※最終加筆2020/01/08
大学の夏休み、俺は「サトーイツカドー」の飲料売り場で働いていた。汗臭い倉庫で、ペットボトルの箱を積んでいた。
その日は朝から勤務だった。汗だくで荷物を運んでいると、バランスを崩した箱が崩れた。
「……ちっ」
叫ぶ暇もなかった。重みが襲いかかる。意識は一瞬で落ちた。
目を覚ました時、俺はベッドの上にいた。天井が高い。医務室にしては、妙に静かで上品だ。いや、何かがおかしい。
「ラインハルト様!」
赤毛の青年が声を上げる。誰だ。こんな外人、知り合いにいた覚えはない。
顔立ちは端正だった。白い肌に赤い髪、黒い軍服がよく似合っていた。まるでモデルのような青年だった。
「本当に大丈夫ですか?」
何を言っている。ラインハルトだと? 俺は名前を聞き返す前に、自分の手を見た。
白く細い。骨が見えるほど華奢だった。
水差しに映った顔は、金髪の少年だった。王冠のような髪。間違いない。ラインハルト・フォン・ローエングラム――銀河帝国の若き将軍。
俺は目を細めた。クソみたいな現実だ。よりによって、こいつの中身にされちまった。
ラインハルトは、もうすぐアスターテ星域に向かう。2万隻の艦隊を率いて、同盟軍4万隻と戦う。地獄の始まりだ。
(やれやれ、なんてこった)
俺は凡人だ。軍人じゃない。殺しも指揮もしたことがない。だが今、それをやらなきゃ殺される側になる。
従軍看護婦の手を借りて、ベッドからゆっくりと体を起こす。白衣の胸元がちらつく。だが今の俺には関係ない。
腹が減っていた。血の気が戻るのを感じる。
ワゴンに用意されていたのは、分厚いフィレステーキだった。焦げ目の香りが食欲を刺激する。ナイフで切るのも面倒だった。
フォークで一気に引き裂いて、赤ワインで流し込んだ。柔らかい肉だった。帝国の貴族はこんなもんを毎日食ってるのか。
葉巻を一本、銀のケースから抜いて火を点けた。甘い煙が肺に広がる。肺胞を満たすこの毒が、神経を研ぎ澄ませる。
「キルヒアイス、提督たちに伝えてくれ。俺は決めた」
赤毛の副官が黙って頷いた。疑念はあったろうが、従う姿勢を崩さなかった。忠義に厚い。だからこそ、今の俺がラインハルトであると演じる価値がある。
決断の内容は単純だった。予定通りの戦法。だが、その決断を「どう見せるか」が重要だ。
オフィスに戻ると、俺は軍服の襟を正し、短く髪を整えた。鏡に映る金髪の若造に向かって、冷たく笑ってみせた。
「行くぞ、アスターテへ」
俺は、俺のやり方で勝つ。大量殺人だ? 知らねえな。やるか、やられるか。それだけだ。
作戦室の椅子に沈み、スクリーンに映る星図を睨む。敵の艦隊は3個。第2、第4、第6――。名ばかりの民主主義国家が誇る寄せ集めの軍勢だ。
だが、4万隻は数字として重い。こっちは2万。常識でいえば不利、撤退が妥当だろう。
だが俺はもう常識の外にいる。
「各個撃破だ。順に潰す。まずは第4艦隊からだ」
各艦隊に指示が伝達される。戦闘配備。副官たちは忙しなく動く。だが俺は動かない。
煙草をふかし、鋼鉄の椅子にもたれている。焦るのは素人のやることだ。俺は、ラインハルト・フォン・ローエングラム――の顔を持つ「獣」だ。そして敵を襲う。
パストーレの第4艦隊がスクリーンに映る。間抜け面をした連中が、編隊も乱れ、バラバラに進行してくる。戦術の「せ」の字もない。
「撃て」
俺は短く命じた。
数秒後、帝国艦隊が一斉に火を噴いた。宇宙が焼ける。爆発が連鎖する。数百、数千の命が一瞬で蒸発した。
内臓が震える。胃袋が収縮し、脳が興奮で焼ける。そう──これは快感だ。殺している。だが、それは手応えのある「狩り」だった。
