どうかした?」
「いーえ」
だって、しょうがないのだ。こちとらまだまだ育ち盛りの健全な男子であって、お寺の生活でもご飯ほど楽しみなこともない。仏法においては食事だって行の一環だというけれど、白蓮さんも俺には多目にご飯を下さって、どうしてもそれに甘えてしまっている。
お握りを一つ食べ終わり、添えてある漬物を齧る。日本人なら誰でも馴染みがあるであろう、あの黄色い大根の漬物は、ここにはない。こっちに落とされてきてもうずいぶん経ったけど、こんな風に時々ふっとあっちのことを懐かしんでしまうのは、正直まだどうしようもない。
無意識のうちに、つい出てしまっていたんだろうか。ほんの小さな俺のため息を、一輪さんは耳聡く聞き付けたらしく、彼女はほう、と一息をついた。
「あ……すみません」
そんな風に言うと、一輪さんは何も言わず、ただ隣に座っている俺の頭を撫でつけた。
「……流石にもうそんな歳でもありませんよ」
「黙りなさい。まだまだ20も生きていないひよっこが」
身長では俺よりも小さい彼女の、その小さくて柔らかい掌は、ゆっくりと丁寧に俺の髪を梳く。
もし母さんがいたら。もしかして、こんな感じなのかな、なんて思いながら、俺は黙って彼女の為すが儘に任せた。
……こんな姿を雲山に見られなくて良かった。他の畑の方を耕しに行っているあの頑固親爺は、同時に過保護親爺でもあるのだ。
暫く頭を撫でてもらった後、再び俺たちは残った畑仕事に戻る。吹き付ける冬の風は未だ冷たかったけど、不思議と頭はぽかぽかと暖かかった。
本来なら中食の後は白蓮さんや、最近だと星さんからも講義があったりするんだけど……今日は二人ともいらっしゃらないので講義はお休み。なので残った土作りを終わらせると、ちょっとした自由時間が貰える。
せっかく外にはたくさん雪が積もっているし、他にやることもなしということで、水蜜さんと雪合戦に興じていたのだが……最初は善戦していたものの、途中で「『雪投げの蜜ちゃん』と呼ばれた私の実力、思い知らせてあげましょう!」と水蜜さんに妙なスイッチが入ってしまったせいで、もうボコボコにやられてしまった。いや実際、雪玉の中に石を入れて投げるのは危険である。危ないのである。俺がただの人間だってことを忘れてるんじゃないかあの人。
途中で畑仕事から帰ってきた雲山も参戦し、そっちに水蜜さんのターゲットが移ったので、たんこぶまみれになった俺は這う這うの体で僧房に逃げ帰った。
ちくしょう、あの舟幽霊め、今度は見てろよ……なんて愚痴を言いながら僧房の中を歩いていると、どこからか墨の良い香りがしてきた。香りに誘われるまま一室を覗いてみると、
「あら、お帰り。また散々にやられたわね」
「あ、一輪さん」
そこには頭巾を下ろし、文台の上に経典と巻物を広げて写経している一輪さんの姿。
「その様子だと、また皸用の軟膏と、今度は打ち身用の軟膏も必要かしらね」
笑いながら一輪さんは立ち上がって、奥から軟膏を取ってくる。
……妖怪だらけのこのお寺では、わざわざ軟膏を作り置きする必要なんてないだろうに。もしかして、近隣の人たちからお願いされることもあるんだろうか。
軟膏を受け取って、それをたんこぶに塗り込みながら、一輪さんに話しかけた。
「珍しいですね」
「何が?」
「白蓮さんがいないのに、お休みの時間に写経してるなんて。一輪さん、仏法そのものにはあまり気を持っていないように見えてたので」
「ああ……」
一輪さんはその視線を文台の方に移す。広げた半分が未だ白紙の巻物には、一輪さんらしい、丁寧で流麗な文字が書き綴られている。
「大したものでもないわ。大般若でもない、ただの般若心経だもの」
「へえ。観自在菩薩、善男子若有欲学甚深般若波羅蜜多行者、何修行?」
「舎利子、若善男子善女人行甚深般若波羅蜜多行時、応観五蘊性空。色不異空空不異色色即是空空即是色、受想行識亦復如是。ってね」
「五蘊皆空、その境地は未だ愚衲にゃわかりかねますが」
「豎子、然らば一層行を修むべし。あなたも写経してなさい」
一輪さんはそう笑って、文台の前に座り直す。
硯に置いてあった筆をその細い指で取り、先を墨の海に浸けて、再び先をまっさらな地平に着けると、そこから流れるように黒い川が伸びていく。
