恋姫異聞 白武伝   作:惰眠

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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

と、言いつつ、もう松の内も過ぎてしまっていますが…





九 茶番への介入

 

 気を失ったままの梁綱を背負って、錬は拠点へと戻ってきた。

 ひとまず梁綱を寝台へと寝かせると、台所へと向かい、(かめ)から柄杓(ひしゃく)で水を汲んで飲み干す。

 

「ふう…」

 

 そして大きく息を吐く。

 

「…なんとか、生きて戻れた、な」

 

 呟き、思い返す。脳裏に浮かぶのは褐色肌の女の姿だ。

 まさしく次元の違う、思わず口をついた“化け物”という表現が大袈裟に思えないほどの強さだった。あんなのがいるのか、と天を仰ぐ。あの女は何者だろうか。あれほどの武力、きっと名のある武将に違いあるまい。呂布とか、関羽とか。というか、そうであってくれ、と思わずにはいられない錬である。

 まあ、どちらも北の方の人だったから、あの褐色肌の女は違うのだろうが。

 

 そういえば、あれはなんだったのか。

 そんなふうに思い出されるのは、褐色肌の女が、自分なら太守陣営に、と口にしたときに、黒髪の少女が驚きを表していたことだ。

 内容自体は突拍子もないことではない。韓忠らの企みを知ったならば考えつく対処であり、その内容については驚くようなことではない。ということは、あの驚きの理由は、内容についてではなく、その対処法を伝え、それが有効だと断じた、ということに対してだったのだろう。

 おそらく、彼女らは、今の混沌とした南陽郡の状況が好転することを望んでいない、と思われる。だから、袁術を助けるような対応を、自分の仲間が口にしたことに、黒髪の少女は驚愕を表した。その対処が実行されれば、太守袁術が南陽郡を掌握する、ひとつのきっかけになりうるからだ。

 そしてあの褐色肌の女は、そんなことを理解していないような愚者ではないだろう。それなのに、あんなことを言った、その意図が分からない。そのときは錬に対しての鎌かけかとも思ったが、そんな気配もなかった。

 

「まさか、本当に面白そうだったから、とかじゃないだろうな…」

 

 苦笑混じりに、思いつきで口にした、そんな言葉が耳から入って、錬は思わず憮然としてしまった。なんとなく、それが真実だったような思いに捕らわれて。

 そんな考えを振り払うように首を振ると、錬はもう一度柄杓で水を汲み、喉を潤そうとして、それに気付き、視線だけを窓の外へと向けた。

 

「…帰っていたようだな、士泰…」

 

 その視線の先に現れたのは、細作頭の壱だ。

 相変わらず音もなく現れるな、などと思いながら、錬は視線に訝しげな色を乗せて見遣る。

 今夜は例の合図の印を出していないし、訪れる時間も常よりもかなり遅い。そんな錬の疑問を察したのか、

 

「韓忠の屋敷に忍び込むのは、今夜だったのだろう? ならばなにか進展があったのではないか、とな」

 

 そう答えた壱は、ふと目を(すが)めた。

 

「…なにかあったのか? 随分と気が(たかぶ)っているようだが」

 

「分かるのか?」

 

「ああ、微かだが殺気立って見える」

 

 その言葉に、錬は瞑目してひとつ息を吐いた。

 自分ではもう落ち着いたつもりだったが、他から見れば分かるものには分かるらしい。

 

「先日、襲われたと言っただろう。その仲間の女に殺されかけた」

 

 その言葉に壱は驚いたように目を見開いた。表立っては動かないだろう、と言ったのは自分だ。それが、まさか、と。

 

 そんな壱を咎めるでもなく、錬は事の次第を説明する。

 それを黙然と腕を組んで聞き終えて、壱はひとつ嘆息した。

 

「…訳が分からんな。話を聞くに、その女ども、思惑はあれども局外のものだろう。おまえを襲ったことも、その末に見逃したことも、そいつらに利があるとも思えん…どんなやつらだった?」

 

「ひとりはこの間の黒髪の女。もうひとりは、髪は薄桃色、肌の色は褐色で、背は高かったな。強いは強いが、それよりも怖かったな」

 

「褐色の肌といえば、南方人だが…かつて遠目に見たことがあるが、江東の虎と言われた女がそうだったな」

 

 錬の言葉に壱が答え、その答えに錬が目を眇めた。

 

「…江東の虎…孫堅、だったか。そうか、あれが孫堅、か」

 

 だが。

 

「ほう、知っていたか。だが、孫堅であるはずがない。彼女はすでに死んでいるからな」

 

 続くその言葉に錬が目を見張る。

 

 孫堅がすでに死んでいる?

