予想外にも授業は問題なく進んだ。誰もが平沢唯の様子を可笑しいと思いつつも、彼女の放つ『絶対領域』的な何かに気圧され、指摘出来なかったが為に騒ぎにならなかったとも言える。
いや、事態を重く見た和が、憂の期待通りの力を発揮したと言うべきか。授業ごとに入れ替わる教師陣に対し、彼女は逐一『今日の平沢唯は一身上の都合によりサングラスを着用し、風邪で頭がボーッとしているようです』と弁明を欠かさなかった。彼女のそのフォローが無ければ、おそらくSTの時間で既に彼女は学校生活を華麗にご退場していた事だろう。
特筆すべき事があるとすれば、体育の時間だけだ。まさか風邪を引いていると弁明をした人間に出席させる訳にはいかなかったのだが、当の唯は和のフォロー等知ったこっちゃない様子で頑なに出席しようとした。普段ならば見学を勧められれば喜んで見学するだろうに、この日に限っては「ギー太が観ている……」と、遠い空を眺めながら和の提案を退け続けた。
なんとかなったのは澪が横から「そんなにギターが弾きたいのか?」と聞いた事に始まり、彼女がサングラスを掛け直しながら「その為の私です」と謎の返答をし、そこへ律が「ならギー太の為に体力を温存しとけよ」と告げたからだ。それで漸く平沢唯は首を縦に振った。
……ただ、これらは全て放課後に悪夢と化してしまうと、この時の彼女らは知らなかった。
※
終業のSTが終わり、放課後。
平沢唯は機敏な動作で立ち上がる。普段からは信じられない手際の良さで荷造りを終え、彼女は青いボストン型の学生鞄を肩に担ぐ。そして――。
「あれ? 唯、部活行くの?」
ギターケースを背に負う彼女に、隣の席に座る長い茶髪が印象的な少女が問い掛ける。唯はサングラスを掛けたままの顔を彼女に向け、さも当たり前なように述べた。
「当然だろう」
そこでハッとしたのは唯の前の席に座る和だ。彼女は後ろの二人の会話を聞いて、すぐに『しまった!!』と心の中で叫んだ事だろう。
「ゆ、唯!」
「なんだ?」
即座に彼女へ振り向き、和は焦った表情で早足に部室へ向かおうとする彼女を呼び止める。
和の頬に冷や汗が一筋伝う。
サングラス越しで表情は読めないまでも、如何にも面倒臭がっているような雰囲気を感じた。おそらく放っておけば、即座に部室へ向かう事だろう。『今日は風邪を引いている』とひそかに弁明された身で。
「どうした。早く言え」
「え、えっと……。その……」
思わず口ごもる。
何と言えば良いだろう。彼女が部活を断念する為の言い訳を脳内で模索するが――。
「ふん」
用がないなら話し掛けるな。とでも言いたげに、口ごもる和に対して背を向ける唯。その動作の迷いの無さと言えば、普段の姿に何割か渡せと言いたくなるが、そんな場合では無かった。
思わず和は脳内で一番手近にあったらしい言い訳を大声で叫んだ。
「きょ、今日は音楽室の空調整備で部室が使えないの!!」
勿論、嘘だ。
最近生徒会室の空調の調子が良くないのと、音楽室の近くの設備が傷んでいるらしいと聞いた事、それに加えてついこの前音楽室にエアコンを導入した事が合わさって、脳内で最も印象に残った案だった。
しかしその効果は絶大で、平沢唯は足を止めて振り返ってきた。
「……何だと? もう一度言え」
そして、泣く子が更に泣きわめくのを通り越して泡を噴いて卒倒しそうな程の威圧感を醸し出しながら、和へ向き直ってくる。和は心臓が鷲掴みにされたような、冷や汗が背筋で凍り付いて凍傷にでもなるかのような感覚を覚えた。
あまりの威圧感と、嘘を吐いた罪悪感に、頬が強張ってしまって動かなかった。
すると平沢唯はずいと一歩踏み出してくる。
「どうした」
また一歩踏み出して、彼女は口を開く。
「もう一度」
そして更に踏み出して、吐息が掛かりそうな距離にまで迫って来た。
「言え」
そこで平沢唯はサングラスを左手の中指で押し上げる。
この距離に至って今日初めて和は平沢唯の目をハッキリと見た。サングラスの低い透過率で濁った彼女の目は、普段見せる愛らしい大きな双眸ではない。……何と言うか、人を二、三人殺してきたかのような雰囲気と言うのだろうか。
兎に角怖かった。
怖くて怖くて、和は息をする事さえ忘れそうだった。
そんな和に愛想が尽きたように平沢唯はふんと鼻で笑う。そして視線を明後日の方向へ逸らすなり、手近に居た先程の茶髪の生徒へ向き直る。
「おい。音楽室が空調整備と言うのは本当か?」
「……え、し、知らないよわたしは」
――聞こえてたんじゃないの!
