机の上のサボテンの植木鉢の前にカッターがあった。いつ自分が置いたのか忘れてしまったが、机の上のノートを避けるようにして横たわっている。
私はそれに手を伸ばしてみたくなった。手を触れてはいけないとは思う。しかし堪えられず、カッターを手にした。
暫く見詰め合う。私は何も言わず、相手も何も言わなかった。
刹那、私と相手は頷いた。チキチキ、とカッターの刃を出してみる。気分が高揚した。この沈んだ気分の中に差し込んできた光だった。そのまま相手に誘われて、カッターの刃を手首に当ててみる。
(ああ、いけない。)
そう思いながらも、手首に当たるひやりとした感覚が心地よい気がした。
そしてそのまま、私はその刃を引いてみる。
◇◆◇◆◇
見慣れない景色に、目覚めて早々首を傾げる。目覚めがいいわけではない私が苛立ちを感じた瞬間だ。
暫時、その見慣れない天井を見つめていた。目と鼻とにっこり笑った口の描かれた星や月が散りばめられた天井は、子ども部屋を思わせた。否、現世での子ども部屋でもなさそうである。それはそう、まるでおもちゃ箱の天井のようであった。
私は、眠る前の出来事を思い出してみる。ぼんやりと、椅子に座っている自分が浮かんできた。その自分は何を思ったのか、ノートの向こう側にあるカッターに手を伸ばす。
ぞっと寒気がして、急いで左手首を触った。
そこに、切り裂かれた皮膚から流れ出る血はなかった。私は、再び首を傾げる。
「あや、お目覚めでしたか」
柔らかい女性の声が聞こえ、はっとした。目は完全に覚めたようだった。
「あの、私……」
ここが病院だとは思えなかった。まだ天井しか見ていないが、それだけでもここが病院である可能性は下げることができた。
「ここは微笑みの里よ。あなた、虚世の迷子でしょう?」
女性は花を持って私に近づきながら微笑んだ。
(微笑みの里? 意味が、分からない。)
私が何も言えないでいると、彼女は窓のところにあるサボテンの鉢に水を注しながら言った。
「あなたは涙の谷の人ね? お名前は? 私はエーヴェよ」
「私は……高槻です」
流れるままに自己紹介を済ませてしまう。聞きたいことは沢山あるというのに、聞くことのできる隙がないのだ。
「あなたタカツキというのね」
納得したように頷くと、それから彼女はペラペラと話し始めた。
私がここに来る前に彼女が森で散歩をしていたこと、その先に私が倒れていたこと、気を失っていたため彼女の家に運んで様子を見ていたこと、この家には彼女一人きりで住んでいるということなどを話した。
「あなたが目覚めてよかったわ」
彼女は微笑みながらそう締めくくり、私の反応を窺った。頷くも相槌を打つこともできない私は、瞬きを繰り返した。
私が何も言わないからか、部屋には沈黙が訪れた。しめた、と思って口を開く。
「あの、私帰らないと……」
「せっかく来たのだから、ゆっくりしていくといいわ」
私の言葉を遮って、彼女はまた微笑む。何故か私は安心した。
「今はもう少し眠りなさいな」
甘い声色だった。その声は眠り粉のように私にまとわりつき、そのまま意識は遠のいていった。
再び目は覚める。外では小鳥がさえずり、まるで朝の光景を目にしているようで、否。
「朝……?」
はっきりとしない視界に苛立ちながらも部屋に備え付けられた時計を確認すると、五時少し過ぎを指していた。つまり私は、半日以上寝てしまっていたのである。
不意に、鏡の中の自分と目が合った。私は一、二秒目を合わせたが、すぐに同時に目を逸らした。
カーテンを開けた窓から見た外は、まだ少し薄暗かった。それでも空は白んできていて、私は外に出てみたくなった。
ドアに手をかけ部屋から出ると、静寂に包まれた部屋が広がっていた。家具などを見るとリビングだろうか。円形の部屋は静かではあれど、謎の温かみがあった。
円形の部屋にはドアが幾つかついている。恐らく、このリビングを中心に部屋が広がり、家となっているのだろう。
「ここかな……」
そのドアの中で最も大きく、丈夫そうで、飾りが施されているドアを選んだ。これが玄関だと思った。