 あれ? 孫堅って董卓討伐に参加してたよな? で、玉璽拾ってたよな?

 

 錬の知識はそうであった。だから軽い混乱を来たした。

 だが、考えてみれば、ここは三国時代のようで、錬の知っている三国時代(そのもの)ではない。有力者は女性になっているし、髪の色や年齢などもそぐわない。

 

 そう思いつけば、そういうもんだよな、という諦めにも似た思考に落ち着く。

 

「そういうことなら、あれは誰だったんだ?」

 

「孫堅には娘が三人いたという。跡を継いだのは、長女の孫策だろう。もしその女が孫家の者だとしたら、孫策の可能性が高いだろうな」

 

 孫策。

 その名について、錬が知っていることはそれほど多くはない。

 江東の虎と異名をとった孫堅の嫡子で、孫堅の死後は一時雌伏したが、玉璽(ぎょくじ)(かた)に兵を借り受けると、義兄弟の周瑜とともに揚州を席捲、独立を果たし、後の孫呉の礎を築いた。小覇王と呼ばれるほど武勇に優れたが、奇禍に遭い、若くして没した。その後を継いだのが、弟の孫権で、彼が孫呉の初代皇帝になった。

 錬の知識にあるのは、そんな人物像だった。

 

 その孫策が兵を借りた相手というのが袁術であり、つまりは袁術と孫策には繋がりがある。

 ということは、ここで袁術治下に孫策が現れたというのも、奇妙なことではない。奇妙なことではないが、その理由と思惑については、錬には予想もつかない。

 

「その孫策が、どうして宛に?」

 

「正直、我にも分からん。ただ、当主を喪い、孫家は拠点だった長沙を離れることになったはずだ」

 

「長沙? 孫家の本拠地は呉じゃないのか?」

 

「本拠地は、な。当時、孫堅は長沙太守だったのだ。これが、呉がある江東であれば、後ろ盾も得られ、少しは違っただろうが、な」

 

 壱が言うには、孫堅が死に、長沙の支配権を失った孫家からは配下の多くが離れたという。無論、軍兵は郡治府に所属するものであり、これも失った。そして、呉には朝廷から任命された太守が存在しており、それもあって孫家が呉に帰還することはできないだろう、とのことだ。

 

「それで、ここ南陽郡で足掛りを得よう、と?」

 

「そんなところだろう、が、どういう形で狙っているか、が問題ではあるが…」

 

 そう言って目を眇める壱は嘆息すると、気を取り直すようにひとつ頷くと錬へと向き直る。

 

「とりあえず、その件は我のほうから張栄之(えいし)様にお伝えしておく。確かなことは言えんが、そちらのことは、もう気にせずともよいだろう。それで、例の企みのほうはどうなのだ?」

 

 どんな経緯でその結論に至った?

 あっさりと孫策の話題を流した壱に、そう問い詰めたい思いを押し殺しながら、錬は大きく嘆息すると、先程、孫策に問われて説明したのと同じことを壱に話す。

 

「明後日の夜、韓忠の屋敷で宴が開かれる。その帰り道で、伊俊の手の者が韓宜を襲うようだ。だが、これは(かた)りで、韓宜を害すのが目的ではなく、それが紀霊の手に()るものだと思わせること。それにより紀霊の失脚を狙っているらしい」

 

 説明(そこ)に目新しいものはない。せいぜいが、韓忠らの企みの実行が明後日の夜に決まったということくらいだ。だから、

 

「そうか」

 

 壱の返答もあっさりしたものだった。だが、話さなければならない続きはある。

 

