鋼鉄の迷宮(アンダーエリア)   作:魔人ボルボックス

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第四章 英雄への一歩 —1—

「はぁっ! はぁっ! はぁっ……!!」

 

 必死に息を切らせながら、オルカは全速力で駆ける。

 

 淡く発光する天井の光によってはっきりと姿を表している、作り物めいた平べったい床と壁。そしてそれらの表面にツタのように走る幾何学模様。

 

 迷宮(アンダーエリア)。オルカが走っているのはその中だった。

 

 どういうわけか、この迷宮がどこにあるもので、どういう経緯でどうやってたどり着いたのかが、いくら頭を働かせても全く思い出せない。記憶に引っかかりすらしない。まるでそんな記憶が最初から存在していないかのようだ。

 

 そして何より、今の自分はエフェクターどころか、シールド装置すら装備していなかったのだ。

 

 危険なゴーレムがわんさと現れるこの迷宮にこんな丸裸同然な状態で挑むなど、正気の沙汰とは思えない。拳の勇者ガイゼル・クランクルスならばまだしも、そんな英雄には遥か遠く及ばない矮小たる自分が、どうしてこんないかれぽんちな真似をしているのだろうか? 自棄になったとしてもありえない話だ。

 

 オルカは考えるが、やはりそれもここにいる理由同様、少しも思いつかない。

 

 ――考えても分からないことに労力を割くのは損だ。

 

 今の自分は、ただ逃げることだけを考えていればいい。

 

 後ろから迫って来る足音に、オルカは追い立てられる気持ちでいっぱいだった。

 

 地響きのような重々しい足音。進む先ごと自分を覆い尽くす薄暗い巨影。押しつぶしてくるような凄まじい存在感。

 

 ――ラージゴーレム。

 

 迷宮内最強の怪物に、無装備のまま追いかけられているというのが、今の自分の現状だった。

 

 シールド装置が無いため、生身を晒した状態。つまり瞳から発する巨大レーザー砲どころか、副砲のみで木っ端微塵にされてしまうだろう。だが、ラージゴーレムは追いかけて来るだけで、まだ飛び道具を使っていなかった。それだけが唯一の救いだ。

 

 しかし安心は決してできない。あの巨大な足で踏み潰されれば間違いなく即死だ。蹴飛ばされても、良くて全身粉砕骨折だろう。

 

 全力で迷宮内を走っているものの、ラージゴーレムと間隔を広げるどころか、少しづつ狭まってきている。追いつかれるのも時間の問題だ。

 

 『ライジングストライカー』が無い以上、拳技は役に立たない。

 

 『瘋眼』があれば逃げられるはずだが――なぜか使えない。

 

 ゆえに自分にできる行動は、ただこうして必死に走り続けることのみ。

 

 絶望的な状況下。

 

 なにゆえ、自分はこんな状況に置かれているのか? 考えるが、やはり思いつかない。

 

 だが、みすみす死んでやることはできない。

 

 それに、もうすぐ出口に着く。見つけた瞬間そこに飛び込めば、まだ助かる可能性はある。

 

 そう考えた時だった。

 

 ラージゴーレムの巨大なショルダーアーマーが「ガシャッ」と縦にスライドして開く。

 

 露わになったのは、蜂の巣のような銃口。

 

 そして、そこから発射された無数の小型ミサイルが、ものすごい勢いで自分に迫ってきた。

 

 頭上に、あっという間に広大な弾幕が出来上がった。

 

 無数の弾頭がオルカの全身に殺到――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――はっっ!!?」

 

 ――する前に、オルカは目を覚ました。

 

 激しく息継ぎをしながら、慌てて全身の感覚を確かめる。四肢は健在だった。どこも欠損していない。

 

 自分の生命の無事を確認すると、上半身を起こし、荒々しい息遣いのまま自分の周囲を見回す。

 

 高級宿泊施設「妖精の方舟」の見慣れつつある一室。そしてその中にあるベッドの上に自分は座っていた。

 

 どうやら、夢だったようだ。

 

「はぁ……はぁ……はぁ…………」

 

 オルカは片手で顔面を押さえ、荒げた息を整えていく。

 

