恋姫異聞 白武伝   作:惰眠

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八 降りかかる危難

 

 急き立てられるように、形振(なりふ)り構わずに、走り、逃げ出した錬は、駆けつける警備の声を振り切り、1里(約430m)ほども走ったころには、冷静さを取り戻していた。だが、走り出したときの速さを落とすことのないまま、錬は走り続ける。走り続けながら、自分を追う気配を探り、考えを巡らす。

 あの黒髪の少女の隠密能力は、自分のそれを数段上回って余りある。今、気配を感じ取れないからと言って、追われていないとは限らない。だから十分に距離を稼いだと判断したところで、徐々に速度を落としつつ、気配を探ることに感覚を割いていく。

 無論、全力ではないものの走ることを止めたわけではない。後先考えない全力疾走から、中距離走程度に移った、という辺りだが、それでも息切れも動悸も回復しつつあり、思考を妨げることもなくなっていく。

 

(まったく、ふざけた身体能力だよな…)

 

 苦笑交じりに思う。この四か月で、何度も実感しながら慣れてしまい、ここ最近では考えることもなくなっていた、尋常ではない身体能力の高さ。そして、ほんの数十秒前まで捕らわれていた死の恐怖から、すでに抜け出せている精神の異常さ。

 

 そう、すでに錬は完全に冷静に思考していた。

 それは、精神的な強さでもって冷静さを取り戻した、というような感覚ではなく、恐怖による精神の混乱を消し去った、あるいは切り捨てたかのような、そんな感覚とでも言おうか。死に直面したときならば知らず、そこから抜け出したならば、不要なものとして意識すらしないかのような、そんな精神活動は、錬の感覚からすれば、十分に異常だと感じられた。

 思えば、この世界に訪れたときもそうだった。三人の賊に囲まれて斬りかかられたときこそ、死の恐怖に怯えたが、それを脱した瞬間から、その感覚は自分の中から消え去った。普通は、後で思い出して身体が震えたりするものではないだろうか。そして、人を傷付け、あるいは殺しながら、動揺もしなかったこともそうだ。

 この手はすでに数十人の命を絶っている。それに()()()()()()()()

 人の命を奪う、ということは禁忌に属することで罪深いことだ。それは理解している。平成時代に生まれ育った者として、それは錬の中に根付いている倫理観だ。だが、人殺しという罪悪に対して、感覚として忌避感がない。頭では理解しているが、心では感受しない。それは、人として何かが壊れているのではないだろうか。

 

(気をつけなきゃいけないかな…放っておけば、“死”をなんとも思わなくなるかもしれない…)

 

 錬は戒めるように、そう考えた。

 

 そんな思考をしながら、そして走り続けながら、それでも錬の意識にいくらかは索敵へと向いている。

 自分に向けられる気配は、依然として感じられない。

 かなりの距離を走っている。もちろん真っ直ぐ拠点に向かっているわけがない。何度も角を曲がり、ときには戻りつつ、追跡を撒くような動きをしたが、その気配はない。

 追われてはいないのだろう。確信はないが、これで追われていたのだとすれば、もはや自分にはどうしようもない。そう考えて、錬はようやく走るのを止め、歩き始めた。その足は、拠点の屋敷へと向かう。

 

 そうして考えるのは、あの少女は一体何者なのか、ということだった。

 

 まず、南陽郡の豪族らに属するものではないだろう。少なくとも韓忠、伊俊の関係者ではないはずだ。

 今にして思えば、韓忠の屋敷で感じた、あの気配こそが彼女だったのだろう。つまりは、彼女も韓忠を探っていたということだ。敵として、あるいはそれに準ずる相手として。それにもし彼女が豪族側であったならば、警備から逃げる必要もない。捕らえて突き出せば、恩を売ることもできただろう。

 

 袁術陣営でもないのは、張勲配下の細作が袁家派の名士らに対することに手一杯だということから当然だ。それにそうであれば襲われる理由もない。

 

 では、その袁家派か。と言えば、その可能性も少なかろう。壱ら細作が袁家派に掛り切りであるように、袁家派も南陽豪族に手を出す余裕はないだろう。彼らが向いているのは仮の主である袁術ですらなく、洛陽であり、汝南であるからだ。それに袁家派に彼女のような手練(てだ)れの細作がいるならば、壱らにも被害が出ているはずで、もっと警戒を厳に対応しているはずだろう。

