ご無沙汰をしておりました…
韓忠らの企みを阻止し、彼らを捕らえた翌朝。
「おはようございます、士泰さん、奉武さん」
登城した錬と梁綱を、城門で出迎えて朝の挨拶をした閻象は、返礼するふたりを促して身を翻すと、城内へと足を進め、
「まずは、張長史どののもとへ参りましょう。例の件についての下打合せをしておきたいとのことです」
歩きながら背中越しに、これからのことを話す。
「下打合せ、ですか?」
「はい。そのあとで、文武官を招集しての評議となります」
つまりは、内々で方向性を決めておこう、ということのようだ。
漢や南陽の法やら慣例やらに疎い、というより無知に近い錬には、
当事者だと言われればその通りで、報告を、と言われれば断るべきでないのも確かだ。さらに言えば、法や慣例についての知識を得る、いい機会でもある。これから袁術に仕えるのならば、知らないでは済まされないことでもあるだろう。
そんなことを考えていた錬が案内されたのは、先日に袁術や張勲と顔を合わせた部屋だった。
「長史どの、閻方全です。白士泰さんをお連れしました」
扉の外から閻象がそう声を掛ければ、
「は~い、どうぞ入ってくださいな」
返ってきたのは、どことなくお気楽さを感じさせる声。その声に従って扉を開けた閻象とともに、錬と梁綱も部屋へと入った。
中に居たのはふたり。顔を隠すようにして口につけた碗を傾けている袁術と、その様子を微笑ましそうに見つめている張勲だ。三人が部屋に入った拍子に碗の中身を飲み干したのか、袁術は、ぷはーっ、と満足げに息を吐き出すと、入ってきた三人へと視線を向けた。
「おおっ、そこにおるのは士泰ではないか」
「いらっしゃいませ~、士泰さん…と?」
袁術が錬の姿を見て取って目を輝かせ、張勲はにこやかな笑みを浮かべて歓迎の言葉を投げかけ、見知らぬ少年の姿に首を傾げる。
「白士泰、お呼びに従い、参上しました。こちらは我が部下の、梁綱、字を奉武、と申す者です」
そんな張勲の様子に、錬が梁綱の紹介をしつつ拱手すると、むっ、と顔をしかめたのが袁術である。
「その話し方はやめよ、士泰。堅苦しいのは嫌いじゃ」
不機嫌を露わにして睨む袁術に、苦笑を引きつらせた錬が張勲へと目を移せば、目を合わせた張勲がため息をつきつつ、顎を引くように軽く頷いて見せる。
「分かったよ、コウちゃん…これでいいかい?」
ため息をついて気安い様子で言えば、袁術は満足げに、うむ、と頷き、錬の後ろでは梁綱が目を丸くしていた。
警備隊の隊長とはいえ、身分としては庶人と変わりない錬が、名門袁家の御曹司にして南陽郡太守である袁術にする対応ではない。下手をすれば無礼討ちもありうるとすれば、梁綱が動揺するのも当然だ。
だが、そんな梁綱の動揺を余所に、袁術や張勲の対応は和やかだ。
「おお、そう言えば、士泰の用事は済んだのかや? それが済めば、そなたはまた顔を出すと七乃から聞いておったのじゃが」
「ああ、
「そうですね~、というか、その後始末のために集まってもらったんですけど~」
「後始末、とな?」
錬、張勲と続けた“後始末”という言葉に袁術が不思議そうに首を傾げると、その様子に皆が怪訝そうな表情を浮かべるなか、張勲だけがうっすらと笑みを浮かべて袁術へと向き直る。
「あら、美羽さま。そのことは先程お話ししたはずですけど~? ひょっとして、覚えてらっしゃらないのですか?」
「にょ!?」
邪念などないと言わんばかりの笑顔で問う張勲に、袁術は狼狽えた奇声を上げて、びくりと肩を揺らした。
「いや、そんなわけなかろう? 覚えておる、覚えておるに決まっておろうっ」
(…忘れてたな)
(…忘れてましたね)
(…忘れてたんだろうな)
「ですよね~。つい先程のことですもの、覚えていないわけがありませんものね~」
三人が内心で
「も、もちろんじゃ。忘れるわけがないのじゃ。しっかりと覚えておるのじゃ」
