デジモンアドベンチャー それぞれの物語(タケル編) 作:アキレス腱
目を開けると、データチップの渦の中にいた。
これは夢だろうか、とまだはっきりとしない頭で考える。
身体はどこにも接していないようで、酷く頼りなく宙に浮いていた。
重だるい頭を持ち上げて辺りを見回すが、周囲には誰もいない。
データチップが嵐のように渦を巻いているだけだ。
ぼんやりとした視界でひたすらに飛び交うデータの残骸達を眺め、僕は漠然と感じた。
ここは初島ユウキとヒカリが取り込まれた空間なんだと。
次第に頭がクリアになり、現状を把握した思考が回りだす。
ヒカリを探さなきゃ。
どう動けばいいのかも分からない空間の中で、データチップの渦に向かって手を伸ばした。
きっと、あの向こうにいるんだと、根拠のない確信に突き動かされて。
すると、それに応えるかのようにデータチップの奔流の一部がほつれるように流れから外れ、物凄い勢いで僕に向かってきた。
伸ばした手を食らうように、指の隙間を一瞬で通り抜けて僕の顔面、身体全体にぶつかって来る。
データチップがぶつかる度に何かのビジョンが頭に叩き込まれる。
それが何かを認識する暇もなく、次から次へと襲いかかるデータチップに、とうとう全身を覆い尽くされた。
次の瞬間、電子的な空間の乱れが走るとともに、目の前にはいつか見た光景が現れた。
峻険な山をも凌ぐほどに巨大化した悪魔と対峙する天使の姿、そして遥か下方の地面に立ちすくむ無力な子供。
思わず息を呑んだけれど、僕の中にいる寂しがりやが幻だと教えてくれた。
苦い苦い過去、痛みの記憶、これが…。
「僕が彼女に預けてしまった記憶(もの)なんだね」
眩い光が悪魔を貫き、周囲を白く染めていく。
光の中で消えていく悪魔と天使。
泣き叫ぶ少年の声は、否応なく僕の胸を軋ませた。
乗り越えたと思った過去でも、対峙すればこんなにも容易く心を揺り動かすのだと、改めて深い痛みを思い知る。
消えないんだ、痛みも後悔も。
でも…。
ハラハラと舞い落ちるデータチップが収束し、一つのデジタマを構成すると、その身の丈には大きいデジタマを抱きしめる過去の自分が見えた。
「まだ、これから苦しい時期が続くけど、その中で君はかけがえのないものを得るよ。この痛みもその一つなんだって思える日が、来るよ…」
そしていつか、全てを受け止めて、痛みも喜びも全部引っくるめて自分なんだと認められるように、僕も頑張るよ。
今は全部は無理かもしれないけど、好きな女の子を助けることにすら四苦八苦してるくらいだけど、この時の僕自身を受け止められるくらいにはなった筈だ。
どんなに辛くても、苦しくても、これは自分の記憶(もの)だから、誰かに背負わせるべきものじゃない。
悔やむ気持ちがあったっていい、苦しくて泣く時があったっていい、だから…。
「ありがとう、初島さん…でも僕は大丈夫だから、これは僕が引き受ける。ちゃんと自分で持っていくよ」
マコトが父の手紙を持っていくと言ったように、僕もこの記憶を持って生きていく。
幼い自分の前に降り立ち、今となっては小さなデジタマと僕自身を抱き締めた。
幻に感触は無かったけれど、どこからか声が聞こえた気がした。
腕の中の僕が一瞬でデータチップに変わる。
周囲の景色も同様にデータチップへと分解され、僕の身体に吸い込まれていく。
手から、足から、全身に触れたデータチップが溶けるように消えていった。
「おかえり」
少しだけ痛みが増した胸を押さえて、僕は微笑んだ。
全ての記憶が僕に戻ると同時に、最初にいた空間に戻ってきていた。
今度は底があるらしく、僕は立つことができた。
周囲を見渡すと少し離れた所に人影を見つけた。
走り寄ると、それは大輔だった。
「大輔!」
「タケル!」
名前を呼ぶと、前のめりに身体を屈めていた大輔が顔を上げて答えた。
その額には汗が滲んでいた。
「ようやく会えたぜ。どこまで走っても誰も何も見えねぇからよぉ」
