百合ネギま 作:ねぎゆり
日が落ちてからたっぷり待つ。ルームメイトは寝静まりかすかに寝息が聞こえていた。音を立てないよう細心の注意を払いそっとベッドから降りる。あらかじめ目をつむっていたため視界はぼんやりとだが見えていた。難なく玄関までたどりつく。すぐには戸を開かず立ち止まったままうつむいた。軽く足踏みを繰り返した後決心を固めたように朝倉和美は部屋を出た。気になることを目の前にして自ら機会を投げ捨てるなんて真似はジャーナリストとしてふさわしくない。そう考えた和美は自身のジャーナリズムに従い行動に移した。
廊下は薄暗い。窓の外には闇しか見えない。戸についた窓から漏れた明かりが点々としている。和美はまるで道しるべのようだと思った。普段この時間に部屋の外に出ることは数えることしかない。見慣れた景色はまるで異界だ。覚束ない足をなんとか働かせゆっくりと、決して歩みは止めない。
向かう先は654号室。和美の部屋からは歩いて数分かかるかかからないか。一歩進むたびに胸がどきんこどきんこと高鳴り呼吸は浅くなる。そんな状態が続き気が付けば目的地に着いていた。緊張はピークを迎えドアノブすらうまくつかめなかった。
「……いやいや。きっと、冗談に違いないよね」
昼間の出来事が頭をよぎる。
噂を聞いた。信憑性はあまりない。友達の友達が聞いたらしいよ、なんてくらいのものであった。もちろんそのような信憑性の乏しい情報を真に受けるようではジャーナリスト失格だ。和美は自身がはっきりと見聞きしたこと以外は信用しない。しかしだからと言って動かない理由にはならない。好奇心が人一倍強い和美は噂を耳にすればと放っておくという選択肢はない。
放課後、体育館裏に和美はいた。来たるべき人物にばれないようにフェンス近くの茂みに身を縮こませ潜んでいる。後輩から情報提供されたため動かざるを得ない。和美の行動原理は極単純である。湧き上がる好奇心に従うだけだ。気になるから写真を撮り気になるから情報を収集する。それは他人には理解されづらかった。パパラッチなどと揶揄されることも少なくはない。
噂の内容というのは恋愛の類であった。二年生のとある生徒が後輩を誑かしているらしいとのこと。ただそれだけなら実際に見に行くほど興味はわかなかっただろうと和美は思った。噂に登場する人物が二人とも同じ学校の生徒らしいのだ。当然それは女同士ということになる。和美は同性愛については批判的でも肯定的でもない。あえて主張するべき意見を持つほど詳しくないということと、自身には無縁の世界だと考えているからである。後輩が見た二年生のとある生徒の特長というは思いのほか抽象的だった。美少年のような中性的な容貌、すらりとした体躯。そして二年のリボンをつけている。実際に見かけたのならどうして声をかけなかったのか、と尋ねれば「なんか恥ずかしくて……」などというふざけた返答だった。なんでも見た目がタイプでかっこよすぎたからだという。くねくねしながらいまだ褒め称える言葉を止めない後輩に和美はため息をついたのを覚えている。
二年生だけでも生徒の数は非常に多くとても全員の名前を覚えるのは不可能だ。とはいえ和美はクラスの中心的な存在や特別目立つ人間は全て頭に入っている。そのような存在は常にニュースに事欠かないためだ。さて、そうなると後輩の言っていた二年の少女は思い当たらない。後輩の目がぶっとんでいて和美の情報網に引っかかっていないという線はひとまず抜いておいた。あれでも後輩。和美が直接指導してきただけあり信頼はしている。
おかげで授業の内容は何も入ってこなかった。和美が誰だか気づいたのはお昼の時間になってからだ。結構な時間を費やしてしまったのは進んで気づきたくなかったからであった。和美の脳内にデータがなかったのは彼女が最近になり麻帆良へやってきた転校生だからだ。そしてクラスは同じ。
足音が二つ聞こえる。こんなところへ世間話に来るもの好きはいないだろう。マジもんのネタだったか。喜んでいいのか、内なる感情をどう表現したらよいのか判断つきかねた。
少女二人が現れたのは和美の目と鼻の先。ほんの数メートルの位置。幸いなことに両者の間には木々が立ち並んでいるため互いに姿をはっきりと見ることは叶わない。和美は息を殺し、聴覚を研ぎ澄ました。二人は内緒話でもするかのように囁くような声量で会話している。内容の聞き取れない状況に和美は歯噛みした。断片的に言葉だけをかいつまんでいると二人の少女は喧嘩をしているようだということが聞き取れた。次第にヒートアップしているようで一年生の少女は最後に文句を言い捨て早歩きで去っていった。和美は音を立てないようにそろりと少し顔をのぞかせる。果たして残された少女は転校生の
「ねえ。そこに隠れてる人」
「っっ!」
突然かけられた声に和美は息を呑んだ。
逃…! 無理! 隠れとおす!? 無事で出来る!? 否 死。
和美がとった行動は単純でそれでいて明快。
「や、野鳥の撮影に集中しすぎてこんなとこまで来ちゃったな~。あ、あはは……」
