目が覚めると、そこは見知らぬ所であった。
少なくとも、彼に見覚えはとんとない。まったく知らぬ風景であり、判然としない景色であった。ただ、そこがどこであるか分からずとも、何であるかはよく分かった。
彼の眼前には青い青い空と、碧い碧い海が広がっていた。
夢であろうか。
彼はそんな風に思った。しかし頬を撫でる潮風も、燦々と輝く太陽の温もりも、それが夢ではないと彼に告げている。
では夢ではないのだろう。しかしそうなれば彼にはとんと理解不能であった。
彼は普通の大学生であった。バイトで疲れ、学生寮の狭く汚い、自身の一室でパソコンで遊び、それを終えると軽く夜食を摂って就寝した。
どこにでもいる大学生だ。
であるから、彼には現状が分からない。
彼の今までの人生で、夜に寝て朝目が覚めると見知らぬ場所であった、等という経験は幼稚園の時の急な父方の実家への帰省以外は無かった。
子供というのは眠りが深いもので、車に運ばれて実家までの道、一切目を覚まさず、気付いたら祖父と祖母が自身の顔を覗き込んでいたものだから、彼は当時相当に驚いたものである。
歳をとった身でまさか幼少の頃と同じであるとは、と思いながらも、ならば今回もそうなのか、と彼は縋る様に周囲を見回した。
祖父や祖母の姿はどこにもなく、運んだであろう家族の姿もどこにもない。
在るのは小さな倉庫と灯台らしき物、居るのは彼と空のカモメくらいだ。
納得がいかぬ、と彼はその場を検めた。長い長い時間をかけて、周囲を確かめた。
その上で分かった事と言えば、やはり見覚えなどない、ここがどこかの港であるらしいという事だけであった。たったそれだけを知るために、彼は相当の時間と体力を浪費した。
いや、決して浪費ではなかったが、常ならばもっと早く済んだはずだと彼は思ったのだから浪費であった。第三者が見れば、それは浪費でもなんでもなかったと見たであろうが、何も知らぬ彼にはその様にしかとれなかったのだ。
どうしてこうも疲れるのか。
青い空と、空飛ぶカモメ、ただただ輝く太陽と流れ行く雲を、彼は仰向けになって荒く息をしながら眺めた。分からない、という事が嫌でも理解出来てしまった彼は、はき捨てるように一度大きく息を吐いて強く目を閉じた。
このまま寝てしまえば、また常の自身の汚くも狭い一室に戻れるのだと信じ、願って。
だが、彼の意識は思いに反して眠りに落ちることはなかった。むしろ常より鋭敏に、鋭く細くなっていた。僅かの風でも大きくぶれてしまうような、そんな様であった。
だからであろうか。
遠くから聞こえる風の音や、カモメの鳴き声、波の音に混じって聞こえてきた些細な、小さな音に彼は肩を震わせた。
波を切る、ただそれだけの音である。それは恐らく船であろう。そんな音が複数耳に届き、しかもそれは徐々に彼の居る港に近づいてきている。
彼は閉じていた目を開き、身を起こして海を見た。彼の瞳に映ったのは、六つの黒い影であった。それがなんであるのか、彼は目を細めて食い入る様に見つめ、見つめ続け、やがて細めていた目を大きく見開いた。
馬鹿馬鹿しかった。あるべき景色ではなかった。目にするはずが無い光景であった。
彼にとっては、そうであった。
だが、海からやってきて、港へと上がってきたそれらにはただただ常の景色で、光景に過ぎない。
故に、それは――彼女達は彼に声をかけた。
「あれ、妖精さん何してるっぽい?」
小さな小さな、そのどこか呆然とした妖精を見下ろして。
彼がゲーム画面越しに良く知る、白露型駆逐艦夕立は首を傾げたのだ。
暗い昏いその一室で、彼は一人電探を磨いてた。出来うる限り、丁寧に、優しく。
見覚えのあるそれを、彼は体を大きく動かして磨いていく。妖精の体は小さく、まるで洗車の様だと彼は小さく息をはいた。
電探――恐らく、彼の記憶どおりなら某軽巡艦娘を改造すると取得出来る物である。それを磨き終えると、彼はゆっくりと暗い周囲を見回した。
そこには、棚があり、少々乱雑に機銃や副砲、主砲、魚雷や艦載機が置かれていた。
規則性は無い。ただ棚に並べられているのだ。少しばかりの埃を被って。
なんて自分にお誂え向けの場所なのだろう、と彼は自嘲に相を歪めた。