と、和は叫びたかった。と言うか、心の中でそう絶叫した。
心臓がバクバクと音を鳴らし、全身から冷や汗が止まらない。今の一瞬でブラウスが肌に貼り付く程の汗をかいた気がした。
それを隙と思った訳ではないだろう。しかし――。
「山中さわ子」
平沢唯はそう声を上げた。
和がハッとするも時既に遅し。
首が長らくオイルを注していないぶりきの如く、ギギギと嫌な音を鳴らすような気持ちで教壇の方へ振り向く。すると案の定、怪訝そうな表情を浮かべたこのクラスの担任――山中さわ子がこちらを見ていた。
「せ、先生を呼ぶときはちゃんと『先生』ってつけましょうね?……平沢さ――」
「そんな事はどうでもいい。音楽室が使えないと言うのは本当か?」
バッサリと切り捨てた。
瞬間、教室が凍り付いたように感じたのは、おそらく和だけではない筈だ。少なくとも軽音部の面子は間違いない。
さわ子先生の表情が『カチンときた』と言わんばかりに、実に後が恐ろしい笑顔を浮かべていたのを、和は確かに見た。
「お、音楽室は使える筈だけど、貴女今日風邪を引いているのよね?」
おそらく、さわ子先生は平沢唯が風邪を引いているから様子がおかしいと、和が述べた事をきちんと覚えてくれていたらしい。即座に注意とならなかったのは功をそうしたと言えよう。
しかし、この一日分の
風邪を引いている人間に部活を許可する教師はいないだろう。特に平沢唯は去年の文化祭前にも風邪を引いて一大事を巻き起こした。今も丁度文化祭前で、文化部の彼女にとっては大切な時期だ。
はっきり言って万事休すだった。
風邪を引いていると言う嘘を通すならば、さわ子先生が唯に部活を許可するとは思えない。かと言って音楽室が空調整備だと言う嘘がこの期に及んで取り繕えるとも思えない。
和はもう諦めるしかなかった。
「ごめんなさい!」
平沢唯に向かって手を合わせ、会釈する。
「違う部室と勘違いしてたわ」
そう言いきる。
「……ふん」
すると平沢唯は満足したように踵を返し、「ちょ、ちょっと平沢さん?」と呼び止めるさわ子先生さえも無視して歩き出してしまう。
殊、ここに至ってはさわ子先生に事の次第を説明する方が早いと、和はそう思った。
深い、とてつもなく深い溜め息が溢れた。
※
「様子がおかしい……ねえ」
山中さわ子はぼやく。放課後の喧騒で程よくがやつく職員室で、手元のプリントを直しているようなふりをしながら、細みの眼鏡越しに自らの暗い茶髪を見つめて実に気だるげだった。
思い起こすは先程の教室での一悶着。平沢唯に呼び捨てにされ、実に威圧的な言葉遣いで音楽室が使えるのかと問われた事。そしてその後、真鍋和から聞かされた事の顛末。
『もうあれは別人とすり替わってると言われても疑えない程でした。ご覧になったから分かると思いますが、唯の妹の憂によれば朝からあんな調子らしく、先生方に可笑しな態度をとれば悪戯に騒ぎにしてしまうと思い、やむを得ず嘘を吐いてフォローしてました。……申し訳ありません』
とは、和の弁。
さわ子の知る限り彼女は成績優秀かつ、教師生徒の全員から信頼される鑑のような生徒と言っても過言ではない。余計な嘘を吐くような生徒で無ければ、不要な事をする生徒でもない。教室での悶着は平沢唯を部活に行かせない為だったらしい。
と、すれば平沢唯だが……。
