八月に入って十日になるころ、ホグワーツから手紙が届いた。今年用意すべきもの――教科書のリストを見る。実際に見て参考書も探すことを考えれば直接書店に行ったほうが良い。やはりダイアゴン横丁のあそこだろうか。
叔父に会いに行こうと準備を始めた手はすぐに止まった。
のそのそと部屋から母のレティシャが出てきたからだ。
弦の母であるレティシャは金髪に青紫色の目をした美しい女性だ。目の下にはっきりとした重たい隈があるし、目は剣呑な光をしているところがもともとの美しさと相まって不気味ではあったが、それでも母は人の視線を集めるだろう。弦の顔立ちは母親譲りで、いつもかけている大きな黒縁眼鏡がなければ母のように視線を集めることになる。
レティシャは弦を認めると、無感動に言った。
「ダイアゴン横丁へ行くわ。あなたも行くの?」
「え、あ、うん。教科書買わないといけないから……」
「そう。すぐに準備しなさい。姿現しで行くわ」
「わかった」
弦はすぐに頷いた。母と会話が成立するなんていつぶりだろう。そして母が家の外に出るのはいつぶりだろう。
部屋に駆け込むと弦はマグルと魔法界とわけて使っている財布を二つとも魔法がかかった鞄に突っ込む。それから薄手の長そでの上着も入れ部屋を飛び出した。階段を駆け下り、叔父にメモ書きのような伝言を送って母の傍による。
「手」
「うん」
ずいっと差し出された手をしっかりと握り、弦は初めて母に付き添い姿現しをしてもらった。冷たいこの手に触れたのはいつぶりだろうか。
ダイアゴン横丁の端の方につくと母は「買い物終わったら“漏れ鍋”で待ってなさい」と言いおいてさっさと行ってしまった。
弦は当然置いて行かれることは予測していたので(しかし帰りのことまで言ってくるとは思わなかった)、まずはグリンゴッツで教科書代をおろそうと銀行に向かう。
その入り口でハーマイオニーとその両親に会ったのは偶然の出来事だった。
「ユヅル! 久しぶりね」
「やあ。ハーマイオニー」
ハーマイオニーはにこにこと弦のことを両親に紹介し、弦にも自分の両親を紹介した。歯科医らしい。
弦は丁寧な態度で名乗った後、彼女達とわかれた。金庫に案内する小鬼【ゴブリン】が現れたためだ。彼らは仕事の邪魔をするのを嫌うから、きびきびと動くのがいい。
教科書代とこれから一年分のお金を袋にわけてつめる。素早く作業を終えた弦はそれをいれた鞄をしっかりと持ったまま行きと同じようにびゅんびゅん飛ぶように走るトロッコに乗って地上に戻った。
ハーマイオニーたちはまだ銀行にいた。どうやらマグルのお金を魔法界の通貨に変える手続きが終わっていないらしい。
弦は一声かけてから買い出しに繰り出した。弦の性格をすでに知っているハーマイオニーは快く送り出してくれ、時間があったらアイスでも食べましょうと言ってくれた。アイスと言えばフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラーだ。あそこのアイスはとにかく種類が豊富で弦が好む味もある。
制服は去年少し大きめの物を買っていたので買い直す必要はなかった。羽ペンや羊皮紙、インク瓶をそろえ魔法薬学の材料も必要な分と自分の練習用にまとめ買いした。薬問屋に長くいたからか随分と時間が経っていて、母はもう用事を済ませてしまっているかもしれないと慌てて教科書を買いに行く。
フローリシュ・アンド・ブロッツ書店はすごい人だかりだった。御婦人方がなにやら色めきだった様子で入り口らへんから人垣を作り、背伸びをして中を覗きこもうとしている。去年とは違うその光景に弦は驚き、何かイベント事だろうかと観察した。
どうやら何某さんのサイン会らしい。弦が知らない作家さんだった。そんなにすごい人なのだろうか。どうでもいいけど早く終わってくれと思いながら少し離れたところで人が少なくなるのを待った。
看板にのせられていた名前は教科書リストに無駄に多く並んでいた名前だ。新しい防衛術の教師はその人のファンか、その人自身だろう。後者の場合、教科書として自分の本を買わせるなんてろくな人柄ではないと思う。
