デジモンアドベンチャー それぞれの物語(タケル編) 作:アキレス腱
あの日以来、何かを予見するかのように頻繁にデジタルワールドの夢を見るようになった。
同じ夢もあれば、違う夢もあった。
天使が悪魔になる夢以外に、ダイノ古代境の最深層で炎の壁をただ見上げているだけの夢、オーバーデル墓地の隅に小さな花が芽吹く夢、遊園地の観覧車が回り続ける夢、はじまりの町にデジタマが生まれる夢。
それらの夢には共通点があった。
一つは誰もいないこと、二つ目は音が無いこと、そして三つ目は、どの夢にも嫌な感じがしないことだった。
目が覚めると決まって頭はクリアで、時間は夜明け前。
何を意味しているのだろうか。
未だこの夢を誰にも話さずにいることに僅かながらの罪悪感を感じながら、日々はあまりにも平穏に流れた。
ぼんやりと流れていく雲を見つめていた。
2月の空は高く、空気は澄んでいた。
隣でカサリと紙の擦れる音が聞こえる。
マコトが手元の歌詞カードをめくる音だ。
首を捻ると、イヤホンを着けて歌詞カードに目を走らせるマコトが見えた。彼女は僕の視線に気付くと、イヤホンを片方外して「何?」と尋ねてくる。
「次はどんな曲歌うの?」
「沖縄出身の女性アーティストの曲。大分前にデビューして、今は活動休止中なんだけど」
と言いながら外したイヤホンを僕に差し出した。
僕は上半身を起こしてそれを受け取り、耳に着ける。
その間にマコトが本体を操作して曲を頭出ししてくれた。
一つのイヤホンを二人で使うため、必然的に距離が近くなる。
僅かな無音の後に音楽が流れはじめた。聞き覚えのある前奏は、でもタイトルは思い出せない。
アーティストが歌い始める。どことなく幼さを感じさせる声色だが、歌う歌詞は恋人のいる男を慰める女の視点だった。そのギャップが少し危うい。
「水崎さんが好きそうだね」
「当たり。このアーティストの曲は好きで、アルバムも何枚か持ってるの」
感想と一緒にイヤホンを返し、それに答えながらマコトが受け取る。
ちょうど午後の授業の時間だった。
屋上を後にして階段を降りた別れ際、さっきの曲のタイトルをマコトに尋ねた。
マコトは歌詞カードをチラッと見てから、「儚いもの」と短く答え、手を振って自分のクラスに向かって行った。
儚いもの
それは何とも、複雑な気持ちにさせるタイトルだった。
けど、マコトが歌うのならピッタリかもしれないと思う。
ふと、マコトはいつまで歌を続けていくのだろうという考えが浮かんだ。
高校生の間は軽音部や合唱部で歌うのだろうが、卒業後はどうするのだろうか。
マコトはプロへの道は選ばないと言っていた。
それでも、僕はマコトに歌い続けて欲しいと思う。
彼女の歌を自分が聴きたいだけかもしれないけれど。
それからも、学校生活は滞りなく過ぎていった。
じきに三学期も終わり、春休みに入る。
春休みはバイトでもしようかと考えていた。
理由はヒカリとのデート費用の調達と、今後嵩むであろうプレゼント費用のための貯金だ。
お小遣いはそれなりに節約して貯めているが、一人暮らしをさせてもらっている手前、親に必要以上の負担を掛けないためにそちらを切り崩すわけにはいかない。
本屋に寄ったついでに持ってきたバイト情報誌を開きながら、チラリと携帯の時計表示に目をやる。
そろそろヒカリが来ると言っていた時間だ。
今日はヒカリのたっての願いで放課後に会うことになっていた。
しかも、こちらから出向こうかと言ったが、頑として自分が世田谷に来ると言ってきかなかったのだ。
最初はその理由がよく分からなかったが、約束してから数日経ってふとカレンダーを見て漸く納得がいった。
約束の日は2月14日、バレンタインデーだ。
世の女の子にとっては大切な日。
仲間内の彼氏彼女持ちも、きっと仲良くやっていることだろう。
大輔も今年は相手がいるわけだし。
まあ、そんなこんなで授業が引けてからすぐに帰ってきて軽く掃除をして待っている。
学校で何人かの女の子からチョコレートを貰って欲しいと声をかけられたが、彼女がいるので気持ちには答えられないと丁重にお断りした。
机やロッカーの中に入っていたものは仕方がないので持って帰ってきて、ヒカリの目に付かない場所に追いやってある。
そろそろこのバイト情報誌も隠そうと考えていると、インターホンが鳴った。
情報誌をベッドの下に放り込み、僕は玄関に向かう。
来訪者は待ち人であるヒカリだった。
部屋に招き入れ、準備していた紅茶を淹れてもてなす。彼女は一度家に帰って着替えてきたのだろう、白いブラウスシャツの上にピンクのカーディガン、グレーのスカート姿だった。
そして、いつものブラウンのショルダーバッグの他に小さめの紙袋を持ってきていた。
「外寒かったでしょ?」
「うん、今日は風が強くて」
