暑い。暑い暑い暑い。暑いったら、暑い。
窓の外、空に浮かぶ太陽を睨み付ける。地上を紫外線で汚染する親玉は、今日も空の彼方で優雅に飛行中だ。
「ううっ……あぢい……」
僕、式見蛍は、アパートの自室でへばっていた。
昨今の日本は異常気象で、本格的な夏に入る前だというのに滅茶苦茶暑かった。熱せられたアスファルトの上に生卵を落とせば、目玉焼きなんて簡単にできてしまうんじゃないだろうか、とさえ思う。卵が勿体ないから試そうとも思わないけれど。
万年貧乏……特にユウと同居し始めてから金欠状態を常に維持である式見家に、エアコンなんて文明品がある筈もなく――去年まで最前線で頑張ってくれていた扇風機の『ぷー太郎』も、寝相が悪いユウの蹴りによって、短い生涯を遂げてしまったのだから、大変だ。
式見家を涼しくしてくれる相棒がいなくなってしまった。その上、ぷー太郎を抹殺された翌日である今日に限って、一気に気温は灼熱地獄へ転化。
「ううっ、ごめんね、ケイ。私、耐えられないよぉ~」
ぷー太郎を抹殺した同居人である幽霊のユウは、暑さに耐えかねて離脱――僕の持つ霊体物質化能力の範囲から出てしまえば、幽霊に戻り、暑さを感じなくなるからだろう。外に遊びに行ってしまった。
「……ぐふぅ」
四肢を投げ出した形で、畳の上に横たわる。
何もしていないというのに、身体から汗がダラダラと流れ出る。
やばい。このままでは、死ぬ。脱水症状で、死ぬ。暑すぎて、死ぬ。
身の危険を感じた僕は意を決して、タンスの一番上の引き出しを開き、中から封筒を取り出す。我が式見家の生活費だ。その中から福沢諭吉さんを取りだして、薄っぺらい財布にしまった。予定外の出費だが、止むえまい。扇風機を新調しよう。
何処の電気屋に行こうかと考え、今日のヤマハ電気の広告に、50%OFF、1980円のお買い得品商品が載っていたのを思い出す。
「むむぅ」
一番の難点は、それがお持ち帰り限定で、ヤマハ電気がちょっと遠い事だろうか。
それでも、現状を打開する為には、男には、旅に出なくてはならない時がある。
妙な決意をして、外行きの服に着替えて玄関を開け――
「……」
外に出ることなく、そのまま無言でドアを閉じる。
ドアを開けた瞬間――これは駄目だと判断したのだ。
むわっとした熱気が、室内にまで入り込んでくる。エアコンなる文明品を使っていないというのに、外と室内での気温差は大きく違っていた。
外はサウナだ。熱帯地獄。アパートの窓から見える前の道には、人っ子一人歩いていない。
扇風機はすこぶる欲しいが、外に出て行く気には到底なれなかった。
ヤマハ電気に辿り着く前に、脱水症状を起こして死にそうだ。
だるぃ。何もやる気が起きない。暑すぎて人類が滅びてしまうんじゃないだろうかと本気で疑いたくなる。
人類の前に、式見家が大変な事になりそうだけど。
「お~い、後輩。居るなら開けてくれ」
ドアをノックする音と共に、先輩の声が聞こえてくる。
並の人間であればノックアウトしてしまうような暑さでも、大胆不敵、勝利は私の為にある――なんて言い切っちゃいそうな先輩には、大した効果はないようだ。
ドアを開けると、先輩、真儀瑠紗鳥は巨大な段ボールを抱えていた。
「先輩、それ、何なんです?」
「これか? 扇風機に決まっておろう」
「なんでピンポイントで、僕の欲しているものが分かるんですかねぇ」
「愛の力という奴だな」
「はいはい、そうですか。ここだと暑いんで、ひとまず中にどうぞ」
先輩と扇風機が家の中に入ったところで、すかさずドアを閉める。これ以上熱気を室内に潜入させたくなかったからだ。
「むぅ、後輩の反応が冷たい。世は下克上という事か」
「暑すぎて、先輩に構っている余裕がないんですよ。それで、本当のところはどうなんです?」
「実は、巫女娘から電話があってな。何でも、浮遊霊のユウがやってきて、後輩の扇風機を破壊してしまった為、式見家が灼熱地獄になっているというではないか。幸いにも私の家の近くにあるヤマハ電気の広告に、扇風機の事が載っていたのを思い出してな。わざわざ買ってきてやったのだ」
「うわぁい……僕、喉から手が出るぐらい欲しいですけど、いらないですよ」
矛盾しているけど、そう言うしかない。
「私は後輩の為に買ってきたのだぞ。その善意を無下にする気か」
いや、だって……ねぇ?
