「………」
ゆっくりと目を開く。
柔らかい、肌色の何かが見えた。
「……起きた?」
ふと、頭上から初音の声が聞こえる。
「起きた」
今どの部分に触れているのか一瞬わからなくなるくらい柔らかい肌に俺は顔をくっつけながら、なるべく早急に離れようと努力するが……。
「ってて……」
無理な体勢――正座の状態で座卓へ顔から突っ込む様な体勢をしていた俺は、身体を戻した瞬間腰と背中のあたりが悲鳴をあげる。
その場で胡坐をかき、すっかり覚醒しきっている初音の顔を見た。
というか……今気付いたけど滅茶苦茶際どい格好してるな。
ボタンつきのパジャマだからか、上腹部までボタンを取っており、完全にへそが丸見えである。
それで横になって寝ているもんだから、寝巻の奥にある水色のブラが見え隠れしているので大変目に悪い。
――思えば母さんが死んでからそんなものとは縁の遠い生活を送っていた俺だが、ここ一週間の生活で殆ど見慣れてしまった、というよりかは適応してしまった、と言った方がいいのだろうか。それほど初音の下着に過剰反応する事はなくなっていた。
え? 美音さん? いやあの人は人妻だろうそんな性癖はないし俺だって命は惜しい。
んっと俺は軽く伸びをすると、初音もようやく上体を起こす。
時計を確認すれば、どうやら30分ほど眠ってしまっていたようだ。まあ音無先輩達のペースからすると丁度いい塩梅になってくれていそうだが。
「はあ……。そろそろ下りて行かないと、あの二人も困るでしょうし行きますか」
襟脚を抑えながら首を回しつつ立ち上がると、足元で寝転がっていたハクを片手でひょいっと持ち上げながら自室を出て行く。
「初音?」
そしてベッドから降りて来ない初音を振り返ると、
「………今日は休もう。うん」
「バカな事いってねーで早くきてください」
毛布にくるまり枕を抱きしめている彼女がいたので、俺は首根っこを掴んでずるずると引き摺ってゆく。
「あぁ~~お休みが欲しいんじゃ~~っ!」
出来るなら俺も欲しいわ。というか全学生誰もが思うことだろう、それは。
「さあ一週間を始めましょうかい」
そんな初音のバカ発言に付き合いながら、俺達はリビングへと向かうのだった。
「結弦……」
「……奏」
「「………」」
未だにリビングはクライマックス状態だった。
窓辺で二人して抱き合いながら見つめ合うバカップルを無視して、椅子へと初音を座らせつつキッチンへと歩いてゆき、冷蔵庫を開け食材を取り出す。
「(あぁー胃が痛い……)」
キリキリと痛む胃を抑えながら朝食分に使う野菜を切り、残りをラップに包んで野菜室へと入れ、調理に取り掛かる。
「初音、和食でいいか?」
「ん~……なんでもいい」
いつも通りにぐったりとした初音はテーブルに突っ伏しながら顔をあげて答えた。どうやら今日はしっかり眠ったみたいだな。
最近の初音は深夜帯に起きてくる事もなくなったので、毎朝の機嫌も少しずつ良くなってきている。
(このまましっかり睡眠取ってくれれば世は事もなし、なんだけどな……)
昨日購入したネットで通信プレイができるFPSゲームにドハマりしてしまっているので、また睡眠不足に陥るんじゃないかと気が気じゃない。
ただゆり姉と一緒にプレイしているみたいだったからな、しっかり制限してくれるだろう。
――閑話休題。そんなこんなで出来上がったやや濃い口のほうれん草の御吸い物と鮭の塩焼きが出来上がる。
白米も充分にあるので、朝食はこんなものでいいだろう。
「ほい。待たせたな」
未だに突っ伏していた初音の背中をぽんぽんと軽く叩いて上体を起こさせると、その前に朝食を並べる。こうしてやれば再度突っ伏して眠るなんてことはまずない。
「……音無先輩達も、イチャイチャすんのはもうその辺にして朝飯にしませんかい?」
ふう、とため息交じりにそう言うと、二人はハッとして俺達を振り返って赤面。同時にわたわたと慌てだす。
「いっ、いや別にイチャイチャなんてっ……」