ヒカリはマグカップを両手で持ち、冷えた手を温めている。
寒空の下を歩いてきたためか、耳が赤い。手を伸ばしてその耳に触れると、擽ったそうに肩を竦めて笑った。
そのまま顔を近づけ、お互いに唇を寄せる。
恋人と触れ合う幸せな時間、心穏やかな時。
唇が重なる瞬間、フッと連日見るようになった夢が去来する。
何かあれば話して、と言った恋人に僕はまだ伝えていない。
ごめんね、と心の中で謝って、触れるだけのキスをした。
ヒカリが用意してくれたのは、手作りのチョコレートだった。
家族や仲間にも作ったが、これは特別なんだと頬を染めながら説明してくれた。
1年前の自分には想像できなかっただろうな、ヒカリから本命のチョコレートを貰うなんて。
仲間へのチョコレートは毎年貰っていたけど。
その場で包みを開けると、正方形に区切られた箱の中にトリュフがおさめられていた。
ヒカリに御礼を告げ、トリュフを一つ摘んで口に放り込む。
ココアパウダーの苦味の後にチョコレートの甘さとカカオの香りが口いっぱいに広がっていく。
「美味しい」
「本当?良かった」
率直な感想を述べると、ヒカリはホッとしたのか安心した朗らかな笑みを零した。
あまりに満たされた毎日に、時々怖くなることもある。
けれど、今この瞬間の幸せは、自分以外の誰のものでもないのだと言い聞かせた。
ヒカリを最寄駅で見送ってマンションへ帰る途中、携帯がズボンのポケット震わせた。
取り出してみると、そこには見知らぬアドレスからメールが届いていた。
タイトルは無題。
ダイレクトメールは大抵弾くように設定してあるのだが、誰かがアドレスでも変えたのだろうか。
そう思ってメールを開くと、そこには一文字だけ「す」と表示されていた。
「す?」
スクロールするほどの容量でもなく、一文字だけのメッセージ。
悪戯か何かと思って削除しようとした時、アドレス欄に表示された文字列に目が止まった。
apocalypsis
誰かの悪戯。
そう思えれば良かったのかもしれないが、僕には思えない理由がある。
一気に不安が膨れ上がり、怒涛のように心の平穏を蹴散らしていく。
まず誰に連絡する?ヒカリ?いや光子郎さん?待て、悪戯でないと決まったわけじゃないのに、でもこれは、もし考えが的中していたら、今頃になってどうして…。
そこでハッとする。
今頃になって。
ごく最近そう思ったことがあった筈だ。
あの夢。
デジタルワールドの夢はまさしくなぜ今頃になって見たのだ。
もしかして繋がっているのでは?だとしたら、何を伝えようとしている?僕だけが夢を見て、僕だけがこのメールを受け取っているのか?
頭の中を飛び交う考えが纏まってくれない。
落ち着きたいのに、加速していく鼓動が邪魔をする。
知らないうちに手が震えていた。
恐怖か、不安か。
僕は震える指で携帯を操作し、今最も自分の近くにいる友人に電話をかけた。
コール音の一回一回が物凄く長く感じられ、耳の奥で幾重にも重なって響く。
このまま繋がらずに音に殺されそうな気さえした。
手が、足が、顔が急速に冷えて、凍えていきそうだ。
賢…。
祈るように目を閉じた時、永遠かと思われたコール音が途切れ、待ちわびた声が耳に届いた。
『タケル』
「賢っ」
『良かった、丁度電話しようと思ってたんだ』
いつも落ち着いている賢の声が、ほんの少しだけ焦っているように聞こえた。
でも僕には、それを気に掛けている余裕は無かった。
「賢、僕はどうしたらいい」
『タケル?』
「分かんないんだ、今頃になってこんなっ、夢だって毎日」
『落ち着け、タケル』
「メール、そうだ、賢のとこにもこれと同じようなメール来てないっ?」
『タケル!』
荒れた心が思い浮かぶままに言葉を紡がせていたが、賢の強い口調がそれを止めた。
滅多に怒鳴ったりなどしない彼に、僕は少しだけ冷静さを取り戻す。
そこへ、一呼吸置いてから落ち着いた声音で賢が言った。
『タケルの言うメールかは分からないけど、僕と京の所にも差出人不明のメールがついさっき届いた。断定はできないけど、恐らくデジタルワールドから』
「賢と京さんに…?」
告げられた事実に僕は呆然と呟く。
『今、他の仲間の所にもメールが来てないか、京が確認してくれてる。八神さんは?』
「今さっき電車で帰った」
『そうか…タケル、今日こっちに来れるか?』
「……うん」
賢の申し出は有難くて、力無く頷くしかできなかった。
今日一人でいたら、嫌な考えしか浮かばない気がした。
あの夢のことも、このメールのことも。
たった1通のメールが、それまでの心の平穏をぶち壊してしまった。
拠り所のない不安に苛まれていた頃のように、唐突に世界が色を無くしていく。
見上げると、空を覆う厚い雲から冷たい雫が落ちてきた。
平穏は長くは続きませんでした。
読んで頂き、ありがとうございました。