第一話:大地に立つ
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
そうだ、昨夜は積みに積んだエロゲを消化するべく徹夜していたんだった。
部屋の照明をつけたまま仰向けに寝転んでいるためか、とても眩しい。
いや、この光量はそんなものじゃない。……朝の日差しが窓から射し込んでいる?
しかし、それはありえない。太陽が昇っていようと、その陽光は有害物質を含んだ濃霧に遮られ、いつだって霞んでいるじゃないか。少なくとも俺はそんな太陽しか知らない。
今まで感じたこともない光線を片手で遮りながら、睡眠不足で重くなった瞼を煩わしながらも開けていく。
「知らない天井──じゃない……空?」
未だチカチカして視界はハッキリしないが、それは青く、どこまでも透き通った青だった。知識では知っている。これは紛れも無く空だ。
なんでこんな澄み切った空があるのか……。
次に視界の端に映る緑に気が付く。空に向かって針の様に、しかし柔らかく、しなやかなそれは朝露を蓄え僅かに揺れながら自身を取り囲んでいる──草だ。生まれてこの方、こんなにも大量な植物は見たことがない。
「明晰夢って初めて見たぞ……こんな自然に囲まれた夢っていうのも乙なものだが、どうせなら沢山の幼女に囲まれた夢が良かったなぁ……」
そして、逆光で今まで影だった面前の自分の手が異質なことにようやく気が付く。
「羽毛に覆われた手……ユグドラシルか、懐かしい」
そうか、これはもう2年以上前に引退したユグドラシルの夢。このバードマンのアバターは当時使っていた“ペロロンチーノ”のものだな、と冷静に分析したところで違和感を感じる。
いくら明晰夢にしたって思考がハッキリしすぎやしないか。それに意識を外側に向けてみれば、聴覚は風が撫でる草の擦れ合う音、嗅覚は湿った土の臭い、触覚は全身の羽毛がいなす風の流れや太陽光に含まれる熱線、加えて自身の体に圧し潰されている4枚の翼の窮屈さを伝えてくる。
まだ寝起きの冴えない頭だが、これだけは断言できる。夢ではない。
では、ここはゲームの、ユグドラシルの中なのだろうか。
ユグドラシルとはサイバー技術とナノテクノロジーの粋を集結した脳内ナノコンピューター網──ニューロンナノインターフェイスを通じて、仮想世界で現実にいるかのごとく遊べる体感型ゲーム、その中でも最も人気を博したDMMO-RPGのタイトルのひとつである。
確かに同じシステムを利用してエロゲ──風営法により厳しい制限が掛けられているが──をしていたことまでは覚えている。
しかし、現実世界の身体に何らかの異常──例えば睡眠による意識消失、いわゆる寝落ちをすれば、自動的にネットは遮断されセーフティモードに移行するはずで、このように他のゲームへ勝手にログインすることなどはあり得ない。
寝ぼけて自分で操作した、という可能性も捨て切れないが、膨大な量のダウンロードとインストールを必要とする過程の何一つ記憶に思い出せないのは流石に信じられない。
まさか、電脳誘拐。そんなフィクションにありがちなことが頭の片隅によぎる。
ここにきて自分の置かれている状況や、その意味不明さ理解不能さにじわじわと焦りを感じ始め、ガバッと起き上がる。
仰向けに寝転んでいた時から予想できたように、辺りには見渡す限りの草原と背丈の2倍ほどある木が点々と生える景色が広がっていた。
視界にUIの類は浮かんでいないが、念のため空中に手を滑らせ、コンソールを表示しようとするが──やはり出ない。
「おいおいおい……」
焦りの火種は徐々に強さを増していく。
システムの強制アクセス──応答なし。
チャット機能──応答なし。
GMコール──応答なし。
強制終了──応答なし。
「え? 嘘でしょ……? どうなってんのこれっ!?」
今まで様々なゲームをしてきたがこんなトラブルは初めてだった。考えうる対処法も早々に全滅で打つ手無し。
心臓の鼓動はピークに達し、それに合わせて頭がズキズキ痛む。呼吸は荒く、やたらと煩く感じる。
激しい焦燥に駆られること数分。少し冷静になったペロロンチーノは絶望の中にいた。
◇
「味覚と嗅覚がある。広い視野に翼の感覚。ゲームのデータ容量的にもありえない……」
ペロロンチーノは口に含んだ雑草を吐き出し、自分自身に聴かせるように独り言を続ける。