彼は妖精であった。大学生であった筈なのに、妖精になってしまっていた。
あの日、彼から見て大きな艦娘達に、ひょいと掴まれて妖精達がいる鎮守府の工廠にまで運ばれた。
呆然とする彼に、艦娘達は手を振って去っていき、そして工廠にいた妖精達は新入りに興味津々と群がった。
彼と妖精達のファーストコンタクトは、静かな物であった。当然である。彼は何か言おうと口を開いたが、その口は口の用を成さなかった。声は出ず、音一つ零れはしない。そしてそれは、彼の周囲に居る妖精達もまた同じであった。
彼女達は何も言わず、ただ彼の背を叩き、或いは握手し、或いは頭を撫で、新入りを歓迎したのだ。
急な新入りであったが、誰もが彼を受け入れた。妖精という存在はどこからともなく現われ、艦娘達、そして提督達をサポートする者であるから、彼一人の出現など誰も気に留めなかったのだ。
彼の歓迎の為だろう。その夜は妖精達が彼の為に宴会を催した。妖精サイズの食器に、妖精サイズの料理が所狭しと並び、皆楽しそうに笑みを浮かべていた。
それらはすべて、彼の知る妖精達であった。機銃、魚雷、主砲、電探――様々な妖精達に囲まれて、彼はなんとも言えぬ貌で佇み。やがて一つ、料理を口に運んだ。
ただただ、笑みが零れた。美味であったのだ。
そんな彼の様子に、隣に居る大淀似の妖精が微笑んでいた。
堪らなく美味で、堪らなく愛らしかった事を、彼はまだ忘れていない。
普通の大学生である。彼は普通の大学生である。
殊更薄情ではないが、殊更親切でもない。人並みでしかない。それでも、彼が受けた恩は大きすぎた。そして妖精であるならすべき事がある事も彼はよく理解していた。
意味も分からぬゲーム世界への転移であるが、意味も分からぬ妖精への変化であるが、生きていく上では理解するしかない。
過日まで当然と在った日々に未練が無い訳でもない。だが、夜に眠り、朝起きてもどうにもならぬ日々が続けば、彼はその身に在るここでの意味を探したくもなるのだ。
彼は大学生であったが妖精である。ここでは妖精である。
彼が知るこの世界での妖精の役割は、作品によって少々違いもあるだろうが、やはり何よりも艦娘達のサポートだ。
艦載機ならばパイロットとなり、電探ならばそれを扱い、機銃や主砲であればそれを整備し、工廠となればそれを生み出す。
彼は妖精として妖精らしく妖精の役割を果たそうとした。
何かと彼に良くしてくれる妖精達に頭を下げ、身振り手振りで仕事を教わり、身を粉にして働いた。小さな体を闇雲に動かして、動かし続けて、周りの妖精達が心配するほど働き続けて――
何一つまともに出来なかった。
何一つ、だ。
妖精でありながら、しかし彼は妖精ではなかった。外貌だけだ。中身はただの大学生だったのだ。艦隊これくしょんというゲームを、高校卒業後にやっとだと喜んで始め、他には目もくれず遊び倒しただけの大学生でしかない。
それは妖精ではないのだ。
だから、彼には何一つ出来なかった。
肩を落とし、彼はただ港から出発し、帰ってくる艦娘を遠くから見るだけの小さな生き物になっていた。大抵ぼろぼろになって戻ってくる艦娘達の姿に、どうしようもない憤りを感じて、それを何一つ発露できぬちっぽけな生き物として、そこに在るだけのモノであった。
艦娘達はそんな彼を知らない。妖精達はそんな彼を見ていた。
誰一人、彼女達は彼を排斥しようとはしなかった。何も出来ぬ彼を、彼女達は心配そうに眺めて、時に身振り手振りで慰めようとさえした。
それがまた彼を惨めにするなどと、純粋な彼女達には分からぬことだったのだろう。
20年近くも生きれば、それなりに自尊心がある物だ。彼は普通の大学生であったから、当然それなりの自尊心があった。傷つけられた訳でもない、踏み躙られた訳でもない、優しい手つきで傷口を癒そうとする小さな手に抉られた矜持は、彼自身どうにも出来ぬ深い傷を負って長い時間彼を苦しめた。
いつ頃からか、彼は彼女達と明確に距離を取り始めた。
食事も一人、休憩も一人、仕事も一人。それは彼女達の優しさに返す物が無いととった距離ではない。惨めであるから離れた、それだけだ。
それが彼女達を傷つける等とは彼は思いもしなかった。妖精達は純粋に過ぎ、彼は無知に過ぎた。小さな彼と彼女達は、どこかが大きく欠けていたのかも知れない。