俺は戦術家でも、軍神でもない。ただの動物だ。牙を持つ獣。だからこそ、今のこの戦場に適している。
野獣の本能に従い、襲い、戦う。殺す。それが生き残るための唯一の道だ。
俺は、この宇宙で最も殺しに適した生命体になった。
まず、潰すべきはヤン・ウェンリーだ。
知恵を持った敵は危険だ。ヤンが生き残れば、いずれ俺の喉元に刃を突き立ててくる。だから、今。最初の会戦で、確実に殺る。
「キルヒアイス、聞け。叛徒の知将ヤン・ウェンリーが敵艦隊にいる」
「確証は?」
「関係ない。可能性があるなら、消す。戦術じゃない、狩りだ」
帝国艦隊はすでに前進している。作戦は従来通り、各個撃破――だが、狙いは明確に変わった。獲物は頭脳。ヤン・ウェンリー。
「第七戦隊に命じろ。第六艦隊の後方を切り裂け。逃げようとする旗艦を追え。ヤンが乗っていそうな艦を優先的に潰せ。徹底的に、執拗にな」
「撃ち漏らしは許さん。――殺せ」
そして、ヤン・ウェンリーは死んだ。
ワルキューレ隊が撃墜した同盟軍の通信艇。その残骸から出てきた搭乗者のリストに、ヤン・タイロン・ウェンリーの名があった。
焼け焦げた軍服のボタンと、艦内の生体ログ。状況証拠は揃っていた。やつは第6艦隊の旗艦から脱出を図り、そのまま宇宙の屑と化した。
死因――真空による脳圧の破裂。
人類史に残る戦術家の最後にしては、随分と滑稽だった。
報告を受けた時、俺は何も言わなかった。ただ、静かに葉巻をくゆらせていた。胸の奥で何かが弾けたような感覚があった。
(……仕留めたか)
心は動かなかった。だが、脳は確かに熱を帯びていた。
敵は、死んだ。それでいい。
作戦終了の報を聞いたのは、ブリュンヒルトの医務室だった。
頭の片隅ではヤン・ウェンリーの死を反芻しながら、俺は静かに体を横たえていた。
血の匂いと煙の記憶が鼻腔の奥に残っていた。
数万人を指一本で殺したあとの興奮は、簡単には抜けない。
そのとき、彼女が入ってきた。
看護服の前をきちんと留めた、金髪の若い女だった。
軍属にしては色気がある。柔らかな口調、張った胸元、真っ直ぐな視線。
名前は知らない。だが、もう何度か顔を見ている。
「閣下、脈と血圧を……」
彼女の指先が俺の手首を軽くつかんだ。
冷たい。だが次の瞬間、視線がぶつかり彼女の喉がごくりと動いたのが見えた。
俺は立ち上がり、言葉もなく彼女を抱き寄せた。
「っ……!」
驚きの声は上げたが抵抗はなかった。
腰に回した腕に女の体温が伝わる。
ベッドに彼女を押し倒し唇を奪う。
「戦争の後だ。癒しが必要だ」
理屈などどうでもよかった。
俺は男としての本能で彼女の制服を捲り上げた。
下着は帝国軍指定の白――機能的で味気ない。
だがその下にあった肌は、戦場とは無縁の柔らかさだった。
彼女は頷いた。拒絶ではなく理解の合図として。
俺は迷わなかった。
医療ベッドの上、白い制服と乱れた髪、重なる体と体。火照った肌が擦れ合い、互いの名を知らぬまま熱だけで交わった。
戦争の緊張も、罪も、未来も――すべてを一時だけ忘れるために。
彼女は最後に耳元で小さく囁いた。
「……また、戦場に行くのですね」
俺は答えなかった。ただ、腰に回された彼女の指が、何かを確かめるように力を込めた。
とにもかくにも、ヤン・ウェンリーが死に、アスターテの会戦は帝国の勝利で幕を下ろした。
俺の名は銀河に轟いた。だが、それを快く思わぬ連中がいることは承知していた。
戦果を報告してすぐ、門閥貴族どもの圧力が始まった。
軍務省、貴族院、後方司令部。ありとあらゆる部署から干渉が来た。