わざとらしいくらいに胸元へカメラを構え木々を見渡すように首を回す。隠れとおすこと。それはすなわち弱みを作ること他ならない。あえて姿を現すことで疚しいことはなんにもしてませんよ、とアピールになると考えた。背を伝う汗を感じながらも和美は堂々とした態度を崩さない。我ながら天才では? 混乱の極みに達した和美の内心は大変な状態であった。
「……いつの間にか見失っちゃったから私はこのへんでおいとまするよ」
当然鳥なんてどこにもいない。いそいそと朱里の横を抜ける。
「ひゃっ!」
朱里の右腕が和美の鼻先をかするように通り過ぎ壁を叩いた。鼻にかすった際の風圧で和美はびびりまくっていた。朱里は和美の肩をそっと押す。すると何の抵抗もなく和美は後者の壁によりかかるように朱里と向かい合った。
「あ、あの。すいませんごめんなさい許してください! 結構離れてたから何も聞いてないし聞こえてないよ。それに彼女さんのことだって全然まったく見てないよ」
「ん? 彼女?」
「ち、違っ! それは言葉の綾でその」
和美はあわてて謝罪を口にするが墓穴を掘った。朱里が食いついたのはよりによって彼女という危険すぎるワード。これじゃ最初から最後までずっと聞き耳を立てていたみたいになってしまう。和美は悪化するだけの状況に焦りながらも無事に帰ることのできる未来を探していた。
「織井が同性愛者だってことなんてまったくもって知らないから!」
終わった。和美は絶望した。
「まーそうだよね。転校生といたいけな後輩まさかこんな。危ない関係だったなんて大スクープになっちゃうかもね」
「誤解しないでっ! 私は人を傷付けるような記事は絶対書かないから!」
和美は思わずうつむいていた頭を持ち上げた。和美の発言は事実である。面白おかしく写真を撮ったり記事を書くのは大好きだが決して人が傷つくようなことを書いたことは一度もなかった。パパラッチなどと呼ばれることはあるが、本気で和美を嫌っている人物はほとんどいない。
「そう言われてもなあ。私まだ朝倉さんのこと全然知らないしさ。だからさ……」
一人の人間の人となりを知るにはそれ相応の時間が必要だろう。朱里は右腕を曲げ壁に肘をつける。和美との距離はぐっと縮まる。その時、和美は思った。これ壁ドンからの肘ドンじゃねえか、と。
「もっと朝倉さんのこと教えてよ」
囁くような声で放たれたその言葉に和美は思わず赤面する。女同士だってことも何故壁際に追い詰められているのか、一瞬和美はその全てを忘れ不覚にもときめいてしまったのだ。心の機敏に気づいた和美はさらにときめいた自分に対して恥ずかしくなりさらに真っ赤になる。朱里の話はまだ続いていたが何も耳に入る状態ではなかった。負のスパイラルだ。
「ねえ、聞いてる?」
和美は再び朱里に目をやるとそのまま固まってしまった。和美の知っている朱里という人物は麻帆良の気風によく馴染み明るくてでもどこか抜けているそんな印象であった。しかし今目と鼻の先にいる人物はまるで別人。中性的な顔立ちに真剣な表情は彫刻でも見ているかのように気品に溢れ端的に言えばかっこよかった。
ゆっくりと朱里の左手が和美に向けて伸びる。和美は近づいてくる指先に見とれていた。視線は次第に指先をたどり瞳についた。澄んだ色をしている。青みがかったそれは底が見えず吸い込まれてしまうのではないかという錯覚を覚えた。
和美は頬を撫でられる感覚にびくりと体が震える。
「鍵、開けとくから。皆が寝静まった頃おいで」
朱里の言葉と同時校舎裏に予鈴が鳴り響く。
顔の火照りが収まった頃に朱里の姿はどこにもなく和美だけが残された。
一つ深呼吸して気持ちを整える。朱里の元へ訪れたのは昼休み以降、話を切り出すタイミングが見つからずだらだらと放課後を迎えてしまったのだ。行くか行かないかシンプルな二択を選ばなければならない。しかし、行かないという選択肢を選んだ場合朱里は和美に対して不信感を抱くだろう、と和美は考えた。和美としてもクラスメイトとの間に不和を生みたくない。つまるところ選択しなんて存在していないのと同義だ。だから仕方ない。これは仕方のないことだと言い聞かせた。
いつの間にかかいていた手汗を拭う。ドアノブに手をかけたところでいかに自分が焦っているのかに気がつく。せめてノックくらいしなければ。軽く木製の扉をノックする。すると奥からドタバタとした音が聞こえた。少しして中から扉が開け開かれる。
「こんな時間に何のようだ」
現れた人物に和美はフリーズしてしまった。つっけんどんな言葉を返したのは長谷川千雨である。
「ななな、なん、で? どーして長谷川が? 織井は?」
意味がわからない。もはや何が起こっているのか和美の理解を超えていた。
「は? いきなり何いってんだよ。なんでってそりゃあ……」
和美は気がついてしまった。千雨の着衣の乱れに。そして微かに荒い呼吸。意味することはただ一つ。千雨の言葉は耳に届くことすらなかった。
「長谷川のえっち! 変態! ふしだら! すけべ! 織井のバカーっ!!」
走り去ってゆく和美の姿を千雨はただ呆然と見届けた。
和美が盛大な勘違いをしていたことに気づくのは夜が明けてからのことであった。