壁際に座り、随分とそれをぽけっと眺めていると、一輪さんは誰ともなしに呟いた。
「……このお経はね。私のお婆さまが好きだったの。
姐さんのように比丘尼になった訳じゃなくて、ただの門前の老婆だったけど」
「熱心な、お婆さまだったんですね」
「うんたらかんたらの類でね。他のお経は全然覚えてらっしゃらなかったし、般若心経も初めは掲帝掲帝って繰り返すばっかりだったけど……近くに公民にもお優しいお坊様の居るお寺があって。その方に教わったんだ、なんて嬉しそうに私に心経を教えてくれた」
一輪さんは写経の手を止めて、懐かしそうに、寂しそうに、微笑みながら天井を仰いだ。
「人間だった頃から、ずっと色々なことを教えてくれた方でね。私が雲山と一緒に行動するようになっても……それこそ、私が妖怪に為り果てても、あの方だけは変わらずに可愛がってくれた。
最期まで、何があっても御仏のお導きを信じなさいと仰って……今、私が姐さんの元に居るのも、お婆さまのお導きなのかもしれない」
人間だった、頃。
さわりと。己が手を一度自分の頭に翳した後、一輪さんは俺の方を向いて微笑む。
「あなたも奇特な人間よね。こんな妖怪だらけのお寺に居て。もうどれくらいになるかしら」
「そろそろ季節が一巡する頃でしょうか。暖かい春の日だったと思いますから」
「そう。丁度星が毘沙門天王の代理を任された頃からだったかしら」
「ええ」
ほう、と一輪さんは小さく息を吐いて。
「あの頃からの知り合いといったら、もう雲山しか居ないけれど……あの方のことは、未だにずっと、ずっと覚えてる」
お母さん。
そう、虚空を見つめながら呟いた。
午後のお勤めとして、山頂の護法堂の掃除をしていた最中。下の方からいつもの仏頂面を一層しかめて、雲山が文字通り飛んでくるのが見えた。
事情を聞くと、麓から白蓮さんの法力を頼りに来た人間がいらしたとのこと。現在は一輪さんが対応しているが、その応援に来てほしいとのことだった。
雲山と共に急いで山道を駆け下り、途中で別れて山門の方へ行くと、そこにはいつも被っている頭巾を一層目深に被って対応している一輪さんの姿と、簡素な衣に身を包んだ村人さんの姿。
「おう、小僧くんじゃないか。いつもご苦労様」
「お久しぶりです、火丸さん」
屈託なく笑う村人さんは、麓へのお使いや白蓮さんの御伴で何度かお会いしたことのある方だった。
その横で一輪さんは、頭巾を目深に被ったまま、どこか居心地悪げに立っている。頭巾の下から見えるその口元は、どこか固く結ばれていた。
「どうかなさいましたか。もしかして軟膏でも?」
「ん?軟膏って、なんだそりゃ?」
村人さんは首を捻る。くるりと一輪さんの方に顔を向けても、彼女は身動き一つしなかった。
「いえ、失礼しました。それで、どうなさいましたか」
「おう、それが聞いてくれよ。実はこの連日の雪で延正ん家が崩れちまってなぁ。
とは言えこの雪山じゃあ木を切り倒すのも一苦労だってんで、聖様のご法力でまた少しばかり木を分けちゃくれねぇかって思ったんだが」
「なるほど」
彼と話しながら、ちらりと一輪さんに目配せする。彼女は村人さんに軽く一礼した後、するりと山門の向こうへ消えていった。
「……なあ、俺なにかしちまったかい?あの尼さんにゃ随分と嫌われちまってるみたいだが」
「いえ、彼女は些か人見知りでして」
「そうかい。ま、嫌われてないんならいいや」
無邪気に村人さんは笑う。この寒さの中も簡素な衣服で動き回る彼の逞しい体は、山を登ってきたためか、些か上気していた。
「しかし、小僧くんも大変だねぇ。こんな山奥のお寺に男手一つ、お勤めだって楽じゃなかろうに」
「いえ、そこは白蓮さんや他の方々のお助けもありますから。寧ろいつも面倒を見ていただいて、あの方々には頭が上がりません」
「はっはっは、そうかい。聖様はいつも俺たちが困ってると助けて下さって、ほんとに仏さまみてぇなお方だよ。
でも小僧くんも、何か困ったことがあったら俺たちに言ってくれよ。寺勤めったってよ、年頃の男にゃあ女手じゃ解決できねぇこともあるだろうしよ。
