前編
碇ゲンドウ。
諸君はこのキャラクターを知っているだろうか?
かの新世紀エヴァンゲリオンにおいて、主人公の碇シンジから見て父親にあたるキャラクターだ。しかしその態度は非常に冷たく、息子をまるで駒としか見ていないような素振りさえある程。更に特出すべきは、新世紀エヴァンゲリオンと言う物語において、彼がその黒幕にあたる事だろう。
劇中における彼の暗躍ぶりと言えば、その全てが『碇シンジ』の意志とは真逆にあたる。常に厳格な態度で接し、認められたいと願う少年のささやかな想いを踏みにじり続け、加えて彼の親友が搭乗する機体を無理矢理破壊させたりと、枚挙に限りがない。挙句息子が搭乗するエヴァンゲリオン初号機を用いた『人類補完計画』の始動までもやってしまうのだから、ある意味究極のモンスターペアレントだ。
妻を深く愛し、彼女との再会を果たす為に全人類を巻き込むと言う思想には、『気持ち悪い』と語るファンの方が多いのでは無いだろうか。
さて、そんな碇ゲンドウではあるが、彼の不遜な態度は物議こそあれ、原作ファンからすればとても
何事にも動じず、イレギュラーな事態にもサングラスを掛け直しては「問題無い」と溢す彼の様は、エヴァンゲリオンファンにとっては語るに外せないキャラクター要素だろう。そこに加えて、旧劇場版エヴァンゲリオンのまごころを君にで溢した「すまなかったな、シンジ」と言う贖罪の言葉。これの破壊力は凄まじく、彼を照れ屋さんだとか、コミュ障だとか、はたまた盛大なツンデレだとかの枠に嵌めてしまうに十分過ぎた。
そんな碇ゲンドウと言うキャラクターは、やはり個性際立つエヴァンゲリオンのキャラクターの中でも、ずば抜けた個性がある。数ある二次創作の中には、彼を脚色さえしてしまえばハッピーエンドになると言わんばかりの考察さえある程。むしろゲンドウにギャグのひとつでもやらせれば、途端にそのエヴァンゲリオンの二次創作は、『コメディ』と銘打たれる事だろう。
つまるところ、
――だが、これは新世紀エヴァンゲリオンの二次創作と言う作品においての話だ。
もしも他の作品に碇ゲンドウが現れた場合、その影響は計り知れない。特に既存のキャラクターの精神を『碇ゲンドウフィルター』で覆った場合、他のキャラクターはどのような反応をするだろうか。『碇ゲンドウ』特有の威圧的態度、不遜な物言い、加えて常時仏頂面と言うとんでもない個性は、どれ程作品に影響を与えてしまうのか。
この物語はそんな妄想の塊である。
※
『けいおん』と言う物語がある。
この物語は桜ヶ丘女子高等学校に通う平沢唯と言う少女が、『軽音楽部』を舞台に、日常の風景を面白おかしく、そして美味しく楽しむ物語である。この物語における主人公『唯』はお惚けな食いしん坊キャラクターで通っている。彼女の愛らしいボケに癒されたファンも多いのでは無いだろうか。
……そう、犠牲者は『平沢唯』。その人だ。
ある朝目覚めたら彼女の属性が『碇ゲンドウ』になっていた。これでいこう。
――ジリリリン。
煩く喚く目覚まし時計に、即座に刮目する双眸。
「…………」
無言の起床。
ゆっくりと身を起こし、平沢唯は寝惚け眼さえ浮かべる事なく、迷いが無い手付きで目覚まし時計を止めた。普段の彼女ならば布団の中から手探りで目覚まし時計を止めようとしている所だが、今日の彼女はそんな様子がある筈もない。一度のタップで止まった事に思うところがあるのか、彼女は愛らしい顔付きをにやりと歪ませた。
