デジモンアドベンチャー それぞれの物語(タケル編)   作:アキレス腱

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第1話 〜箱庭の少年〜

 

 

 

僕は、あの夏にたくさんのものを置き去りにしてきた。

 

 

 

 

もうずっと幼い頃から、それは心の中にしんしんと降り積もり、やがて塊となった。

置き去りの子供が膝を抱える。

大人であろうと足掻いた子供は、箱庭の平穏と普遍の絆を頑なに守ろうとした。

けれど、いつまでも“今のまま”であり続けることなどできはしない。

やがて変わっていく『仲間』、そして僕は世界の流れに身を投じる。

 

 

 

容赦なく降り注ぐ夏の日差しが、じりじりと地面を焼く。

校庭を取り囲むように植えられた桜の木は青々と葉を茂らせ、幾重にも伸びる枝に張り付いた蝉たちが、命の終わりに向かって鳴き続ける。

四角く切り取られた校舎の中、痛いほどの蝉の声に耳を傾けていた僕は、ふと隣に並ぶ気配に瞼を持ち上げた。

「今日も暑いね」

ふわりと紡がれた言葉、聞きなれた涼やかな声のもとを辿ると、やはりそこには彼女が立っていた。

肩まで伸びた茶色い髪はサイドを残して後方で結われ、流した前髪をすぐ下に並ぶ双眸と同じ色の赤いヘアピンが留めている。

涼やかな声を奏でた口もとには柔らかい笑みが浮かび、細い首が吸い込まれる生地の薄い夏用のセーラー服は、1年前初めて見た時よりも彼女の身体に馴染んで見えた。

色白のイメージだった小学時代と打って変わって、彼女の顔や制服から伸びる四肢は健康的な小麦色、とは言わないものの、インドアではないと分かる程度に日焼けをしていた。

その理由は中学入学と同時に、水泳部に入部するという誰もが意外と表した選択をしたからだ。

思った通りの人物を視界におさめ、僕はいつも通りの笑顔で答える。

「ホント、毎日暑くて嫌になっちゃうね」

「この暑いのに、私達のクラス次体育なの。屋内なのがせめてもの救いだけど」

「この炎天下で屋外なんて言ったら、ブーイングの嵐だろうからね」

「確かにそうかも」

二人で小さく笑いを零す、他愛もない会話。

「じゃあ、私そろそろ行くね」そう言って彼女は手を振って立ち去る。

すぐ脇を通り過ぎる時、微かにラベンダーの香りがした。

ほんの少し意外だと思い、僕は彼女の後ろ姿を目で追った。

水泳部での泳ぎこみのためか、心なしか引き締まった体はしなやかに映る。

凛としたその背には、もう以前のか弱い印象は重ならない。一緒にあの異世界を駆け抜けた時から、もう3年の月日が経ったのだと、改めて感じさせられる。

それでも、彼女を含めた『仲間』達との絆は健在であると確信していた。

そして、その絆は普遍であり、僕にとって絶大な安心感と安らぎを与えてくれるものであると信じていた。

いや、信じたかった。

世界を救うなどという大きすぎるスケールで、とても小学生ではあり得ない経験を経て、全てを乗り越えられる強さを手に入れたと、大切な『仲間』がいれば迷うことなど無いと、あまりに大きな勘違いをしていることに、この時の僕は微塵も気付いていなかった。

 

 

「で、相談って何だよ、賢」

放課後、僕の部屋にはかつて世界を救うために奔走した『仲間』である本宮大輔と一乗寺賢が訪れていた。

何でも賢が2人に相談があるというのだ。

中学の違う賢とは度々連絡を取り合ってはいるが、こんな風に相談を持ちかけられるのは初めてだった。

親友からの相談とあって大輔は意気込んでいるのか、言い出しにくそうにしている賢を正面に据えて直球の催促を繰り出した。

表情や態度からして言い難い内容であることは察しがつく上、賢の性格からして直球に直球で返すなんて真似はできないだろうと踏んだ僕は、「まあまあ、まずはお茶でも飲んで」なんて言いながら、冷えた烏龍茶の入ったグラスを勧める。

