こんな世界になったら、現実を捨て去る覚悟はできている。

書物擬人化という電波が舞い降りたため。

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書物は生涯最高の伴侶である。

 

 

 

 書物とは、生涯最高の伴侶である。

 

 まず、飯を食わない。よって無駄な金はくわない。エンゲル係数は永遠にゼロである。一般に、エンゲル係数が高いほど、家計は苦しく、家庭は貧困であると言われる。ゆえに、“彼女たち”は最高レベルの生活を享受していると言える。精神の世界に生きているのだ。

 

 さらに言うなら、裏切らない。無理解なこちらを責めることもしない。こちらが“彼女たち”を裏切り、売り飛ばし、捨て去ることさえしなければ。

 

 そして、忍耐強い。虫干しさえすれば、千年以上ももつ和紙ほどではないとはいえ、昨今のビニール加工を施した中性紙の文庫本といえども、百年ほどなら優に持つであろう。愛が永遠に続くわけではないにしろ、これは大きな利点である。わたしが電子の伴侶ではなく、紙の伴侶を愛する所以だ。

 ただし、火には注意すること。寝タバコをしながら、布団で夜伽をさせることは、勧められない。

 

 娘にもよるが、賢い娘が多い。話していて、興味深い。

 

 そして、文句を言わない。いつも静かに、わたしの前に佇んでいるばかりである。

 

 静謐な、精神の交合である。

 

「カッコつけちゃってさ。バッカじゃないの」

 

 ──少しは格好ぐらいつけさせてくれよ。〈ホテル・ニューハンプシャー〉。

 

 ブルージーンズにTシャツというアメリカンスタイルの〈ホテル・ニューハンプシャー〉がわたしの話を遮った。

 

 失礼。先ほどの話は訂正させてくれ。書物は文句を言う。こちらの無思慮を責めることさえある。“彼女たち”と話し口をきくことさえできたのなら。

 

「それで? 次にあたしを読んでくれるのはいつなの?」

 

 〈ホテル・ニューハンプシャー〉は膝を抱えて、上目づかいで尋ねた。

 

 ──そうせっつかないでくれ。ただでさえ、J・アーヴィングの小説は溜まっているんだ。読み出せば、はやいんだけどね。

 

「あんたが、あたしに夢中になったみたいに?」

 

 ──そう、だね。

 

 もう二年前か。時が過ぎるのは、はやいものだ。彼女とわたしを引き合わせたのは、確か高校のクラスの担任だっただろうか。クラス全員の面前で、“彼女”を紹介するとは、その時はなにも思わなかった(なにしろ、“彼女”がどんな娘かすら知らなかったのだから)が、読み終えた今なら、その呑気さを責めることすらできる。

 

 ──読んだことがない者には、分からないよね。本屋になに食わぬ顔で座っている君が……。

 

「なに?」

 

 ──いや、俺が無粋だった。

 

「その通りよ」

 

「そんなことないわ。彼は燃え上がるような愛情の持ち主よ」

 

 ──やあ。君か。

 

 同じアメリカンスタイルにしろ、よりクラシックなドレスに身を包んだ〈グレート・ギャッツビー〉がわたしを擁護してくれた。“彼女”との出会いがいつだったかは、ちょっと思い出せないが、その初めての“彼女”との触れ合いなら覚えている。

 あれは確か、高三の夏(だったっけ?)。学校に出かける前のほんの数分の間、高校へと持って行く本を選んでいる最中に、ふと本棚から抜き取ったのが“彼女”だった。

 

 ──結局、あの日、君を読み終えたときには、高校の授業は全部終わってしまっていたっけ。

 

「あの、たった一日のために、わたしはずっとあなたを影から見ていたのね」

 

「あー、やだやだ。心気臭いのは、これだから」

 

 ──また、機会もあるさ。これからは、いつでも会えるのだから。

 

 一度読んだ本を、もう一度読むのは、最初のときとは違った悦びがある。情熱にまかせて、一息に読んでしまうのと、長い時間をかけて、ゆっくりと愛撫するようにページを繰るのは、どちらもいいものだ。

 

 ──しかし、最近の君のタイトルなんだが、……〈華麗なる──〉ってのは如何なものかね。〈偉大なる──〉の方が作品に忠実だと思うんだが……。まあ、君とはまだ付き合って日も浅い。結論を出すのは早いかもね。

 

「……また、会えるわよね?」

 

 ──ああ。君の中の一節からとるなら、「あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもない──あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そして、いつの日にか──」ってとこかな。

 

「ふふふ。『こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。』」

 

「あ、その一節、あたしの中にも引用されてるんだよね」

 

 ──勿論、知ってるとも。節回しがちょっと違うけれどね。

 

 “彼女たち”はそれぞれ相互の繋がりもある。大勢の“彼女たち”と付き合う楽しみの一つだ。

 