「おねーちゃーん、朝だ……よ?」
そこで開かれる平沢唯の自室の扉。開けたのは唯の妹にあたる平沢憂。既に桜ヶ丘女子高等学校の制服を着込み、エプロンを巻いた彼女は、扉を開けたその場でポカンと口を開けていた。
「起きてたんだ。珍しいね」
普段の平沢唯は寝坊助で通っている。そんな彼女を毎日起こす出来た妹の憂は、臆面も遠慮も無くそう言った。
そこで平沢唯は憂へ視線を向ける。
目付きを細め、片方の口角だけを歯が見える程に吊り上げると言う、おおよそ少女の顔には似合わないやり方で、にやりと笑って見せた。
「……ふっ、問題無い」
言葉を受け取った憂は開いた口をそのままに、ポカンと言った様子で固まった。妹のそんな様子は問題大有りだろうと思われるが、平沢唯は全く気にした風もなく、ベッドから足を出す。
「……痛いな」
そして小さく溢した。その声色は低く、普段の甲高いトーンは欠片も無い風だった。吐き出した言葉とは裏腹に、「ふん」と鼻を鳴らすと少女は立ち上がる。寝間着のTシャツに書かれた『熱血』の文字がどこか儚く揺れた。
平沢唯の様子を見ていた憂が不意にハッとする。
「お姉ちゃん、朝御飯冷めちゃうから急いでね?」
そう言って踵を返す憂。普段は出来た妹と称される彼女ではあるが、元来平沢唯と言う人間は何かしらに影響を受け易い気性をしている。故に様子が可笑しい事は、ある意味日常茶飯事だ。この時もそう思ったのだろう。
「ああ……」
唯の返事を聞く事も無く、憂は三階から降りていった。その様子を名残惜しげに見つつ、彼女はTシャツを脱ぎ捨てた。代わりの下着を適当に見繕い、制服を纏う。時間割りを照らし合わせ、鞄へ教材を詰め込む。それらの用意が済めば、彼女はベッドで転がる物体へ目を向けた。
「……ギー太」
そして名を呼び、しかし少女はすぐに頬を染めてそっぽを向く。
「いかんな、貴様の前で恥じらいもなく着替えてしまった。寝惚けているようだ」
小さく溢した。
自らの学習机に向かって視線を逸らし、そこに置かれたピンク色の物体を注視して、彼女はハッとする。やがてにやりと笑った。
おもむろに取り上げて、それを顔に掛けた。
花形がモチーフにされたサングラス。今年の夏フェスで持って行った装飾品だった。
左手の人差し指でくいと掛け直し、平沢唯はふっと笑う。
「これで問題無い」
どうやら平沢唯は愛すべきギターへの恥じらいを、サングラスを掛けると言う行為を以て制したらしい。問題無いとの言葉通りに、彼女は滞りなくギターをケースへ収めた。
平沢唯は姿見の前へ行く。桜ヶ丘女子高等学校の指定ブレザー、スカートに皺が寄っていない事を確認。いつものストッキングが伝線していない事も確認。ひとつ頷き、彼女は鞄とギターケースを持って部屋を後にした。
リビングへ向かうと、丁度食事を盛ろうとしていた憂が声を挙げる。
「お姉ちゃん!? どうしたの、キチンと準備済ませてから降りてくるなんて。てかそのサングラスなに?」
「ふん、気にするな」
ソファへ荷物を置き、平沢唯は妹へ視線を向ける。驚いたまま目を見開く少女に、「なんだ?」と聞き返す。その突き放すような低い声色は、用があるなら早く言えと言わんばかりだった。
「な、何でもないよ? それより早く顔を洗ってきなよ。髪も寝癖ってるよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
「そ、そう……」