 全身がじっとりと湿っぽくて気持ちが悪い。寝汗が自分のパジャマを濡らしていた。襟元なんかは絞れば汗が簡単に出てきそうだった。

 

 嫌な倦怠感が残留する頭。

 

 夢だと分かった今でもなお、微かに震える手。

 

 ――最悪な目覚めだった。

 

 自分が追われ、殺される夢。

 

 恐ろしい存在から執拗に追い立てられ、懸命に逃げるも、最後には「お前の頑張りなど無駄だったのだ」とあざ笑うかのように容易く命を刈り取ってくる。こんな陰気な夢を見れば、嫌な目覚めにもなろう。

 

 夢を選べるのなら、どんなにいいだろうか。

 

 あんな、恐ろしい奴に追いかけられる夢など――

 

「……こんなんじゃダメだ」

 

 オルカはブンブンとかぶりを振った。

 

 夢は所詮夢。非現実だ。そんなものに振り回されているようでは、強くなることなどできない。

 

 恐れるな。

 

 もうそんな弱さは許されない。

 

 自分を甘やかすな。

 

 徹底的に追い詰めろ。

 

 昨日の誓いを――決して忘れるな。

 

 震える手を握りしめて黙らせ、オルカはベッドから下りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝汗にまみれたパジャマから普段着に着替え、両手に『ライジングストライカー』を装備した状態で自室を出た。

 

 廊下での人の往来は、従業員を除いてほとんど無い。どうやら随分早く起きてしまったようだ。

 

 休日中でも朝食は出るらしいが、食べる気にはなれなかった。

 

 一刻も早く迷宮に潜り、多くのゴーレムと戦い、そして勇気を磨こう。それしか頭になかった。

 

 いくつかの階段を降り、しばらく歩くとホールに到着した。高級宿泊施設らしく広大な空間だ。小さな足音でも良く響き渡る。

 

 そこにある大きな両開きのドアの引手に手をかけようとした瞬間、ドアの方が先に奥向きへ開いた。

 

 現れたのは、二人の女性。

 

「――あら? オルカじゃない。早いわね」

 

 一人はシスカだった。

 

 汗ばんだ顔をタオルで拭っており、それとは逆の手には木刀が握られていた。もしかすると、早朝から剣術の練習をしていたのかもしれない。

 

 そして、もう一人は、

 

「おはよー、オル君」

 

 ――マキーナだった。

 

 彼女はお日様のような眩しい笑顔を、自分に真っ直ぐ向けている。

 

 おはようございます――そんな挨拶返しが思わず喉から出かかった。

 

 だが寸前で止めた。

 

 昨日の夜、誓ったばかりじゃないか――強くなると。

 

 もう「あんな事」を繰り返さない勇気を持つために自分を虐め抜くと、決めたばかりのはずだ。

 

 「あんな事」をした自分に――彼女の隣に立つ資格はないのだと、自分を戒めたはずじゃないか。

 

 もう彼女と馴れ合ってはいけない。

 

 その優しい仲間とも同様に。

 

 徹底的に突き放し、縁を切らなければならない。

 

 もう自分に、一粒たりとも餌を与えてはならない。

 

 だから、オルカは言った。

 

 

 

「退いてください――通行の邪魔です」

 

 

 

 自分でもびっくりするほど厳しく、そして冷たい言い方。これを言った自分は今、どんな顔をしているだろう?

 

 目の前の二人も普段聞かない自分の口調と言葉に驚いたのか、目を丸くして絶句していた。

 

 ……内心申し訳なさを感じつつも、オルカはそんな風に棒立ちしている二人の横をスタスタと通り過ぎ、宿の外ヘ出る。

 

 だが次の瞬間、

 

「ま、待ってオル君!」

 

 駆け寄ってきたマキーナに、服の裾を掴まれて止められた。

 

「どうしたの? なんでそんな怒ってるのっ?」

「……何でもありません」

「シ、シスカに聞いたよ? 昨日オル君、酔って寝ちゃった私を部屋まで運んでくれたって。もしかして、そんな事させちゃったから怒ってるのかな?」

 

 まるで機嫌を伺うような表情で訊いてくるマキーナ。

 

 そんな彼女の顔を見て、オルカの心がズキリと痛んだ。

 

