デジモンアドベンチャー それぞれの物語(タケル編)   作:アキレス腱
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第3話 〜水崎マコト〜

 

 

 

新学期、夏休みを引きずる自堕落な高校生たちにとっては歓迎できない学校生活の再開。

僕にとっては別段変わらない毎日の始まりの筈だった。

この日、始業式を終えた僕は何となく屋上にやってきた。

屋上を取り囲むフェンスに寄り掛かり、校庭を見下ろしてみる。

そこには、新学期早々部活動に勤しむ運動部の生徒達がいた。

ぼんやりと陸上部のランニングを眺め、視線をテニスコートに向ければ、ラケットがボールを叩く音がやけに大きく響いた。

耳をすませば五月蝿い蝉の声の隙間から、生徒達の喧騒や、水泳部の飛び込みの音、校庭に鳴り響くホイッスルの音が聞こえてくる。

中学時代はあの喧騒の中にいたのになと思うと無性に寂しくなったが、あの世界を遠ざけたのは他ならぬ自分だった。

高校では部活に入らなかった。

中学まで続けていたバスケを辞め、何にもやる気を見出せず、無気力な学生を演じる。

母親の手前、成績だけはキープしたが、そんな自分を嘲笑う自分がいるのを感じていた。

加えて今日配付された進路調査票のことを思い出し、益々頭を抱えたくなった。

 

こんな自分が何になれるというのか。

 

将来への不安、それ以前に自分の存在価値、アイデンティティの確立に失敗しているというのに、自分の進路など考えられる筈がなかった。

ダラダラと親の金を食い潰して大学に進学するのだろうか、とありがちな未来を予想しては溜息を吐いた。

フェンスを背にして座り込もうとした時、屋上のドアが開く音が聞こえ、おもむろにそちらを見やる。

と、そこに現れた人物に視線は釘付けになった。

長いストレートの黒髪、眼鏡こそかけているものの、レンズの奥の黒い瞳と整った顔立ちは、あの日歩道橋で自分を助けてくれた女の子だった。

紛れも無くこの高校の制服に身を包んだ彼女に思わず駆け寄りたい衝動に駆られたが、一歩踏み止まる。

それは、彼女の後ろからもう一人、小柄な女生徒が姿を現したからだ。

きっと友人か何かだろう。そんな所に声を掛けるわけにはいかない。ましてやあの時の話なんてできるわけがない。

それに、もし今自分の存在が彼女にバレたら、あの日のことを女生徒に知られてしまうかもしれない。

いや、もし彼女が自分を以前から知っていたとしたら、既に知られてしまっているかもしれない。

自殺未遂ととられても仕方ない、いや実際そうだったのだろうけど、そんなことが学校の皆にバレたらと思うと、ゾッと背筋が粟立つのが分かった。

早くこの場から立ち去りたい、もしくは彼女達が立ち去ってはくれないだろうかと願う。

彼女達に背を向けるかたちで僕は携帯電話を弄るフリをして、この場から逃げるタイミングを測ることにした。

相変わらず何て情けないんだ。そう自分を罵倒した。

無操作のまま携帯の画面がブラックアウトする。

ハッとして、あまりにネガティブな自分にほとほと嫌気が差したが、命の恩人である人に対してこの失礼極まりない態度は何なんだと、己を叱咤するだけのモラルはまだ残されていたらしい。

携帯をポケットにしまい、一呼吸着いてから改めてお礼をしようと決意し、彼女達のいる出入り口に向き直った。

彼女と彼女の友人らしき女生徒は出入り口の扉のすぐ横、丁度日影になる位置に並んで何かを話しているようだった。

決意して早々で何だが、話の邪魔になってしまうんじゃないか、なんて消極的な考えがすぐに芽生える。

ああまた色々と言い訳を見つけて誰かと関わることを回避しようとしてるなぁ、と思ってしまった。

残暑厳しい9月の風が屋上を鈍く撫でる。

お世辞にも気持良いとは言えない暑苦しいだけの空気が、煮え切らない心の内と相俟って無性に倦怠感を助長させる。カシャンとフェンスの金網を握りしめて宙を仰いだ。

 

あー消えたいな。

 

痛いくらいに眩しい太陽も、抜けるような青空も、むせかえる夏の暑さも、眼下の喧騒も、全てが僕の頸を締める。

追憶の果てにあるあの夏の冒険さえ僕の苦しみを増やす一因でしかないことが、そういう風にしか考えられない自分が大嫌いだ。

 