普段の様子とあまりに違う姉に、出来た妹の憂もたじたじと言った様子。きびきびとした歩みで洗面所へ向かう姉の背を、心配そうな視線で見送った。
「……お姉ちゃん、どうしたんだろ。何があったか聞くのも怖いんだけど」
やがてそうぼやく。
そしてその言葉通り、憂はいつもと違う姉の様子をついぞ確認する事は出来ず、食事を終えて家を出る事になった。勿論唯が目覚まし時計のセット通りに目覚めた為、肩を並べて登校する事になる訳だが――。
「お姉ちゃん昨日のマラソン大会の筋肉痛、さっき痛がってたけど大丈夫?」
「ああ」
「そ、そう言えばもうすぐ学祭だよね。練習捗ってる?」
「ああ」
「あ、あとお姉ちゃんのクラスって劇やるんだよね。楽しみにしてるよ」
「ああ」
「……うぅ」
何を話し掛けても「ああ」で返されて、憂は困り果てていた。いつもの陽気さが全く感じられない低い声色が怖ければ、可笑しなサングラスを着けたままのせいで表情も読めない。いつもの姉ならば、不意にサングラスを外しては満面の笑みで「えへへぇ、冗談だよ憂ー」と抱き付いてきそうなものなのだが、果たしてそんな様子は一向に訪れない。むしろ何時もよりも機敏な様子の足並みのせいで、肩を並べて歩くので精一杯だ。
何かあったのだろうか。そう問い質したいばかりなのだが、突き放すような雰囲気が怖すぎて聞けない。しかしそんな妹の心境など知ったこっちゃ無い様子で、唯は歩を進める。
学生服に可笑しなサングラス。ギターを背負っているとは言え、単なるロッカーで済ませるにはあまりに異質な雰囲気だった。そしてその横を歩く少女は、しきりに彼女の様子を横目で窺っている。どう見ても近寄りがたい雰囲気に、すれ違う人々はしきりに彼女らを目で追った。
やがてその視線にも耐えられなくなった憂は、ついに意を決して尋ねる。
「お姉ちゃん、サングラス外さないの?」
「問題無い」
「め、目が痛いとかじゃないよね?」
「ああ」
「じゃあ、なんで?」
「ギー太に嫌われては、私に未来はない」
……は?
そう溢して、憂はポカンと口を開いたまま足を止めた。不意に崩れた足並みに、平沢唯も足を止め、サングラスを左手の人差し指で掛け直しながら振り返ってくる。
「どうした。置いて行くぞ」
「え、あ、ごめんね」
憂は即座に歩行を再開する。
ギターを大事に思うと言う事は、つまるところ平沢唯が『平常運行』である事に他ならない。もしもギターを蔑ろにするようならば、それこそ熱でもあるのかと疑う場面だろう。
――一応、いつも通りのお姉ちゃん。……なのかな?
胸を張りつつも、抑揚無く歩き進める姉の背を見ながら、憂は小首を傾げた。彼女の背で揺れるギターケースは何時もと変わらぬ様で、それを背負っているからこその姉であるとも言える。
高校に入ってから始めたギターだが、姉は命と同等と言わんばかりに大事にしている。そのベクトルは毎度毎度可笑しいとは思うものの、その妙知己な愛情表現は姉らしさを最大限に表した無償の愛とも言い換えられる。
今度はそのベクトルがまたまた可笑しな方向へ傾いただけなのだろうか。憂は唯の後ろで「うーん」と小さく唸る。
――軽音部の皆さんに聞いてみよう。
そしてそうなった。
むしろ軽音部で何かがあったのかもしれない。……とは言え昨日はマラソン大会で、部活動は無かった。一悶着こそあったものの、膝を擦りむいただけで滞りなく終わった。相反する思案が憂の中で繰り広げられ、ハッとする。
――もしかしてお姉ちゃん。ランナーズハイ?