「先輩の善意ほど、信じられるものはないと言うか」
素直に受け取ると、後が怖いのだ。
「後輩に私の純情を汚されたっ!」
「僕の部屋で変な事を言わないでくれると助かるんですけどねぇ」
壁が薄いものだから、隣人に声が漏れる可能性がある。
「この女殺しっ! 後輩はいずれ、近隣の男性、もしくはクラスメイト、あるいは帰宅部の人間に刺される可能性が高いと私は思うぞ」
「よく分からないけど、説得力だけは妙にある気がする」
「陽慈の純情を弄んだ罪で、陽慈に刺される可能性も否めないな」
「刺されてばっかりですよねぇ、僕!」
「あるいは、レモン飴を喉に詰まらせて死ぬとか」
「凄い情けない死に方だっ!」
「しかも、一番確率が高い死に方は、レモン飴と見た」
「犯人は綾確定!?」
「愚かな、悪の元凶は、私に決まっておろう」
「元凶が事件を起こす前に、自白したぁぁぁぁ!」
「兎も角、受け取っておけ。後輩に熱射病で死なれては、私としても遊び道具がなくなって困るのだ」
「そう簡単に死にませんよ。死にてぇ気持ちはありますけど、僕は生きようって決めたんですから」
自分の意志があって自殺するならまだしも、世界の意思になんて負けてたまるか。
「ふふ、それでこそ後輩だ。だが、後輩を殺すのは私だぞ」
「予告殺人!?」
「被害者である後輩は、女装姿で殺されるのだ」
「そんな恰好で、死んでたまるかぁ!」
「しかもゴスロリ。超絶美少女だ。警察に発見される前に変態に見つかり、ホルマリン漬けにされる。かくして女装姿の後輩は、変態が死ぬまで長年保存される事になる」
「物凄く嫌なんですけどねぇ、それ!」
「くっくっく……冗談だから、安心しろ」
「冗談にしても、質が悪いですよ」
「後輩よ、私は断言してやる。お前は私の遊び道具だ。これだけは嘘じゃない」
「全然嬉しくないんですけどねぇ!」
「落ち着け……つまり、玩具であるお前は、私を楽しませる必要がある。だから、自殺はさせない。殺されたりもさせない。絶対に私が守ってやるから安心しておけ。この、真儀瑠紗鳥に不可能はないのだからな。はっはっはー!」
先輩なら、どんな敵でも追い返してしまいそうな気がする。
「まあ、先輩がどうしてもって言うんなら、使いますけど」
段ボールの箱から取り出し、早速扇風機を設置する。
扇風機から送られてくる風は涼しいはずなのに、何故か、心が温かくなる気がした。
「そうそう、配達料は一京円だからな。全額返済するまで、離れるんじゃないぞ、後輩」
「暴利ですよ、それっ!」
「良いではないか。後輩は真面目だから、借金は返済しようとするだろう。つまり、こうすれば、いつまでも一緒に居られる訳だ」
「先輩、僕そんなに僕と一緒に居たいんですか?」
仕返しとばかりに言ってやる。
「さあ、どうだろうな。答えは、ひぐらしだけが知っていると思うぞ」
本当に、誤魔化すのだけは上手かった。
でも、僕の気持ちも、実は先輩と一緒で。
いつまでもこの人と一緒に居られれば良いなと思っていたから――
「借金返済、頑張るとしますよ」
なんて、笑いながら言ったんだ。
でも、現実はガラス細工のようだった。
――タナトス、日向耀――
壊れる日常。
世界から淘汰される僕。
「まさか、殺される事になろうとは……」
意識がはっきりしてみれば、僕は幽霊だった。
そこは見知らぬ屋敷で、目の前には深螺さんが居て――
「式見蛍、申し訳ありません。どうやら、タナトスに裏を掻かれたようで……」
状況を説明してくれる深螺さん。
その説明で、僕は耀に刺されて殺された事を理解する。その一方で、脳裏に過ぎるのは先輩の事だった。
「気にしないで、深螺さん」
誰かが悪いわけではない。誰もが幸せになろうと、躍起になっていただけの事。
僕を刺した耀だって……一人で逝きたくなかっただけなんだから。
勿論、殺された事に対しては、相応の怒りはある。殺されて平気だなんていえるほど、僕はおかしな奴じゃない。
泣きたくなる。いきなり殺されるという不条理に、全てを憎みたくなる。
それでも……それでも――僕は笑うんだ。
「人間なんて、いつかは死んじゃうものなんだから、それが少し早くなっただけだよ」
誰かを憎んだって、良い事なんて一つもない事を知っているから。
憎しみは憎しみを生み、悲しみを生み出す事しかできないのを分かっているから。
『悪を憎んで人を憎まず』――本当に、よく出来た言葉だと思う。
「式見蛍は強いですね。それで、これからどうするつもりです? 打倒、タナトスですか?」
「まずは、タナトスが動くまで身を隠して、タナトスの目的を探る。その後、動き出したタナトスに対処出来る手段が思い付いたら、帰宅部のみんなに顔を出して……」
犠牲の上で成り立つ平和なんて、平和じゃない。
屍の上に気付かれる王国に、価値なんて無い。
「どんな理由があるかは知らないけど、最後には、タナトスだって救ってみせるさ」
それが、理想に過ぎないのは分かっている。
でも、理想を追いかけるのを止めてしまったら、そこで何もかも止まってしまうのだ。
「本当にお人好しですね、式見蛍は。それで、身を隠す場所に宛はあるのですか?」
「むぅ、そこまでは考えてなかった」
「ならば、ここなら安心です。神無家なら、結界が張ってありますから」
人の心は移りゆくものだから、僕にとっての一番大切な人は、今は先輩じゃない。
それでも、一番の心残りは、僕を守ると言って、守る事が出来なかった先輩だ。
普段は抜けてるけど、意外に芯が強い鈴音と違って……
表面では強がりばかり言うけれど、あの人は心が弱いのを僕は知っているから。
すぐに来るであろう時――
『大切だった』人の元へ、一番最初に駆けつけよう。少しでも、先輩の、真儀瑠の心が砕けてしまわないうちに。全てが手遅れになる前に。
「部屋に案内しますよ、式見蛍」
「今、行きます」
みんなのところへ、今すぐにでも駆けつけたい気持ちを抑え込み――来るべき時に備えて、耐えるとしよう。
それが、僕、式見蛍に出来る最善の手なのだから――