後ろから扉が開いて閉まる音がした。

彼女達が帰ったのだろう。

結局彼女にお礼を言えなかったことに落胆し、半分以上は自分の所為だと懲りずに己を罵倒して再度フェンスに体を預けた。

何度目か知れない溜息を吐き出した時、近づいてくる足音に気が付いて慌てて顔を上げると、そこには制服の襟元を僅かに緩め、解かれたネクタイを風になびかせて歩いてくる彼女の姿があった。

「あ…」

思わず表情が緩み安堵の声が漏れた。多分、すごく間抜けな顔をしていたと思う。

「この間の子だよね、歩道橋の」

僕の目の前までやってきた彼女の言葉に心臓が跳ねる。

反射的に周囲に人がいないか確認してしまい、バツが悪くなって目を逸らして頷いた。

いつの間にか彼女の友人らしき女生徒はいなくなっていた。

誰もいない、その状況に後押しされたからというわけではないが、先ほど決意したお礼を言おうと彼女の顔を見た。

僕より少し背の低い彼女は女の子にしては背の高い方だろう。

中学後半から現在に至るまで、成長期というやつか、僕はかなり身長が伸びた。

1学期の身体測定では170cmの後半に差し掛かる所だったのだ。

とすると彼女は推定で165cm程度か。

すらりと伸びた四肢は細く、その華奢な体格が更に長身に見せていた。

あの日の彼女と違う黒縁眼鏡の奥の黒い瞳を真っ直ぐに見て、僕は改めて御礼を告げた。

「あの時は止めてくれて本当にありがとう。それと、落ち着くまで一緒にいてくれてありがとう。すごく助かった」

「ううん、余計なお世話だったらどうしようって思ったんだけど、良かった」

彼女はホッとしたように表情を崩して笑った。

こんな風に笑うんだ。

助けてくれた時は無表情っていうか、もしかしたら緊張していたのかもしれない。

それもそうか、自殺しそうな人を止めるかどうか悩んだ末に実行に移した直後なんて、表情が強張っていて当たり前だろう。

緊張の解けた彼女は、最初よりもずっと柔らかい印象になった。

「同じ高校だったんだね、さっきは吃驚した。すぐに声かけようかとも思ったんだけど、友達と一緒だったみたいだから」

「ああ、さっきの子はクラスメイト。少し進路のことで相談があるって言うから、話を聞いてただけで、別に友達じゃないんだ」

「友達じゃないんだ…」

印象が和らいだのも束の間、クラスメイトに対して何だか冷たい物言いに聞こえてしまい、笑顔がぎこちなくなる。

すると、彼女は僕の方を見て「だって」と鬱憤を吐き出すように続けた。

「あの子とは中学も違うし、ほとんど会話した記憶は無いし、いつも行動力のある子の陰に隠れて多数派に溶け込むタイプだから、常に少数派の私とはそもそも相性が悪いと思うんだよね」

「じゃあ、何で進路の相談なんてしてきたの?」

進路で悩むのは分かるが、何故友達でもない人間に相談するのかが不思議だった。

「友達には相談しにくいんだって」

「変なの」

「そうでもないよ。気持ちは分からなくもないから」

「ふーん、僕には分かんないや」

「まあ、分からないって人の気持ちも分かるけど」

「何それ、どっちさ?」

「どっちも分かるってだけ。私は友達にもクラスメイトにも相談しないもん」

「じゃ誰に相談するの?家族とか?」

「それもない」

「あー、先生?」

「情報提供くらいはお願いするかもね」

「合理的。分かった、誰にも相談しないで自分で決める?」

「それができたら一番ね」

「んー、正解は?」

「正解が欲しいの?」

「この場合はどうかな…いらないか」

彼女と僕は顔を見合わせて笑った。

彼女と話す時、何故だか言葉は飾らずスルスルと喉を通った。

いつも誰かと話す時には、一度内言語化した言葉を咀嚼してから取捨選択を行い、初めて口から送り出す。

でも、彼女との会話は驚くほど自然に内言語と遜色ない言葉でやり取りが行えた。

何故だろう、言葉遊びみたいで居心地が良かった。

もう何年もこんな風に誰かと会話したことなんてなかった。

君ともこんな風に話したかったな。

いつから僕は君と、仲間と、社会と、世界と上手くかみ合わなくなってしまったんだろう。

密かにここにいないヒカリを想う。

 

 