 

 紀霊ら仕官組武官かとも思うが、あれほどの手練(てだ)れの細作がいるならば、すでに豪族らを席巻していてもおかしくはない。これまで集めた噂話や今夜の韓忠らの会話などから、豪族らは叩けば埃が出るだろうことは予想に難くなく、それを根拠にして太守に処罰を求めてきていてもいい。

 可能性としては一番高いが、決定打には欠ける、といったところだろう。

 

 それ以外の勢力までを考慮するとなると、錬にはその情報がない。もうお手上げである。

 

 

 

 

 

「貴様の、その考え方は概ねで正しかろうな」

 

 錬の報告を聞き、細作頭の壱が言った。

 韓忠の屋敷に潜入した翌日の夜のことである。呼び出した壱に、潜入して知り得た情報とともに、襲撃を受けたことを伝えるためだ。

 

「南陽に拠点を置く者らの中に、張家に従う我ら以上の細作を味方につけている勢力は存在しない。であるのに、貴様が圧倒されるほどの細作が活動しているというのであれば、考えられるのは、洛陽か、それとも汝南か」

 

 錬の報告に、壱は表には出さないものの驚きを抱いていた。

 錬の、気配察知や対人戦闘の能力は、壱から見てもかなり高い。だが、その少女の細作は、錬の感知を潜り抜け、武においても錬を圧倒したという。壱の、先程の言葉は自惚れではなく、冷徹に客観視しての結論だ。南陽において壱らの活動が致命的に阻害されたことがなかったからである。それほどの手練(てだ)れに心当たりはなかった。

 

「どちらにせよ、今後は警戒を厳にする必要があるな」

 

「それで、こちらはどう動けばいいと思う?」

 

 壱が懸念を口にするのに、錬が質問するが、壱は首を振ることで応える。

 

「相手の素性も目的も判らんでは、どのように動くのかも知りようがない。また遭遇するのかも判らん。手の打ちようがないな。まあ、警戒はしておくんだな」

 

 などと言われたところで、警戒したところでどうにかなる気もしない錬だった。思わずこぼれる気の抜けた苦笑に、壱も不憫に思ったのか。

 

「まあ、状況から考えるに、その女も積極的に活動するつもりはないのではないか。貴様が襲われたのも察知されたと思ったからだろうし、おそらく危険を冒してまで表立つこともないだろう」

 

 と、宥めるような壱の言葉に、錬は疑問を示して先を促す。

 

「屋敷を脱した後で襲ってきたこと。貴様を殺し切ることより目撃されないことを優先したこと。撤退を優先して追撃を仕掛けなかったこと。それらから考慮するに、主たる目的は諜報、さらに行動の秘匿に注力している。表立っては動くまい」

 

 説明に、なるほど、と頷く錬は、それならばこれ以降襲われる可能性は低いか、と考える。不運にも遭遇しない限りは。

 

(なんて、油断してると出会っちまったりなんかしたりして、なぁ)

 

 などと内心で苦笑を浮かべる。

 無論、冗談である。冗談のつもりだった。

 

 

 

 

 

「伊俊が紀長成どのの短剣を手に入れたようです」

 

 伊俊を見張っていた梁綱から、そんな報告を受けたのは、錬と壱が話し合った二日後のことだった。

 そして今夜、再び韓忠の屋敷に赴くと言う。となれば、おそらくは(はかりごと)の最終確認といったところだろう。

 そう考えて、錬は梁綱を伴って韓忠の屋敷へと忍び込んだ。

 三日前と同様に、屋敷の離れの屋根に伏して、屋内の会話に耳をすませば、韓忠と伊俊の会話が届いてくる。

 

 謀の内容は、以前に盗み聞いたものと変わりない。

 伊俊が抱えている破落戸(ごろつき)に、南陽郡都尉韓宜(かんぎ)を襲撃させ、裏で入手した紀霊の短剣をもって襲撃を紀霊の所業だと誤認させる。そこまで行かなくとも嫌疑をかけ、紀霊の信用を失墜させる。