 しかし、断腸の思いで、絞り出すように悪態をついた。

 

「離してください。気持ち悪いんですよ」

 

 裾を掴むマキーナの手を強引に振り払い、早歩きで入口ゲートを抜ける。

 

 後ろ髪を引かれる思いをしながらも、オルカは足を懸命に前へ進め続けた。

 

 しばらく歩いた後で、後ろを振り返った。

 

 追っては来ていない。

 

 オルカは心の苦痛を感じつつも、それを落ち着けようと深呼吸を繰り返していた。

 

 ――これでいいんだ。

 

 今までは彼女と他人行儀に接しつつも、頻繁に交流を繰り返していた。そんな中途半端な状態を継続したから「彼女の想いに答えたい」などという厚顔無恥な願望を蘇らせたのだ。

 

 ゆえに――これからは交流を徹底的に絶つ。

 

 好意的に近づかれても、口汚い言葉と横柄な態度でそれを拒絶する。

 

 それを繰り返し、最終的にマキーナが自分を嫌うようになれば――想いにも諦めがつく。

 

 嫌われるのは苦しい。何せ、本当は大好きな女の子なのだから。

 

 だが遅かれ早かれ、そんな考えは捨てなければならない。

 

 どうせ叶える資格の無い想いだ。ならばそんなものは捨ててしまえ、オルカ・ホロンコーン。

 

 ――そんなことを考える暇があるのなら強くなろうと努力しろ。

 

 ――「あんな事」をもう二度と繰り返さないよう、徹底的に弱さを殺せ。

 

 それらの思いのみが、親からもらった二本の足を動かしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、オルカは街へ出た。

 

 このアンディーラは大きな街であるため、歩き回っているだけで時間つぶしとなった。なので現在はだいぶ日が登っている。

 

 そんな街中で、

 

「――ありがとうございます」

 

 オルカは目の前の人物に軽く頭を下げた。

 

「いえいえ、大して役に立てなくてごめんねぇ。あたしゃ冒険者じゃあないから、迷宮のことはよく分からないのよぉ」

 

 そう申し訳なさそうに言ったのは、一人の老婆だった。散歩をしていたところを捕まえて、話を伺ったのだ。

 

 オルカは現在、アンディーラに存在する迷宮について聞いて回っていた。

 

 ここは迷宮都市という名が付くほど、迷宮の数が多い土地だ。なので場所を問わないのなら「妖精の方舟」から徒歩二、三分程度の距離にある迷宮に入ればそれでよい。

 

 だが、今のオルカは普通の難度では満足出来なかった。一拳で倒せるレベルのゴーレムしかいない迷宮で得られる経験値などたかが知れている。

 

 もっと上を目指したかった。

 

 ゆえにオルカは――このアンディーラで最も難度の高い迷宮を探していた。

 

 難度の高さはそのまま危険率、死亡率に比例する。

 

 それだけ強いゴーレムがうじゃうじゃといるのだ。

 

 しかし――だからこそだ。

 

 自分は最強の怪物ゴーレムに挑み、勇気を養いたいという理由で冒険者を志した。

 

 強力なゴーレムというのは立ち向かってこそすれ、恐れて遠ざけるべきものではなかったはずだ。

 

 ゆえに、挑みたかった。

 

 そんな妄執にも似た思いを持ちながら街の人たちに話を聞いて回っているが、有益な情報はあまり得られていない。

 

 いや、有益な情報もあるのだ。だがある人は「南東の迷宮がヤバい」と言い、またある人は「街の中心部から少し西に進んだ先にある迷宮が半端ない」と評するなど、難度の評価が人によってバラバラだった。どこが一番難しいのかが未だはっきりしない状態。迷宮の数が多いのならばさもありなんと言うべきか。

 

 なのでオルカはできるだけ多くの人に話を聞き、危険地帯として指した人数が一番多い迷宮に潜ることに決めた。

 

 目の前の老婆に再度会釈してから踵を返し、その場を後にしようとした瞬間、

 

「あの、坊や……大丈夫かい?」 

 

 そう呼び止められた。

 

 どういう意味なのか――それを問おうというこちらの意思を先読みしたように、老婆は続けた。

 