「それで──私は?」

 

 ──今度は君かい、〈ロリータ〉。君は世間で言われているより、よっぽど難しい娘だから、俺じゃあまだ付き合えないかな、って引け目を感じてるのさ。

 

 〈ロリータ〉は気怠げに細身の脚をのばした。“彼女”こそ、さっきの「横の繋がり」の王様のような存在だ。中々一筋縄ではいかない娘である。

 

「そんな必要ないのに。ただ、私に身を任し、私が貴方を弄ぶのを、莞然として受け入れればよいのよ」

 

「ちょっと、ちょっと! 今君が読んでいるのはぼくだろ?」

 

 ──そうだったね。すまない。〈ヘンリ・ライクロフトの私記〉。

 

 わたしは潔く謝り、忍耐強くわたしの前に座っていた娘に向き直った。ある書物を読んでいるときに、他の本に興味を抱いたことのある人なら分かるだろう。本は、他の本に嫉妬する。読んでいる人間の目をなんとかして取り戻そうと躍起になる。その様は見ていてとても可愛らしいが、嫉妬をさせた不義の男は速やかに中断した読書を再開することを勧める。

 

 わたしは、“彼女”のページを繰った。二三ページ進む内に、ふと言葉がこぼれる。

 

 ──読んでいる最中にこんなことを言うのは、なんなんだけれども、君は実に素晴らしいねえ。

 

「直に言われると、ちょっと照れるな……」

 

 ──お世辞じゃないさ。例えば、今読んでいるここだ。春の二一。「今日は、庭のまわり一帯に、鳥がさえずっている。あたりの空いっぱい鳥の鳴き声でみたされていると形容したところで、ときとして意気高らかな斉唱となり、奔放な協和音となって天に響く、あの絶え間ないさまざまなさえずり声の模様を正しく伝えることはできない。(中略)地上の生ける者のうち、他のいかなる者の声も心も発することのできないような讃美のコーラスなのだ。私は聞いているうちに、崇高な恍惚状態に襲われるのである。私の存在は激しい喜びの情感に浸って溶けてゆく。なんとも表現できない深いありがたい感じに私の目はうるんでゆく。」どうかな。俺は素晴らしいと思うんだけれど。

 

「あ、ありがとう。誉めてくれて、凄い嬉しいよ」

 

 ──君が素晴らしいのは、それだけじゃない。そういった情感豊かな自然描写と交互して書かれる、明晰な社会批判があるからだ。例えば、その次、春の二二。「(前略)しかしまた、思索的な人々や好学心にもえた人々の注意をひくにたる出版物の数も多いのだ。大衆には美しい体裁と最低の値段で、一連の古典的な作家のものが提供されている。いやしくも文学のわかるすべての人に、こんなに安価に、こんなに美しい体裁で、こういう珠玉の文学が提供されたことはかつてないことだった。(後略)」ここなんかは、現代にも通じるよね。

 

「わあ! そんなにぼくばっかり朗読しなくてもいいよう!」

 

 〈ヘンリ・ライクロフトの私記〉は顔の前で手をパタパタと振った。仕方ない。春の一は大好きだから、是非読み上げたかったのだが。物書きの端くれとしては、あの一節を壁に書いて貼っておきたいぐらいである。しかし、ご要望のことでもあるし、わたしは可愛い娘を困らせるのはそこまでにすることにした。

 

 ──でも、君の中の古典を語る箇所も読ませるよね。例えば……。

 

「ちょっとお!」

 

「あ、古典を語って欲しいの? それだったら、あたしが適任じゃないかなあ」

 

 机の上に置いてあったイタロ・カルヴィーノ著の〈なぜ古典を読むのか〉が出番を察して喋りだした。こうなってしまうと、大変だ。

 

「ちょっと、待ちな。レヴューならアタシが適任じゃない?」

 

 ──いや、君は古典というより、近代文学専門じゃないか……。

 

 モームの〈読書案内〉にわたしは指摘する。もちろん、“彼女”の素晴らしさは分かった上で、だが。

 

「えと、じゃあ、わたしは、どうかな……?」

 

 ──いや、もちろん、君も素晴らしいんだよ。〈小説の森散策〉。エーコ氏の小説の素晴らしさと全く同等の質で、文学講義を読ませてくれるんだもの。でも、俺は今ちょっと他の……。

 

「ようやく出番?」

 

 ──いや、〈競売ナンバー49の叫び〉。君とは、もっと別の機会に……。

 

 ここにきて、わたしは、我も我もと迫る“彼女たち”に囲まれて身動きがとれなくなってしまった。わたしの蔵書は大体1000冊……要するに、そういうことである。

 

 ここで、わたしは当初の結論を再度繰り返すこととしよう。

 

 書物こそは、生涯で得る最高の伴侶である。

 

 

 

 

 








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