袁術はのけぞるように胸を張って言い切る。もっとも、その声が不安定に揺れていることからも、その言葉が強がり以外の何物でもないのは明白で、また視線も周りを窺うかのように泳いでいる。
そんなふうにうろたえる袁術を、胸の前で手を組んだ姿勢で、頬を染め、瞳を潤ませて見つめる張勲の様子に、大きくため息を吐いたのは閻象である。
「…とにかく、その話をしましょうか。時間もそれほど余裕があるわけでもありませんし」
その言葉に、錬から物問いたげな視線を送られて、閻象が続ける。
「このあと、四刻(約1時間)ほど後に、文武官を集めての評議が予定されています。主たる議事は当然、韓忠らの謀事について。つまりそれまでに方針を決めておかなければなりません」
「方針、というと?」
「例の方々の処罰について、ですね~。簡単に言うと」
錬の問いかけに答えたのは、我を取り戻した張勲だ。
「処罰、というと、通常はどんなふうになるんです?」
「その時々ですよ~。犯した罪を、奸計を巡らして郡政を乱した、と解釈すれば極刑もありえますし、単なる地方武官の権力争いとして扱えば、免官とか
と、刑罰の話をしているにしては、明るく屈託のない微笑みを浮かべて、軽い調子の張勲が言葉を続ける。
「まあ、今回は、あの韓家の後継にして武官の主要人物が罪人ですから、とある方々がこれ幸いと追及するんじゃないですかね~。地元豪族の権勢を削るには絶好の機会ですから~」
張勲はそう言うが、今回の件が失態となるのは地元豪族らだけではない。南陽郡下の武官らにとってもこれは失態であり、対立する他派閥のすべてを牽制できるこの機を、袁家派が見過ごすわけがない。
「韓忠らの行為を郡太守に弓を引いたとして、連座して韓家にまでその罪を及ぼす。武官らの不祥事として、彼らの威を
閻象の推察に、なるほどと頷きつつ、錬はその視線を張勲へと向ける。
「それで、そうするんですか?」
「まっさか~。そんなお馬鹿さんたちの思い通りになんてさせるわけないじゃないですか~」
「それじゃ、どうするんです?」
「それはですね~…」
錬の疑問に張勲は、立てた人差し指を口元に当てると、にんまりと茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。
南陽郡宛城の評定の間。
南陽郡治府という大府に相応しく、壮麗に彩られたその広間に、多くの人々が――上座からみて左に文官、右に武官と分かれて整列していた。
文官の筆頭は、
「皆の者、頭を上げよ」
その言葉で、全員が頭を上げるのを見て、袁術が満足げに頷く。
「うむ、皆、急な呼び出しにも関わらずの列席、ご苦労である」
「皆様、お集まりですね~、それでは評議を始めましょうか」
「いや、張長史どの」
袁術の挨拶に続いての張勲の言葉に、文官の列から楊建が声を上げた。
「皆と言うが、まだ来ていない者がいるようだが?」
そう言って武官の列へと訝しげな視線を向ける。その揶揄するような言葉にも張勲は常と変わらない微笑を浮かべたままだ。
「紀
そう言いながら、張勲が誰かを呼ぶかのように手をふたつ打つと、評定の間の扉が開かれた。入ってきたのは、武装した衛兵と、縄を打たれた男が四人。その拘引された男らに官人たちが目を丸くする。
「…今日は、評議
「昨夜のことですが、そちらの韓叔礼どのと伊
「と、いうようなことを私の手の者が突き止めまして、対応させていただいたんですよ~」
閻象が事情説明をし、張勲が話を締めると、場が騒然とする。そして、張勲と閻象の弾劾にも黙して語らない韓忠と伊俊の姿に、それが事実だとの認識が評定の間に広がっていく。その中で、賎しい悦が透けて見える表情を浮かべた男が口を開く。
「それでは、今日の評議はこの件についての裁断ということでよろしいですかな?」