「余計なお世話かもしれないけど、坊や――すごく怖い顔よ」

 

 ……オルカは何も答えず、逃げるように立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それ以降もさらに多くの人に尋ね歩き、情報を収集した。気づけば正午にだいぶ近づいていた。控えめだった人通りもかなり増えている。

 

 集めた意見を統計学的にまとめた結果、かなり多数の割合を占めていた迷宮が一つあった。

 

 アンディーラ南東方向の末端に存在する迷宮、通称「伏魔殿」。

 

 トラップはほとんど無いが、その分非常に強いゴーレムがはびこる魔窟。発見当初の初調査では殉職者が結構出たため、やむなくクリスタルクラスに泣きついて調査を任せた結果、見事「非常に危険である」と認定された凶悪な迷宮。

 

 そういった迷宮は危険度を考慮して、一定ランクに達していない冒険者は立ち入り禁止になっている。入口の前にはランクを確認するための職員が常駐しているはずだ。

 

 だがそのあたりは心配ない。きちんと対策はとってある。

 

 そのための「コレ」なのだから――オルカは先ほど店で買った品物が入った紙袋を一瞥する。

 

 これまでどっちつかずだったオルカの足取りが、目的地を得た事ではっきりと定まった。

 

 明確な道を得たなら、そこをなぞり書きのように進むだけ。

 

 オルカは歩を進め続ける。

 

 ……自分はこれから何をしようとしているのか。

 

 今よりもっと上の境地へ自分を高めようとする、向上心に溢れた行動か。

 

 はたまた、身の程をわきまえず、巨大な蜂の巣をつつきに行くような愚かな所業か。

 

 前者か、後者か……終わらない自問自答を繰り返しながらも、オルカの足は着々と目的地へと近づいていく。

 

 そんな時だった。

 

「あ……」

 

 オルカは立ち止まると小さく声を漏らし、目の前にいる人物を凝視した。

 

「……オル君」

 

 今朝会ったばかりの二人組――マキーナとシスカだった。

 

 普段ならば嬉々として挨拶してくるであろうマキーナだが、今回は違った。戸惑いを持った表情と眼差し。

 

 聞くまでもなく、今朝の自分の邪険な態度が原因だろう。

 

 シスカもそんなマキーナの様子に影響を受けているのか、怪訝な顔をしていた。

 

「ねぇオルカ、あんたどうしたのよ? ちょっと朝から様子がおかしいわよ」

「……」

 

 視線をそらし、口をつぐむ。

 

「今までのあんたはお姉様相手に卑屈に接することはあっても、今朝みたいに冷たく罵ることは一度もなかったじゃない。一体何があったわけ? 機嫌悪かっただけならそれでいいのよ。誰だってそういう時はあるもの。それで、どうなのよ?」

 

 なおも続く詰問に、オルカは沈黙を守り続けた。

 

 シスカは苛立たしげに靴を鳴らすスピードを次第に早め、やがてもう我慢できないとばかりに胸ぐらを掴み上げてきた。

 

「ねぇちょっと人の話聞いてんのあんたっ!? ちゃんとあたいの目ぇ見て答えなさいよ! あんたに言われた後、お姉様が一体どんな顔してたか――」

「やめてシスカっ!!」

 

 悲痛そうなマキーナの声が響き、周囲の目が集まる。

 

 シスカは納得がいかないといった表情を浮かべながらも、ゆっくりとオルカの胸ぐらから手を離した。

 

 マキーナはゆっくりとこちらに歩み寄りながら、少し震えた声で言ってきた。

 

「ねえオル君……お姉ちゃん、何かオル君の気に障るようなことしちゃった? なんでそんなに冷たいの? ねぇ、なんで?」

「……」

「何か言ってよ……! 何か気に入らない所があるの? あるなら遠慮なく言っていいんだよ? 怒らないから……お姉ちゃん直すから……!」

 

 すがるように手を伸ばしてくるマキーナ。

 

 掴みたい衝動をグッと我慢し、オルカはその手を乱暴に払い除け、吐き捨てた。

 

 

 

「――お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん。いつまでも姉貴風吹かせないでくれますか? 本当に鬱陶しいんですが」

 

 