「それで、どう持っていくつもりだ?」

 

「ああ、それなんだが…」

 

 

 

 

 

 韓宜は、少しふらつく脚を叱咤しながら夜道を歩いていた。

 甥の韓忠の屋敷で呑んだときの常のまま、酔いつぶれ、目を覚ましたのちも醒めぬ酔いに、儂ももう歳か、などと自嘲する。

 頭髪に白いものが目立ち始めたとは言え、世間一般からすれば老け込む年齢ではないが、長く武官として務めてきた韓宜からすれば、身体が思うように動かなくなってきたことは、身を引くことを考えさせるに足ることだった。

 

「叔父上、大丈夫ですか?」

 

「うむ、少し呑み過ぎたが、のんびり帰れば問題なかろう。おぬしには手数を掛けるがな」

 

 背中から掛けられた声に、そう返しながら韓宜は、酒のせいだけではない息を吐いた。

 

 この甥に今少し配慮が足れば、都尉の官を譲って儂も楽ができるものを。

 そんな吐き出せぬ思いが内心を巡る。

 武に不足はないが、短慮で酷薄なところがある。

 韓宜は、甥の韓忠をそう評価していた。身内であり、子のない韓宜にとっては息子代わりと言っても過言ではないが、南陽郡の軍権を預かるものとして、公私を混同するわけにはいかない。少しは刺激になれば、と紀霊という武才を抜擢してみたが、どうやら逆効果だったようで、その性質は直るどころか酷くなる一方だ。

 

 今少しは儂が気張るしかないか。

 

 これまでも何度も考えた結論(こと)に行き着いたときだった。

 

 後ろに着いてきていた韓忠が、前に出ると韓宜を制して、その足を止めさせた。

 どうした、と聞こうとして、韓忠の右手が剣の柄に添えられているのも気付く。それを見て韓宜は変事が降りかかったことを悟り、一歩退くといつでも抜剣できるように構えた。

 韓宜も備えたことを察して、韓忠は叔父をかばう位置に身を置くと、前方の暗がりを睨みつけ、

 

「何者だ?」

 

 鋭く誰何(すいか)の声を上げた。

 しばしの空白、その後に姿を現したのは、すでに抜身を手にし、顔を隠した男どもが五人。

 それを見て、韓忠が素早く剣を抜いて構える。韓宜も一拍遅れて抜剣するが、顔をしかめると、後ろへと下がった。身体に残る酔いが動きを妨げており、足を引っ張りかねないことに思い至ったからだ。

 

 そんなふたりの行動に呼応するように、襲撃者らは前に出た韓忠を囲むようにして剣を向ける。

 

「貴様ら、こちらが郡都尉韓伯正(はくせい)どのと知っての狼藉かっ」

 

 襲撃者どもに油断なく睨みを利かせながら、韓忠が怒鳴った。その声に気圧されて怯みを見せた襲撃者どもだったが、逃げ出すことはなく、気を取り直し、改めてそれぞれ剣を構え直す。

 その襲撃者どもの様子に、韓宜は気を抜かないまでも安堵を抱いた。韓宜から見て、襲撃者どもは、衰えの見え始めた韓宜であっても凌ぐに容易い相手であり、韓忠であれば傷ひとつ負うことなく撃退できるだろうことが分かる。であれば、万が一にならないように警戒はするが、韓忠に任せるのが最善というものだ。

 

「そうか、ならば死を以って己の不明を悔やめっ」

 

 韓忠が吠え、無造作にも見える動作で斬りかかる。あからさまな上段からの打ち下ろしに、さすがに斬りかかられた男も剣を掲げて防ぎ、だが、何故かその体勢で男の動きが止まった。その様子に韓宜のうちに微かな疑念が湧く。見れば、覆面からわずかに覗く目は大きく見開かれ、唖然として目前に迫る白刃を見上げている。

 