 二日後に韓忠の屋敷で催される宴がある。招待されているのは、韓宜を始めとした南陽豪族の有力者たち。

 実行は、その酒宴の帰りだ。

 韓宜の酒好きは有名だ。好きな割に弱い。陽気な酒であり、性質(たち)の悪い酔い方をするわけではないが、呑めば止まらず、ほぼ沈没するまで呑む。特に韓忠宅で呑んだ場合は、身内の気安さもあってか、確実に寝入る。そして酒宴の散会後に覚醒してからゆっくりと帰宅するのだが、その場合、通常の護衛は任を解いて帰らせ、韓忠に送らせるのが常であった。いつとも知れぬ帰宅につき合わせるのは申し訳ない、という韓宜の部下思いの性質が分かる逸話だが、不用心といえば不用心であり、暗躍するものにとっては好都合である。

 

 韓忠と伊俊が離れから引き上げるのを見送った後に、錬は韓忠の屋敷を脱するべく、梁綱に視線だけで指示を送る。

 脳裏に()ぎるのは、三日前の背後からの襲撃。だからこそ、錬は過敏なほどに神経を張り詰めて、周囲の気配を探りながら、慎重に屋敷の外へと向かった。

 何事もなく、屋敷の塀の外へと降り立ち、何食わぬ顔でふたりは路地を行く。

 

「今夜はもう戻りますか?」

 

 それなりに韓忠の屋敷から離れたところで、梁綱が聞く。

 

「そうだな、目的は達した。戻って休むか」

 

 頷きを返して錬は、明日からの行動を説明する。

 まずは、明日の夜に壱を呼び出して、韓忠の企みについて報告し、対処を相談する。錬、そして梁綱が中心になるであろうが、手助けは欲しい。特に、紀霊への繋ぎは頼みたいところだ。

 

 そんなことを話しているところだった。

 

 背後で、圧倒的な存在感が膨れ上がり、ふたりして反射的に振り返る。

 

 そこに、女がいた。

 

 離れた距離と暗がりとが、詳細を掴ませないが、その女が濃密な殺気を漂わせていることは分かる。

 猛獣と同じ檻に入れられたかのような、そんな感覚が錬を襲う。

 陳腐な表現だと思いながら、そんな(たと)えくらいしか思いつかない。

 決して、油断していたわけではなかった。彼我の距離は、12、3丈(約30m)といったところで、切迫というわけではない。十二分に対応できる距離だ。通常の相手であれば。

 

 つ、と冷汗が頬を落ちるのを感じながら、錬はいつでも抜けるように長剣の柄を握った。

 その気配を感じ取ったのか否か。女がゆっくりと近付いてくる。

 と、同時に、ひりつくような威圧感が、じりじりと全身を縛りつけるように圧し掛かってくる。

 

(ま、まだ上があるのか、よ…)

 

 知らずに退けそうになるが、歯を喰いしばり、内心で己を叱咤する。

 

(どうする? この場面、なにが最善だ? 考えろ…)

 

 ほとんど絶望的な気分で、しかし冷静に思考を走らせる。

 この相手に、本能的にどうにもならないのが分かる。コレは生物としての格が違う。勝とうなどと考えることすら烏滸(おこ)がましい。時間稼ぎ、足止めでも満足にできるかどうか。

 

奉武(しんぶ)、行け。オレが足止めする」

 

 分かっていながら、錬はそう指示を出した。

 

「でもっ!」

 

 当然、梁綱は反対する。長を生き延びさせるために部下が犠牲になるのであって、逆ではない。

 だが今は、誰かが情報を――韓忠の企みを伝えなければならず、そのためには、ひとりを逃がすためにひとりが足止めを全うしなければならない。少しでも時を稼ぐ必要がある。だから、

 

「行けっ、足手まといだっ」

 

 錬は、長剣を抜きながら叫んだ。

 その声に、梁綱は、表情を歪めると脱兎の如く走り去る。無論、梁綱にも錬の思いは伝わっている。であれば、隊長の窮地を救うためには早く味方を呼んでくるしかない。

 

「へえ、いい判断ね」

 

 女の楽しそうな声が錬の耳へと届く。

 彼我の距離は、4丈(約10m)ほどに縮まっていた。

 

 まだ若い。錬と同年代だろうか。

 淡い桃色の髪を腰まで伸ばし、露出の多い赤紫色の衣から覗く褐色の肌はなんとなく南方の人種を思わせる、目を奪われるような美女だ。その美女が楽しそうに、心の底から愉快だと思わせる微笑みを浮かべて、錬へと視線を向ける。