俗に言う、走り過ぎるとしんどいのを通り越して気持ち良いと言う奴だ。……その可能性は、有り得なくはない。いや、でも昨夜は普通だった。しかし年を取ると筋肉痛が遅れてくると言うし、スローペースな日常を送る姉だ。もしかするとランナーズハイが遅れてやって来たのかもしれない。
……と、そこまで思案を進め、憂は溜め息を吐く。
――そんな訳無いよね。
いくらなんでも有り得ない。話の論理が破綻している。いくら姉がとんでもなく可愛いほのぼの系女子だとしても、あまりに暴論過ぎる。憂は自らの思案を頭を振って振り払った。
しかしそうなると姉の異質さだけが残る。彼女の背中を穴でも空けようかと言わんばかりにじっと睨み付け、憂は僅かに唇を尖らせた。
今日の姉は可愛くない。
これが一番の問題だった。
もしも姉が『気取っている』だけならば、なんとしても辞めさせようと心に誓う。可愛くないお姉ちゃんなんてお姉ちゃんらしくないと、人知れずひとつ頷いて心に決めた。
だが時既に遅し。
憂の決意が固まる頃には、桜ヶ丘女子高等学校へ到着してしまっていたのだ。残念ながらクラスは勿論、学年も違うので姉とは昇降口で一旦お別れとならざるを得ない。
が、そこで憂は昇らなくて良い昇降口を昇る。
「……む、憂は下ではないのか」
振り返ってくる可愛くない姉の顔。憂はそんな感想をおくびにも出さず、にこやかに笑って返して見せた。
「軽音部の皆さんに個人的な相談があって」
「そうか」
短く返して姉は再び前方へ視線を戻す。
ここで憂は確信した。
今日のお姉ちゃんはどこか可笑しい。
普段なら「何の相談?」とか、「伝えようか?」とか、聞き返してくる筈なのだ。もう間違いなく可笑しい。
疑念を直接当人へ投げ掛けたくなる衝動を心の内で噛み殺し、憂は淡々とした歩調の姉に続く。やがて見えた『3ー2』の扉に、不意に安堵の息が漏れた。
軽音部と言えば憂の中での株は高い。
品行方正かつ、良識がある秋山澪は言わずもがな。憂の直感では裏のボスと思わざるを得ない軽音部の胃袋を掴んで離さない琴吹紬。部長を務める田井中律は、姉と同じような自堕落染みた雰囲気こそあれ、頼りがいのある姉御肌な一面もある。あとは同級生の中野梓も居るのだが、彼女はこの場において挙げられる面子ではなく。
ただひとつ言える事は、軽音部に姉の幼馴染みの桜ヶ丘女子高等学校の
憂は藁にもすがる思いで、姉に続いて扉を潜った。
「唯、おはよー」
「ああ」
「唯ー、昨日お疲れ様ー」
「問題無い」
「おはよー」
「ああ」
唯は投げ掛けられる言葉にひたすら短く返していた。そのぶっきらぼうな反応と、サングラスと言う学校生活にあるまじき姿を見て、ある者は二度見し、ある者は唖然とする。
そんな状況だった為、憂は誰に咎められる事もなく教室を早歩きで駆けた。既に登校していた真鍋和の席へ向かい、「あれ、憂?」と見返してくる視線を気にせず机を打った。
和の座席は唯の目の前だ。唯が来る前に何としてもと、憂は有無を言わさぬ形相で慣れ親しんだ姉の親友へ顔を寄せる。
「和ちゃん、助けて」
「……どうしたの?」
普段、品行方正を貫く憂は世間体も良い。先輩たる真鍋和を、人前で「和ちゃん」と親しく呼ぶ事は滅多にない。そこに気が付いたらしい和は、すぐに席を立ち上がる。
「こっちに……」
憂は返礼すらなく、和の腕を引いた。
――しかし。
「あら唯。早いのね」
「ああ」
そこに唯が辿り着いてしまう。
返された言葉の声色に、和の表情が固まった。憂は思わず余った手で額を押さえ、俯く。間に合わなかったと、そう言わんばかりだった。