成績は悪い。加えてどちらかと言えば不真面目な生徒だ。他力本願な部分も多く、担任のさわ子からすれば悩みの種と言っても過言ではない。人に愛される性格をしていて、友達思いな優しい子でなければ、きっと素行不良とさえ言ってしまえる。その良い部分が悪い部分を補って余りある生徒……の、筈だが、彼女はなんだかんだトラブルメイカーの一面もある気がする。……いや、一つ一つが印象に薄いだけで、思い出していけば枚挙に限りがない。
――今度は何をやらかしたのよ。唯ちゃん。
と、思案の末にそうなった。
しかしながら優秀な生徒の証言とは言え、何事も確認せずして決め付けるのは宜しくない。素行不良の生徒が悪い生徒だと決め付けられていれば、今の自分は居ないじゃないか。
――よし。
さわ子は思案を纏めた。それと同時に手元のプリントを纏めて、裏返しに伏せる。気になるのなら様子を見に行くしかないわね。と、そうなった。
「軽音部の様子を見てきます」
向かいに座るかつての恩師、今の指導役の主任へそう挨拶し、いってらっしゃいと言葉を受け取る。よしと気合いを入れながら、さわ子は職員室を後にした。
いつもならばお茶会宜しく、疲れた時の休憩所にしている軽音部だ。和が騒ぎ立てる程の事案とは未曾有の事態とも言えるが、その当人が平沢唯ならば話は別だ。
何かをやらかしてくれたのは間違いないようだが、彼女の騒ぎとは今まで『時間』、『部活仲間』、『お菓子』で殆んどが解決してきた。今回もおそらくその辺りから攻めていけば良いだろう。
特には『お菓子』だ。軽音部の琴吹紬御用達のスイーツはどれをとっても美味。平沢唯は彼女のスイーツにこれ以上ないくらい陥落している。落ち込んだり、怠惰の極みにあるのならば、これを餌にすれば彼女はすぐに蘇るのだ。
……気になるとすれば『別人とすり替わってると言われても疑えない程でした』との和の弁だが、どれ程なのかは見て確かめるしかない。
「さわ子先生、さようならー」
「はい。さようなら。気を付けて帰るのよ」
「はーい」
すれ違う生徒を何度目か分からない挨拶と笑顔で見送り、やがて辿り着いた音楽室がある最上階へ向かう階段。いつもの調子でトントン拍子に上がって行けば――。
『もう嫌だぁぁあああ!!』
と、叫び声が聞こえた。
さわ子はハッとする。すぐに駆け足で階段を昇り、調剤薬局の前に佇んでいそうなカエルの人形が『ようこそ軽音部へ』と看板を提げている横の扉を開く。
「叩けぬのなら帰れ!」
「もうヤダ疲れた帰るぅぅ!」
何の騒ぎ!? と、叫ぼうとして、さわ子は固まった。代わりに泣き叫んでいたのは部長の田井中律で、実に平常運行と言うべき怠惰の叫びを挙げていた。
平常運行とは違うのは、いつもならば怠惰の叫びを挙げる側の平沢唯が、叱責係と言うのがあれば任命されているだろう秋山澪でも言わないような辛辣な発言をしていた事だ。
扉を開けたその場で固まったさわ子。目の前にはギターを持って可笑しなサングラスを掛けたままの唯。ベースを抱えて青ざめた顔付きで「コワクナイコワクナイ」と呟いている秋山澪。そんな彼女を励ますように、ギターを小脇に抱えて焦った表情を浮かべる中野梓。キーボードの前でとりあえず笑ってます的な無機質さが感じられる表情の琴吹紬。そして、ドラムセットの前で泣きながら地団駄を踏む田井中律。
――えっと、これ、練習してた……の、かしら?