 このような場面でなければ、錬の心臓は早鐘を打つのに忙しくなったことだろう。今は、別の意味で動悸が激しい。

 緊張から荒れる呼吸を、必死の思いで落ち着かせようとしながら、錬はじっと女を見遣る。

 その視線を、足の運びを、手の動きを、そして、無造作に提げた抜身の長剣を。

 

「…でも、時間、稼げるかしらね?」

 

 決して油断していたわけではない。油断など出来るわけがない。

 だが、その瞬間、錬の思考は真っ白になった。

 迫る影、風を切る音、そして閃く白光。

 本能的に思考を放棄して、反射に任せて身体の前に剣を立てる。

 爆発したかと思うような衝撃と、金属同士がぶつかり合ったと思えないような鈍い音を感じたかどうかの瞬間に、錬は吹き飛ばされた。

 頭ではなく、身体の感じるままに逆らわず、勢いのままに地面を転がされ、止まったところで跳ね起きる。

 

 女との距離は、再び12、3丈に開いていた。

 

 大きく息を吐き、自分の剣を見る。

 ひびが入っていた。もう一撃とて耐えられないだろう。

 今の一撃にしても、運がよかったに過ぎない。跳ね飛ばされなければ、防ぐために立てた剣ごと錬の身体は上下に分かたれていたことだろう。それを察して自ら跳んだ、のだとしたら、多少は気分も落ち着くのだろうが違う。女の殺気に腰が退けていたがために踏ん張りが利かなかっただけで、本当に運が良かっただけの、紙一重だった。

 

 だが、女はそう思わなかったのか。

 

「へえ、やるじゃない」

 

 小さく称賛を呟くと、面白い、と言わんばかりに微笑む。まるで虎のように獰猛に。

 

 その笑みに絡めとられ、錬はごくりと喉を鳴らすと、長剣を捨て去り、代わりに短剣を両手に握る。

 力では敵わない。対抗しようとすれば剣ごと、だ。速さも尋常ではない。剣閃だけなら、先日の黒髪の少女に匹敵する。当然、錬よりも速い。

 では、どうするか。手数を増やすしかない。そのための双剣。

 勝てるなどとは思えない。逃げ切ることなど考えない。

 ただ、一瞬でも長く凌ぐことに、凌ぎ切ることに渾身をもって尽力する。

 そう腹を(くく)り、構える。

 

「ふぅん、なかなか、いい気迫ね」

 

 戦意を漲らせて自分を睨みつける錬に、変わらず愉快そうな微笑みを浮かべる褐色肌の女は、

 

「それじゃ、もう少し楽しませてもらいましょうか」

 

 その感情を隠すことなく、にやりと笑うと、先の一撃と同じく一瞬で間を詰め、長剣を薙ぎ払った。

 (はや)い。

 だが、覚悟を決め、沈着を取り戻した今では、かろうじて見失わずにすむ捷さだ。

 錬の左側から首を刎ねんと迫る長剣に、左の短剣を合わせた瞬間に押し上げるように逸らしつつ身を(かが)める。逸らされた長剣が音を立てて吹き抜け、次の瞬間、頭上で跳ね返るかのように打ち下ろされる。それに対して反射的に右の短剣を長剣の外から押し当てると、後ろに足を引くようにして剣閃の外へと体を(かわ)す。

 通常なら、この辺りで体勢が崩れるところだ。だが、女は全て想定通りとでもいうかのように、長剣を舞うようにくるりと閃かせると、間髪を入れずに今度は胴へと横薙ぎを振るう。その横撃に、受けるも逸らすもできない、と判断して錬は横跳びに逃げた。軽く、中途半端に。

 それは悪手だった。

 長剣が目の前で急停止する。そしてまだ圏内にいる錬を追い撃つように突きへと転じた。

 相手は、そこらの賊徒ではないのだ。逃げるのならば、確実に逃げなければ、それは単なる隙にしかならない。

 そんなことを思い知らされると同時に、ぞわり、と震える身体の命じるままに両の短剣を胸元で交差させ、そこで金属音が弾けた。

 瞬間、咄嗟に勢いに押されるまま、少しでも衝撃を逃がそうと後方へと跳び退(すさ)る。現状で可能な限り、力の限り。

 