「勝ちすぎだ」「出しゃばりすぎだ」「若造のくせに」
――言葉を飾っても本音は一つだ。俺が目障りということ。
(……上等だ。やれるもんなら、やってみろ)
俺は老いぼれどもを睨み据えた。論理も理屈も使わない。
ただ、勝った者としての無言の暴力を見せつけた。
キルヒアイスは隣で無言だった。だが、わずかに視線が揺れていた。
あの男は気づき始めている。俺がもうかつてのラインハルトではないと。
それでもいい。必要なのは忠誠ではなく、結果だ。
俺はすでに始めてしまった。
生き残るために支配するために、この腐った帝国を食い破るつもりだった。
次はどこを潰すか。誰を殺すか。どう征服するか。
野獣は血の味を知った。
そして、この宇宙における生存の意味を完全に理解した。
戦争には勝った事で、俺の名は嫌でも帝国全土に知れ渡った。
だが、それは同時に「的にされる」という意味でもあった。
ラインハルト・フォン・ローエングラム。
若くして将官、伯爵位を持ち、勝利をもたらした英雄――そういう扱いを望んだ覚えはない。
俺はまだ死にたくなかった。
「責任? 冗談じゃない。俺は功績を立てたが出世したいわけじゃない」
そう口にすると、キルヒアイスは訝しげに眉を動かした。
「門閥貴族と距離を取られるのでは?」
「むしろ近づくさ。仲良くしてりゃ、余計な誤解も買わずに済む。俺の野心なんて見えやしない」
そういうことにしておく。
本音は一つ――虎視眈々と牙を研ぐための時間稼ぎだ。
フレーゲルのような使い道のない馬鹿貴族には調子を合わせ、リヒテンラーデ侯とは酒を酌み交わす。
腹の中はドス黒いが、表面上は若いのに分別があるで通しておく。
必要とあらば、帝国宮廷の女官とも床を共にした。
軽薄に見える演技の中で、俺は決して牙を見せなかった。
力はある。だが使わない。
敵を作らず、味方も作らず、ただ生き残るために迎合する。
これは戦略だ。俺なりの銀河帝国式・処世術。
だから今日も貴族院の宴に出席し、笑いながらワイングラスを掲げる。
(くだらねぇ)
内心では毒づきながらも、俺は笑顔を絶やさなかった。
自由惑星同盟――首都星ハイネセン。
アスターテで三個艦隊が壊滅した報が届いたとき、政府高官の顔色は一様に青ざめていた。
完膚なきまでの敗北。壊滅だった。
しかも、それを率いていた提督は全員戦死。連中の足元が崩れた。
国防委員会は騒然となり、統合作戦本部は緘黙に陥った。
誰が指揮を誤ったのか。責任を誰に擦り付けるのか。
戦死者よりも自己保身が優先されるのが、この国の現実だった。
ヨブ・トリューニヒトだけが違った。
彼は敗北の報告に静かに頷き、記者団の前で言った。
「帝国がいかなる暴力をもってして我々を威圧しようとも、自由は敗北しません。我々は彼らよりも正義を知っている」
拍手が起きた。演出された拍手だった。だがそれで充分だった。
大衆は真実よりも、恐怖から逃れる物語を欲していた。
一方で軍部の空気は殺伐としていた。パエッタも、ムーアも、パストーレも、無能だったとこきおろす。
擁護すれば自分も巻き添えを食う。
一部の士官は静かに姿を消した。軍から抜ける者もいた。密かに逃亡した者もいた。
英雄なき共和国は、腐臭を撒き散らしながら崩れていく。
この機を利用しようとする政治家たち、プロパガンダに利用しようとする放送局、敗北の隙間に潜り込んで利権を漁る企業――どれもこれも、銃弾一発撃たずに国を喰い破る寄生虫だった。
だが戦場はまだ終わっていなかった。
帝国はこの勝利に乗じて、さらに攻勢をかけてくるはずだ。
その時、誰が防ぐ? 何が残っている?