「それに……うん、あるな。リアルの俺よりデカイかもわからん」
腰に装備してあったフォールドをずらし、羽毛に埋もれた己のナニの感触を確かめる。
最後の検証を経て、穴だらけだった今までの仮説がひとつの答えに集約されていく。
「ユグドラシルがそのまま現実になった……ということか。ははっ……どんなファンタジーだよ」
姉に言わせれば『ついに現実とゲームの区別もつかなくなったか』と罵られそうだし、自分でもそう思う。
しかし、大地に広がる植物の一本一本は背丈や葉の付き方、虫食いの痕等もそれぞれが違っていて、全く同じ個体はひとつとしてない。先ほど摘んだ草の根には一粒一粒の土が付き、その間には微細な虫の幼虫やダニのような生物が住んでいた。青さが広がる空も、ただ一色ではなく、薄い雲が形を変えながらゆっくりと流れている。まだ昇りきってない太陽は日光の当たる面だけをポカポカと温め、心なしか先程より熱量が増えてきた気がする。
これほどまでの自然を感じて、電脳法や風営法が適用されていない事実を踏まえて、まだゲームだと言い張る奴が居たら見てみたいものだ。
「ハァ……さて、どうしようかな。というかここどこだよ」
改めて周囲を見渡してみても、人影はまるで無し。あるのは点々とした小高い木々と遠くに鬱蒼と茂っている森が見えるだけだった。
でかい森だ。どこまで続いているんだと目を凝らしてみると、突然意識した景色が拡大して視界の真ん中に広がった。慌てて意識を逸らすと元の視界に戻るが、再び意識を集中すると、なんなく望遠の視界を手に入れることができた。
「これは
だとすれば外見だけでなく、
──うっすらと笑みが溢れた。
分かってしまったのだ。
すぐさま腕を何もない空間にねじ込み、装飾のほとんど付いていない一張のコンポジット・ボウを引き出した。
《下位狩猟具作成
真紅の直線が空中に描かれ、寸分違わず木の真ん中に突き刺さる同時に、炎が木全体を覆い尽くす。普通の発火ではありえない速度で焼け焦げ、跡には炭化した残骸が残るのみだった。
「うはっ! まじかよ! すげえっ!!」
矢の射線、射程、速度、効果がどの程度かを完璧に把握できた。そういった自分の能力への確信が、吹き上がるような高揚をもたらす。これが自分の力だという満足感であり、充実感だ。こんな気分はユグドラシルでも味わったことがない。
先程までの絶望感が一転、小躍りしたくなるほどの幸福感に満たされながらも、浮ついた心を努めて諌めながら思考を巡らす。
ここまでユグドラシルと類似した世界であれば、周りにモンスターやプレイヤーがいてもおかしくはないはずである。
その危険性に思い至り、緊張が走る──が、すぐにそんな気持ちも霧散する。
ここは遮蔽物もなにもないだだっ広い草原だ。寝ている間いくらでも襲うチャンスがあったのに、今まで襲ってくるものがいないのであれば、それはいないと同義……だろう。たぶん。
それにおそらく働いている〈
しかし、いざというときの戦闘に備えて、今一度アイテムボックスと装備品について確認しておいたほうが良いはずだ。
……迂闊だった。ここまでショボイ装備しか残っていないなんて。
そう、ペロロンチーノはユグドラシルを引退している。そして引退時、親友のモモンガにメイン装備と換金できる物のほとんどを金貨に替えて、託していたのだ。
先程までの満ち満ちた幸福感からさらに一転、今度は不安に苛まれる。
「いや、待て。モモンガさんもこっちに来てるかも?」
その可能性は高い。なぜなら彼はユグドラシル・イズ・マイライフとでも言うような大廃人様だ。サービス終了前に辞めた自分がここにいて、ユグドラシルを誰よりも愛した彼がいない道理はおかしい。
彼に会えたら謝らなければいけないな……。
コンソールが開けないのであれば──
〈
──繋がらない。そもそも機能しているのか確証もないが、そのままアインズ・ウール・ゴウンの他メンバー39人全員に〈
ただの閃きだったが、一つ選択肢が消えてしまったことへの落胆は大きい。
「まあ、なんにせよ情報収集だな。死んだら元に戻るってオチもあるかもしれないし……」
気持ちを切り替え意識を背中に向ける。4枚の翼はまるで手足を動かすように思い通りに動かすことが出来た。
それを確認すると、まだ昇りきっていない太陽の元、ペロロンチーノは大空へと舞い上がった。
12/19
色々と微修正
話の大筋に変更はありません