 なにかおかしい。

 そう思いかける韓宜だったが、韓忠の脇を抜けてこちらに迫り来た男の斬撃により、余計な思考は霧散する。危なげなく剣で打ち払って防ぐが、これもおかしいと感じた。酒気に侵されているために反撃まではままならない韓宜だが、防御に支障がでるほどではない。だが剣を合わせて、あまりにも手応えが軽かったのだ。まるでこちらを本気で斬る気がないかのように。

 不審に思うも、再び襲いかかる襲撃者に、韓宜の思考は再び中断を余儀なくされ、その剣撃に剣を振り払って跳ね退ける。

 構え直し、目前に立つ男へと警戒の視線を向けた、その瞬間、

 

「ぐ、が…」

 

 その視線の先で、襲撃者が呻き声とともに(くずお)れる。その背後には、いつの間に現れたのか、ひとりの青年が立っていた。

 左の拳を裏拳気味に打ち下ろした姿勢で倒れた襲撃者を見下ろしていた、その青年は、突然の出来事に呆然とする韓宜を余所に、地面に伏せて呻く男へと止めとばかりに足を踏み下ろして、意識を刈り取る。

 特に目立つところのない青年だった。だが、争闘の場に無手で立ち入り、瞬く間に抵抗を許すこともなく襲撃者を無力化した。その手際は韓宜から見てもそつがなく、泰然とした在り方も只者とは思われない。

 思わぬ乱入者に一瞬は呆気にとられた韓宜だが、すぐに気を取り直したのは、さすが郡都尉といったところだろう。

 

「おぬしはいったい…」

 

 呟くように問う韓宜へと向き直り、青年は軽く頭を下げる。

 

「なに、通りすがりの者です。お困りのようでしたので手を出しましたが…」

 

「う、うむ、助かった。礼を…」

 

 場に似合わず涼しげに名乗る青年に、韓宜が礼を言いかけたところで、

 

「ぐ、あがぁ…」

 

 苦悶に満ちた呻き声が上がる。その声にふたりが目をやれば、韓忠が襲撃者のひとりを斬り捨てたところだった。

 

 

 

 

 

 随分と梃子摺らされた。

 まあ、一対三での斬り合いで、ひとりを数合で始末できたのならば良しとするべきだろう。

 嘲笑うように口の端を歪めて、韓忠は目前のふたりへと視線を向ける。

 見れば、どちらも仲間が斬り殺されたことが理解できないかのように呆然と目を見開いていた。隙だらけのその様子に、さらに笑みを深くしながら韓忠は、剣を突き入れる。吸い込まれるように白刃が喉を貫き、声もなく、男が白目をむいた。相手へと足を掛けて、蹴り飛ばすようにして剣を引き抜く。

 そうしながら、韓忠は背後へと一瞬だけ意識を向けた。

 乱入者が現れたのは確認できていた。叔父のほうへと向かった男は、その乱入者に打ち倒されている。

 

 あと()()()

 

 想定外のことに多少の苛立ちを覚えながらも、韓忠はそう心を改めると、剣を向け直す。その剣を向けられたことで、ようやく自分を取り戻した男は、怯えたように、ひっ、と悲鳴を上げると、韓忠から身を退きながら、ひとりだけ後ろに離れていた男へと顔を向けた。

 

「お、おいっ、話がちが…」

 

 口にしようとした、その言葉に、言わせるか、と韓忠は退いた分だけ踏み込み、斬りつける。男はかろうじて、その斬撃に剣を上げて防ぎ、そのまま斬り合いになる。だが、その力量差は五分を許さず、韓忠にたたみかけられ、防御ばかりに追いやられていった。

 その斬り合いの最中、韓忠は後ろにいる()()()()()へと視線を向け、顎をしゃくって見せる。

 後ろの男は韓忠の仕草(それ)に軽く頷いて見せると、じりじりと後退(あとずさ)りしていき、身を翻したその瞬間、

 

奉武(しんぶ)っ、逃がすなっ」

 

 韓宜のそばにいた青年から声が飛び、それに応えるように小柄な影が躍り出る。逃げ出そうとした男へと片手に持った中剣を突き付けて牽制する影は、まだ幼さの残る少年だった。