ノブを回してゆっくり押すと、正解だ。そのドアはゆっくり開き、外へと通じた。朝の冷たい空気が肺を満たす。心地よい。
周りを見回してみる。広がるのは緑の草原。ここは小高いところに建っているようで、緩やかな坂が続いていた。その先には村であろうか、これと同じような造りだと思われる円柱の建物が纏まって立ち並んでいた。まだ朝早いからだろう。人影は見られない。
私は家の周りをぐるりと一周してみた。玄関と反対側には池があって、そこから川が流れていた。一週半歩いたところで、花壇を見つける。その棚にはサボテンが並べられていた。ぼおっと、それを眺める。
閉ざされていたはずのカーテンが開かれたのだ。私はひやりとして急ぎ足で玄関へと戻った。
リビングに入ると、幸い家主の姿はまだなかった。これから部屋に戻るのも不自然と思え、近くにあったソファに腰を下ろした。やわらかい。
「お早う。早いのね」
微笑んだ彼女が世界に入ってくる。僅かに、部屋が眩しくなった気がした。
「随分と寝てしまいました。頭が軽いです」
本当にそうだった。昨日眠気の中で感じた重みも、その前から持ち続けていた何か詰め込まれていた感は、もうなかった。そう告げると、彼女はまた微笑んだ。
「それはよかったわ。では、行きましょうか」
どこへ、と尋ねる間もなかった。どういうわけか、自分はそれについて行かねばならないような気がした。言葉を変えれば、ついて行っても大丈夫な気がしたのだった。
籐の籠を持った彼女が家を出、私はそれに続いた。彼女は何も言わず、私も何も言わなかった。
ふと目の前に続くこの道が私の帰り道なのだろうと思った。
森の中に一筋続いている道。もし赤ずきんがいたとしたら、彼女はきっとこのような道を通ったのだろう。そんなことを思っていると、エーヴェが口を開いた。
「見て」
立ち止まって屈んでいる。私は彼女の目線の先にあるそれを見下ろした。
「サボテンの花よ」
言われなくても分かる。ついこの前、私の机の上に鉢植えを置いて行った祖母から教えてもらった花だ。
その植物は、自然の木々の中に鉢植えでポツンと置かれていた。緑の中に豪として咲く真紅の花も、また不自然であった。しかし。
「綺麗ですね」
しかしそれは美しかった。
不自然ではありながらも、緑に映える赤は美しかった。
「本来あるべき姿は、不自然だとしても綺麗なものよ」
「偽った自然は、不細工ですか?」
「そうね」
エーヴェは肯定する。
「鉢植えだけ……鉢植えだけ、浮いているわね」
そう言うとエーヴェは立ち上がり、また微笑んだ。
「行きましょう。日が暮れてしまうわ」
私は頷き、私たちは再び歩き始めた。
不思議と足は疲れなかった。普段運動不足でこれだけ歩けば足が棒のようになるのに、私の足は自身も知らぬ目的地へ向けて動いていた。
暫く私たちは無言だった。
森のどこかでさえずっている小鳥の声を聞いた。ピピピ、チチチ、と聞く度にここが現世でないどこかだということを思い出す。よく見れば、現世には見ないような草が多く生えている。その中に咲いていたサボテンの花が、ふと思い出された。
「サボテン……。どうしてサボテンだけ咲いているんですか?」
サボテンの花を見てからというもの花という花を目にしていない気がした私は、尋ねてみないではいられなかった。
「この里の人たちは、泣くことを知らないから」
「え?」
予想外の答えに思わず聞き返す。泣くことを知らないから、というのは意味が分からなかった。
「この里の人たちがよく微笑むのは、泣くことを知らないからよ。空でさえ、涙を流さないの」
彼女の言う『涙』が『雨』や『水』を指していることを理解するまでに、少し時間がかかった。
「あなたが植えたということは?」
「私は知ってるの」
「どうして?」
「毒の果実を食べたから。毒の果実が教えてくれたの」
軽い口調で答え、クス、と笑ってさえ見せた。私は眉を動かし、説明を求める。しかし、彼女はそれ以上毒の果実について語ろうとはしなかった。まあいい。私はそう思い直す。
「だからあなたは、丘の上に?」
彼女の庭には池があり、そこからふもとに向けて川が流れていた。指摘すると、彼女は少し目を丸くして、そうね、と微笑んだ。