しばらくして喧騒の具合が変わった。色めきの声が悲鳴に変わり、問題が起きたようだと推測する。弦は一人、母はもうすでに“漏れ鍋”にいるかもしれないと焦っていた。置いて帰られると非常に困る。その場合は叔父に連絡をとってアクロイド邸に行けばいいのだけれど、叔父たちに迷惑をかけたくなかった。
喧騒が大きくなる。何かが落ちる音が続けて聞こえてきた。誰か暴れているのだろうか。
そんなことを考えていた弦の視界に突然何かが割って入った。その背中は見覚えのありすぎるもので、弦は眼を見開いた。
ハリーたちは書店の人だかりの中にいた。ギルデロイ・ロックハートという無駄に笑顔を振りまく男のサイン会というイベントの真っただ中で、ハリーは無理やり彼との写真を撮られて少々気分が落ちていた。そこへ宿敵のマルフォイと顔を合わせ厭味を言われればさらに気分は落ちていく。
けれども予想外だったのはウィーズリー氏とマルフォイの父であるルシウス・マルフォイ氏が殴り合いを始めてしまったことだ。
そしてさらに予想外だったのはそこに乱入者が現れたことだ。
その女性ははっとするほど綺麗な顔立ちだった。さらりとした金髪に青紫色の瞳。寝不足なのか目の下には隈があり、顔色は悪かったがそれでも眼を惹く美人顔だった。
その人は颯爽と現れるとその足でマルフォイ氏を蹴り飛ばした。あまりの出来事にウィーズリー氏も目を丸くし、そして女性を見て声をあげる。
「レティシャ!?」
その名前にハリーたちは聞き覚えがありすぎた。彼女が弦の母親なのかとハリーは女性を凝視してしまう。
レティシャと呼ばれた女性はマルフォイ氏を冷たく見下ろしていた。
「私の視界に欠片でも入るなと言った気がするけれど、お忘れかしら?」
その声は冷たく、またナイフのように鋭かった。
マルフォイ氏ははっきりとわかるくらいに顔を青ざめている。
「二度と私にその存在を認識させるなと言った覚えがあるのよ、私は。損得勘定はできるのに昔のことは忘れてしまうなんて、私にすごく失礼だとは思わない?」
「れ、レティシャ……」
「私は名前も呼ばれたくないとはっきり言ったわ」
レティシャがもう一度マルフォイ氏を蹴ろうと足を動かした時、彼女の身体に飛びついたのは子供だった。
「母さん!」
弦は今までにないくらいに焦っていた。母が目の前を横切ったかと思ったら騒動の中に自ら分け入ったのだ。母が通ったそこは一本の道となり弦の視界を遮ることはなかった。
レティシャは喧嘩をしていたらしい二人の男性の内、金髪のほうを蹴り飛ばした。その時点で弦の挙動は完全に止まった。あまりの出来事に思考が追いつかなかったのだ。
彼女が二撃目を繰り出そうとしたときにようやく我に返り、弦は走り出した。その勢いのまま母に飛びつき言い募る。
「母さん! 人様を蹴り飛ばすなんて!」
「邪魔よ」
レティシャは自分とマルフォイ氏の間に身体を割り込ませてきた娘を無感動に見降しそう言った。しかし弦は怯まない。
「お願いだから落ち着いて! たくさんの人に迷惑がかかるんだから!」
「離しなさい!」
弦の右頬をレティシャの拳が横殴りに打った。その衝撃に弦は地面に転がり痛みに呻く。眼鏡はどこかへ飛ばされてしまったし、痛みに頬を押さえて弦はしばし顔をあげられなかった。
「ユヅル!」
そんな弦に駆け寄ってきたのはハリーとロン、ハーマイオニー、そしてここにはいないはずの叔父・コンラッドだった。コンラッドは弦のすぐそばに膝をつき、抱きかかえてレティシャを睨みつける。
「レティシャ! ユヅルを殴るなんて、よくもそんな酷いことを! ユヅルが君に何をしたっていうんだ!」
「うるさい!」
「貴方って人は……! この子がどんなに君のことを、」
コンラッドの言葉の途中でレティシャはバチンと音をたててその場から姿をくらました。
「ああ、もう……ユヅル、大丈夫かい? ああ、こんなに腫らして……」
コンラッドの言う通り、弦の右頬は赤く腫れていた。痛々しい患部に触れることはせず、彼は弦を立たせた。その手で飛んでいってしまっていた眼鏡を拾いあげ傷を治し弦に手渡す。
「手当をしなければ……“漏れ鍋”に行こう」
「はい…」
口を動かすだけで痛む患部に弦は溜息を吐きたくなった。母に手を出されたのは初めてのことだったし、置いて帰られたことも堪えた。最悪の日だと顔を俯ける。
