デジモンアドベンチャー それぞれの物語(タケル編) 作:アキレス腱
不思議と邪魔は入らなかった。
時折流れてくるデータチップの波は僕を避けて彼方に消えていった。
まるで、この先にいる初島ユウキが僕を呼んでいるような気さえした。
大輔と走った時はあれ程重かった足も、今は軽々と歩を進めることができる。
その反面、進むたびに心は重く淀んでいった。
辿り着いたそこは、まるで蜘蛛の巣のようにデータチップが網の目を成し、中心にはそれに絡めとられるようにして初島ユウキがいた。
初島ユウキは薄っすらと目を開いていて、意識があるように見えた。
目の前に立った僕に気づいたのか、彼女は僅かに顔を上げた。
「高石、さん…」
憔悴しきったその顔に、僕の胸は斬りつけられたような痛みを覚える。
無数に広がるデータは、彼女が背負った死の記憶。
こんなに膨大なものを1人で抱えて、どれほどの悲しみをその身に受けてきたんだろう。
こんなになるまで…。
「大輔じゃなくて、ごめんね…」
「わた、しを…消しに、きた…ん、です、ね?」
確信を突く彼女の問いに、僕はギクリと身を硬くした。
しかし、初島ユウキは僕をなじることなく、小さく微笑んだ。
「消して、くだ…さい…私が、このこたちを、集めて、しまった…から。もう、帰れない、のに…」
「消えなくちゃならなかった彼らを、君は意図的に引き止めたの?」
「分から、ない…ただ、呼ばれて…みんな、帰りたいって…だから、探して、たけど…」
背負わされて、無意識に誘導されて、彼らの繋ぎとして利用されただけだ。
今更確認しなくたって分かっていた。
手が震え出す。
「初島さん…」
「ごめん、なさい…辛い、役を…」
「人の心配してる場合じゃないだろ!」
思わず声を荒げていた。
こうなってまで、自分を消しに来た人間まで思いやるなんて、どこまで馬鹿なんだ。
僕は君を消しに来たんだ、殺しに来たんだ、恨み言ならいくらでも聞くのに、何でそうなんだよ。
強引に組み敷いた僕を慰めたマコトが蘇る。
「何で…君も、マコトもっ…」
辛いのは自分だって同じなのに、相手のことばかり心配して、思いやって、少しは自分のために足掻いたっていい筈なのに。
「少しは自分を優先しろってんだ!」
叫んで、僕はホメオスタシスから渡されたプログラムシートを取り出して足元に投げつけた。
そして、ツカツカと初島ユウキに近づき、彼女絡め取っているデータの網に手をかけた。
「ダメっ」と掠れた制止が聞こえた途端、触れた所からいくつものビジョンが流れ込んでくる。
ビルから身を投げて落下するイメージ
ホームに入ってくる電車に向かって飛び込むイメージ
歩道に突っ込んだ車に跳ねられ宙を舞うイメージ
衝撃や悲鳴やその場の音が生々しく身体を駆け巡った。
「!?」
あまりの衝撃に思わずデータの網から手を離して飛び退いた。
全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴き出し、呼吸が乱れる。
ガクガクと震える足で何とか踏み止まって押し寄せる吐き気を抑え、僕は初島ユウキを凝視した。
彼女は辛そうに眉を寄せ「ごめん、な、さい…」と謝った。
「こんなっ…こんな記憶(もの)を…君は…ずっと?」
信じられなかった。
こんな記憶が一体いくつ纏わり付いているというのか。
こんな思いを背負わされて、人間が狂わずに生きていけるのだろうか。
現に僅かに触れただけでこの有様だ。
初島ユウキは静かに涙を流した。
「…みんな、辛くて、悲しくて…もう、帰れないのに、諦められない。私じゃ、もう…止められ、ないから…だから…」
消してくれ、と初島ユウキは続けた。
僕はもう、何も言えなかった。
あんな記憶を引き受けて、この先も生き続けるなんて地獄だ。
抑えられずに暴走したのなら尚更。
震える足を叱りつけて、僕はノロノロと投げ捨てた消去プログラムが記されたシートを拾い上げた。
白い半透明のカード型のプログラムは、僕の操作一つで彼女を殺す凶器になる。
「初島さん…僕は…」
「…大輔、くんに…」
「え?」
「大輔くん、に…ありがとうって、伝えて…くれ、ますか?大輔くんと、いる時だけは…記憶の、フラッシュバック…なかった、の……すごく、幸せ…だった」
それは遺言だろうか。僕は初島ユウキの最期の望みに無言で頷いた。