「ちょ、ちょっと唯? 挨拶くらい返して欲しいわよ? あと学校にサングラスって貴女何を考えてるの?」
「……問題無い」
「問題有るでしょう。ダメよ」
「ふん。世話を妬かれる程に、子供では無い」
「何言ってんの。貴女まだ子供じゃない」
始まった和のお説教タイム。しかしまるで暖簾に腕押しと言わんばかりに、唯は不遜な態度を貫く。やがてサングラスを右手で掛け直した時、ついに和は感情を顕にした。
「ふざけてるの? いい加減にしなさい」
淡々とした口調ながら、彼女は唯の顔からサングラスを奪おうと手を伸ばし――。
「ギー太との補完計画を邪魔させはせん」
唯の右手が和の腕を強く叩いた。
普段のおっとりとした唯の雰囲気からは想像もつかない対応だった。殊、暴力については、彼女から受けた経験が和には無い。瞬間的に呆気にとられ、和は口をポカンと開いたまま固まった。
唯は気にした風も無く、鼻で笑ってから席へ着く。その明らかな挑発に、和の表情が強張った。
「和ちゃん!」
そこで憂の声が彼女を制止する。
和がハッとして振り返れば、今に泣きそうな顔をした憂が腕を強く引いていた。
和は察した。
憂が焦っていたのは唯のこの可笑しな様子についてなのだろう。そう理解した。
※
「唯が……」
「うーん、確かに」
「いつもより背筋ピンと伸びてるわね」
朝のST前。
憂が和を教室の外へ連れ出した所で、偶然にも秋山澪、田井中律、琴吹紬の三名と出会した。二人は丁度良いと事情を軽く説明し、三人に教室の中を廊下から覗かせるに至る。
ある意味異様な光景だった。
一番後ろの窓際の席で、何時もならば遅刻寸前で息を切らしているか、見知った顔に挨拶回りをする平沢唯が、今日は異様なサングラスを掛けた顔で真っ直ぐ前を向いて微動だにしない。授業中でさえ落ち着きが無いのが唯たるやであり、彼女の良く言えば天真爛漫さ加減をよく知る一同はその姿に固唾を呑まんばかり。
「あ、いちご達が話し掛けに言ったぞ」
律がぽつりと溢す。
サングラスを掛けて前を臨むばかりな平沢唯の姿。その妙知己な光景に、クラス内でも物静かな可愛らしい女の子が話し掛けに向かったのだ。何かを話し掛けたようだが、姿勢ひとつ崩さずに唯が口を開けば、少女は肩を震わせながら後ずさる。その背を他のクラスメイトが支えながら、ゆっくりと唯から距離を置いて行った。
「怖かったのか……」
律がまたも解説する。
ガラスの向こうの少女は俯きながら自分の胸を抱いて、顔色を青く染めていた。
「お姉ちゃん、朝起こしに行った時からあんな調子で……」
「私も注意したら腕を打たれたわ」
淡々と語る和に、澪が眉を吊り上げる。
「ぶ、打たれたって。唯にか!?」
「おいおい、そりゃあちょっと不味くねえか?」
驚きを隠せない澪の横で、律は視線を伏せて溜め息を溢した。
と、そんな二人に向かってバッと手を差し出す少女。
「りっちゃん! 私行ってくる!」
「ちょ、ムギ!?」
「お、おい……」
紬は言い切るなりふんすと立ち上がり、3ー2の扉へ向かう。律と澪が彼女の背に手を伸ばそうとしたが、彼女はただならぬ形相で扉を大きく開けた。
「たのもー!」
そう叫び、クラスメイトの視線を一身に集める。
この時点で律と澪は察した。のしのしと唯の席へ歩いていく紬の背を、ただただ呆れ顔で見送らざるを得ないと理解した。
琴吹紬。彼女は俗に言うお嬢様だ。世俗に疎い訳では無いが、世俗に憧れを抱く程のお嬢様だ。『このシチュエーション』でやりたい世俗染みた事があったのだろう。
「唯ちゃん!」