賢は歯切れの悪い返事をしながら烏龍茶を一口飲み込んで、大きな溜息を一つついた。

何やら深刻か、と思ったのは僕も大輔も一緒だったらしい。

大輔が真剣な面持ちで聞く姿勢に入るのが分かった。

僕も背筋を伸ばして少しばかり緊張を胸に賢の言葉を待つ。

30秒程の沈黙の後、賢は辿々しく話し始めた。

「あ、あの…2人は、その……女の子と、け、経験ってある…かな?」

「は?」

「いや、だから、その……キスの先、というか」

「キスの先!?」

最初こそ賢の言うことが分からずに首を傾げていた大輔が素っ頓狂な声を上げる横で、僕は「なるほど」と納得していた。

大輔の反応に、羞恥心を煽られた賢の顔が朱に染まる。

「賢、お前もしかして京とっ…〜っマジか!」

何やら予想が妄想と化して突き抜けた様子の大輔が雄叫びを上げると、賢が慌てて「ち、違うよ!まだしてない!」なんてプライベートを暴露する。

そう、賢は中学に上がって間もなく、同じ選ばれし子供の『仲間』である井ノ上京と付き合い始めた。

きっかけは京からのアプローチ。

人に好かれることに不慣れで、自分に自信が持てないでいた賢は、最初の内は向けられる好意に戸惑うことしかできなかったという。

しかし、惜しみない愛情と欲望に忠実なまでの京の純真さが、賢の心を捉えるのにさして時間はかからず、今ではすっかり尻に敷かれる形で彼氏という立場におさまっていた。

付き合い始めて1年、それなりの進展は期待されてしかるべきか。

男同士の話であれば高確率で話題に上がるものであり、思春期に差し掛かったことで変わりゆく心と身体に翻弄されながら、雑誌や先輩から見聞きした知識の使い所を妄想する日々を過ごすのは、男子の宿命とも言えた。

「まだってことは、もしかして未遂?」

「え、えっと…僕がというよりは、彼女が未遂?」

苦し紛れの笑顔が引き攣るのは、己の不甲斐なさに打ちひしがれてのことか。

賢の答えに粗方の事情を理解した僕は、敢えて直接的な質問を投げかけた。

「押し倒されたの?」

「はぁ!?京にか?」

大輔がすかさず反応するのと同時に、賢はバツが悪そうに目を伏せた。

「いや、押し倒されたっていうか、「何で1年も付き合ってるのに手を出してくれないのか」って叱られてしまって…」

「うん、それで?」

「それで、「賢がやらないなら私がやる」とか訳のわからないことを言い出して、服脱がされかけたんだけど…」

「で?で?」

言葉を進める度に賢が徐々にげっそりとしていくのが見て取れたが、先の展開が気になって仕方がないので、前のめりになる大輔を敢えて止めないでいた。

その時のことを克明に思い出しているのか、賢はどこか遠くを見るような目で続ける。

「いや、さすがに日曜日の真っ昼間から、しかも彼女の部屋でそんな行為に及ぶ度胸はありませんって弁解したら、今度は「賢の意気地なし」って泣かれてしまって…宥めようとしたらベルトに手を掛けられたので、慌てて京の両手を捕まえて止めたんだ、そしたら…」

「そしたら?」

状況的には制服を脱がされ掛け、ベルトまで外され掛けた半裸の賢が、泣き喚く京の両手を拘束している、という絵が僕と大輔の脳内に展開されている。

この絵が次にどう動くのか、大輔が期待の籠もった目で賢を見ると、それを受けた賢が渋い顔をした。

「京が今の大輔みたいな目をして僕を見てたんだよ、その思いっきり何かを期待する目!」

期待する何かが“ナニ”かなんて、言われなくても分かる。

だからといってできることとできないことがあるのだと、賢は思ったに違いない。

その後は、「できません」と「何で」の応酬が繰り返され、最後には怒り狂って手のつけられなくなった彼女から、自分の貞操を守りつつ部屋を脱出したという。

話し終えてぐったりしている賢の正面で、大輔が「何だよ、据え膳食わねーなんてよー」などと知った風な口を利いている。

優しいが故に、彼女を大切に想うが故に、賢が京と一定の距離を保っていたことを、僕はそれとなく聞いて知っていた。

しかし、それが京の不興を買うことになるなんて、賢も、僕だって思いもしなかった。

女心というのは難しいものだ。

賢だってそれなりに我慢していただろうに。

そう思うと、賢には同情を禁じ得ない。

可哀そうに、と内心で呟いて見せた。

この時の僕にとって、京が賢に求めざるおえなくなった理由も、賢の堅牢な理性が必死で抑え込んだであろう激しい性衝動もどこか他人事だった。

未経験であるが故の無知、未経験であるにも関わらず、耳年増、目年増であったために、それらを自分の中で処理することができると思い込んでいた。

京のように相手に押し付けることなど無いと、賢のように相手に応えられないなんて醜態を晒すことはないと、自分は少しばかり他人よりも冷静に物事を捉えられる大人であると思っていたから。