 間が、3丈(約7m)ほど空いた。

 

 が、一息つく間もなく、女が切迫し、剣撃が襲う。

 打ち下ろし、薙ぎ払い、斬り上げ、突き込む。

 その攻撃を、刃を合わせて逸らし、受け流し、足捌きで、体捌きで躱し、凌ぐ。

 まるで詰将棋のような攻防に神経を張り巡らせる。ただし詰められるのは錬のほうだ。たった一手しかないような受けで剣撃を捌きながら、しかし追い詰められていく恐怖が脳裏を過ぎる。

 

 捷さだけで言えば、先日の黒髪の少女のほうがわずかに勝るだろう。剣閃だけでなく、身体の動き全てで捷さを追求したような黒髪の少女の剣は、速度特化の、ある意味では(いびつ)な剣だ。対して、この褐色肌の女は、剣閃は黒髪の少女に匹敵するほど捷いが、体捌きはそうではない。というよりも、捷さ(そこ)に重点を置いていない。ゆえに、その剣撃は比較にならないほどに重い。黒髪の少女の剣が雷光だとすれば、この女の剣はまるで暴風だ。ほんの少しでも気を抜けば、全てを砕く嵐に巻き込まれるように、瞬く間に命を刈り取られることになるだろう。

 

 現実感さえ喪失するような、ひりひりとした緊迫感の中、どれほどの剣撃を凌いだだろうか。

 幾度(いくたび)も殺意を逸らし続けた刃を砕かんと振るわれる横撃を、両の短剣で防ぎ、その衝撃をも利用して跳び退()き、間を空けた。

 疲労困憊に気も遠くなりそうになりながら、追撃に備えて短剣を構え、荒く乱れる息を整えることに意識を向ける。もちろん、視線は女を捉えて注意を逸らすことはない。

 酸欠で霞む視界の中、褐色肌の女は、間を詰めることもなく、長剣を無造作に提げた恰好で突っ立っていた。その顔には相変わらずの微笑みが浮かぶ。

 

「ふふ、なかなかやるわね、あなた。あれを凌ぐのだもの」

 

 思わぬ称賛の声に、錬の口元が苦笑に歪む。

 

「…そりゃどうも」

 

「あなたみたいな男がいるとは思わなかったわ。様子を見に来てよかった、ってところね。いろいろと聞きたいところだけど…」

 

「…話すと思うか?」

 

「ん~、それもそうね。それじゃ、もう少し付き合ってもらいましょうか。頑張ってね、次はもう少し本気よ」

 

 軽口の末に告げられた言葉に、錬の背筋に怖気が走る。まだ上があるのか、と。

 

「…化け物め」

 

「あら、失礼ね。こんな可愛い乙女をつかまえて」

 

 思わず漏れた錬の言葉に、女は冗談めかして口を尖らせるが、すぐに悪戯っぽく微笑む。

 

「そんなあなたにはお仕置きが必要よね?」

 

 来るか、と錬が身構えるが、女はなにかに気がついたように動きを止める。

 

「あら、戻ってきちゃった。時間切れね」

 

 そんな呟きが終わるか終らないかのうちに、女の(そば)に影が降り立った。

 長い黒髪に、丈の短い紫紺の衣、そして、日本刀のような長剣を背負った少女。

 その肩から(かつ)がれていた荷が放り出される。それは、

 

「…奉武っ」

 

 梁綱だった。

 

「殺しちゃった?」

 

 息を呑む錬を余所に、褐色肌の女が聞く。その言葉はなんの気負いもなく軽く、

 

「いえ、意識を奪っただけです」

 

 答える少女の言葉も機械的で、そこに感情的なものはなにもない。

 そのやりとりを聞いて、安堵しながら、錬は構えを解いた。女がこちらを見ていたからだ。どうするの、と問うような視線を、その微笑みに乗せて。

 こうなってしまえば、取れる行動など限られる。錬の行動指針としての第一は、入手した情報をもって、韓忠らの企てを阻止することだ。少なくとも企ての情報を張勲辺りに伝えなければならない。そのためには、錬か梁綱のどちらかは生還する必要がある。

 