唯の机をばんと打つ紬。両手に体重を掛けた事に加え、紬は力が強い。かなり大きく、良い音が鳴った。
だが、当の唯は表情の一切をサングラスに隠していれば、肩さえ跳ねた様子も無い。
「なんだ」
むしろ淡々と言葉を返してくる程だ。その声色はかつて紬が聞いた事が無い程ドスが効いており、且つ唯のものと思えない程に低い。お茶らけたサングラスながらも、目が見えない事も相まって、中々に威圧感が出ている。
そんな唯に、紬は「あ、えと」と少し言葉を濁しながらも、一歩も引きはしない。胸の前で拳を作って気合を籠めると、次にふんと鼻を鳴らして唯の肩を掴んだ。
「唯ちゃん、悩み事があるなら聞くわ! どうしたの一体」
「ふん。……いつも通りだが?」
「いつもの唯ちゃんじゃない!」
「何が言いたい」
「だって――」
そこで紬は唯の髪を指差す。
「いつもの唯ちゃんならもっと髪の毛ぼさぼさだわ!」
――ガタン。
教室の入り口で盛大に二人の少女が転んだ。律と澪だ。二人からすれば紬の言わんとする事は良くわかる。良くわかるが、この場で「そこ突っ込むのかよ!」と言わんばかりのリアクションだった。
確かに唯は毎朝遅刻寸前だったり、定刻通りにやって来たとて、持ち前のドジっ娘気質で髪の毛があらぬ方向へ向いている事が多々ある。時間があれば毎朝解いているらしいが、朝から髪の毛が綺麗に整っているのは珍しい事ではある。しかし今日の平沢唯はその全てがおかしい。全てがおかしい人間にそこを突っ込むのは、紬が事の重大性を理解していない……いや、理解していたとしても、『今日の貴女はおかしいわ!』と言うベタな行をやってみたかっただけかもしれないが。
良し、決まったわ。と、紬は朗らかに微笑む。指差した手を戻し、胸の前でガッツポーズを決めた。
「……それがどうした」
そんな言葉が返ってきては、紬の表情はピシリと音をたてて固まってしまったが。
「ムギ!」
「おい、唯。……一体どうしたんだよ」
紬を心配して、後ろから澪が彼女の背を抱き止める。金糸のような髪の下で、朗らかな表情のまま紬は石のように固まっていた。その様子を傍目にしつつ、律は溜め息混じりに近寄って行く。
平沢唯は机に両肘を立てて、口元の前で手を組み、視線だけを律に向けた。
「何の用だ。用があるなら早く言え」
「……っ!」
唯の不躾な物言いに、律は眉をピクリと跳ねさせる。表情ばかり見れば怒っているようだと、澪は彼女の様子を不安そうに見守った。
「……いや、何でも無い。悪かったな、邪魔して」
「ふん」
律は澪の懸念とは裏腹に、そこで唯に背を向けた。澪と紬に両腕を開いて、「ちょーっとあっち行こーぜ」と言葉を漏らす。
「ちょ、おい、律。良いのか!?」
「良いから良いからー」
澪をあしらいながら、去り際に律は横目で唯を振り返る。唯は既に律から視線を反らし、前を見据えて動かなくなっていた。その様子に目を細めつつ、小さく溜め息を溢す。
――こりゃあ、ヤバそうだ。
再度廊下に戻り、和と憂に首尾を問われる。澪は俯き、紬は固まったまま。律は首を横に振った。
「頭でも打ったか? あんなの唯じゃないぞ。ムギのネタにも乗らない、澪が怖がってる事も気にしない、あたしの事なんざゴミを見るような目で見てきた」
「すみません……」
憂が申し訳なさそうに俯く。律は「憂ちゃんのせいじゃないって」と小さく笑い飛ばし、しかしなーと後頭部の後ろで腕を組む。
「ありゃあマジで変だな」
ちらりと後ろを臨みながら、律は溜め息を吐いた。