初島ユウキは嬉しそうに笑った。その笑顔を僕は直視できなかった。
大輔は、どれだけ彼女の救いになっていたことか。
シートプログラムを持つ手に力がこもる。
「僕は、君にお礼が言いたい」
「え…?」
「僕の辛い記憶を預かってくれて、ありがとう」
「良か、った…受け止め、られ…るように、なった…です、ね」
そう言って、また笑うんだろう。
笑いながら泣いてる奴。
大輔、今ならよく分かるよ。
泣けばいいのに、笑うから、見てる方が切なくなるんだ。
シートプログラムを起動させると、ピッと軽い音がした。
この場に似つかわしくない音だ。
プログラムの始動許可を求めるボタンが浮かび上がった。
これを押せば、全て終わる。
震えを抑え込んだ指で、ボタンに触れようとした時だった。
一番来てほしくない奴の声がした。
「ユウキー!」
ビクッと大袈裟とも思えるほどに僕の身体は震え、シートプログラムを取り落とす。
すぐに拾って始動させれば良かったのに、僕の身体は氷のように固まって動かなかった。
ただでさえ、ただでさえ重いのに、僕に大輔の前で初島ユウキを消せと言うのか。
大輔の声が近くなる。
それに被って僕の名前を呼ぶ賢の声が聞こえてきた。
振り返れない。
大輔の顔を、賢の顔を見たら、僕はもう…。
「大輔、くん…」
微かな声で初島ユウキが大輔の名を呼ぶのが聞こえて、たまらなくなった。
会いたかったに違いない。
誰よりも、待っていた筈だ。
ダラリと力なく両の腕が腿を掠めてぶら下がる。
無理だよ、もう。
僕の心は限界だ。
このままでは破綻する。
心が壊れてしまう。
「ユウキ!」
一層近くなった大輔の声に弾かれるように僕は目を見開いた。
「来るな!」
「!?」
そう言って止まるのは賢だけだということくらい分かっていた。
僕は振り返り、走ってくる大輔の前に立ちはだかった。
大輔は構わずに僕を押しのけようとするが、僕はそれを腕ずくで止める。
「タケル、離せよっ、ユウキがそこにいんのに!」
「迂闊に近づいたら危険だから止めてるんだよ!」
「何が危険なんだよ!?」
「説明するから待てって!」
押し合いの末に大輔を押し返し、僕達は向き合った。
賢が大輔の後ろからゆっくりと歩み寄ってきた。
「タケル…」
「賢…無事で良かった」
無理をしているのが、賢には見抜かれているようで少し怖かった。
待ちきれずに苛々している大輔は、僕の向こうに見える初島ユウキの名を呼び、彼女は小さく大輔の名前を呼び返した。
僕は先程取り落としたシートプログラムを拾い上げ、一歩下がって大輔と賢の顔を交互に見た。
「タケル、それは?」
見慣れないシートプログラムに賢が疑問を投げかける。
僕は敢えて真実を語った。
「これはこの空間に充満するバグデータとそれを繋いでいる初島さんを消去するためのプログラムだよ」
わざとシートプログラムを翳して見せる。
賢の顔が驚愕に染まり、大輔の眉間に深い皺が刻まれる
「…何だって?」
僅かに震えた声で大輔が問う。
僕は淡々と事実だけを伝えた。
「彼女を消さなきゃこのバグデータを消すことができない。それに、この空間から脱出することも」
「そうじゃねぇだろ!!」
僕の説明を怒気に満ちた大輔の言葉が遮る。
今にも掴みかかりそうなのを必死に堪えているのが分かった。
殴ってくれていいのに。
その方がいくらかマシだ。
「もう他に方法が無いんだ…」
どんなに叫んだって、できはしない。ホメオスタシスが語ったような方法は、人間には不可能だと思い知った。
「何だよそれ、ふざけんなよ!何でそんなことが分かるんだよ!?お前俺達が何のためにここにいんのか、忘れてんじゃ」
「ヒカリを助けるためなんだ!」
今度は僕の悲鳴に近い叫びで大輔の言葉を遮る。
これを言ったら塞き止めていた心が溢れ出してしまうと分かっていたのに、もう止まらなかった。
僕の言葉の意味を理解しきれていない大輔と賢、そして後ろにいる初島ユウキの存在にも構わず、僕はホメオスタシスから告げられた事実をぶちまけた。
「僕だって本当はこんなことしたくないさ、でも彼女を消さなきゃ、この空間に捕らえられたヒカリは遠からず消えてしまう!初島さんを捕らえているのは彼女が多くの人やデジモンから引き受けた記憶そのものだ。更にはそれがバグデータの繋ぎになってアポカリモンを含む存在を構成してる。初島さんを助ける方法は僕達には実行不可能だし、おまけに時間もない。時が来れば2人ともこの空間作用で消滅するんだ!なら僕はヒカリを助ける…そのために僕はここにいる。何を引き換えにしても、ヒカリだけは助ける!」