誰も答えられなかった。
自由惑星同盟は、いま確かに――滅びの入り口に立っていた。
ヤン・ウェンリー戦死――。
その報せは官舎で暮らす彼の養子にも冷たく落ちた。
ユリアン・ミンツは報告の文字を三度読み返し、ようやくそれが現実だと理解した。
「彼」が死んだ。
ユリアンは泣かなかった。泣けなかった。
それがどれだけ異常なことか、本人も分かっていた。
彼にとってヤン・ウェンリーは教師であり、保護者であり、そして唯一無二の現実だった。
あの男がいることで、この腐った共和国にも一本の芯が通っていた。
だがそれが消えた。
戦死報告の付記には、こうあった。
『アスターテ方面、艦隊旗艦より脱出中、通信艇が撃墜された。乗員全員の生存確認不能』
名前が書かれている。証拠もある。
だがユリアンの目にはそれがただの記号にしか映らなかった。
周囲は彼に同情した。官舎のご近所は、形式的な哀悼の言葉を並べた。
だが誰一人として本気で悲しんでなどいなかった。
「ヤンさんは残念でした」
「運が悪かったんだよ、あの人は」
そんな声が背中から聞こえた。
ユリアンは拳を握った。震えていた。
『――敵前逃亡中に被弾、戦死』
それが軍の公式な報告書に記された、ヤン・ウェンリーの最期だった。
ユリアン・ミンツは報告をただじっと見つめた。
額に汗がにじむ。胃の奥が重い。
ヤンが逃げた? ――笑わせるな。
あの男は戦術の天才だったが、同時に最低限の責任感も持っていた。
部下を見捨てない。命令を無視しない。
敗戦の責を一身に引き受ける男だった。
それが、敵前逃亡?
ふざけるな。
誰がそれを言った? 誰が「そういうことにしよう」と決めた?
同盟国防委員会か。統合作戦本部か。
それとも――あの男、トリューニヒトか。
敵前逃亡。臆病者のレッテル。
死者に対する最大の侮辱。そして、生者への見せしめ。
「英雄を否定しておけば、誰も理想なんて語らなくなるからな」
ユリアンは、誰にも聞こえない声で呟いた。
ヤン・ウェンリーは死んだ。
だがその死に方を決めたのは味方だった。
ならばユリアンは敵味方の区別を捨てる。
正義を殺す国家など、いずれ滅ぶ。
だったら、それを早めてやるだけだ。
復讐ではない。理想でもない。――清算だ。
ユリアン・ミンツには、何もなかった。
階級も、地位も、影響力も。
ただ、ヤン・ウェンリーの養子というだけの存在。
しかも、その英雄は――敗残兵として死んだことになっている。
世間の風向きは冷たかった。
「ヤン准将の養子? ご愁傷様。でも、あの人は……ね」
陰口はそこらじゅうで聞こえた。
誰も彼を正面から批判しない。
だが、その沈黙こそが死者の扱いを物語っていた。
何をどう叫ぼうが、何も変わらない。
自分はただの子供だ。
誰も振り向かない。何も届かない。
だから、ユリアンは決めた。
声を上げるのをやめた。叫ぶのを捨てた。感情を封じ拳を握り、ただ一つ――強くなることに執着した。
感情を動かさない。言葉で戦わない。
力だけが真実を曲げられると知った。
敵と味方を見分けず、利用できるものは全て利用する。
いつか、あの報告書を書いた奴を、机ごと叩き潰すために。
そしていつか、誰の名前にも傷がつかない形で、あの人の死を書き換える。
歴史に、ヤン・ウェンリーを取り戻すために。
そう思っていた。