楊建である。その薄ら笑い一つ手前の表情を浮かべての訊ねに、こちらは通常運転の微笑みのままで張勲が頷く。
「まあ、
「それでは僭越ながら、私から…」
真っ先に言葉を発したのは、再び楊建だった。
「犯した罪は南陽郡武官の首座への襲撃。害意はなかったとしても、その本意からして事が成れば郡政を乱れさせたことでしょう。
「具体的には?」
「当人らは斬首。また、その一族にも何らか処罰を科すのが適当かと愚考いたします」
ざわり、と、場がどよめく。
その言葉は殊勝だが、内容は苛烈で、表情は劣俗である。
錬らの事前の打ち合わせで話し合った通り、ここぞとばかりに攻勢をかけてきた。韓忠の一族といえば舞陰県の韓家であり、すなわち現郡都尉の韓宜もこれに含まれる。それらが処罰されるとなれば、地元豪族への抑圧と、楊建ら袁家派閥による南陽郡への権勢とが強まることになるだろう。
豪族に属する武官らは顔を険しくさせながらも、誰も言葉を発しない。下手に庇うようなことを言えば、関連を疑われ、連座で処断されるかもしれない。そう考えれば、苦々しく思えども口を噤むしかない。
それを理解しているからか、己の提言に異を唱えるものなどいない、とばかりに、楊建は余裕の笑みを浮かべる。これで南陽郡の権勢は自分のものだ、と言わんばかりに。
が――
「ちょっと待つのじゃ」
制止の声を上がった。まるで空気を読まないかのように。
その声で水を差された感に、楊建が笑みを消して目を細めるが、誰が発言したかを察してさすがに黙する。そんな人物はこの場にひとりしかいない。その唯一、南陽郡太守袁術が、無表情で瞑目している人物へと声をかける。
「韓宜よ、そなたは何ぞ言うことはないかや?」
声に詰問ではなく気遣いの気配があるのは、韓宜の無表情に隠された内心を敏感に感じ取ったからか。その声音に韓宜は瞑目したまま、頭を下げる。
「何もありませぬ。皆の裁決に従いまする」
「しかし、そなたには非はなかろうに…七乃よ、どうにかならぬのかの?」
「そうですね~…」
心配げに振り返る主に、張勲は人差し指を口元に当てる仕草で、しばし考え込むようにして視線を巡らせた。その眼が何かを捉えたかのように細められると、その顔に満足げな、そして意地悪げな微笑みが浮かぶ。
「それでは、こうしてはいかがでしょうか? 首謀者のお二方は南陽郡からの追放、従犯の半端者さんたちは強制懲役。連座する方はなし、ということで」
「なにを言われるっ」
袁術の意を汲んだ張勲が寛容な裁定を述べるのに、異を唱えたのは楊建だ。
「それでは
声高に言い募り、厳刑を迫るが、そんな楊建に張勲は薄笑いを浮かべて答える。
「まあ、確かに少し寛大かもしれませんけど、
「この次?」
訝しげに眉根を寄せる楊建に、笑みを深くした張勲は再び手を打つ。今度は三つ。
それを合図に、評定の間の四方から幾人もの兵が新たに現れ、殺到し、
「な、なにをするっ」
取り押さえられたのは、楊建であった。
手を打つ音が三つ。その合図に錬は、ともに控える兵たちを従えて評定の間へと跳び出した。
ともに突入した兵たちが他の文武官への抑えとして牽制するなか、錬は、真っ直ぐに文官の列の先頭に立って張勲と対峙している男、楊建へと掴みかかり、左腕を取って捻り上げる。右腕を取って同様にするのは梁綱だ。そのまま相手の足を、軽く蹴って跪かせる。
「な、なにをするっ」
楊建が拘束から逃れようと暴れるが、
「動くな。いらん怪我をするぞ」
錬が脅しとともに捻る腕に力を込めると、痛みに動きを止めて呻く。
「貴様ら、私を郡丞と知ってのことかっ」
「もちろん、知らないわけがないじゃないですか~」
憤懣に満ちた楊建の言葉に答えたのは、張勲の嘲笑うような声。
「ど、どういうことだ、張長史。この狼藉はいかなることか」
「これが、さっき言った