グイッと額の汗を手の甲で拭い、大輔は大きく息を吐き出す。
どうやらかなりの距離を走って探していた様だ。
サッカー部で走り込みを日常的に行っている大輔がこれだけ疲労する程には。
そして、この空間に来て大輔は誰にも会っていないし、何も「見て」いないと言った。
やっぱりというか何というか、こいつは初島ユウキに何一つ預けていないのだろう。
「さすがだね」
「あ?何がだよ?」
僕の呟きの意味が分からない大輔が聞き返してくる。
でも説明したってどうせ分からないだろうから、そんなことより賢が心配だった。
「それより、賢を探さなきゃ」
「ああ。でもよぉ、ここ方向も全然わからねぇし、闇雲に探しても見つかるか」
最初は上下さえも危うい空間だったことを考えると、確かに闇雲に歩き回っても意味は無いだろう。
でも、僕には賢の所在を掴む手掛かりに心当たりがあった。
「データチップの流れを辿ろう。さっき僕が捉われていたみたいに、賢も記憶に捕まってるかもしれない」
「データチップ?時々その辺を舞ってるやつか?」
チラチラと視界の端に映り込んでいたデータチップを見回して大輔が言う。
僕は頷き、無秩序に降り注ぐデータチップとは違う、意思を持った流れを探した。
目を凝らして周囲の空間に意識を飛ばす。
仄暗い空間の中で、僅かに色を纏ったデータチップの帯が遠くに見えた。
「あれだ!」
「あ、おい、ちょっと待てよ!」
走り出した僕を慌てて大輔が追いかけてくる。
僕は見つけたデータチップの帯を見失わまいと、振り返らずに走った。
走り出してわかったけれど、この空間の地面はまるで足に食いつく様だ。
前に進もうとする力を削ぐ様に足を引っ張ってくる。
トリモチとまではいかないけれど、泥沼を走る様なものだ。
あんなにも大輔が疲れていた理由を身を以て理解した。
追いかけるデータチップは薄ぼんやりとグレーに光り、やがて帯の先に巨大なデータチップの塊が現れる頃、僕と大輔は大幅に体力を削られながらも何とか立っていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ…これか?」
荒い息の合間を縫って、大輔がデータチップの塊を見上げて言った。
「多分…」と推測でしかない返答する。
「で、どうすんだよ、ぶっ壊すか?」
「素手で?流石に無理があるんじゃないかな」
「じゃあどうすんだよ?」
確かに、ここまで来たはいいけれど、この状況をどうしたものか。
自分の時と同じ様に、これが賢の記憶であるのなら、無闇に破壊するのは得策ではない筈だ。
賢自身が克服して回収するのを待つべきなのか、助けが必要なのか、それとも僕とは違う全く別の現象であるのか、僕は測りかねていた。
「…呼んでみようか。声なら届くかもしれない」
「おっしゃ、賢!けーん!」
言うが早いか、大輔は大声で叫び始めた。
うーん、失敗だったかもしれない。
耳を塞ぎたくなるほどの大声に、ちょっとだけ後悔した。
僕も程々の声量で賢の名前を呼びながら、データチップの塊にそっと手を触れてみた。
表面は硬質で、普段のデータチップなら触れると分解されて消えていくのに、そんな気配は全く見られない。
まるで外からの刺激を拒んでいるようだ。
殴らなくて正解だったな、なんて密かに思いながら、僕は身の丈を遥かに上回る巨塊を見上げる。
分厚い壁のように存在する塊。これほどまでに強固なデータなんて、本当にこの中にいるのは賢なのだろうか。
ふと疑問が浮かんだ。
そう、拒絶するほどに固い壁を築いて、まるで砦で守を固めるように…何かを守っている?
「大輔…」
「何だよ、タケル、別の方法に変えるか?」
「この向こうにいるのは賢じゃないかもしれない…」
「は?じゃあ誰だよ?ってまさかっ…」
ハッとした大輔が塊を凝視する。
そう、もしかしたらこの向こうにいるのは、賢じゃなくて…初島ユウキとヒカリなんじゃないのか?