命の恩人の名前は水崎マコト。

2年D組。

予想通り歳上だった。

慌てて敬語に直そうとしたら、話しにくいからやめてくれと言われた。

図書委員をしているというので文学系かと思いきやバレー部に所属していると聞いて驚いたら、なんと入部の理由は前年度バレー部部長の強引な勧誘によるもので、しぶしぶ入部し、部長が卒業した今年度からは見事な幽霊部員だという。

しかも何やら合唱部や軽音楽部から助っ人を頼まれてはそちらに顔を出しているらしく、もはや所属先が曖昧だそうだ。

何でもできるんだ、と言ったら、まさか!とあっさり否定され、機械系にはとことん弱いし数字と記号は大嫌いと笑っていた。

自宅は世田谷区にあるらしく、自分も世田谷区で一人暮らしであることを告げると、いいね、とどこか薄れた笑顔で答えたことが気掛かりだったが、追及はやめた。

聞かれたくないことだってあるはずだ。それからもお互いのことを教え合うような会話が続き、気が付けば正午を過ぎていた。

さすがに日向での会話は暑い上に日焼けが怖いので、先程マコトとそのクラスメイトが話していた日陰に場所を移していたが、正午を知らせるチャイムが聞こえた途端、空腹感に襲われた。

するとマコトも同じだったのか、昼どうするの?と聞いてきた。

「んー今日は学食やってないし、そもそもこんな時間まで学校にいるなんて思ってなかったから、帰りにコンビニ寄って適当に済まそうと思ってたんだ」

「私も大体そんなとこ。すぐそこのコンビニでも行く?」

マコトが眼鏡を外して立ち上がりながら言う。

高校の正門を出てすぐの交差点にはコンビニがある。

学内の購買や学食に飽きた学生達の昼食やおやつの調達場所であり、帰り道の買い食いなどにも重宝されている。

僕も一人暮らしなのでよくお世話になる。

勿論自炊もするけど、毎日弁当を作るほどマメじゃない。それ以外にもなんとなく学生達の流れに乗って入店し、さして欲しいとも思わないペットボトル飲料なんかを買ってみたりすることがあった。

「そうだね、そうしようか」

マコトの意見に賛同して立ち上がる。

マコトは長い黒髪を手早くまとめてヘアゴムで括り、「じゃ、鞄取ってくるから」と言ってヒラリとスカートを翻す。

その後ろ姿に下駄箱で待っている、と投げかけると、「オーケー」と返事が聞こえ、直後にガチャンと扉が閉まった。屋上に一人になった。

いつになく屋上が広く感じられ、遠ざかっていく彼女の足音が聞こえなくなると僕は下駄箱に向かった。

 

さすがに校舎に残っている生徒は少なかった。

部活動も昼休憩らしく、先程までの号令や声援、怒号などは聞こえない。

下駄箱に寄りかかってマコトを待っている間、テニスウェアを身につけた女生徒が数人行き来した。

その内の何人かが、チラチラとこちらに視線を送ってくるのが鬱陶しい。

こんな時間に一般の生徒が残っているのが不思議なのか知らないが、放っておいてくれ。

周囲を行き交う他人の気配や視線、その奥の思惑まで想像してしまう自分が悪いのだと分かっていても苛々してしまう。

そして、その苛立ちを制御できずに垂れ流している自分に更に腹がたつのだ。

負のスパイラルだ。

何人目かになる女生徒の横目からの視線、その後のヒソヒソと耳に届く無声音に耐えられず、鋭く彼女等を睨みつけてしまった。

「やだぁ」「なにー」「こわっ」と女生徒達が口々に非難めいた声色を上げて走り去っていく。

あーあ、と心の中で自分の愚行を後悔するが、壁を殴りつけなかっただけマシかな、などと苦し紛れの自己弁護をしてみたりもした。

 

虚しい。何だよ、これ。

 