と、思い悩めば律が即座にさわ子の方へ向いて、「さわちゃぁぁあああん!!」と壮絶な再会を果たしたかのような勢いで飛び付いて来る。
「え? ええ? ど、どうしたの?」
「唯が、唯が……」
律は平沢唯を後ろ手に指差し、泣きながらさわ子を見上げてきた。様子とすれば比較的頻繁に見られる我儘なのだが……。
と、思ったさわ子の印象を、律の発言が粉々に砕いた。
「唯が練習しないなら帰れって! お茶飲むのなんか必要無いって! むしろそんな事したらティーセット割ってやるって!!」
前者は当然の発言……だろう。真ん中も、まあ他の部活で紅茶とお菓子を飲み食いしている部活なんて有りはしない訳で。ただ、最後の発言は少し物々しく感じる。
「当然だ」
律の背を撫でてやりながら、そんな言葉を吐き出した平沢唯へ、さわ子の視線が向けられる。
「貴様はドラムを叩く為にここにいるのではないのか?」
左手の中指でサングラスを押し上げながら、僅かに相貌を伏せて、彼女はそう問い掛けてくる。さわ子の胸の前で律が「ひっ」と声を上げた。
そこでさわ子はハッとする。
左へ視線をやり、琴吹紬を見据えた。笑顔のまま動かない彼女の表情だが、さわ子の視線に直ぐ様気がついたかのように刮目した。
――ムギちゃん! お茶とケーキよ! 今の唯ちゃんに必要なのはスイーツよ!
すると言葉もなく、紬は左手で拳を作って胸の前へ、右手は規律良い斜め四五度の角度で敬礼と相成る。
――イエッサー!
そう聞こえた気がした。前々から彼女に対しては意志疎通に言葉が必要無い気がしていたのだ。
とすれば必要なのは時間稼ぎだ。ここに終業のSTの事を使わない手は無い。
「ちょっと唯ちゃん!」
さわ子の時間稼ぎは叱責するかのような口調から始まった。
「なんだ」
平沢唯はまるで男にでもなったかのような口調で応えてくる。その威圧的な態度と言えば、確かに澪が恐怖におののく理由も分かる気がした。……が、さわ子にそんなものが通用する筈が無い。少なくともこの時はそうだった。
「貴女さっき教室で私の事を呼び捨てにしたでしょう!?」
さわ子は素早く切り返す。
すると彼女は先程も見せたようにサングラスを左手の中指で押し上げて、ふんと鼻で笑った。
「それがどうした」
カチーン。
さも当然のように言われた言葉に、さわ子の中で入ってはいけないスイッチがONになる。
未だ腰にしがみついてきている律をポイと脇へ捨てる。「あうっ」と声を上げて彼女は転がった。
ツカツカと足音を立てながら唯の前に行き、自らを教師だと戒めるべくコンタクトレンズにしていない眼鏡を右手でつまみ、下へずらす。
「ああん? なんだってぇ?」
そしてこれ以上ないくらい
普段、言う事を聞かずに舐めてかかってくる軽音部の
ピクリ、とそれまで微動だにしなかった平沢唯の肩が動いた。僅かな動作にも関わらず、反応があった事に紬を除く一同が「おお」と声を上げる。
しかし――。
「何か問題があるのか?」
サングラスを掛けたままの相貌を僅かに俯かせ、醜悪と言う他がない片頬だけを吊り上げた笑みを浮かべた平沢唯。言葉にすればそれだけなのだが、僅かにサングラスと額の隙間から臨める目付きの恐ろしいこと。
例えるならば、彼女の後ろには一四歳の息子を護る為に世界さえも破滅させようとする紫色の鬼のような兵器が見えた。……気がした。
さわ子の背筋がゾクりと音を立てた。
「な……んだとコラァ」
しかしそこは大人の意地だった。