「…ヒカリ?」
恐る恐る呟いた名前が引き金となったのか、突如あった筈の地面が消えて大輔が叫ぶのと同時に、僕はデータチップの塊に吸い込まれた。
まるで猛吹雪の中に放り込まれたような視界を抜け、次に視界が開けたそこは、虹色に光るデジタル文字がびっしりと刻まれた円型の空間だった。
中心には人1人がすっぽりと入れる程の大きさの光の球が浮かんでいる。
目が眩しさに慣れてくると、それは鮮やかに僕の目に飛び込んできた。
「ヒカ、リ…」
光の球の中に閉じ込められた少女は、探し求めた愛しい人だった。
目を閉じ、膝を抱えた姿で光に包まれるヒカリ。
思わず駆け寄るが、光の球に阻まれて触れることは叶わなかった。
目の前にいるのに触れられない歯がゆさに、無意識に奥歯を噛み締める。
「ヒカリ!」
光球に両手を押し当て、めいいっぱいの声量で叫んだ。
果たしてこの光の壁の向こうに声が届くのかは分からなかったが、叫ばずにはいられなかった。
「ヒカリ、ヒカリ!」
何度も何度もその名を呼び続けたが、ヒカリは目を開けることも動くこともなかった。
時折光の壁が鼓動のように震えるだけで、僕の声以外、何の音もしない。
「ヒカリ…」
寂しさと虚しさと無力感がじわじわと胸に溢れる。
助けると言葉で言うのは簡単だが、実際の場面ではどうだ。
ただ名前を呼ぶだけの僕に、現状は何一つ変わらない。
徐々に声は力を無くし、ヒカリを包む光球を前に崩れ落ちた。
「どうすれば、君を助けられる…?僕に何ができる?失いたくない、失いたくない…君だけは、何があっても、何を引き換えにしても!」
爪が手のひらに食い込み、血が滲むほどに握りしめた拳で光球を殴りつけた。
当然、光球はビクともしないし、中のヒカリにも反応は無い。
鈍い痛みだけが、僕の無力さを助長させる。
けれど、その痛みが僕の思考に冷静さを取り戻させてくれた。
拳を叩きつけた部分に、薄っすらと浮かぶ刻印を見つけたのだ。
その刻印は、紛れもなく光の紋章。
ハッとして顔を上げる。
ここはデジタルワールド、データが意思を持つ世界。
この空間は一体何のためにある?
さっきまで大輔と彷徨っていた空間は恐らく光子郎の言うところのゴミ箱空間で間違いないはず。
そのゴミ箱の中で強固なデータの塊に覆われた空間、更にその中で光球に包むほどの徹底したガードぶり、そして何より光球に浮かぶ光の紋章が意味するところは…。
「もしかして、守っているのか…?」
『その通りです』
「誰だ!?」
唐突に降って湧いた声に驚いて周囲を見回すが、人影は見当たらない。
声質的には肉声ではない、電子機器を通したような声、それも耳で聞いたというよりは頭に響いた感覚だった。
立ち上がり警戒する僕に、声は続ける。
『無の混沌に帰さないよう、二重の防壁で彼女を守っています』
再び響いた声は、明らかに僕の頭の中に語りかけていた。
「あなたは一体…」
『ホメオスタシス』
「!?」
ホメオスタシス。それはこの世界の安定を保つためのシステムであり、僕たちを選んだものでもある。
「どうしてヒカリを?守るなら、どうしてこの空間に留まっているんだ?」
守るというのなら、この空間から脱出させればいいだけではないのか。
『八神ヒカリをこの空間に捕えている存在が消滅しない限り、ここを動くことができないのです』
「それはアポカリモンのことか?」
初島ユウキが中継役とされ、2人を呑み込んだ存在。
しかし、ホメオスタシスの答えは予想の更に上をいった。
『それはこの空間に満ちる膨大なデータの一部でしかありません。あなたに全てお伝えします。この世界のため、そして八神ヒカリを救うため、力を貸して欲しいのです…希望の子』
アポカリモンよりも強大な何かがいる。
愕然とする僕に希望をチラつかせるホメオスタシスを、僕は心底恨めしく思った。
けれど、今はそれに縋るしかない。
「聞かせてくれ」
『ここにいる一つ一つのデータは個々には何の力も持たない、ただ世界を彷徨うバグに過ぎません。ですが、それらを繋ぐ存在が現れ、捕らわれてしまったことにより、彼等は無尽蔵に広がりを見せ、多くの命を喰らい尽くし兼ねない存在になってしまいました。かろうじて、中継役を担ってしまった存在がこの空間に閉じ込めたようですが、彼等は生を恨むあまりに、進化の光を持つものを道連れにしようとしたのです。咄嗟に防壁を展開しましたが間に合わず、この空間に捕らわれてしまいました』
彼等を繋ぐ…中継役。
それはもしかしなくても…
「初島ユウキ」