毎日の如くやってくる虚脱感に襲われそうになった時、よく通る声が僕を呼んだ。

「お待たせ、高石君」

振り返ると鞄を持ったマコトがいた。

フッと虚脱感が遠のく。

手慣れた動作で下駄箱に上履きをしまいローファーに履き替えたマコトは、僕の顔を見て何やら瞬きを繰り返した。

「どうかした?」

「いや、そんなに待たせたかなって」

「何で?」

いきなりそんなことを聞かれて訳が分からずにいると、彼女は少々申し訳なさそうに肩をすくめて言った。

「機嫌悪そうだから」

あ、と思って思わず片手で顔を覆った。

「ごめん、違うんだ」

マコトから顔を背けて、弁解しなければと騒ぐ心にせっつかれて、何をどう説明するかを整理する余裕もないままに言葉を続けた。

「水崎さんの所為じゃない。そんなに長くも待ってないし、これはただ…僕が」

「何だ、自己嫌悪でぐるぐるしてただけ?」

言い難くて言葉が詰まってしまった僕の言いたかったことをマコトはあっさりと言い放つ。

ギクリと身が固まる。

「ご、ごめん」

やっぱり他人に自分の苛々をぶつけるなんて最低だ。

いつかの自分が一番嫌っていたんじゃないか。

仕事が忙しい両親の衝突、不和、無理解、離婚。

あの夏の冒険の最中、極限の状況に追い詰められた幼い感情の暴走、兄達の喧嘩。

嫌だったのに、あれほど嫌だったのに、今自分は他人に同じことをしているではないか。

滑稽だ。

きっとマコトを不快にした。自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。

しかし、当のマコトの反応は予想と異なるものだった。

「いいよ、私が原因じゃないって分かったから。どうする?コンビニ行く?それとも気分じゃなければやめてもいいよ」

どうしてそんなにあっさり言えるんだろう。

しかも相手を気遣う言葉まで付け加えて。

それはマコトが思慮深いからなのか、遠慮しているのか、それとも天然か。

「ううん、行くよ。何か飲みたい」

「そ。じゃあ行こう」

先立って歩くマコトの後をついて、コンビニへ向かう。

僕にはそんなあっさり言えない。

相手の顔色を伺ってばかりいた僕は、相手の機嫌が悪い原因が自分でなかったとしてもすぐに納得できなかった。

それなら機嫌を直して欲しい、なんてとんでもない我儘なことを思っていたから。

だって、機嫌が悪いと分かっている相手と一緒にいるなんて辛い。

まるで自分が責められているようで、自分が悪いみたいで居た堪れなくなる。

結局は自分が居心地のいい場所を害されたくなくて、その場を上辺だけでも収めたいというエゴイズムだったのだと改めて思い知る。

何一つ相手の気持ちなど考えていないではないか。

みんなの為と言いながら、自分のことばかりだった愚かな自分に項垂れるばかりだ。

 

空調の効いた店内は涼しくて汗が沁みた制服を冷やし、肌にひんやりと纏わりつく。

肩から滑り落ちそうになる鞄を背負い直し、ペットボトル飲料がズラリと並んだ棚の前でぼんやりと商品のラベルを眺める。

マコトはパンのコーナーを行ったり来たりしているようだった。

僕は棚の下段中央に陳列されているジャスミンティーのボトルを手に取った。

「チョイスが女子ね」

「母の影響かな」

すかさず入るマコトのツッコミに答える。

いつのまにかパンを選び終わったマコトが隣に来ていたらしい。

僕の母親はコーヒーよりも紅茶派で、様々な茶葉を購入しては試飲し、季節問わずハーブティーなどは数種類が冷蔵庫にストックされていた。

一緒に暮らしていた中学までは、その中から好みの紅茶をチョイスして飲んでいた。

勿論、麦茶やウーロン茶などのストックもあったが、それらはもっぱら来客用だった。

マコトは「ふーん」と返事をして、迷うことなくミネラルウォーターを選んだ。

「水なんだ」

「水か炭酸しか買わないの」

「へぇ、変わってるね」

「よく言われる」

僕は紅茶が多いかな、なんて嗜好について話しながら会計を済ませる。

結局、僕は食べ物は買わなかった。

マコトは惣菜パンを2種類と昔懐かしいパッケージのグミを購入していた。

どうやらグミが好きらしい。

店を出て、どこで食べようかという話になる。

外は暑いし今更学校に戻るのも嫌だ。

公園は子供が遊んでいたり、保護者が日陰を陣取って井戸端会議している可能性が高いので無し。

ならばフリースペースがある施設へ行こうかと案を出したが、マコトが人の多い場所で食事はしたくないとのことで却下された。

散々考えを巡らせた挙句、最終的に僕の部屋になった。

これはマコトからの提案であり、それだけは自分からは言うまいと思っていた場所でもあった。

そりゃあ一人暮らしだし冷房もある。

多少狭いとはいえ二人で食事をするには問題ない。

そこそこのマンションなので防音設備も整っているため騒音の心配はなく、プライベート空間なのだから他人に煩わされることもない。

だがしかし、自分は男でマコトは女だ。

それでなくても面識の浅い異性を部屋に上げるというのは常識的にいかがなものかと思うのに。

何故マコトはこうもあっさりと…。

いつもの帰り道を、いつもは1人のところを2人で帰るのは何だか妙な気分だった。

それでも道中マコトとの会話は途切れることはなく、話題は尽きなかった。

猫が好き、犬が嫌い、コーヒーが飲めない、セロリが好き、甘エビが嫌い、歩くのは好き、走るのは嫌い、特に持久力は皆無、携帯はガラケー、着歌は嫌いで既存の着メロしか使わない、朝食は食べたり食べなかったり、米もパンも好きだけどコンビニのおにぎりは嫌い。