そんな日々が続いた。
彼はその日々の中で廃棄待ちの備品が置かれる倉庫を見つけ、そこで備品を整備し始めた。整備と言っても、彼は簡単な修理さえ出来ない。出来ることと言えば、表面を綺麗に磨く程度だ。廃棄待ちの備品を磨く事に意味があるのか、とは彼は考えなかった。
そこにある備品と自身にどれ程に違いがあるのか、とだけ考えた。ならばせめて、せめて最後まで綺麗であれば良いじゃないか、と磨き始めただけの事である。
ゲーム上であれほど愛した艦娘達の役にも立てず、愛らしい妖精達から心配される自身に、彼は自身の意味はなんであるのかと涙を堪えた。
生まれた事に意味がある、そう思えるほどに彼は主人公ではない。大学生にもなれば、自分は唯の人間だと理解も出来た。
ただ、ここにこうして居る以上は、何かあるのではないかと信じたいのだ、彼は。
そうでなければ、在りし日の世界を求めて止まなくなってしまうからだ。少なくとも、彼はそこでは普通であった。役割がないという事は、無かったのだから。
灯の明かりなど殆ど無い暗い倉庫に相応しい、暗い思いに囚われながら、彼は磨き終えた電探を棚に戻そうとした。その時、彼の耳を小さな音が侵した。
何事か、と彼が音のした方向――開かれた出入り口を見ると、そこに弁当箱が一つ置かれていた。
小さな弁当箱に歩み寄り、彼はそっと外を見た。
彼の目に映ったのは、港の灯火に照らされた小さな背後であった。
小さく息を吐いて、彼はその妖精が置いていったであろう弁当箱を手にとり、今しがた目にした背と、その長い深緑の髪に、距離を取りがちな今でも、よく目が合う大淀似の妖精の姿を脳裏に思い浮かべた。
最初に見た笑みも、最近の心配げな相も、彼はよく覚えている。彼女が受け持つ艦隊司令部施設に案内された時の、どこか嬉しそうな顔も、だ。
――あぁ、どうして自分は。
「あぁ、どうして自分は」
彼は目を見開いた。
声がした。確かに、声がしたのだ。自身の考えと全く同じ文句の、同じ暗さを伴った声が。彼は喉に手を当てて口を動かす。しかしそこから漏れる音は何一つない。
空耳であったのか、と肩を落とす彼の耳に、再び声が聞こえた。
「どうして自分はこんなにも無能なのだろう……」
知らぬ声であった。彼の知らぬ声であった。少なくとも、ゲーム上で聞いた声ではなかった。
彼は小さな弁当箱を押し抱いたまま倉庫から再び顔を出し、その声の主を探した。間もなく、その主は見つかった。
倉庫の入り口から少しばかり離れたところに、白い軍服を着た人影がいつの間にか座り込んでいたのだ。妖精の些細な行動には気付きながら、人間の行動にはまったく気付けなかった自身を恥じながら、彼はその人影を注視した。
人影は彼が見ているとも知らず、被っていた帽子を放り投げて俯き、乱暴に頭をかき乱しながら続けた。
「なんで、皆に助けてもらっているのに、こうも上手く行かないんだ……」
それはきっと、彼にとっての鏡であった。
「同期はもう新しい海域だっていうのに、皆に負担ばっかりかけてるじゃないか……!」
優秀な周囲。無能な自身。
「くそ……畜生……頼む、お願いだ……」
嗚咽。懇願。
「誰か、僕らを助けてくれ……」
だから彼は、そのうな垂れる人影の頭を思いっきり殴った。
ぼやける視界の中で、呆然と貌をあげる鼻水を流した若い男の姿をみながら、自身もまた泣いているのだと彼は思った。
さて、恐らくどうでもいい話であろうが、それからの日々を語ろう。
着任以来まったく活躍の無かった新人提督が、それなりに活躍をはじめ、艦娘達がぼろぼろになって戻ってくる事も少なくなり、工廠や倉庫で笑う妖精達がいた。
後、海軍でも名を知られるようになったその鎮守府の提督はこう語った。
「自分はただ、妖精に助けられただけなんだ。自分が何かをやったとは思っていない」
後、多くの妖精達に囲まれ、大淀似の妖精が一際嬉しそうに微笑む中で、ある妖精は思った。
「自分はただ、提督に助けられただけなんだ。自分が何かをやったとは思っていない」
提督の為の妖精であり、妖精の為の提督であった。
ちなみに、他の妖精さん達は彼女で、彼は彼。
後は……わかるな?