「でも、どうして?」
私は尋ねた。
「どうしてあなたが花を運んだり、水を流したりしているんですか?」
いくらエーヴェがこの世界で唯一水を発生させられる人物だったとしても、彼女が毒の果実を食べなければこの世界に水など存在しなかった。つまり、この世界に水などに価値はないのではないか。と、尋ねてみる。カサカサ、と木の葉が擦れ合う音がした。
「里の人々にとっては、水なんか流れていても意味がないのでは?」
私の質問にエーヴェは答える。
「そうね。彼らにとっては、あってもなくても同じでしょうね。でも、あったら気にならないではいられないでしょう?」
「あなたは、里の人々に涙の存在を教えたいんですか?」
私は尋ねる。
「あなたは、毒の果実を食べて後悔しているのでは?」
眉を顰めながら問うた。しかしそれを気にも留めないように穏やかに微笑むと、彼女はゆっくりと頭を振った。
「いいえ、後悔なんてしていないわ」
そしてエーヴェは空を仰ぎ、言った。
「だって、以前に比べていっそう笑いやすくなったもの」
そう言う彼女の横顔は、とても綺麗事を言っているようには見えなかった。彼女の心から出てきた言葉。そのように感じた。
「この里の人たちは皆、いつだって微笑みを湛えているわ。けれど、いつだって彼らが幸せなのかと聞かれれば、それはきっと違うのだと思う」
私は彼女の横顔から目を逸らすことができなかった。真剣な面持ちで凛とした声で話すエーヴェ。私は彼女から目を逸らしてはならないような気がしてならず、そしてまた、私の中の深いどこかにずしりとした鈍い痛みを感じたのだった。
「微笑むだけの人生というものは、それはそれで幸せなのかもしれない。だけど、微笑むだけの人生では雨上がりの日差しの美しさを知ることはできない」
エーヴェは言う。
「冬を越さない春は笑えない」
その瞬間、強い風が吹いた。木々を、木の葉を、髪の毛を、私たちを揺する。
「時に雨が降るからこそ空は晴れる。水を遣るからこそ咲く花があり、実る果実がある。私はその美しさを知っている。その美しさを、皆にも知ってもらいたいと思うの。だから私は花を育てるし、丘の上から水を流すのよ」
「そう……」
その話を聞き、私は何も言えなかった。彼女の言っていることに間違いはなかったから。それでも知らない方がいいこともある、とは言えなかった。
「それは、すばらしい考えですね」
私は知っていた。ところにより雨ばかりの地域があることも、春が訪れない地域があることも、花を咲かせない植物があることも、果実の生らない植物があることも、全部。
しかし、私がそれをエーヴェに話すことはなかった。サボテンの花しか知らない彼女にそんな話をしても無駄な気がした。
「ここが出口よ」
「はぁ……」
そこには湖があった。それは小さな湖で、中を覗き込もうと身を乗り出すと水面に自分の顔が映った。見慣れた顔が映ったことに僅かに安堵する。
「これはどうしてここに?」
私は尋ねた。水はエーヴェの周りにしか発生しないというのに、ここに湖がある。しかしここはエーヴェの家からはとても離れている。
その疑問にエーヴェは微笑んで答えた。
「毒の果実が生っていた木が生えていた場所よ」
「ここが?」
「ええ」
そう言われてみれば、木が一本生えていたような円周である。
「毒の果実で閉ざされていた涙の谷への門が、私が毒の果実を食べてしまったことによって開かれてしまったのね」
「ああ」
そういうことか、と私は納得する。私が軽く頷くと、水面に映る私の顔も揺れた。
「この湖を見つけてから、私はときどきここへ来るの」
「そうですか」
「だって、綺麗でしょう? この湖」
「……」
「美しいでしょう? こんなにきらきらと煌めいて」
「……そう、ですね」
私は相槌を打った。
確かに湖は綺麗だった。美しかった。光を受けた水はどこまでも透き通っていて、それこそ穢れを知らないかのように透き通っていた。エーヴェの言うことに間違いはなかった。しかし、私はまたしても何とも言えない違和感を感じた。
「長く話してしまったわね。あなたも早く帰った方がいいのでしょう?」