「イチャイチャじゃないわ。らぶらぶしてたのよ」
「あ、ああ……そうだな」
すっと音無先輩の胸元に頭を預け寄り掛かった立華先輩にたじろぐ音無先輩。本当、フリーの目には毒なんでそろそろ簡便してほしい。
俺はキリキリと痛み続ける胃を抑えながら「そッスか」と苦笑交じりの愛想笑いを浮かべて席に着くのだった。
†
所と時間変わって昼休み。俺は昼食を取るべくいつもの部室へ向かっていた。
すると……。
『発想は悪くないかと』
『アイツ引っ掛かった――ぶほっ!?』
『秀樹!?』
なんて声が響き、俺は駆け足にその場へと向かう。
と、日向先輩が入口で両手で顔を抑えながらのたうち回っていた。
「睫毛がッ……睫毛が持ってかれた……っ」
くぉおおおおっ……という痛そうな悲鳴を上げているところで俺は歩み寄り、日向先輩に「えっと……一体何があったんですかい?」と苦笑しながら中に居た音無先輩と、先日は宮司服姿だったインテリ系の男性を見上げる。
そして彼はメガネのブリッジを持ちあげながら日向先輩を眺めていた。
音無先輩がビッとドアの両脇に何重にも貼ってあったセロハンテープを剥がす。
繋がっていたであろうそれは切れていて、切れ端には何本かの睫毛がついている。
「セロハンテープトラップだよ」
「うわあ……」
俺は引き攣った笑みを浮かべつつ(本当にそういうのやる奴いたんだ)と思いながら懐に入れていた目薬とハンカチを日向先輩へ与えた。
「というか、それ勢い良く行く奴じゃありませんでしたっけ? トラップありますし引っ掛かるなんてこと」
「その為に一時的に解除したんだよ……クソッ、高松の反射神経を侮ってたぜ……っ!」
「高松……先輩ですかい?」
「あなたは先日の。初めまして、二年の高松です」
「一年の逢坂です。よろしくお願いします」
立ちあがって高松先輩と握手を交わすと、ようやく落ち着いたのか日向先輩は俺に目薬を返してくれる。それと合わせて手を引いて立ちあがらせた。
「わりぃな、ハンカチは洗って返すわ」
「いや、気にしないでくださいよ。……代償はその睫毛だけで充分ッスから」
「うっわ、結構抜けてんじゃん! やっぱラップ系のがいいなぁこういうのは」
「まずやらないっていう考えはないんスね……」
自分の抜けた睫毛を確認している日向先輩と音無先輩からゴミを受け取り、燃えるごみの箱へと捨てる。
「そう言えば逢坂、初音とは一緒じゃなかったのか?」
「あぁ、講義は一緒だったんスけど、今は嫁さんと一緒にこっちへ向かってるはずですよ」
嫁さんというのは日向先輩の奥さん、ユイの事だ。正直名前呼びするにはまだ交流が足りないという勝手な自己解決からそう呼んでいる。
「そっか、一年メンバーで唯一男子だからな……」
「気遣うのも大変だなぁ」
「嫌々付き合ってるわけじゃありませんから。割と二人は仲良いですし、野郎一人が邪魔に入るわけにはいきませんよ、っと。みなさん茶要ります?」
「おー、俺コーヒー」
「ああ、それなら俺も」
「はい。高松先輩は?」
「私は結構です。自前のがありますので」
「了解でっす、と」
それじゃ、俺もコーヒーにするか。
インスタント系のコーヒーをそれぞれ専用の湯呑へ淹れ、持っていく。
ちなみに俺の湯呑は卒業していった先輩のものを使わせて貰っている。魚偏が大量に書かれているものだが……。実家が寿司屋かなんかだったのだろうか。
「ほい、日向先輩は砂糖多め、音無先輩は少なめで良かったですよね」
「サンキュー!」
「はは、悪いな」
「いえいえ。後輩の仕事ですから」
俺は高松先輩の隣へ腰掛ける。
どうやら高松先輩の昼は弁当のようだ。色とりどりの食材がぎっしりと詰められている。
だが……なんだろう、カルシウム系が多いな。ひょっとして骨が弱かったりするのか?
なんて思っていると、高松先輩は自分の水筒のふたを開け、それをコップ代わりにして注ぐ。
「っ!?」
牛乳。牛乳だ。それも温められた様な感じに湯気が立っている。ホットミルク、なのか……?