 

 マキーナは信じられないものを見るような目をこちらへ向けてきた。

 

「だいたい貴女なんなんですか? ご立派なゴールドクラスのくせに、まるで幼児みたいに「オル君、オル君」。昨日から酒が飲める歳になったっていうの自覚してるんですか? はっきり言って気色悪いです。それともボクの事を馬鹿にしてるんですか? アイアンクラスのボクなんかガキ同然だと見下してるんですね。あぁそうですかそうですか」

「な、何言ってるのオル君…………違う! 私オル君のこと見下してなんか――!!」

「いいんですよ別に。どんなに情緒が幼児並みでも、貴女はボクよりずっと上のゴールド。見下す権利ありますよ。いやぁ、いいご身分ですよねぇゴールドクラス。ボクもあやかりたいなぁ」

 

 マキーナは怯えたように無言になっていた。

 

 そんな彼女の姿に心を痛めながらも、オルカは自分で聞いていても胸糞が悪く、そして支離滅裂に感じる暴言の数々をなおも連ねる。

 

「それにね、なにかと幼少時代のポジションを持ち出したがってますけど、もう貴女とボクの関係は八年前に一度切れているんです。だから今更引き合いに出されても迷惑なだけなんですよ。未練がましいにも程があるでしょう。やれやれ、これから先こうやってマダニよろしく引っ付いてこられるのは正直ウザったい以外の何物でもないので――この際キッパリと言わせていただきます」

 

 もう嫌だ。これ以上ひどいことは言いたくない。

 

 だが、止めるわけにはいかない。ここで馴れ合いを選んだら、今までの努力が水泡に帰す。

 

 ゆえに次の瞬間、言った。

 

 最低最悪な言葉を。

 

 

 

「ボクは小さい頃からずっと――――貴女が大嫌いでした」

 

 

 

 マキーナはこれ以上ないほど目を見開き、大きなしゃくりを上げた。

 

 薄紅色の唇がカタカタと小刻みに痙攣し、地を踏む足取りが泥酔したようにおぼつかなくなっている。

 

 そして――頬を伝って落ちる涙。

 

 絶望した表情で、ボロボロと地に涙滴の雨を降らせていた。

 

「…………」

 

 それを見て、オルカの胸の奥に強く締め付けられるような感覚が生まれた。

 

 その痛みは、これから捨てる予定である彼女への慕情が引き起こした本能的なものだとすぐに分かった。

 

 さっきまでスラスラと言えたはずの暴言の数々が、全く口から出てこなくなっていた。

 

 そのまま何も出来ず言えずに立ち尽くし、しばらくすると、

 

「――――っ!!!」

 

 マキーナは口元を両手で押さえながら、オルカのあさっての方向へ勢いよく走り去ってしまった。

 

 シスカが「あ、お姉様!!」と呼び止める声。

 

 比べてオルカは見送ることも、振り返ることもしなかった。

 

 ――これでいいんだ。

 

 あんな素敵な娘は、自分なんかと一緒にいるべきじゃない。

 

 才色兼備な上に、上流階級の家柄だ。自分なんかよりもよっぽど上等な男とくっついて幸せになれるだろう。スターマンあたりがいい線をいっているかも。

 

 こんな最低な臆病者と結ばれるより百倍マシなはずだ。

 

 もしあの娘が自分を選んでいたら、また「あの日」のような事を繰り返してしまうかもしれない。

 

 そう。これでいいのだ。

 

 そのように自分を納得させた瞬間――頬に重々しい衝撃がぶつけられた。

 

 「うっ」と呻きを上げながら地面に尻餅を付くオルカ。

 

 鉄の味がする。口の中を少しだけ切ったようだ。

 

 見上げると、目の前には拳を振り抜いたシスカが立っていた。

 

 憤怒の形相だった。

 

「てめえ――ふざけんなよっ!!!」

 

 シスカはさらに激しく怒号を放ち、尻餅を付いたオルカの腹の上に馬乗りになって、胸ぐらを勢いよく掴み上げた。服が破けそうなほどの力だった。

 

 普段通りなら怖気づいて何も言えなくなるはずだったが、今のオルカの心はどういうわけか氷のように冷え切っていた。無感情だった。

 