「おそらく」
「そうでしょう、そうでしょう?」
エーヴェは相変わらずの微笑みを零し、言う。
「あなたを涙の谷へお見送りしないと」
「そのことだけれど、私はどのようにして元の世界へ戻れば?」
「たぶん、この湖の向こうが涙の谷なのだけれど」
「私にここへ飛び込めと?」
「ええ」
平然とした声でエーヴェが相槌を打つ。私は呆れた声で笑った。それに対し、またエーヴェが大真面目な声で返す。
「あら、そうは言ってもあなたは最初、この湖の傍で濡れ鼠になっていたのよ? この湖からやってきたのだと思わない?」
「そうは言っても……」
私が本当にこの湖からやってきた証拠はどこにもないではないか、と心の中で抗議する。しかし、やがて私はため息をついた。ここが現世ではないどこかであるということを思い出したのだ。
「分かった、分かりました。じゃあ私、行きますね」
私はそう言って湖の淵に屈みこんだ。
ごくりと唾を呑む。後ろでエーヴェが微笑んでいるのが分かった。背後から声がする。
「あなたに出会えてよかったわ」
エーヴェの声だった。私もよ、と返してからまた唾を呑む。そして落ち着いて息を吸うと、思い切って顔を水面につけた。
その後は簡単だった。吸い込まれるように顔が、肩が、腕が、体が、水の中に沈んでいった。
沈んでいっているのを感じながら、やはりあそこが現世ではなかったことを思った。そしてまた、あそこが夢の世界であったということも思った。
(ああ、綺麗だ……)
沈みながら水面を見上げると、光が水の中に射しているのが分かった。きらきらと光っている。水の中で揺れるそれは、息を止めていることを忘れるほどに綺麗だった。
暫時、穏やかな気持ちでいた。しかし、いつまでもそんな風にはいられなかった。
今どの辺りなのだろう。そう思って下を向いてしまったのがいけなかった。
「っ……っ!」
今まで見えていなかったものを見てしまった。
(あれは、一体……)
沈んでいくにつれ見えてきたのは、黒く蠢く闇だった。それも一色の黒ではない。何色も何色も重なり合ってできた黒だった。それは灰色のようであり、溝色のようでもあった。とにかくそれは黒だった。
ごぼっ、という音が耳元でする。あまりの驚きに息を吐きすぎてしまったのだ。そのことを認識した途端、猛烈な息苦しさに襲われる。
(ああ、この感じだ)
私は思う。
(これが、あの違和感か)
エーヴェはこの湖を美しいと言った。しかし、この湖が美しいのは水面だけ、いわば上っ面だけで、沈めば沈むほど見えてくる底はあまりにも醜いのだ。
(美しいだけではない。そういうことだ)
そう思いながら、私はそっと目を閉じる。こぽこぽと私の口から漏れた空気が泡となっていく音が聞こえた。それ以外はあまり聞こえない。ただただ静かな空間だった。
意識を失いそうになりながら、水に混じって熱い涙が零れていくのが分かった。
(ああ、これが……)
私は感じる。
(これが、現世の苦しみか……)
私が生まれてしまった世界は、この苦しみに溢れている。しかし、私は生きなければならないのだ。この苦しみに呻きながら、泣きながら、この涙の谷で。
◇◆◇◆◇
目が覚めると、転がったカッターが目に入った。それを手に取り眺めてみる。しかしそれに血がついている様子はなく、同じく自分の腕のどこにも血がついておらず、それどころか傷すらもついていなかった。代わりに私の目からは涙が零れていた。私はそれをさっと拭い、小さくため息をつく。
部屋の時計を確認すると、既に朝になっていた。結構な間机に向かったまま眠ってしまっていたらしい。
私は立ち上がるとカーテンを開けた。すると窓から眩しいばかりの太陽の日差しが射し入ってくる。
(ああ……)
私は心の中で大きなため息をついた。「美しい」と感じた気がした。
『冬を越した、春は笑うわ』
エーヴェに言われた言葉を思い出す。
(ああ、その通りだ)
この世界、春ばかりではないが、同じく、冬だけでもないのだろう。
「いい朝だわ」
そう思えたとき、私の胸はすっと晴れた気がした。そして私は、机の上のサボテンが花を咲かせていることに気がついた。