そこでぎょっとした俺に気付いたのか、高松先輩は頭上に「?」と疑問符を浮かべながら俺を見た。
「どうかされましたか?」
「い、いや……。なんというか、健康的ですね」
「ええ。まあ鍛えていますので」
どういうわけだ、それは。
高松先輩はくっとそれを一口飲むと、そのまま再び自分の弁当へ手を付け始める。
まあ、先輩の食事は良いだろう。俺はいそいそと自分の弁当を広げる。
「そういえば、今日の弁当は逢坂が作ってくれたんだっけ」
「流石に立華先輩と比べられると、味の好みとかは負けますけどね」
「そんな事ないさ。美味いよ、本当。奏とは違ってがつがつ行けるからさ」
謙遜している俺に構わず、本当に嬉しそうに弁当を食べて行く音無先輩。
「そいつは何よりです」
俺も自分の弁当に手を付け始めると、俺と対面に座っていた日向先輩がじっと驚いた様な目で俺を見ていた。
「えーっと……どうかしましたかい?」
「逢坂……お前は料理が出来るやつだったんだな」
「まあ……はい」
親父が仕事で遅い時なんかはいつも一人で料理もしていたしな。基本家事は俺が担当していたからか、一般家庭で出すレパートリーはそれなりに多いと自負している。
「モテ要素ありまくりだろ! ふざけんなイケメン!!」
「イケメンにイケメンと言われると……なんか複雑ッスね」
嘆息しながらぱくりと唐揚げを一口放る。
「羨ましい……! 俺に教えろください!?」
「愛情は最高のスパイスって、この前嫁さんが言ってましたよ」
「愛情でカバーできるもんならなあ!?」
ぐいっと出されたのは、日向先輩の弁当。
それは『ひでさんLOVE(はーと)』とケチャップで書かれたオムライスだった。
「愛情一杯じゃないっすか。けしからん」
ジト目で俺は日向先輩を睨むと、彼はくふうっ……と目尻に涙を堪えながらずいっとテーブルから乗り出してくる。
「いいか逢坂……この一週間、俺の昼飯はこれなんだ。そのうえ字も一緒……この悲しみが分かるかっ!?」
「作ってもらってるなら何も言えないと思いますがね……」
「見た目だけならな……。逢坂、とにかく一口食べてみろ」
「はあ……」
ため息交じりに俺は日向先輩からプラスチック製のスプーンを受け取って、食べる。
――これはッ―――!?
この、口の中に広がる酸味! そして非常に強い甘さと、弱すぎるしょっぱさのこの絡み合い!
なんというか、“濃い”。
オムライスよか、ピザ向けの味だなこれは……。
「乙坂教授の妹さんから倣ったらしい“秘伝のソース”で創られたオムライス! この味を毎日だ……料理の出来るお前ならわかるだろう……?」
「これは……色々とマズイッスね……」
流石に料理を日向先輩が学ばないといけない気がする。
「ひょっとして、その秘伝のソースとやらを毎度……」
「ああ。アイツはなんでも料理に入れている……見た!!」
くわっと尋常じゃないシリアスな顔を向けた日向先輩に、音無先輩と俺は苦笑い。
「まあまあ。ユイも頑張ってるんだろう? もう少し見守ってみたらどうだ?」
「他人事だから言えるんだよぉそんな事はぁぁ……っ」
がっしと音無先輩の両肩を掴んで泣きつく日向先輩。
「というか初音達遅いな。本当に後から来るんだよな?」
「ええ。そのはずですけど……」
俺達は部室のドアの方を眺めていると、そこに人影が見えた。
そして次の瞬間――シャッ。どごぉっ!!
『あ』
『歩み゙っ――ハルトォオオオオ――――ッ!?』
「やっべ乙坂教授の声だ! 合言葉変えたの伝え忘れてたッ」
「乙坂さんッ!?」
急いでドアを開き、廊下を見渡すと、まるでドラゴンボールのような倒れ方をした乙坂教授が居た。
「教授っ! しっかりしてください教授!!」
音無先輩が乙坂教授の状態を抱えあげると、彼は虚ろな目をしながらゆっくりと腕を上げる。
「ハルト……見てごらん、蝶だよ……」
「なんか虚ろな目して凄い事言い始めた! これじゃあタグ的に危ない!!」
「あんたには弟いないだろう!?」
ずるずると乙坂教授を部室へ運び入れ、段ボールハンマーを戻しながらなんとかソファの上へ寝かせる。
「おいおい……どうするんだよこれ」
「分からない……とにかく、乙坂教授の意識が戻るまで待つしかないだろ」
「――ハッ!? 僕は一体どうして……」
起きるの早いなオイ?!
