我が輩は犬のぬいぐるみである。名前はニャー君だ。この、ニャー君という名前、実は我が輩、今ひとつ好きではない。
人間で例えれば、ポチと付けられたようなもの。間違っても犬である我が輩に付けるような名前ではないだろう。
ひとえに、主のネーミングセンスに問題があるのは確かである。
我が輩の主である日向耀は、病院のベッドの上で寝ている。彼女との出会いは、もう、随分と前の事になる。
我が輩はUFOキャッチャーの景品として作られ、世に生まれてきたまでは良かったのだが……我が輩を取った人間は、あくまでも『取る事』が目的だったのか、愛でられる事なく、半月ほどで邪魔だからとゴミステーション行きとなった。
透明なゴミ袋と一緒に、我が輩はゴミ収集車を待つ身――この世から消える一歩手前、そんな我が輩を拾ってくれたのが主だった。
「少し汚れているだけなのに、必要とされないなんて……」
我が輩を持ち上げて、主が微笑んだ事は、今でも覚えている。
「捨てられてるんなら、私が貰っても構わないよねー」
これが我が輩と、主との出会い。
我が輩を胸に抱えた主は、住宅街を歩きながら呟いた。
「そうだ。名前を付けてあげないと……」
その心意気に、我が輩は感動する。同時に、今度の主は我が輩の事を愛でてくれる、そう思った。
否、それは間違いではなかったのだが……今度の主は主で、一癖あったのである。
「犬だからポチ……じゃあ、安直だし。変わった名前が良いよね」
我が輩、普通の名前を所望します。
「むむむむむ」
眉間に皺を寄せて、我が輩を睨み付けながら悩む主。
可愛らしい容姿が台無しである。
「決めたっ! お前はニャー君に決定っ!」
犬なのに、猫の名前を付けられて……
なんでこんな名前を付けるのだろうと心の中で思うと、主がその答えを口にした。
「わぁーい、実は私、猫が欲しかったんだよね」
我が輩、いらないじゃんっ! 必要とされてないよっ!
「何となく、ニャーと鳴きそうな気もするし」
安物のぬいぐるみなのに、高度なスキルを要求されたっ!
「ニャー君も、私の洗練されたネーミングセンスに脅威を感じたよね、絶対」
我が輩、先行きが不安です。
「今度もよろしくだよ、ニャー君」
新たなる主はよくいえば明るい、悪く言えば五月蠅い少女……これが、我が輩と主との出会いだった。
今思えば、テンションを高くしなければ……明るく振る舞わなければ、主は生きていられなかったのだろう。
拾われて数日後、主の命が長くない事を我が輩は知り、そう、感じた。
「セン、パイ……式見、セン、パイ……」
うわごとのように、主は知り合ったばかりの男性の名前を呟く。
珍しい事だった。主が、男性の名前を呟くなど――
「ニャー君、おはよー」
主が上体を起こして、我が輩に向かって言う。どうやら、目が覚めたようだ。
「うわーい、私の思ったとおりだ。ニャー君、洗ったら綺麗になったね」
我が輩は、犬のぬいぐるみだ。
数刻前、主によって洗濯機の中に放り込まれ、我が輩は渦潮地獄を味わった。ぐるぐると目が回って……正直、勘弁して欲しい。主的には満足のようだが、我が輩は洗濯機は苦手なのだ。綺麗になるのは、吝かではないのだが……我が輩は、手洗いを所望する。我が輩の意志は、主に届いてくれないのが難点だが。
「『イカス野郎になったぜ』って、ニャー君も断言してるよっ!」
イカス野郎とは、イカにでもなったという事だろうか?
人間の言葉は難しく、たまに分からないものもある。
ちなみに、後述するのもなんだが、我が輩は現在、ハンガーに掛けられている。
乾かされている真っ最中なのだ。
「そう言えば、今日は一日中病院にいるね。ずっと室内に居るから、気が滅入るのかな?」
主は、独り言が多い。
我が輩を拾ったばかりの頃は、両親も毎日のように顔を出していた。
なんだかんだ文句を言いつつも、楽しそうな顔をしていた主……それが、今はどうだろうか。
病院にはほとんど訪れる事のない両親。
娘が死にかけていく様を見ていられないという親心が分からない程、我が輩も愚かではない。
それでも――来るべきだった。
ここの病室からは病院の入り口が見えるようで、主は窓の外を毎日のように眺めていた。
両親が来た時は顔を輝かせ、来ない時は俯いて……
主は、普段は強がりを言いつつも、心の底では両親が来てくれる事を望んでいたのだから。
「ねえ、ニャー君……」
未だ乾いていない我が輩の身体を抱きしめて、主は呟いた。
「一人は寂しいよね……」
消灯時間が過ぎている事から、病室は暗く……
この部屋の暗さが、主の気持ちを代弁しているかのように我が輩には思えた。
「何処かに行っちゃおうか? 私、どうせ死ぬんだったら、消毒薬の臭いに満たされた、無機質な病室じゃなくて、好きな人の胸の中で死にたいし」
それは叶わぬ夢。
少し前までならまだしも、今の主は、病院の外を歩く体力すらない。
こうして我が輩に話しかけ、立っているだけというのに、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
もう、限界なのは明らかで……後、何分立っていられるのかさえ分からない。
「ふぅ……ニャー君……ごめん。ちょっと、疲れたかな」
主はベッドに戻ると、すぐさま寝息を立てた。今では一日の大半を、寝て過ごしている。
起きていられるのは、僅かな時間だけ――
終わる日が近い――それだけは確かだと、我が輩は感じていた。
体中に取り付けられている夥しい数のケーブル。
見るに堪えない姿だった。
世間では夏休みと呼ばれる、人間の子供達にとって長期連休らしい。
我が輩の主もその例に漏れず……休みの対象なのだが――
本来なら、健康でさえあれば、笑顔を浮かべて友達と外を走り回っていたであろう主。
「ご臨終です」
その日、体中に取り付けられた楔――ケーブルが、取り外されていく。
泣き叫び、崩れ落ちる母親。その母親を支える父親。
我が輩の主、日向耀が亡くなったのだ。
来るべき終わりが、とうとう訪れたのだ。
それは、とても悲しい日。
それでも、我が輩は主の顔を見て、安堵する。
一人は寂しいと呟いていた主が、死の間際まで苦しそうな顔を浮かべていた主が、一人で逝ったというのに……笑顔を浮かべているように見えて、それだけが救いだった。最後に思いを、少しでも叶える事が出来たのだろうか?
主の母親に紙袋に入れられる――物置にでもしまわれてしまうのだろうか?
それも、悪くない選択だろうと、我が輩は思った。
我が輩は犬のぬいぐるみ。
今までの主は賑やかすぎた。しばらくの間は、静かに過ごすのも一興だろう。
新たなる主が出来るまでの間、我が輩はしばしの眠りに付く事を決めるのだった。