さわ子は決死の思いで虚勢を張るが如く、自らの黒歴史を臆面もなくさらけ出した。そんな彼女の心境を知ってか知らずか、平沢唯はふんと鼻で笑って、たじろぐ事はなかった。
「生徒の用意するデザートにホイホイと釣られて職務を忘れる愚者に先生等と言う呼称が果たして本当に必要なのだろうか?」
そして今日一番の饒舌で彼女は捲し立てた。その口調こそ落ち着き払っているものの、しかしどうして彼女の口から出た言葉はさわ子の心の一番柔らかい部分をとんでもない殺傷能力のナイフで抉るかのようだった。
――カシャーン。
と、時を同じくして音楽室に食器の割れた音が響き渡る。
紬が今の言葉を聞いて、まるで地獄を見てきたかのような、この世の終わりを見ているような、そんな表情で淹れ掛けのティーカップを床に落としていた。
「あ……。あの……。ええっと……」
まるで食器の割れた音と共にさわ子の戦闘モードも弾けとんだ風だった。思わず窮地に立たされた立場に彼女が口ごもる。
「嘘だろ……」
「さわ子先生が……」
「負けちゃいました……」
一致したらしい感想を溢す律、澪、梓のなんと呑気な事か……。
「山中さわ子、大人になれ……」
「うわぁぁあああん!!」
そこでさわ子は絶叫した。
「唯ちゃんの馬鹿ぁぁああああーっ!!」
コメディチックに涙を散らしながら猛ダッシュを開始して軽音部の部室から退場して行く。
最初に姿を見せた時はまるで救世主のように感じたものだが、こうなってしまっては「何しに来たんだよおい」と呟く律の言葉がまさにその通りである。
「唯ちゃん!!」
そこで紬の柔らかいボイスが珍しくも大きな音で響き渡る。ハッとして一同が彼女に視線を向ければ、彼女は右手を大きく引き、左手は愛らしい女の子走りをするような体勢を取っていた。
「新しい顔よ!!」
そして紬は持てる女子高生の平均的な力量を上回る膂力で、右手の上に乗せていたショートケーキを皿ごとぶん投げた。
「ふんっ」
それを難なくかわす唯。
べしゃりと嫌な音を立てて、ケーキが音楽室の黒板で弾けた。スポンジで勢いが死んだらしい皿が、名残惜しそうにケーキのクリームで凄惨な跡を残しながら床へ落下する。
「うわー、もったいねー」
律がぽつりと溢した。
確かにいつもの唯なら「ぶべら!」と声を上げながら、顔面にケーキを食らっていただろう。そして「美味しい!」とでも声を上げて、二つの意味で食らっていた事にすると想像がつく。
しかし今の唯にそれは通用しなかったようで。
紬はへたりと床に崩れ落ちた。
「そんな、一度やってみたかったのに……」
ポツリと溢す言葉は、先程の我が身棚上げで律達が「何を呑気な……」と溢すばかり。
と、そこへ……。
「すみません。お邪魔しまーす……」
消え入りそうな声で呟きながら入ってきたのは、梓と同じ色のリボンをタイにしている少女。唯と同じ髪色をした少女。
平沢憂だった。
様子の可笑しい姉を心配してやって来たのだろう彼女は、入ってくるなり律達が見守る紬を見て、更には姉を見て、そして姉の背後でぐしゃぐしゃになったケーキを発見する。
「……そんな、お姉ちゃんがケーキを拒否した!?」
「おいおい今の状況でわかんのかよ……」
あっさりと状況を把握したらしい出来すぎる妹の憂に、律は思わずそう溢した。瞬間的に涙目になる憂には何のそので、梓と澪は「憂ですし」「憂ちゃんだからな」と溢す。それで納得がいくのだから不思議だ。
「お姉ちゃん!」
「なんだ」
そして今朝と変わらぬ姉の姿に、思わず駆け出して憂は彼女の腕を引く。威圧的な雰囲気に恐れおののく心を殺すように、彼女は首を横に振ってから、息を思いきり吸い込むような動作をした。