すると日向先輩がその場で一礼した。
「すいません乙坂教授! 俺達勝手に合言葉変えちまってて」
「ああ、そう言う事なら仕方ないさ。で、今度の合言葉は?」
「『神も仏も天使もなし』」
「ん、分かった。いやあ、久々に食らったな、あのハンマー」
ははは、と乙坂教授は何事もなかったかのように笑いながら起き上がり、頭を掻く。
それがどこか楽しそうで、俺以外の皆が皆、笑みを浮かべていた。
「それで乙坂教授、一体どうしてこんなところへ?」
「ああ、それがさ……」
どうやら自宅に弁当を忘れて来てしまった様で、奥さんが職場から持ってきてくれる手筈になっているのだとか。
それなら玄関口で良いのではないか? と思ったのだが、どうやらお互いに恥ずかしいそうで、OBとしての立場を利用してこの部室を希望したらしい。
と言うか、奥さん来るのか。
それならばと色々と席を詰めたりして、人数分の席を作っていると……。
女性陣の声が聞こえて来た。
「おっ……」
「どうやら、来たみたいだな」
乙坂教授は立ちあがり、ドアを開いて顔だけ外へ出す。
「やあ」
『なにが「やあ」ですか。まったく、人の作ったお弁当忘れるなんて』
「ごめん、ごめん」
部室から手を振り、渡された弁当を持ちながら一人のスーツ姿の女性と部室へと入ってくる。
ウェーブがかった、ポニーテール状にまとめられた銀色の髪。アイスブルーの瞳。
「おや、新顔さんですか」
「ども……」
綺麗な人だ。彼女は腰に手を当てながら満足げに笑う。
「初めまして。乙坂奈緒です」
「逢坂仁徳です」
どぞ、と言って俺は乙坂夫婦を上座へ案内する。
それからぞろぞろと女性陣が入って来て、いよいよ野郎勢は立ち弁当となってしまった。
……どうしようか。イチャイチャの予感がしてきた。予知なのかは分からないが胃がキリキリと痛み始める。
「そういえば、歩未はどうしたんだ? 今日は半日だったんだろう?」
「歩未ちゃんは一足先に帰りました。お弁当もなかったんでおそらく直帰です」
乙坂教授は少し不満げな表情を浮かべると、奥さんの方はイライラした表情を旦那の方へと向けた。
「歩美ちゃんは渡さねーかんな」
「いや渡すとかじゃなく僕の妹――」
「私で我慢して」
「えぇっ……!?」
すると乙坂教授はぎょっとした様子で奥さんを見る。奥さんは威圧するように黒い表情を浮かべて行く。
「
「えー……あー……」
「身を呈して守るかんな乙坂歩未をッ」
うわ、なんか男らしいな奥さん。
乙坂教授は複雑な表情を浮かべて頭を掻きむしり、どちらからともなくその場で立ちあがった。
「それなら奈緒は僕と歩未どっちが好きなんだよ!?」
「あなたに決まってるでしょうが!!」
「なんでそこまで歩未を僕から遠ざけるんだよっ」
「それは私の嫁だからですよ!!」
「君は僕の嫁さんだろ!? 最近僕に対して菜緒ちょっとキツいよね!?」
「えっ、好きでしょ?」
と、唐突にキョトンとする奥さん。対して乙坂教授はあたふたし始める。
「いやいやいや……優しくされたいぜ?」
「ほんとに?」
「ああ」
「なんかそういうきらいがあるってこの間歩未ちゃんが言ってたから……」
「えーっと!?」
「ほら、あなたが夏風邪引いた時。あの“僕今日無理だ……”とか言ってた時」
「ああー! あの時か! あの時言われたのか!?」
「その会話聞こえてました?」
「いや聞いてない」
「あ、それで大丈夫ッス♪」
「ひょっとしてもっと酷い事――」
「
やや前のめり気味に言ってのけた奥さんに、乙坂教授は頬をひくつかせる。
「おいおいおい……」
「――ぐふっ」
「ひっ、仁徳!?」
俺はあまりの糖度によって胃の痛みに耐えきれず、その場に膝をついてしまった。
自分で作った弁当箱を落として中身をひっくり返し、そのまま前のめりにバタリと倒れこむ。意識が途切れる直前で―――
「――洗濯、を……ごばッ」
「逢坂くんっ!?」
駆け寄ったゆり姉にその言葉をつぶやきながら、俺はいよいよ意識を手放した。
どうしよう、タイトルに悩む……。