『彼女は私たちにとってもイレギュラーです。もっと早く彼女の存在に気付くべきでした。彼女が初めてこの世界を訪れた時にあなた達に伝えられていたら、こんなことにはならなかったかもしれません』
「それは、ヒカリが一緒じゃなかったから、言葉を伝えられなかったってこと?」
僕たちの中で唯一ホメオスタシスの中継役となれるのは、ヒカリだけだった。
その彼女がいなければ、実体を持たないホメオスタシスが僕達に言葉を届ける事は叶わない。
『残念ですが、そうなります。八神ヒカリの為にとデジタルワールドから遠ざけていたことが裏目に出てしまいました』
「じゃあ、どうして今は僕に声が聞こえているんだ?」
『この空間は八神ヒカリの力を借りて構成しています。その中で、彼女に感応する存在となった貴方には、八神ヒカリを通して直接語りかけることが可能になっています』
「だから、大輔は入れなくて、僕だけがここに…」
ホメオスタシスの語った理由はそのまま、一緒にいた大輔が拒まれて僕だけがこの空間に吸い込まれた理由でもあるのだろう。
しかし、ヒカリに感応する存在に“なった”というのは一体どういうことなのか。
以前は違ったというのなら、何がきっかけでそうなったのか。
疑問に思ったことをホメオスタシスに問い質すと、ホメオスタシスは僕の紋章について話し始めた。
『希望の紋章は、もともと光の紋章をサポートするために作り出されたものなのです。これまでの戦いでは紋章の本来の力が発現することはありませんでしたが、最近になって紋章の輝きが増し、本来の力の一旦が現れるようになったのです。恐らく、貴方の心の変化に呼応してのことだと思います。紋章は貴方がたの心そのものなのですから』
「心…」
それならば思い当たる節がある。
この数ヶ月間で僕の心は確実に変化した。
それが紋章の本来の力を引き出すきっかけになったのか。
『高石タケル。八神ヒカリがここを動けない以上、今私たちが言葉を託せるのは貴方だけです。外の空間に充満する無数のデータの塊、それらを繋いでいる存在を消去しなければこの世界も八神ヒカリの命も消えてしまいます。だから』
「消去って、どういう意味?それは彼女を、初島ユウキを殺せってこと?」
『………』
沈黙は肯定。スウッと全身から血の気が引くのが分かった。
四肢の力が抜けていく。
僕は力なくその場に膝を付いた。
喉の奥に重たい石が詰まったような息苦しさ、目の前が暗く濁っていく感覚に、僕は両手で顔を覆った。
「何だよ、それっ…」
吐き出した言葉が、あまりに虚しく耳に響く。
脳裏に浮かぶのは大輔の顔だ。
あんなにも初島ユウキを大切に想っている大輔に、この事実はあんまりだ。
「それしかないのか?世界もヒカリも、救うためには他に方法は!?」
『………』
「彼女が何をした?沢山の人の死の記憶を引き受けて、悲しみを1人で背負って、今まで生きてきたのに!それなのに、初島さんが死ななきゃならないなんて絶対おかしい!」
『…彼等を繋いでいるのは、その初島ユウキが引き受けた記憶です。彼女がその身に蓄積した記憶、彼女自身の記憶とリンクさせて刻んできたものこそが、彼等を繋いでいるのです』
「そんな…っ」
『貴方は先程、彼女が引き受けた記憶の一つを解放しました。全ての記憶を解放することができれば彼等は霧散し、この空間の理に従って無に帰るでしょう』
「ならっ」
『ですが、彼女が引き受けた記憶のほとんどは既に亡くなった人の記憶(もの)です。記憶の解放は本人でなければ叶いません。既に帰る場所を失った記憶達は、彼女にしがみついて離れないでしょう。それに、万が一本人以外の手によって記憶を解放することができたとしても、何百、何千もの記憶を解放するまでには膨大な時間を要します。その間にこの空間の作用でデリートされてしまうでしょう』
次々と追い打ちを掛けるように告げられる事実に耳を塞ぎたくなる。
示された選択肢しかもう、とることはできないのか。
こんな、誰も望まない選択しか…。
何を引き換えにしてもヒカリを失いたくないと、あの気持ちは本物だ。
極限的に言えば、初島ユウキと引き換えにしてもだ。
けれど、そうなれば僕は全てを失うだろう。
ヒカリも、大輔も、仲間も、みんな。
こんな選択、誰も許しはしない、許すはずがない。
涙が溢れた。
絶望感と無力感と、もう言い表すことなどできない色んな感情がない交ぜになって、涙となって零れ落ちる。
沢山の人の顔が浮かんでは消えて、目の前のヒカリを見上げて、そして、目を閉じてマコトを思った。
君なら、この選択をした僕を許してくれる?