事実上、初島ユウキを殺すと宣言したも同然だった。
僕は大輔に憎まれて、賢に軽蔑されて、ヒカリにも顔向けできなくなるだろう。
でも、それでも失えないんだ。殴られる覚悟で、僕は大輔を見た。
怒りに打ち震えているだろうと思ったその顔は、何故か悲しげに歪んでいた。
隣に立つ賢もまた、悲痛な表情を浮かべている。
僅かな沈黙を破ったのは、初島ユウキの微かな声だった。
「私が、頼んだ、の…消して、って……高石さん、は…それを、叶えて…」
心臓が握り潰されるような痛みが襲い掛かる。
またか。
またそうやって自分のことより他人を気遣って。
こうしている間にも、彼女は自ら背負った記憶達に囚われ、あの痛みと苦しみを味わっているのだろうに。
やめてよ、辛くなるだけなんだから。
たった一つのボタンを押すだけの行為が、どんどん重たくのしかかってくる。
叫び出したい衝動を必死に堪えるせいで息もできない。
良心の呵責と罪の意識に、いっそ狂ってしまいたいとさえ思った。
自分の意思ではなく震えだした手、その手を掴む手があった。
「!?」
僕の行為を止めにきたのかと思ったその手の主は、次の瞬間、僕を抱きしめた。
「大輔…」
あまりに意外な行動に、僕は呆気にとられる。
「お前、また1人で頑張ってんだな…バカ野郎」
そう一言告げると大輔は僕から離れ、シートプログラムを取り上げることなく僕の横を通り抜けて初島ユウキのもとに歩み寄った。
呆然とする僕の背後から、大輔が初島ユウキに話しかける声が聞こえた。
「ユウキ、待たせちまってごめんな」
優しい声音だった。
大輔は信じてる。初島ユウキを助けられると。
大輔はそういう奴だ。
僕の絶望なんか軽々と乗り越えて、バカみたいに前だけ向いて。
項垂れる僕の前に賢がやってきた。
「タケル…」
名前を呼ばれても、僕は顔を上げることができなかった。
いくら優しい賢だって、僕がやろうとしたことを許すはずが無いと思っていた。
「……賢…」
「殴って欲しいと思ってるだろ?」
どこか悪戯っぽく発せられた声に思わず顔を上げると、拳を振りかぶった賢の姿が一瞬見えて、衝撃を予想した僕は反射的に目を瞑った。
しかし、来る筈の衝撃はやって来ず、僕が片目を開けると、眼前に寸止めされた拳が飛び込んできた。
「1人で突っ走るなよ、せっかくここには3人いるのに」
拳を引いた賢が笑って言った。
大輔と賢の相次ぐ言動が、追い詰められてガチガチに固めた覚悟を緩く解いていく。
するりとシートプログラムが手の中から抜け落ちた。
それを賢が拾い上げて始動を保留する。
あれほど重たかった心がふわりと軽くなるのが分かった。
状況は何一つ変わってなどいないのに、不思議だった。
しかし、気が緩んだのも束の間、バリバリと電撃が走るような音が響き、賢と初島ユウキの大輔の名前を呼ぶ声が重なる。
慌てて振り返ると、初島ユウキを捉えるデータの網に手を掛けたまま膝を付く大輔の姿があった。
あれに触れたんだ。
「大輔!」
僕と賢が大輔に駆け寄る。
僕は急いで大輔の手をデータの網から外そうとするが、大輔自身がそれを拒んだ。
「いいんだよ、これで…っ」
苦しげに声を絞り出し、大輔はもう片方の手もデータの網に掛けようとする。
「いいわけないだろ!あんな記憶に何度も晒されて正気でいられるわけない!」
大輔の手を掴んで無理矢理引き止める。
何が起こっているのか分からない賢が困惑した表情で状況を問い掛けてくる。
僕はこのデータの網が初島ユウキが引き受けてきた記憶で構成されており、触れることでその記憶が流れ込んでくることを早口に説明した。
「人やデジモンの死の記憶だ、強烈すぎて精神が持たない」
「そんなっ…じゃあここにあるデータ全てが?」
広大に張り巡らされたデータの網を見上げ、途方もなさに愕然とする賢。
しかし、大輔は首を振った。
「ユウキは1人で背負ってきたんだ。もうこれ以上、ユウキの苦しみは増やさねぇ」
そう言って僕の手を振りほどき、初島ユウキの腕を絡め取るデータの網に手をかけた。
途端に大輔の手に触れた網がデータチップに分解され、大輔に襲い掛かる。