 一瞬、気圧されたかのように足を止めた男だったが、相手を少年と見て侮ったか、無造作に振り払うように斬りかかり、だがその剣は、あっさりと少年の剣によって受け止められ、跳ね退けられる。そのまま少年は素早く剣撃を繰り出し、男は完全に足を止められた。そこへ韓宜を助けた青年が風のように駆け寄ると、横合いから拳打と組討(くみうち)とをもって打ち倒して、その意識を奪う。

 

 その様子を、斬り結ぶ男越しに見て取った韓忠は焦りに顔を歪めた。

 その男が捕まるのは拙い。早々に切りをつけて場を仕切らなければならない。

 考えて、力任せの打ち下ろしを放った。隙だらけの大振り。だが、その剣撃は男の手から剣を弾き飛ばす。身を守る術を失い、絶望に硬直する男を斬り伏せようと剣を振るい、だが韓忠の手に人を斬る感触が伝わることはなく、代わりに金属を叩いたことによる微かな痺れが響く。

 

「…そう簡単に殺すもんじゃないだろう。こういう場合、捕らえて尋問するべきだと思うんだけどな?」

 

 韓忠の剣が男に届く前に止めたのは、青年がいつの間にか抜き放った短剣だった。韓忠が両手で放った剣を左手だけで受け止めた青年は涼しい顔でそう言うと、視線を右手の先へと動かす。その先にはもう一本の短剣を首筋に突き付けられ、両手を上げて震える覆面の男がいる。

 

「あんたも。とりあえず顔を見せな。で、素直に従えば、最悪なことにはならないんじゃないかな。まあ、なんらかの罰は覚悟したほうがいいと思うけど」

 

「…ほ、本当か?」

 

 青年の言葉に一縷の望みを見出して、覆面をむしり取りながら縋りつくような声を男がこぼす。

 

「ん? まあ、正直に事情を話せば、な…」

 

「勝手なことをっ、貴様ごときが決めるなっ」

 

 激昂して叫んだのは韓忠だ。剣を青年へと突き付けて睨みつける。

 

「こいつらは罪人だ。死を以って償わせるのみだ」

 

 憎しみさえ窺わせる声音で吐き捨てる韓忠に、青年は冷めた視線を返しながら、

 

「いや。そう言うなら、決めるのはあんたでもないだろう」

 

 乾いた声でそう返してから、ふっと口の端に笑みを浮かべて韓忠の背後へと言葉を投げる。

 

「でしょう? 韓郡都尉どの?」

 

 

 

 

 

「無論、決められるのは袁南陽さまよ」

 

 憤激する韓忠を通り越して掛けた問いに、答えが返る。助けられたとは言え、見知らぬ青年に呼びかけられながらも、厳然と答えを返した韓宜に、青年――白毅、真名を錬は、浮かべる笑みを深くした。

 さすがは郡都尉といったところか。威風ある態度に、錬は感心を向ける。

 一方、韓忠は苦虫を噛み潰したような顔で、ぎり、と歯を食いしばっている。身内とは言え上役を、あるいは正体の知れぬ武人を、前にして不満げな様子を隠しもしない。

 その甥の、至らない態度に内心で嘆息しながら、韓宜は錬へと意味ありげな視線を向ける。

 

「それにしても、おぬし、儂のことを知っておったのだな。通りすがりなどと適当なことを言いおって」

 

「それについては、謝罪を。ただまあ、お助け差し上げたのは、赤心からですので…」

 

 苦笑を浮かべて頭を下げる錬へと、まあよい、と返しておいて、韓宜は覆面をとった襲撃者へと顔を向けた。

 

「先も言ったように、おぬしの処遇を決めるは袁南陽太守さまだ。今のままでは、ただ単に郡都尉を襲った狼藉者に過ぎんが、裏にあるものを話すのならば、それが変わることもあろう」

 

 それを聞いて、男はちら、と背後へと視線を投げてから、畏まったように頷く。それを見て、錬と韓宜も、男の背後、逃げ出そうとして錬に打ち倒され、今は少年――梁綱に取り押さえられている男へと目を向ける。

 

「ふむ。やはり其奴(そやつ)が鍵となるものか…」

 