「ゴム買って出直せ!」などと短絡的な提案をする大輔に、「そんな簡単じゃないよ」と呆れる賢。

どう考えても早過ぎるとか、女の子にとっては大切だろうとか、少し優等生すぎる発言を繰り返していた賢が、やがて、女の子は初めてだと痛いって言うしとか、どうすれば満足してもらえるか分からないとか、こういうのは練習できないしとか、終いにはゴムの使い方がいまいち分からないと臆病風に吹かれ始めた頃、玄関から帰宅したのであろう母親の声が聞こえてきた。

さすがにこの話を大声でするわけにもいかず、ましてや親がいる空間での猥談は憚られたため、賢と大輔を送るとの名目で外に出た。

辺りはすっかり暗くなっていた。

マンションのエレベーターを降りると、1階には煌々と灯りを放つコンビニエンスストア。

それは、つい先ほどまで話題の中心だった京の親が経営している店でもある。

娘の京は時々両親を手伝って店番をしていることがある。

暗黙の了解のもと、コンビニの前を通る道を避けて迂回する道を選択した賢と大輔を見送った。

夜といえど、都会のしかも夏の夜は息苦しいような熱気が充満していた。

昼間に太陽の熱を蓄えたコンクリートから這い上がる熱気が足に纏わりつく。

夏休みも間近に迫る7月。

夏の暑さはこれからが本番だというのに、先が思いやられるなと溢した。

 

 

夏休み前日、終業式を終え、ガヤガヤと教室に雪崩れ込む生徒達。

バラバラと着席し、暑さに悪態をついて、小煩い担任からの話に耐え、礼を済ませると、途端に教室に開放感が広がった。

んーっと伸びを一つして、鞄を持って立ち上がると、狙い済ましたように数人の女生徒に取り囲まれた。

「あの、これからカラオケ行くんだけど、高石君も一緒に行かない?」

「いや、僕カラオケはちょっと…歌うの苦手なんだ」

「えー、じゃあボーリングだったらどう?」

「んー、ビリヤードだったら少しはできるんだけどねぇ。あ、でも僕、これからバスケ部の友達とご飯食べに行く予定があるんだった」

「えー!」

「ごめんね」

納得していない女生徒に笑顔で手を振り、教室を後にした。

集団は面倒、でも誰とも関わらないなんてことはできないし、したくない。

ただその対象は、自分にとって気の置ける『仲間』や、同じクラブで活動を共にする友人達に限定されていたが、一向に構わなかった。

部活の友人と合流し、帰り道にファストフード店で他愛のない会話をする。

明日からの夏休みは、週3回部活に通って、友人と遊んで、課題をこなして、8月1日になったら『仲間』とお台場に集って…この間から進展が無ければ、なんとなくぎくしゃくしているであろう賢と京を見て、やれやれと思って、少しばかり成長した『仲間』と思い出話や近況報告をする。

そこには、自分も、彼女もいて、去年と変わりない日々が繰り返されるだろう。

そう思った時、視界の端に今し方思い浮かべた少女の姿を認めて思わず立ち止まった。

中庭の銀杏の木の下、かけがえのない『仲間』の一人である彼女は、自分の知らない男子生徒と、『仲間』にしか見せたことのない笑顔で話をしていた。

男子生徒は背が高く、茶髪に日に焼けた顔と四肢は屋外運動部だろうことが伺える。

頭一つ分違う彼女を見下ろし、彼もまた、楽しそうな笑顔だ。

頭一つ分違う男子生徒を見上げる彼女の横顔は、見慣れている筈なのに、どうしてか酷く大人びて見えた。

急激に、世界から切り離される。3年前、兄を見上げる彼女の横顔は、あんなに近かった筈なのに。

あの頃の幼い面影を追いかけて、思考が白く染まる。漠然とした不安が全身を襲い、激しく傾いだ心を立て直すために過去を求めれば求めるほど、今目に映る横顔は幼さを脱ぎ捨てた別人のように思えてしまい、どうしようもなく胸が痛んだ。