狼狽まじりの怒気を込められた睨みを、冷ややかに受け流して張勲が微笑み、
「ある商家と結託しての商税の横領や物資の横流し、
張勲が羅列していくにつれて、楊建は顔色を失っていく。見渡せば、彼の背後の文官らのなかにも同じように顔を青ざめさせる者もいる。それらを見て、張勲は口の端を上げ、魔性めいた微笑みを浮かべた。
「心当たり、ありますよね~」
心当たりはある。あり過ぎる。だが、認めるわけにはいかない。
「しょ、証拠はっ、証拠があるのかっ」
「今、この場にはありませんけどね~。でも、楊建さん。あなたのお屋敷になら、帳簿やら覚書やら実物やら、ありますでしょう?」
苦し紛れに証拠の提示を求め、返った言葉に、楊建は安堵を抱いた。屋敷には私兵、食客が幾十人といる。手勢のない張勲には、屋敷にあるそれらを手に入れることはできまい。であれば、ここを乗り切れば、と。だが。
「…はは、そ、そんなもの知るものか。言い掛かりも程々にするがいい」
「まさか、お屋敷には手を出せない、などと思ってらっしゃるんだとしたら間違いですよ。すでに接収は完了していますので~」
「な…まさか、そんなばかな…」
絶句する。張勲に手勢はない。それは確かだ。細作は充実しているようだが、実戦力では自分の方が上回っているはずだ。自分の屋敷が、そう簡単に制圧されるわけがない。ならば、張勲のこの自信はなんだというのか。
「気がつきませんか? 評議が始まる前に言ったんですけどね~。お願いしてるって」
「き、紀霊…」
「は~い、正解で~す。長成さんには評議が始まる前に楊建さんのお屋敷の制圧をお願いしておきました。もちろん、楊建さんの
その言葉に、楊建はがくりと項垂れる。
紀霊が向かったとなれば、率いるのは正規兵。私兵や食客がどれほどいようが抗えるわけがない。
「さて、さっき言った事柄ですけど、南陽郡のみならず、漢朝への背信でもありますし、その罪は韓叔礼さんたちとは比べ物になりません。接収した証拠を精査したのちに正式に決定しますが、極刑は免れないと思ってくださいね~」
そう言い、張勲が文官を見渡す。すなわち袁家派閥の者たちを。
「このことに加担した人たちも同様ですよ。楊建さんを取り調べて判明したら覚悟をしておいてくださいね~」
続いて武官――豪族らを、そして跪いている韓忠、伊俊へと視線を向ける。
「楊建さんのことと、叔礼さんと示英さんのことを同列には扱えません。よってさっき言ったように、叔礼さんと示英さんは南陽郡から追放、そちらのふたりは強制懲役。それ以上は罪に問いません」
そして、振り向いて袁術へと頭を下げる。
「――ということで、よろしいでしょうか、美羽さま?」
問い掛けに、袁術が頷き、落着したと思われたところで、
「――公路さま…」
落ち着いた声が、呼びかけた。
「…どうしたのじゃ、韓宜?」
声を上げたのは、郡都尉の地位にある武人だった。
初老の武人は、澄んだ目を袁術へと向けて拱手を捧げる。
「
決然と己が意志を表した韓宜の言葉に、評定の間に静寂が広がった。
その静かな覚悟に気圧されて、袁術は、助けを求めるかのように傍らの張勲へと顔を向ける。その視線に首を横に振って応えた張勲を見て、袁術は悲しげに眉尻を下げて韓宜へと顔を戻した。
「…うむ、わかったのじゃ。韓宜の言うようにせよ」
「聞き入れてくださり、感謝いたします、公路さま。今ひとつ。後任には紀長成を推します。今後は全武官が紀長成を長として、公路さまを支え、南陽の安寧のために尽力いたしましょう」
それは、今回の騒動を抑えきれなかった武人の悔恨が言わせた言葉だった。ゆえにその覚悟の言葉は、この場にいた武官の胸を打った。この矜持を見せられたからには、武人たるもの、徒に派閥争いなどしている場合ではない、と。
ざっ、という音が評定の間に響いた。
それは、武官らが揃って、袁術へと跪いた音だった。