「…奉武、そいつの覆面を取れ」

 

 韓宜の得心がいったような呟きに合わせるように、錬が梁綱へと指示を出す。出しながら、錬がそっと韓忠に目を遣れば、その表情はより一層苦々しく歪んでいる。忌々しくこちらを睨みながらも、口を出そうともせずに何か考えを巡らしているように、錬には見えた。

 その向こうで、

 

「こ、此奴(こやつ)は…」

 

 覆面を外された男の顔を見て、韓宜が目を見開く。

 

「顔見知りで?」

 

「…うむ。儂と同じ舞陰県の豪族伊家の三男で、伊俊、字を示英(じえい)という。南陽治府で武官をしておる」

 

 錬が聞くと、顔をしかめた韓宜が答える。

 

「儂の部下…いや、正しくは、甥の叔礼(しゅくれい)の直接の部下だ」

 

 言いつつ、何とも言えない表情で韓忠へと目を向ける韓宜に合わせて、錬も視線を向けた。それに不機嫌な内心を隠そうともせずに歩み寄ってきた韓忠は、目を細めて気を失っている男を見遣り、口を開く。

 

「確かに示英ですな。だが、私の知らぬことです。此奴が己でやったか、他に共謀した者がいるのかもしれませんが…」

 

 平然と言ってのける韓忠だが、裏を知っている錬からすれば、ふてぶてしいにも程があるというものだ。切り捨てると決めたか、と眉をひそめるが、伊俊を始めとした生き残った襲撃者どもを尋問すれば、事情は知れる。知らぬ存ぜぬ、で押し通せるつもりか、と錬は訝しく思うが。

 

「…その手に握っている短剣には見覚えがありますな」

 

 韓忠のその言葉に皆が伊俊の左手へと注目する。その手は、懐から取り出そうとするかのように短剣の鞘を握っていた。なかなか見事な細工の施された短剣である。

 そうか、これか。

 錬は思い至り、目を細める。短剣(これ)で疑いを自分から逸らすつもりか、と。

 

「儂にも見覚えがある。これは、長成(ちょうせい)の持っていたものだ」

 

 苦悩の色を含んだ声は韓宜である。

 それを聞いて、韓忠の顔が嘲笑に歪んだ。

 

「なるほど。どこで繋がったかは知りませんが、此度のことは、紀霊と伊俊が通じて起こした、ということなのでしょうな」

 

「…しかし、示英も、長成のことをずっと敵視しておった。それが通じるとは…」

 

「ですが、その短剣こそが証。動かせぬ事実か、と」

 

 納得できぬ気に呟く韓宜に、得意げに韓忠が言い放ち、

 

「いえ、残念ながら、その短剣が、そのようなことの証にはなりませんよ」

 

 反論する女の声が夜闇に響いた。

 

 

 

 

「何者だっ」

 

 揶揄するような言葉に反応して、韓忠が誰何の声を上げた。

 それに応えるように、暗がりからふたつの影が歩み出てくる。それはふたりの女だった。前を歩くひとりは、文官服に似た黒い服を身につけた20代半ばの女で、その女に韓宜は見覚えがあった。

 

「おぬしはたしか、袁南陽さまの主簿になった…」

 

「はい、郡都尉どのには先にご挨拶をさせていただきましたが、そちらは初めてでしたね。(えん)方全(ほうねん)と申します。このたび、袁南陽太守さまの主簿を務めることになりました」

 

 ゆったりと頭を下げて挨拶をする閻象だったが、韓忠の目はすでに別の人物を見ていた。

 

「貴様、紀霊…」

 

 憎しみを込めて、韓忠が睨みつけるのは、閻象の後ろについてきた女だ。

 背の高い女だった。だが、ひょろりとした体格のためか、威圧感はない。短くした暗赤色の髪を無理矢理に頭の上で結んでいるため、頭上(そこ)で爆ぜているようにも見える。錬は、髷のようだな、と思った。

 表情を押し殺そうとするかのように口を真一文字に結んでいるが、その紅色の目は怒りを宿して、自分を睨む男を睨み返している。

 睨み合いながら、韓忠は倒れている伊俊を示して詰問する。

 