 

何だ、これ。

 

まるで理解できない自分の心の乱れように頭を振り、再度視界に納めた光景は、何の変哲もない学校生活の1ページだった。

手を振って別れる男子生徒と彼女。

すると、彼女が僕を見つけて手を振った。

僕の知っている笑顔だった。

僕は軽く手を振り返し、小走りに近づいてくる彼女に歩み寄る。

夏の外気に晒され、少しばかり火照った頰は赤みを帯び、薄っすらと浮かぶ汗が見て取れる位置まで来ると、彼女は「タケル君、1学期お疲れ様」と涼やかな声で告げた。

「ヒカリちゃんも、お疲れ様」

ヒカリ、八神ヒカリは僕の、僕達の『仲間』だ。

「もう帰るの?」

「うん、部活の友達と約束があって」

「そっか、私も京さんと買い物に行くの」

「そうなんだ、京さん、賢とのことで何か言ってなかった?」

「え?何かって、愚痴はちょこちょこ聞くけど、何かあったの?」

「いや、順調かなって思って」

「そうね、今日聞いてみようかな」

何だか上辺を流れていくような会話だ、と心の隅で感じていた。

本当に聞きたいことはこんなことではないんじゃないか?でも何をどう聞く?彼女の交友関係は彼女のものだ。

そう内心で断じるのと裏腹に、口を突いたのは詰問調の問いだった。

「さっきの誰?」

しまった。

コントロールされていない声のトーンが、酷く不自然に耳に響いた。

彼女に気付かれる。

何を?

分からないけど、拙いと思った。

しかし、彼女は気付くどころか何やら慌てたようにどもり、「えーっと…」と言葉を濁す。

 

何、それ。

 

暗い声が喉につまる。

鉛を喉に押し込まれたように、急に息ができなくなった。

彼女はそれでも気付かず、暑さからくるのとは別の朱を頰に宿して「先輩なの」と呟いた。

サッカー部で、彼女の兄である八神太一の後輩であり、現サッカー部のキャプテンなのだと補足説明がなされる。

肩書きも立場も分かったけど、僕が聞きたいのはそんなことじゃない。

何で君は…

 

「お兄ちゃんから紹介されて、付き合って欲しいって言われて…」

 

思考をぶった切った彼女の言葉に、僕は唖然とした。

「太一さんの紹介?」

恐る恐る反芻すると、彼女は恥ずかしげに頷く。

で、付き合うの?なんて聞くまでもなかった。

彼女が兄の意向に逆らうことなどあり得ない。兄への信頼は絶大。

それは自分も同じであるから分かる。

そして、分かるが故に分かりたくないことまで分かってしまう。

彼女のことは誰より分かる、そう自負していたけど、こんなことを分かりたかったわけじゃない。

突如として溢れた心は、僕の中の小さな世界とルールを守るために働いた。

そしてそれは、幼い世界を打ち砕く。

 

「ねえ、君も僕を置いていくの?」

 

無意識に発した懇願に、彼女の表情は驚きに染まり、その細い腕を掴んだ己の手に、信じられない程の力が込められていたことに気付いた次の瞬間、歪んだ瞳に拒絶が見えた。

 

ああ、ダメだ。

 

全て分かった、そして終わった。

ずっと続いていくと信じてやまなかった、いや信じたかった安息の世界、平和な箱庭、ままごとのような日常、変化を否定する居心地のいい空間が、音を立てて崩れ去った。

 

「何てね、賢と京さんの次はヒカリちゃんかぁ。兄さんと空さん、光子郎さんとミミさん、最後にならないように気をつけなくっちゃ、僕も」

 

笑顔は簡単だった。言葉もスルリと喉から出た。

僕の異変を気のせいだと済ませてくれる彼女じゃないことは分かっていたけど、もはや誰も立ち入れないのだから構わなかった。

「じゃあね」と明るく別れを告げ、僕は新しい日常へと歩き出した。

必死に守ってきたミニチュアサイズの幸せを踏み越えて、胸の奥でとぐろを巻く重たい感情が全身を支配していくのを感じながら、僕は一度も彼女を振り返らなかった。

 

 

 

 

 




中学時代終了。
タケルの悩みスイッチが入り、鬱々と過ごす日々の始まりです。

読んで頂き、ありがとうございました。


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