普段は馬鹿騒ぎを共にする律にとって、今の唯が醸し出す雰囲気は本当にヤバいものだとすぐに分かった。あのまま澪を近寄らせていたら、おそらく雰囲気にあてられた澪が怖がって騒ぎを起こす。そうなれば悪戯に事態を混乱させるだけだと思った。本来ならば茶化したいのも山々だが、年頃の弟を持つ律だからこそ、唯が『拒絶』している事を素早く察知できたと言える。
「ケーキでも前に持っていってみるかぁ?」
「……音楽を聴かせるのはどうだろう」
「部室行って紅茶淹れてこようか?」
「さわ子先生が来るまでになんとかしたいわね」
「すみません、お姉ちゃんが……」
一様に言葉を漏らすも、朝のSTが始まる五分前のチャイムがそこで響いた。どうやらどの手立てを試すにも時間が足りそうにない。
律は溜め息を溢す。
「しゃあない。さわちゃんにだけ根回ししとくかー」
「それなら私がしておくわ」
今の平沢唯に担任の山中さわ子が普通に接したら、どうなるかは分かりきった事だろう。顧問をしてくれている軽音部では緩みきっているものの、『初の担任』と言う事もあってか、普段は締めるところはきちんと締める教師だ。間違いなく唯を注意して、もしも唯が先程律達に見せたような不遜な態度をすれば、大問題になる。根が優しい先生ではあるものの、事態が悪い方向へ転がってしまえば『停学』等の騒ぎに至っても可笑しくはない。
そこまでの推測を律がしていたかはともかく、和はそこまでの推測をして、職員室へ向かって行った。「巧いこと誤魔化しとくわね」と述べる彼女が頼りになるのは言わずもがな。
「憂ちゃんも教室に戻りな」
「……でも」
律の言葉に憂は俯く。でもと言って、流石に学年の違う教室で佇む訳にいかないのは承知の上なのだろうが、それでも放っておけないと言わんばかりに心配そうな表情をしていた。
そんな彼女を励まさんと、三人は薄く笑顔を浮かべる。
「大丈夫。和もついてるし」
「そうよ。放課後のお茶でいつもの唯ちゃんに戻るかもしれないし!」
澪と紬がそう後押しした。
――てことは一日中あのまま放置っすか。
と律は思うも、口にする前に憂が「……わかりました」と小さく溢す。律は頭の中の突っ込みを捨てて、薄く微笑みながら口を開いた。
「ほらほら、そんな俯いてっと梓や純ちゃんに笑われちゃうぞ? 憂ちゃんが元気無いと唯の元気も帰って来ないだろうしさ」
「……そうだな、律の言う通りだよ憂ちゃん」
「そうよぉー。元気出してこー」
「……はい。すみません」
また様子見に来ますねと溢して、憂は人気も疎らになりつつある廊下を歩いて行った。
その背を見送りながら、律はやはり溜め息を吐く。どうしたものか。そう溢しながら、あまり豊かでは無い胸の前で腕を組んだ。とは言え、悩むのは苦手だ。そんなに頭も良くない。和や憂がダメだった所に何をすれば良いのかは、さっぱり検討もつかない。むしろこれでケーキだの音楽だので、唯がハッとして『今まで私は何を!?』なんてそれっぽい事が起こると、それこそどう反応して良いかわからなくなる。
……いや、唯なら有りうるか。
教室に戻りつつ、律は口の中で小さくごちた。
教室の雰囲気は先程からの騒動のせいか重苦しく、まだ予鈴しか鳴っていないと言うのに、立っているのが可笑しいような状態だった。
座席に着いてはちらりと後ろを振り返る。平沢唯はやはりサングラスを掛けたまま、口の前で手を組んでじっと前だけを見据えていた。
――似合わないでやんの。
見慣れない友人の姿に悪態を心の中でごちて、律は机に突っ伏した。まだ予鈴前でざわめきこそ残る教室内。話されている話題のほとんどは、疑いようもなく唯の事だろう。
律は何度目になるか分からない溜め息を吐いた。