「あの、シスカ……どいて欲しいんだけど」

「吞気なこと言ってんじゃねーわよっ!! よくもお姉様を泣かせたわね!! あんた、自分が何吐かしたのか分かってんのっ!?」

 

 そんなこと、聞かれなくても分かっている。

 

 口汚く痛罵し、侮辱し、そして虫を払うように拒絶した。

 

 さっき目の前で見たんだから分かるだろう。そんな分かり切ったことをどうしてわざわざ尋ねてくるんだ。意味が分からない。オルカは内心で居直り、そして苛立ちを募らせた。

 

「だから……早くどいて欲しいんだって。苦しいよ」

「誤魔化すなっ!!! 人の気持ちを分かった上で言ったのかっ!? あんなくそったれな暴言を!!」

「……」

「お姉様はゴールドクラスだから、周囲の冒険者からやっかみや陰口がないわけじゃない。でもお姉様はそんなことを全然気にしない人なの!! そんな方が、あんたのたった一言二言の悪態で心を揺らされる! それを見れば、お姉様の気持ちは想像に難くないわ!」

 

 シスカはオルカの胸ぐらを掴む手を震わせ、辛そうに表情を歪めながら続ける。

 

「……ここに来て以来、お姉様が出す話題は決まってあんたのことばっかりなの。それでもって、あんたの話をする時のお姉様、必ず幸せそうに笑うのよ。理解したくなかったけど、認めるしかなかった。お姉様は、あんたのことが――」

「――もうやめて」

 

 オルカはかすれた声でそこから先を区切った。

 

 言われなくても、マキーナの気持ちなどとっくに知っている。

 

 でも――もう聞きたくないんだ。

 

 それを誰かの口から言われたら、これから「伏魔殿」に行く決心が鈍ってしまう。

 

「いいんだよ。あの人の事なんか……ボクは何とも思っちゃいないんだから」

 

 顔を背け、弱々しくそう言うオルカ。

 

 次の瞬間、シスカは憤怒の朱で頬を染め上げ、オルカの頬を殴りつけた。

 

「ふざけんなっ!! この野郎!! 何様なのよっ!?」

 

 馬乗りのまま、幾度も殴打してくるシスカ。

 

 右、左、右、左と、リズミカルに頬へ拳がぶつけられる。

 

 次々と顔面を襲う痛み。口いっぱいに広がる鉄分の味。

 

 それは間違いなく自分の痛みだ。

 

 だが今のオルカにはそれがひどく他人事のように思えていた。

 

 端から傍観するような心持ちで拳を浴び続けていると、ようやく衝撃はおさまった。

 

 オルカは目だけを巡らせてシスカを見上げる。

 

 大好きなお姉様を泣かせたのだ。きっと鬼のような顔をしている。そう思っていた。

 

 だが予想に反してシスカが浮かべていた表情は――泣き顔だった。

 

「あんたが――――そんな最低野郎だとは思わなかったわよ!!!」

 

 涙の雫がオルカの服に落ち、ポツポツと染みを作る。

 

 オルカはそんな予期せぬリアクションを見せるシスカを呆然と見つめていた。

 

「あの時、ラージゴーレムに殺されそうになったあたいを助けてくれた勇敢なあんたは、一体どこにいったのよっ!!」

 

 哀切にそう訴えてくるシスカに対し、オルカは生気の乏しい声で返す。

 

「勇敢なんて、勘違いもいいところだよ……ボクはずっと前から――こういう最低な人間なんだ」

 

 シスカは悔しげに歯噛みしながら立ち上がり、何も言わずにマキーナと同じ方向へ去っていった。

 

 頬に残る痛みをじんじんと感じながら、オルカはゆっくり立ち上がった。

 

 ――嫌われただろうな。

 

 ようやく普通に話せる仲になれたばかりなので、シスカとの仲違いは少し惜しい気がした。

 

 だが、これでよかったのだ。

 

 シスカはマキーナと近しい存在だ。ならば彼女との関わりも断ち切っておくべきだろう。

 

 未練に繋がる糸は、切っておいて損はない。

 

 そう言い聞かせながら、オルカは再び目的地へと歩みを進めるのだった。

 

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