どうだい、うちの娘なんか最近一層めんこくなってなぁ」
「はっはっは」
「所帯持つ気になったらいつでも言ってくれ。
……最近妖怪共も妙に大人しかったが、この前恒世んとこの次男坊が山で襲われた。まだ九つだってのに、頭っから喰われちまってよ。
小僧くんみてぇな聖様んとこで働いてて、法力のありそうな男手が来てくれりゃ、里の連中も大喜びだからな」
悔しそうにそう告げる村人さんに、俺は何も言えず。
「……ま、湿っぽい話はここらで終いだ。
さっきの話、聖様によろしくお伝えしといてくれ」
「はい、畏まりました」
「おう、ありがとな。いつも助かるよ」
村人さんに一礼すると、彼はほんの少しだけ肩を落としながら、麓の人里へ帰って行った。
少しだけ山門で立ち尽くした後。徐に山門をくぐると、その裏に門柱に寄りかかるようにして、一輪さんが立っていた。
「一輪さん」
声をかけると、彼女は無言のまま、その手に掛けた金輪を振るう。いつも間にか戻ってきていた雲山は、それに応じるように再び山の上の方へ飛んで行った。
「……行きましょうか」
歩き出しながら軽く声をかけると。彼女はほんの少しその頭を揺らして、俺の後を着いてきた。
あの後、午後のお勤めも恙なく終わり。今、俺は庫裡にて夕食を作っている。
年初めの寒い中、南の山までお説法に行っている三人を迎えるために、暖かい鍋でも作ろうか、という話になったのだ。
「ねえ」
音を吸い込む雪に包まれて、ただ鍋の煮立つ音だけが聞こえる夕闇の静寂を破って、よく通る綺麗な声が響いた。
「はい?」
鍋の火を絶やさぬよう、ただただ息を吹き込んでいた竹筒から口を離す。
顔を向ければ。先ほどまで小気味の良い旋律を刻んでいた小刀から手を離して、よく整った眉の間に、幾筋かの皺を寄せた一輪さんと目があった。
「どうかしましたか、一輪さん。そんなおっかない顔をして」
せっかくの美人が台無しですよ、と続けると。どこか落ち着かなさげに八の字を描いていた柳眉は、今度はぎりりと鋭く逆立ってしまった。
軽い冗談ですよ、いえ、冗談ではないですけど。
「それで、どうなさったんです?」
少々首を引っ込め気味に、そう一輪さんに問い掛けると、彼女は高々と掲げた小刀をゆっくりと下ろして、軽く視線を落とした。
眉は、再び八の字に寄っている。
「……いえ。あなたも随分……料理が、上手になったと思って」
「え?」
思わず漏れた気の抜けた返答に、一輪さんは再びこちらに視線を寄越すも、そこにいつも感じる、凛とした力はない。
「えっと、それはまあ、そこそこ上手くなった……かもしれませんね。何しろ此処には、とても教え方の上手いお師匠様と、とても味にうるさい美食家様が両方とも揃っていますから」
上手くならなければ、冗談でもなくこちらが料理されかねないし。
「でも、褒めて頂いたのは大変嬉しいんですけれど、突然どうしたんです?一輪さんらしくもない」
「失礼ね。どういう意味よ?」
「いえ」
一輪さんが手元に視線を落としたのに合わせて、こちらも再び火の方に向き直る。でも、何となく落ち着かなくて、手に握った竹筒を持て余す。
一輪さんもこちらと同じなのか。隣からも、何の音も聞こえない。
ただただ、何となく気まずい静寂が満ちる。
ふと、隣から小さな声が聞こえた。
「……あなたは、妖怪になる気はないの?」
「……は?」
その声に、思わず竹筒を取り落として振り返る。
視線の先の一輪さんは、いつもの凛とした姿が跡形もなく、ただの人間の少女のように、どこかおどおどとした様子で、こちらを見ていた。
「……どういう意味です」
「だって、そうでしょう。あなたは記憶を失って、まったく料理が出来なかったあの頃から、これほど料理上手になるくらいに、もうずっとここにいる。
姐さんも、皆も、私だって、もうあなたのことは認めているわ。
もしもこれからもここにいるなら……これからもずっとここにいるなら、人間なんかから妖怪になった方が、皆と一緒になった方が良いじゃない」
一輪さんは、いつもはその精神の強さを映す光を湛えている大きな瞳に、今はただ不安そうな色ばかりを浮かべながら、そう呟くように言った。
「……俺は、妖怪にはなりませんよ」
「どうして?