ここで、僕は全てを捨てなきゃならない。
だけど、僕自身と君だけは僕から去らないと、そう信じさせて欲しい。
世界がどうとかじゃない。
ただ、ヒカリを助けるために。
奥歯が砕けるんじゃないかと思えるくらい強く奥歯を噛んで、滲む涙を乱暴に服の袖で拭った。
そして、ゆっくりと立ち上がり、ホメオスタシスに問い掛ける。
「初島ユウキはどこ?」
『貴方のデジヴァイスに情報を転送します。それから、外の空間のデリート機能から身を守る為、貴方を構成するデータに保護プロテクトをかけておきます。これでデリート順を遅らせることができるでしょう』
「彼女を消す為の方法は?」
感情の宿らない声っていうのは、どこまでも冷たいものだと思った。
僕はホメオスタシスから初島ユウキを消す為のプログラムを受け取ると、光球の中のヒカリ向き直った。
ホメオスタシスの気配が消えていく。
あとは僕がやれってことか。
「ヒカリ…」
小さく呼びかけ、そっと光球に触れた。
すると、今まで何の反応も示さなかったヒカリの瞼がピクリと動き、その双眸をゆっくりと開いた。
「ヒカリ!」
目を覚ましたヒカリに思わず前のめりになる。
「た、ける…?ここは…?」
自分の状況がまだよく分かっていないのだろう。
見知らぬ空間と目の前の僕に困惑した表情を見せる。
僕は事の流れを掻い摘んでヒカリに説明した。
初島ユウキをデリートするという事実は伏せて。
「そうだったの…デジタルワールドに守られたのね、私…」
状況を理解したヒカリと対峙して、僕の顔は強張っていたに違いない。
「うん、そうだね。本当に、無事で良かった」
上手く笑えない。
「でもここから動けないのよね…ごめんね、足引っ張ってばかり」
「そんなことない、そんなこと、ないよ…」
堪えろ、と自分を叱咤しても、既に限界に近い僕の心は言うことを聞いてくれない。
今にも泣き出しそうな僕に、当然ヒカリは心配そうに顔を歪める。
光の壁に手を添え、できるだけ僕に近づいて「タケル?どうしたの?」と問い掛けてくる。
泣き出したかった。こんなことは嫌だと、こんな選択はしたくないと、誰か助けてくれと。
でも、ヒカリを失うことはできない。きっとヒカリがこのことを知ったら止めるだろう。
そして、自分が消えてもいいから初島ユウキを助けろと言うだろう。
それは承服できない。
だから、何でも話すという君との約束を違えても、事が終わった後で大輔や君からどれだけ恨まれようと、僕は…。
「ごめん…大丈夫だから、ヒカリが無事で嬉しいんだっ…本当に」
壁越しのヒカリの手に自分の手を重ね、僕は精一杯微笑んだ。
最後まで、君の不安そうな表情を和らげてあげることができないのが悔しい。
ごめんね、ヒカリ。
「ヒカリ、僕は大輔と賢を探して、初島さんを助けに行くよ」
「タケル…」
「アポカリモン達を倒したら必ずここに帰ってくるから、待ってて。多分、ここに現実世界に繋がるゲートが開く筈だから」
「う、うん…」
ああ、君の目を見て話ができるのも最後かもしれない。
さよならは言えないけど、これだけは言わせて。
「ヒカリ、愛してるよ」
「タケル…」
もう一度微笑んで、僕は光球から手を離し、ヒカリに背を向けた。
もう振り返らない。
ヒカリが何度か僕の名前呼ぶのが聞こえた。
振り向いて駆け寄りたい衝動を必死で抑えて、僕はホメオスタシスが作った防壁空間から出た。
最初と同じように吹雪のような視界を経て、仄暗いゴミ箱空間戻ってきた。
「床がある…」
地に足が付いていることにホッとして、僕は周囲を見渡した。
大輔の姿は無い。
安否が分からないのは心配だが、そう簡単に消されはしないだろう。
僕はポケットからデジヴァイスを取り出し、画面に表示されたシグナルを見つめて目を細めた。
赤く光る印が示す場所に初島ユウキがいる。
大輔と賢とは合流しない方が都合が良さそうだ。
こんな思いをするのは、汚れ役は僕だけが背負えばいい。
口の中に血の味がした。
デジヴァイスを握りしめ、僕はシグナルが指し示す方向に歩き出した。
選択という行為は存在していない、人の行動の全ては脳の働きによって決められている。
という説があると聞いて妙に納得してしまいました。
読んで頂き、ありがとうございました。