 そう考えて、錬は大きく諦観を込めたため息を吐くと、

 

「降参する」

 

 言いながら、短剣を捨てた。

 あっさりと投降を示した錬に、女は驚きに目を見開くも、すぐに微笑みを浮かべる。

 

「いい判断ね。ちょっと諦めが良すぎる気がしないでもないけど」

 

「助けを呼びに行った奉武が捕らえられて、自分以上の強者がふたり。逃げ切れる可能性も皆無に等しい、となれば、諦めるしかないだろう?」

 

「殺されるかもしれないのに?」

 

「簡単に殺すつもりなら、オレの目の届かないところで奉武を捕まえるようなことはしないだろう」

 

 こちらを探るように笑いかける女に答えつつ、錬は肩を竦めた。

 言うように、すぐに殺されるという危機感はなかった。

 女たちにとって手っ取り早いのは、逃げ出した瞬間に梁綱を殺すことだ。そして錬を挟撃する。殺すにしろ、降すにしろ、そのほうが早い。あるいは持って来るのは首だけでもいい。それをできるだけの力をもっているふたりだ。でありながら、生かしたまま捕らえるということは、錬の心情までも考えて、投降しやすいように事を進めているのではなかろうか。

 懐柔か、屈服か。その真意までは分からないが。

 

 などと考えつつも、ただ面白そうだから殺すには惜しい、とかいうのが実情だったりするんじゃなかろうな、という思いが、僅かながらも心を過ぎる。褐色肌の女の笑顔を見ていると、それがあながち間違いじゃないような気がして、どうにもこうにも奇妙な気分なのだが。

 

 錬の答えを聞いた褐色肌の女の笑みが深くなる。

 

「ふうん、分かってるじゃない。それじゃ、尋問といきましょうか」

 

 長剣を鞘に納めながら言う。

 

「まずは、名乗ってもらいましょうか。当然、素性もね」

 

「オレは、白士泰。そっちのは弟分の梁奉武。流れの武人だ」

 

 錬にしてみれば、ここで話すのは当然に()()のほうだ。馬鹿正直に本当のことを話すわけにはいかない。どうみても不自然な話に、女の眉が上がり、目が(すが)められたとしても。

 

「…流れの、ね。どこの陣営にも属してない、と?」

 

「ああ、現在仕官先を検討中だ」

 

「…まあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる。それで、あの屋敷で何を探っていたのかしら?」

 

「あの屋敷の主が、何やら企んでるらしいって噂を聞いてな。それを突き止めて、敵対勢力に売り込む(ネタ)にでもならないか、ってね」

 

「その程度の動機にしては、忍び込むのは危険過ぎない? ただの武人の行動じゃないわよ」

 

以前(まえ)に世話になってた商人のところで、間者の真似事をしたことがあって、多少は慣れてる。あの程度の警備なら出し抜けるさ」

 

「話の筋は通ってるように聞こえるわね。聞こえるだけで納得とは程遠いけども」

 

 白眼を向ける女に、錬は肩を竦めて苦笑を浮かべた。こちらは真実を語っている、信じる信じないはそちらの勝手だ、と言わんばかりの態度だ。もっとも、動悸は鎮まらず、内心では冷汗を流しているのだが。

 

「まあ、いいわ、それで」

 

 あからさまに妥協の言葉を口にしながら、女はあからさまなため息を吐く。

 

「で、あの屋敷で何を掴んだの? あれは南陽の有力豪族のひとつ、韓家、その後継者とされる韓忠の屋敷というのは知っているのよね?」

 

「ああ、知っていて入り込んだからな。で、屋敷で得た情報について、か…」

 

 心中でほっと安堵の息を吐きつつ、錬は考える。こちらの素性については、()()()()()()()()。だが、容赦を期待できるのはここまでだろう。これ以降の欺瞞(ぎまん)は命取りになりかねない。そして、韓忠の悪巧みについては、黒髪の少女がいる以上は相手も掴んでいる可能性がある。ここは正直に話すしかない。

 

「韓忠と伊俊とで、紀霊の失脚を狙っている。明後日の夜、手の者で韓宜を襲い、紀霊に罪をなすりつけるつもりのようだ」

 

「ふうん。それで、あなたはそれを知ってどうするつもりなの?」

 