コンラッドはマルフォイ氏に一言「身内がすまない」と詫びると弦の手を引いた。ハリーたちもそのあとに続き全員が“漏れ鍋”に入って店の一角に座った。
弦は鞄の中に入れていたお手製救急箱から塗り薬と清潔な布きれを取り出すと、布に薬を塗ってそれをそのまま頬に張った。湿布だ。
痛むので眼鏡はかけられない。去年のクリスマスにハリーがくれたケースの中におさめて救急箱とともに鞄の中にいれる。
「口の中は切ってないね」
「大丈夫」
「うん、良かった……まったく、レティシャは……」
深く重い溜息を吐いたコンラッドに、弦は顔を俯けた。きっと弦が家を出る前に連絡を入れたから気にしてきてくれたのだろう。それなのにひと騒動を起こしてしまったことが申し訳なかった。
「ユヅル、大丈夫?」
ハーマイオニーが気遣わしげにそう心配してくれるので、余計に弦は気落ちした。弦が家族の話題を避けたのは母のことをどう話せばいいのかわからなかったからだ。今回のことでレティシャをどう思うか、想像に難くない。
弦は緩く首を左右に振って大丈夫だと示した。
「アーサーたちにも恥ずかしいところを見せてしまって……」
「いや、そもそもあんな往来で騒ぎを起こした私達が悪いんだ」
ウィーズリー氏の言葉に、まったくですと言わんばかりにウィーズリー夫人が頷くのでコンラッドは苦笑した。
「アーサーとルシウスの仲が険悪なのは今に始まったことじゃないが、あまり騒ぎは起こすものじゃない。あそこには新聞記者もいたようだし」
「ああ、全くその通りだ……そういえばコンラッド。君はフランスにいると私は思っていたんだが…」
「ああ、いつもはね。ただ今日は珍しくレティシャが外に出るってユヅルから連絡がきたから心配になってきたんだよ」
「……すみません」
「ああ、ユヅル。君が気に病むことはないんだ。すまない」
コンラッドは心底すまなそうに眉をよせると弦の頭を撫でた。肩につくくらいになった髪がさらさらと揺れる。
「ユヅル、今日は私達のところにきたほうがいい」
「ううん、大丈夫。やることもあるし……」
明日から一週間家を空けるのだ。
「母さん、ああなったらしばらく閉じこもるから、食事のこと、お願いします」
「ああ、わかっている……君がイツキに似てくれて良かったと思わない日はないよ」
父が死んで弦に見向きもしなくなったことに心を痛めたのは祖母だけじゃない。コンラッドだってヴェネッサだって、そして当時すでに隠居生活を送っていたアクロイド家の先代ご当主夫妻だってそうだ。夫妻はすでに絵画の住人となってしまったが、今でも弦が姿を見せれば優しく気にかけてくれていた。
父親譲りの黒髪に、黒色の左目。そして彼から受け継いだ武術と推理力。弦が父からもらったものは数多くあり、それらすべてが弦をレティシャのようにならせなかった要因だ。
いくらレティシャに似た外見を持とうと、彼女譲りの魔法薬学の才覚を持とうと、弦は決してレティシャのようにはならない。そんな思いが心の奥底にあるということは、弦の中で母への想いは愛情と憎悪が入り混じっているのかもしれなかった。
弦の家庭の事情をハリーたちは訊かなかった。訊けなかったのかもしれない。弦も冷静で客観的な説明ができるとは思えなかったから避けた。
あの日からやはりレティシャは部屋に閉じこもって一歩も出なくなった。食事の世話にきたヴェネッサは部屋の前に置かれているテーブルに毎食栄養バランスの良い食事を置いた。全てとは言わないが食べてくれているのでそれを見て安心する日々が続いたそうだ。それは本家から帰宅した弦が交代してもそうだった。
ホグワーツに行く一日前になってもレティシャは顔を見せず、扉越しの弦の声にも応えてくれなかった。叔父はその姿にひどく怒っていたが弦の前では彼女だけのことを考えキングズ・クロス駅まで送ってくれた。入り口まででいいと見送りは断った。早くに来たため今なら彼の息子の見送りに間に合うだろう。
二か月前に見た赤い列車をちらりと見て弦は乗り込んだ。空いているコンパートメントに入り着替え、去年と同じように読書にはいる。
窓の外は少しずつ賑わいを見せていった。