「紀霊。貴様、短剣(これ)をどう説明する?」

 

「ですから、短剣(それ)は長成どのが不忠を働いた証にはなりませんよ」

 

 だが、その詰問を閻象の言葉が遮る。それに韓忠が睨む対象を移して叫ぼうとするが、それを遮るように問いを口にしたのは韓宜だ。

 

「それはどういう意味かな、主簿どの?」

 

「その、長成どのの短剣ですが、盗まれたものだからです」

 

 悠然と、まるでこの場の空気に気付かないかのように閻象が答える。

 

「盗まれたのは3日前。事が判明したのは昨日。私が、長成どのに確認致しました。そして、盗まれた状況も分かっております。誰が盗み、誰に渡したのか」

 

「あとは、こいつらを尋問して裏を取れば、事情は判明する、ということですかね?」

 

 閻象に継いで、これからの対応を口にしたのは錬だ。

 その言葉に暗に含ませたのは、韓忠への示唆である。もう分かっているぞ、観念しろ、と。

 

「ええ、その通りです」

 

 答える閻象が手を上げると、槍を持った十数人の兵が韓忠の背後から現れ、逃げ道を塞ぐように展開する。

 

「あとはこちらで処理致します。そちらのふたりを連行してください。韓叔礼どの、ご同行願えますね?」

 

 それは韓忠に対する最後通告のようなものだった。もう逃げることはできないぞ、と。

 だが。

 

「方全、下がれっ」

 

 鋭い声とともに閻象の手が背後から引かれる。引いたのは紀霊で、閻象を守るかのように後ろに下がらせると代わりに自分が前に出た。

 そうした理由はひとつ。

 韓忠が身を翻して走り出したからだ。向かう先は閻象、そして紀霊のいる方向だ。

 韓忠がどうしてそちらへと向かったのか。それは本人にしか分からない。逆側には十数人からなる兵がいて抜けられないと思ったからなのか。それとも憎しみに駆られて紀霊に一太刀浴びせたかったのか。

 

 ともあれ、剣を片手に走り来る韓忠に、紀霊も腰の剣へと手をやって抜剣できるよう構えを取ると、全身から殺気を溢れさせる。

 そして、接敵する瞬間、

 

「長成どのっ、殺すなっ」

 

 鋭く飛んだ怒号に、紀霊は表情を微かに動かすが、傍目には気にした様子もなく白刃を閃かせた。

 そして、すれ違い――

 一歩、二歩、とよろめき、韓忠が倒れる。

 

「あー、えーと、殺しました?」

 

 数瞬の沈黙、紀霊が剣を納めたところで、近付いた錬がそう聞くと、紀霊はむっとしたように口を尖らせる。

 

「…殺すな、と言ったのは、そなたじゃないか。だから、面倒だが平で叩いたというのに」

 

「ああ、すみません、ありがとうございます」

 

 機嫌を損ねたようにそっぽを向いた紀霊に、錬は頭を下げて礼を言う。

 それにそっぽを向いたままの紀霊は、横目で錬へと視線をやり、

 

「…いや、いい。そなたが尽力してくれていたのは、方全から聞いている。だから、いい」

 

 放り投げるようにそう言って、兵らに指示を出すためにそちらへ歩いていってしまう。

 いささか呆気にとられた錬に、閻象が苦笑を浮かべて歩み寄る。

 

「言葉通りに受け取ってください、士泰さん。あれで感謝しているんですよ」

 

「それならいいんですが…」

 

 なんとなく不安の残る声音で錬が呟くと、伊俊の身柄を兵に預けた梁綱がこちらへとやってくる。その顔は一仕事終えて、ほっとした表情を浮かべていた。それを見て、錬もようやく実感が湧いてくる。

 

「いろいろあったが、これで任務完了、って言えそうだな」

 

 梁綱に笑いかけながら、そう言って錬は、ほうっ、と息を吐き出した。

 

 その嘆息は、思いの外、大きく夜闇に響いていった。

 

 

 

 

 

 

 





企みを潰しました。

次回、落着です。

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