同じくらいの好きとか嫌いなものを僕も話した。

マンションのロックを解除してマコトを部屋に招き入れる。

間取りは玄関を入ってすぐ左手にトイレ、正面の廊下の途中にバスルームがあり、突き当たりにフロアが広がるワンルームだ。

フロアに入って右側の一角には仕切りを設けられたキッチン。

キッチンからフロアを見渡すことが可能だ。フロアの最南端には光の取り込みが抜群の大きな掃き出し窓。

ベランダもそこそこ広さがある。

西側の壁にベッドと本棚が配置され、東側の角にテレビ、その隣にチェスト、部屋の中央にはこじんまりしたラグが敷かれ、木製のローテーブルが一つある。

物は少なく、大半の物はクローゼットに納まってしまう。

唯一の小物はチェストの天板に置かれた写真立てだが、常に伏せてあるのであまり意味を成していなかった。

ローテーブルに買った品物を置き、マコトがトイレに行っている間にエアコンのスイッチを入れる。

送風口が開口して風を送り出す。

ネクタイを緩めようと手をかけて、暫く考えてからやめた。

Dターミナルと携帯をベッドに放り、鞄を脇に寄せて置いた。

トイレの水が流れる音が聞こえてきて、僕は少しばかり内容量の減ったジャスミンティーのボトルキャップを緩め、口に運ぶ。

「ありがと、あーお腹すいた」

トイレから戻ったマコトは自前のハンドタオルで手を拭きながらローテーブルの前に座り、自分の昼食をビニール袋から取り出した。

座った勢いで乱れたスカートの裾から、マコトの白い膝が覗く。

僕は敢えて見ないようにして窓の方を向いた。

多分、緊張してるのは僕だけだ。

そういえば、暫く自分でもシてない。

あの8月1日以来、胃を焼くような性衝動はすっかりなりを潜めていた。

良いことなのかはよく分からないが、ヒカリに対するあのドロドロとした感情に悩まされないだけでも良しとしていた。しかし、今はそれとは別の問題に直面していた。

自分が雄である事実は変えようもなく、この状況を作り出してしまったことを少なからず後悔する。

ほんの些細な仕草や香りが五感を刺激するのが分かる。

意識し過ぎだと思考を追いやろうとしても、すぐに引っ張られる。

ダメだ、ご飯食べたら帰ってもらおう。

そして、次からは軽々しく部屋に入れないようにしようと思うに至る。

そんな苦悩を知ってか知らずか、マコトは早々とパンを完食し、グミをつまんで満足すると、「場所提供ありがとう」と言ってあっけないほどあっさりと帰っていった。

拍子抜けすると同時に有り難かった。

あのまま長いこと一緒にいたらどうなっていたか分からない。

己の自制心の弱さに溜息が出る。

マコトが帰って1人になった部屋は、いつもよりも寂しげだった。

ベッドに身を投げ、深く息を吐いた。

「会いたいなぁ…」

寂しさからふと溢れた自分の声が、思い出しても辛いだけと分かっていても想わずにはいられない少女の顔を呼び起こす。

 

 

僕はあの頃も今も、少しも君のことを考えれていなかった。

そんな僕から皆が離れていくのは当たり前だよね。

いつまでもここから動けないでいる。

置いていかれたくないのに、動けない。

父さん、兄さん、みんな、ヒカリちゃん…エンジェモン…僕を置いていかないで。

小2の僕が泣いている。

 

 

目を覚ましたのは深夜だった。

目尻から溢れた涙がこめかみをつたってシーツにシミを作る。

重だるい頭と体を起こすと、重力に従う水滴が今度は目頭から溢れて鼻筋を伝った。

 

 

 

 




ネガティブ思考が止まらないタケルです。
暫くはオリジナルキャラが出張ります。

読んで頂き、ありがとうございました。






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