妖怪になれば、もう皸に悩まされることも、日々の作務に苦しむことも……普通の人間のように、あっという間に年を取って、あっけなく死んでしまうこともないのよ?」
その後に続く小さな呟きは、普通の人間である俺の耳には届かなかった。
頭巾をぎゅっと握り、そのきれいな空色の髪を振り乱しながら、一輪さんは続ける。
「……あなたは記憶を失って、ここに辿り着いたって言っているけれど、それからもう季節が一巡しても、未だにその記憶が戻る様子もない。
もしこのまま記憶が戻らないなら、このままここに居ればいい。記憶が戻るのに永い時間がかかるなら、それこそ妖怪になってその時を待てば……
いえ、もう姐さんたちも、私も薄々気付いてる。あなたは記憶を失って故郷への帰り方がわからなくなってるんじゃなくて―――」
「それでも」
つい語調を強めてそう言うと、一輪さんはびくりとその身を小さく震わせた。
「それでも、俺は、妖怪になる気はありません」
「どうして?どうしてよ?
私たちは、私は、あなたに―――」
「だって」
俺は、そう詰め寄ってきた一輪さんの言葉を遮って、続けた。
「俺は、普通に年を取って、普通に死んでいく、ただの人間ですから」
そう言った時の俺の顔は、どんな顔になっていただろう。
ただ、目の前にある一輪さんの顔が、くしゃりと歪んだのが見えた。
人間であることを辞めて、ただの妖怪になった、小さな少女の頭を、ただの人間である俺は、ゆっくりと撫でた。
腕の中の彼女の空色の髪からは、春の穏やかなお日さまみたいな匂いがした。
ぱちぱちと薪のはぜる音と、ほんの小さな嗚咽だけが響く、ひどく穏やかな時間が流れた。
ぼんやり庫裡の天井を眺めながら、ああ、これは鍋もちょっぴり焦げ付いちゃってるかな、なんて場違いなことを考えていると、それまでゆっくりと妖怪の少女の頭を撫でていた右腕が、ぱ、っと振り払われた。
びっくりして視線を落とすと、目尻を少し赤くした少女は、んっと僧房に続く三和土の方を指さした。
「…?」
「ん!」
指さされるままに上がり框に腰掛けると、隣に座った少女は、ぐい、とやや強引に、俺の頭を自分の膝の方に引き倒した。
「わっぷ」
「―――100年早いのよ。20も生きていないひよっこが」
そのまま彼女の膝枕に頭を横たえながら、一輪さんは俺の頭を乱暴に撫でてくる。
乱暴なその手つきは、次第に丁寧でゆっくりとした、いつもの一輪さんらしい手つきに戻っていく。
上を見上げると、頭上の一輪さんは、目尻を赤くしたまま、拗ねたような、ちょっとおさまりの悪そうな、でもどこか居心地の良さそうな、そんな不思議な微笑みを浮かべて、俺の方を見下ろしていた。
髪を梳くその温かくて柔らかい手は、とても気持ちがよくて。
「一輪さん」
「―――ん。なに?」
「俺、ここの皆さんのこと、一輪さんのこと、大好きですよ」
「――――――」
一輪さんは、ほう、と息を吐いて。
「私もよ」
そう、ささやくような声で応えた。
結局。俺と一輪さんが用意したお鍋は、だいぶ焦げ付いてしまった。
「……君。うちの鼠共が大好きな物を知っているかい?」
「申し訳ございませんでした」
とても味にうるさい美食家鼠様には、誠心誠意の土下座で答えて。
「まあまあ、ナズーリン。彼も、悪気があったわけではないのですから」
「ありがとうございます!」
そんな鼠様を宥めながらも優しく微笑む、おっとり虎さんには、ビシッと敬礼で返し。
「まったく、あなたもまだまだ精進が足りませんね。もう少し料理の腕を鍛えてあげる必要があるようです」
「……お手柔らかに、お願いします」
頭に手を当てる俺の挙動をきょとんと見つめる虎さんをよそに、そう呆れながらも優しく宣う、世話焼きな舟幽霊さんには、少し身を引きながら返事して。
「それでも、このお鍋はとても美味しいですよ。二人とも、お疲れ様でした」
「こちらこそ、お粗末様です」
全てを包み込むような暖かい微笑みを浮かべる、聖母のような尼公には、こちらも湧き上がる微笑みで応じ。
「ほら、一輪さんも。いっしょにお鍋をつつきましょう」
「……あなたに言われなくても。……あ、ほんと、おいしい」
まだ、ほんのちょっぴり目を赤くしながら顔を綻ばせる、そんな妖怪になった少女と、その後ろで興味深げにお鍋を見ている頑固親爺を、笑顔で誘って。
「だって、そうでしょう。なんたって、家族の味ですから」
俺は、今日もこの命蓮寺のみんなといっしょに生きていく。
Fin.