叫び声こそ上げないが、大輔は苦しげに顔を歪めた。
「やめっ、やめて、大輔くん!」
初島ユウキが涙ながらに訴える。
記憶の波を乗り切った大輔が、初島ユウキに向けて笑顔を見せた。
「大丈夫だって、心配すんな」
網の一つを解き、大輔は新たなデータに手を伸ばす。
僕は一度触れただけで怖気付き、二度は触れる勇気が無かったのに、あの記憶達を受けて尚、どうして笑えるのか。
一つ一つ、着実に網を解く大輔の背を見て、僕は自らの不甲斐なさに打ちのめされる。
「タケル、この記憶達は…僕やタケルが彼女に預けてしまった記憶(もの)と同じように、解放できるのか?本人じゃなくても」
賢がそう言ったのを聞いて、彼もまたこの空間で自分の記憶と対峙したのだということが分かった。
「ホメオスタシスが言うには、記憶の解放は本人のみが行えるって…でも、もしできたなら…」
「初島さんを助けられる?」
僕は頷いた。
不可能だと思った方法。
でも、大輔はそれをやろうとしている。
初島ユウキの頬が次々と溢れる涙で濡れていくのが見えた。
賢が前に進み出て言った。
「タケル、八神さんが捕らわれているなら、彼女を助けに行け。初島さんは僕と大輔で助けるから」
「賢!」
「方法は一つじゃないかもしれないだろ?」
「でもっ」
「彼女は僕が背負わなきゃならなかった記憶(もの)、パートナーの死だけじゃない、僕が手に掛けた沢山の命の記憶まで背負ってくれてたんだ。僕が過って創り出してしまった命さえも…」
グッと拳を握る賢の姿に、人工的に作り出されて暴走したデジモンの記憶が蘇る。
賢はこの空間に来て、多分僕なんかよりもっと沢山の記憶と対峙して解放したんだと思った。
「彼女も八神さんも助けよう」
力強く、優しい声でそう告げて、賢は初島ユウキを捕らえるデータの網に向かう。
後を追えない僕だけが、2人の背中を見つめる。
やっと肩を並べられたと思ったのに、また僕だけ足踏みしているのか。
前に踏み出す勇気が持てず、大輔や賢に気遣われて…。
「僕は…」
悔しさが込み上げる。今すぐにでも2人のように行動できたらと思うのに、さっき見た記憶が蘇って背筋が粟立つ。
怖い。人が死ぬ瞬間に見る光景、衝撃、痛み、苦しみ、死にたくないという叫び、後悔。
僕には受け止めきれる自信が無い。
動けと叱咤する自分と無理だと諦めを囁く自分、圧倒的な恐怖に慄く自分がせめぎ合い、身動きが取れない。
強く目を瞑ったその時、頭の中に声が響いた。
それは、誰よりも大切に思う人の声。
『タケル』
『ヒカリ!?』
『漸く届いた』
『どうして?』
『ずっとタケルが苦しんでることだけは伝わってきてたの。でも私の呼びかけは届かなくて…』
僕の苦しみが?ずっと繋がっていた?もしかしたら、あの防壁空間に接した時から?だとしたら、ヒカリは僕がしようとしたことも全て知っているのでは?
予想外の事実に僕は頭を抱えたくなった。
『ヒカリ、僕はっ…初島さんを』
『いいの、全部私のためなんでしょう?タケルは、いつも私を一番に考えてくれるから…辛い思いをさせて、ごめんね』
『違う、違うよ!僕がヒカリを失いたくないだけで、こうすることで傷付く人はたくさんいるのに、僕が身勝手なだけなんだ』
『そんなことないよ、自分ばっかり責めないで』
『ヒカリ…僕は怖いんだ、僕を許してくれる人達ばかり…その人達を助けたいのに、怖くて動けない…』
『…タケル、タケルは1人じゃないわ。タケルが1人で受け止められない分は、私が引き受ける。貴方を通して記憶のデータを私が』
『そんなことしたらヒカリがっ…』
『タケル、私も初島さんを助けたいの』
ヒカリの強い声に、僕は言葉が続かない。
少し間を置いて、ヒカリが穏やかに告げた。
『いつも何もできないことが歯痒かった。私の力のせいでお兄ちゃんやタケルや仲間に気を遣わせて、守られて…こんな力、無ければ良かったのにって何度も思ったわ。でも今、この力で初島さんを助けられるなら、助けたいの!』
切実な願い。
力に苛まれてきたヒカリが、力と向き合って出した答え。
僕に拒否することはできなかった。
辛い思いをするとか、苦しい思いをするとか、そんなんじゃなくて、ただ彼女が望んで出した決断を尊重したかった。
『分かったよ、ヒカリ…一緒に初島さんを助けよう』
『うん』
魂の重さは21gだそうですね。
読んで頂き、ありがとうございました。