「いつもの可愛いお姉ちゃんに戻ってよぉ!」
まさしく、絶叫。
「……な」
そこで唯が初めてぐらついた。
突然現れては事態を手早く察し、更にはいきなりラスボス戦のような絶叫を披露した憂だったが、唯の反応に律が目敏く気が付いた。
「ムギ! 梓の最強装備だ!」
「ハッ! りょ、了解!」
機敏な動作で立ち上がった律に、指を差して指名された紬。やはり四十五度の角度で敬礼をしてから倉庫にしてある部屋に駆け込んだ。当の梓は「え? 最強装備? えええ!?」と困惑。
そして律は次に澪を指差す。
「澪! パンチら――グフォッ!!」
しかしその指令は出す前に澪による正拳突きを女子には辛いボディに食らって撃沈。
「りっちゃん、持ってきた!」
そこへ紬が『とったどー!』と言わんばかりに猫耳バンドを掲げて参上。梓は頬を引きつらせた。
まさか、と彼女の唇が音もなく動いた。
「よ、よし……ムギ……梓に、そうちゃ……ぐふっ」
澪による痴漢撃退パンチで悶絶しながら指示を出す律。しかし最後まで言い切る事はなく、崩れ落ちた。
「りっちゃん!! しっかりして。傷は浅いわ!」
そんな律の指示を、それでも遂げるのが紬だ。律を心配する言葉を並べながら、「え、ちょ、やめてください!」と叫ぶ梓に無理矢理猫耳バンドを装着させた。
そして――。
「あ、ああああ……」
猫耳バンドを装着した最強の中野梓を目にし、平沢唯が狼狽えた。言葉にならない言葉を漏らしながら、憂の手を逃れて一歩ずつ後ずさっていく。
そこでハッとしたのが憂だ。
「もう! やめてくださいよ先輩!」
と、実害ゼロの梓は猫耳バンドを自らの頭から取り上げ――。
「梓ちゃんそれ貸して!」
憂に引ったくられた。
そして憂は両手でそれを持ち、姉に向かい立つ。
平沢唯は息遣いを荒くしながら、胸を苦し気に押さえていた。そんな彼女へ憂は一歩踏み出す。
「お姉ちゃん」
サングラスの向こうの視線が、自分へ向いたのを憂はなんとなく察した。
そして――。
「見て見て」
猫耳バンドを一息に自分の頭へ持っていき、装着。そして右目を閉じて、右頬へ招き猫がやるように拳を沿えて――。
「にゃ……にゃあ」
頬を真っ赤に染めて、憂は猫なで声を出した。
瞬間、一同に衝撃が走る。
「出来た妹が……」
律が溢す。
「猫耳だ……」
梓が溢す。
「しかも照れてる……」
澪が溢す。
「まだ涙が目尻に残ってるわ!」
紬が溢す。
「あ、あ、ああああ……ああああ! ああああああーっ!!」
唯は驚愕した。
憂は可愛い。憂は何でも出来る。憂は偉い。憂は自分の味方だ。憂は――自分の妹だ。
「う、憂ぃぃいいい!!」
そして絶叫。
「可愛いぃぃいいい!!」
更なる絶叫。
そこには、涙目で恥じらう出来た猫耳妹の姿。絶叫する程『萌え』ても、仕方なかったのだろう。
そして『萌え』とは、碇ゲンドウにはあるまじき姿。『萌え』たゲンドウなど、誰も見たくはないのだ。
「お姉ちゃん!」
「憂!!」
一日分を埋めるかの勢いで抱擁し合う姉妹。
ここに碇ゲンドウ属性など、要らない。
もう、要らない。
全ての萌えに、おめでとう。
全ての属性に、ありがとう。
碇ゲンドウに、さよなら……。
※
かくして平沢唯は元に戻った。
部員からの大ブーイングと、さわ子からの恐怖制裁、そして壁で果てたケーキに絶叫するのは、また別のお話。
和からは勿論、勉強と言う名前の地獄を見せられたそうだ。
碇ゲンドウのファンが一人でも増えますように……。