 聞く褐色肌の女の顔に、再び愉快げな悪戯っぽい笑顔が浮かぶのを見て、錬はため息を吐きながら答える。

 だが、これは正直には答えられない。すでに決定している対応は所属を明らかにしてしまうからだ。だから、

 

「…実は、まだ決めていない。まあ、紀霊辺りに流して恩を売る、とかかな、と…」

 

 という、曖昧な答えになる。それに女はしばし考え込むようにした後に、

 

「それは悪くはないけれど、良くもないわね」

 

 一蹴し、自分の考えを口にする。その言葉に、

 

「私だったら、南陽太守に告げ口して、紀霊を太守麾下(きか)に取り込む材料にするわ」

 

 錬は驚愕に絶句した。まさか、こちらの素性なんてとっくに知ってるんじゃないのか、と。

 が、すぐに我に返り、表情を引き締める。表情を見るに、今の女の言葉にはなんの魂胆もないように見えた。であれば、下手に動揺を示せば、そこから何かを悟らせてしまうかもしれない。

 気にして視線を動かせば、驚きの表情で隣を見上げる黒髪の少女がいる。おかげでこちらの動揺を見抜かれはしなかったようだが、少女の驚愕(これ)はどういうことか。

 思わず考え込みそうになるが、今はそのような場合ではないと思い直して、女との会話に意識を戻す。

 

「…なるほど。参考にさせてもらうよ」

 

 だから無表情を装って、そう言う。

 

「そうね、存分に参考にしてちょうだい」

 

 あくまで軽く、(おど)けるように言う女は、さて、と呟いて傍らに控える黒髪の少女へと視線を向ける。

 

「私から聞くことはそんなものね。あなたからは何かある?」

 

「いえ、ありません」

 

「そ。それじゃ、最後に提案よ。あなた、仕官先を探してるのよね。私の下に来る気ない?」

 

「…なに?」

 

「あら、そんなに驚くようなこと?」

 

 訝しげに目を見開く錬に、女は不思議そうに首を(かし)げる。

 

「私の攻撃を凌ぐ武力と、冷静に状況を判断する胆力。それに加えて優れた隠密能力。そんな有能な人材なら配下に欲しいと思って当然でしょ」

 

 その言葉に錬は黙り込んだ。

 思わぬ高評価に口元が綻ぶのを(こら)える。彼女ほどの武才をもつ者に評価されて嬉しくないわけがなく、心が揺れなかった、と言えば嘘になる。だが、

 

「…ありがたい話だが、何者とも知れない相手の配下になる気はないな」

 

 なにより、錬には袁術を裏切る気は毛頭ない。今はまだ無所属だとしても、その味方になると決めたのだから、それを覆す気はなかった。

 相手もその決意を見てとったのか、

 

「こっちも配下になるかどうかも知れない相手に名乗る気はないし、仕方ないわね」

 

 実にあっさりと前言を撤回した。そしてその声音が変わる。

 

「ということで、お話はここまでね」

 

 その変化に、危機を覚えて精神的に身構えさせられた錬は、しかしそれを態度に出さないように注意する。それは、相手を下手に刺激しないためだ。少しでも生存の可能性を高めるために。だったのだが…

 

「それじゃ、仕官のほう頑張ってね。縁があったら、また会いましょう」

 

「…は…え、と…ええ?」

 

 と言い捨てて(きびす)を返す褐色肌の女に、錬は呆気にとられて妙な声をこぼした。肩透かしを食らったのだ。

 その声に引き止められたかのように、女は足を止めると首だけで振り返って錬を見る。

 

「ん、なに、どうしたの?」

 

「いや…見逃してくれるのか?」

 

「あら、なぁに。殺されたかったの?」

 

「いや、まさか」

 

 思わず漏れた疑問だったが、それに返ってきた言葉に、錬は冷汗を流して頬を引きつらせる。

 

「ただ、ちょっと疑問に思っただけで…」

 

 つい(おもね)るような苦笑いを浮かべる錬に、女は悪戯っぽく微笑みながら、

 

「ん~、そうね。見逃してあげたほうが面白そうだな、って思っただけよ。じゃあね」

 

 そう言い残すと、褐色肌の女は黒髪の少女を伴って闇の中に去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





遅くなりました。
そして長くなりました。
やっと登場させられました。


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